第21話 天災
明らかな疲れを浮かばせるカガリが再び剣を掲げるのを見た瞬間、絹質の前髪から覗くミヤの灰瞳が光る。
(マズい……! さすがのカガリさんでも相手が悪い!)
空気を澱ませる濃密な死の気配。
“天災”と呼ばれ、伝説を越え架空の存在とまでされた最悪のカガリビトを目前にして、彼女はどうしても自らの勝利をイメージできなかった。
「駄目です! カガリさん!」
赤の外套が翻り、まだ少し霜の残った刃が煌めく。
対する天災は動かない。
銀白の瞳で冷たく周囲を睥睨するのみで、ミヤやアルタイル、さらに言えばカガリすら視界に入っていないようにすら思える。
「食らいやがれ! 【悠久の――」
――ブツリ、としかしカガリの言葉は半ばで途絶えてしまう。
「かは……っ!?」
口から唾液と血潮を噴き出し、宙で剣閃を奮っていたはずのカガリが壁に叩きつけられた。
誰一人として知覚できない一瞬の出来事。
あれほど圧倒的だったはずのカガリが、なす術なく一蹴されるのを見てミヤの背筋が凍りつく。
「……アルタイルさん。カガリさんとエビさんを連れて、今すぐここから逃げて下さい」
「は? お前はどうするつもりだよ?」
「そんなの決まってるじゃないですか?」
ふるふると頰を引きつらせながらも、ミヤは気丈に笑う。
年下の少女を無理に笑わせるのが、自らの力不足のせいだと知ったアルタイルは悔しさに唇を噛んだ。
震える手。
カチカチと鳴る歯。
白寒の中で湧き出る汗。
しかしそれでも、アルタイルは一歩踏み出す。
彼は知っていた。この場において最も力がないのは自分であると。
だが彼は知っていたのだ。それでもなお、一歩踏み出すプライドを己が持っていると。
「ったく、お前はいつもいつも。たまには大人を頼れっつんだよ」
「……大人なんてどこにいるんですか」
「ほら、目の前に見えるだろ? 頼り甲斐のあるマジデケェ背中がよ」
「……震えてますよ」
「馬鹿。武者震いだっつの」
逃げろと言ったにも関わらず、さらに前に踏み出したアルタイルを見て、ミヤは強がりとは別の微笑みを零す。
なぜ自分の周りはこうも他人を見捨てるという発想ができないのだろうか。
彼女はいまだ目前で不穏なオーラを撒き散らす天災を改めて見、おそらく自分は死ぬな、と短い溜め息を吐いた。
「それでは行きましょうか、アルタイルさん。一撃くらい与えたいですよね」
「いや! お前は逃げろよ!?」
「よく考えて下さい。カガリさんを瞬殺した相手ですよ? 逃げられるわけないじゃないですか」
「え……最初に俺に逃げろって言ったのはお前だよな?」
余裕か何か考えでもあるのか、当代最強と称されるカガリビトは、黙して立ちはだかるのみ。
「……ふざけんな。誰が瞬殺されただって?」
――覚悟を決め、ついに決死の一歩を踏み出そうとしたミヤ達にかかる声。
なぜか感じるのは暖かい安心で、彼女は強く右手を握り締める。
「あ、まだ生きてたんですか、カガリさん」
「カガリ! 無事だったか!? 絶対一発KOだと思ったぜ!」
黄金の瞳を濁らせながらも、よろよろと二人に並び立つ骨と皮の異形。
忌々しげに天災を睨みつけ、口腔に溜まった血糊を吐き捨てる。
「一発だ……一発食らわせられれば勝てる」
「そうですか。一発ですか。だけど間合いに入ると、どっかのカガリさんみたいになりますからね」
「動きがアイツマジ速すぎんだよな」
少しだけ軽くなる雰囲気。
無論、絶体絶命の状況はいまだ改善されていない。
しかし、彼らは互いに視線を合わせると薄く笑ってみせる。
「作戦はさっきと同じだ。お前らが気を惹き、俺が決める」
「ワンパターンですね。でも今回は簡単には注意を惹けそうにないですよ?」
「……アレを使え」
「え……本気ですか?」
「おいおいマジか。お前やっぱちょっとイかれてるぜ」
視線の動きだけでカガリの意図を正確に理解したアルタイルは、言葉とは裏腹に舌舐めずりをする。
たしかに怯えだったはずの震えが、段々とその質を変え始めていたのだ。
「どうだミヤ? いけそうか?」
「まあやれるだけやってみますが、あんまり期待しないでくださいね」
ぽりぽりと頰を掻くミヤの頭が、骨張った手によってくしゃくしゃに撫でられる。
あからさまに嫌そうな顔をするが、彼女がその手を振り払うことはない。
「しっかり付いて来いよ、カガリ? 俺の鮮やかな動きに見惚れるんじゃねぇぞ?」
「お前の動きはノロいくせに規則性がなく意味わからんからな。正直言ってしっかり付いていく自信はないよ」
カガリの言葉に鼻を鳴らして答えるアルタイル。
短い深呼吸を何度か繰り返し、赤髪の剣士は唯一の得物を握り直す。
「……行くぞ!」
そしてカガリの合図に反応して三人はそれぞれ別の動きをとった。
ミヤは静かに瞳を閉じ、精神の統一を図る。
カガリは音もなく影に消え、一旦姿を隠す。
アルタイルは絶叫を響き渡らせながら、天災のカガリビトに向かって疾走を開始する。
(考えろ……! 俺の役割りはあくまで時間稼ぎと、隙を見つけること! 見つけ出せ……アイツの届く範囲と、届かない範囲を……!)
