第2話 カガリビト
俺は体力が回復すると、バチバチと燃え続ける篝火を離れ、あてもなく道を進んでいく。
もう一匹ポチみたいな奴が出現したらたまらないので、場所を移動することにしたのだ。
途中までは懐中電灯代わりに松明を持っていたのだが、歩き続けていると壁が赤く発光する通路に入り込んでしまい、わざわざ松明で照らす必要はなくなった。
というより松明の火はもう消えていて、役には立たない。
俺の持ち物はすでに篝火のところで拾った剣が一本だけになっている。
そもそもここ本当に日本なのか?
いまだに出口の気配はしない。
俺が今いる場所はさっきの怪物からして、どうにも世界有数の先進国である日本とは思えないし、というより地球なのかすらも怪しい気がする。
どうしてこんな場所に迷い込んでしまったのか。
謎は深まるばかりで、相変わらず情報は驚くほどに少ない。
「ん?」
そうやって薄赤く輝く壁沿いに進んでいくと、足下に何かを見つける。
おそるおそる顔を近づけてみれば、案の定ろくでもないものが転がり落ちていた。
「……白骨死体」
ボロ切れのような外套を全身に纏った真っ白な骨。
俺とは違って、黒い皮膚さえもう残ってはいない。
まるで自分の未来を眺めているようで凄く気分が悪くなった。
だがここで俺は少し思案する。
この白骨が着ている服ともいえないこの布きれ、欲しいな。
たしかにどこの誰かもわからない骨が身に着けているものを頂戴するのは、文明的な人間としてはなんとも憚られる行為だ。
しかし今の俺は全裸状態。十分に発展の進んだ現代社会で生きてきた俺からすると、いかんせんこの状態はなんとかしたい。
「……すいません。これ、いただきます」
結局俺は名もなき骨Aの外套を貰うことにした。
忌避感や罪悪感を覚えるかと思ったが、案外別になんともなかった。
自分がどんどん人間から離れているようで少し怖い。
「キヒャッ!」
「なんだっ!?」
すると俺がようやく露出狂から卒業してつかぬ間の喜びを噛み締めていたら、甲高い声のようなものが突如背後から聞こえる。
この感じ。この気配。
どうにもまたおいでなさったようだ。
「キヒャッ!」
「うっ……やっぱりか」
道先からヌッと姿を現すのは、不細工な顔をした小人のような生き物。
ゴブリン。とりあえずそう呼んでおこう。
爪は渋谷のギャルより鋭利で、血走った目はどう見ても友達になれそうにない。
「キヒャヒャヒャッ!」
「ちっ!」
そして想像通り俺に襲い掛かってくるゴブリン。
だがその動きはポチに比べれば遅く、俺はローリングで攻撃を回避。
剣の柄を強く握り、俺は生きるために再び命を奪うことを決意する。
「おらっ!」
「キヒャッ!」
舞い散る血飛沫。
適当に斬りつけると、当たりどころがよくゴブリンの片腕が吹っ飛んでいく。
赤黒い血が顔につくが、幸い触覚は鈍く、嗅覚に関していえば機能していない。
ゴブリンの血を被っても、そこまで精神面に影響もなかった。
「キヒィィィ……!」
「ほら? どうしたよ? 来いよ化物!」
右腕を失ったゴブリンは俺を睨みつける。
濁った瞳はさらに血走り、尋常ではなく苦しそうだ。唾液もダラダラと流れ落ちている。
そんな中、理解不能な状況と極限状態の連続で若干ハイになってる俺は、剣先を向けながらなぜか挑発行為をしていた。
俺って昔からこんな性格だったっけ。
「キヒャァッ!」
「うらぁっ!」
とうとう追い詰められたゴブリンは、再び跳躍し爪を立てる。
だがそれを完全に見切っていた俺はゴブリンの懐に潜り込むと、思い切り腹部を貫いた。
「キ…ヒャ……」
「はぁっ…はぁっ……! どうだ……!」
背中から剣が突き出ると、ゴブリンの瞳から光が失われる。
荒い息遣いも止まり、不細工な怪物はたしかに絶命していた。
そしてただの物と成り果てたゴブリンを道脇に放り投げ、俺はどっかりと地面に座り込む。
「ふぅ……勘弁してくれ。こんなのがいつまでも続いたら