唸りを上げて走りながらも、アルタイルはある程度まで近づくと距離を詰めるのを止め、迂回するような道を選ぶ。
しかし白銀の瞳はそれでも揺るがず、背後へ回っていくアルタイルを気にも留めない。
(全方位隙なし? ……んなわけねぇ。どこだ? どこまで近づけばお前は俺を脅威に感じんだ?)
死の間際という緊迫感に嫌な汗が流れる。
瞬きする度、まだ自分が生きていることに安堵する。
時間はまだほとんど経っていない。
アルタイルは自嘲する。
ビビんな。走れよ。男見せろよアルタイル。
何度も何度も一人自らを鼓舞して、目前の災厄への距離を僅かずつ詰めていく。
「――来た!」
するとアルタイルの首筋に冷たい気配が触れる。
呼吸が自然に止まり、神経が張り詰めるのがわかった。
「あぐ……っ!?」
視覚で情報を得る前に、アルタイルの脳が大きく揺さ振られる。
メリィという嫌な音が鼓膜の内側から聴こえ、微かに伝わってくる痺れるような痛み。
(ヤベェ……視界真っ暗なんだけど……マジか。これで終わりか。何されたかもわかんねえじゃんかよ……)
ふわりとした浮遊感を覚えながら、半身が麻痺していることにアルタイルは気づく。
それでも暗闇の中で、彼は満足そうに笑ってみせた。
「でも俺には見えなくても、お前らには見えただろ? また見えなかったとか言うなよ?」
――空気が焦げる匂い。
アルタイルが意識を失った瞬間、静かに燃える篝火を中心に、地震のように洞窟内が大きく揺れ始める。
「《フレイムオペラ》」
一息で呟かれた詠唱。
声の主は、鋭い灰色の瞳をした小さな少女。
拝殿の最上部にあった篝火が高く炎を巻き上げ、薄暗を明るく照らしつける。
「私はもう疲れました。……あとは任せますよ、カガリさん」
短い間隔で破裂音を響かせ、爆炎が最上部から輝き降りて行く。
しかし度重なる中級魔法の行使、そしてついに成功させた上級魔法の代償は小さくない。ミヤは魔力根渇を引き起こし、彼女もアルタイルと同じように意識を手放した。
「…………」
豪熱と同時に崩れ落ちていく壮麗な神殿。
巻き上がる砂煙。
舞い上がる火の粉。
飛んでくる瓦礫を見えない剣閃で砕きながら、それでもなお天災のカガリビトは沈黙を貫く。
「【悠久の時】」
――刹那、これまで微動だにしなかった白銀の瞳が歪む。
「……やっと届いたな」
「これは……!」
気づけば自らの腹部から突き出る朱色刃を眺め、思わずといった様子で重低な声が漏れた。
砂塵礫で不明瞭な視界。
逆巻く火焔に奪われた注意。
完全に見極められた知覚範囲。
全てが、その一撃のために。
「見事――」
貫かれたのは自ら生命。
久し振りといった感慨を己の傷血に抱く。
明確な死を享受して、天災と呼ばれるカガリビトは地に伏していく――――、
「――だがまだ拙い。【永遠の命】」
しかし、不可視の速度で再度立ち上がった天災は、迷わず最後の敵を袈裟に斬り捨てる。
防ぐことも、避けることの叶わず、赤黒の血飛沫が舞った。
「な、なんで……」
動揺する黄金の瞳に答えは返されない。
急速に温度を失う身体を、温い自らの血池に落とすだけ。
「これで終わりだ」
白銀の瞳に感情は浮かばない。
ただ無情な一振りが下されるのみ――――、
「待ちなさい」
――凛、鈴の音のような声が突如鳴る。
振り下ろされるはずの刃は、前触れなく現れた障害物の前でぴたりと止まっていた。
いや、違う。障害物ではない。
それは、エビだ。
真っ暗な闇の中に落ちる寸前で、カガリが見たのは、自分を守るかのように立ちはだかる一際美しい人間の足を生やしたエビだったのだ。
「彼にこれ以上の危害を加えることは私が……いえ、私たちが許さないわ」
***
【Level:66/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護,憐みの加護,憂いの加護/Weapon:不治のポイズンアッシュ,不壊のファゴット,無刃のヴァニッシュ,狂気のローブ,ありふれた鞘】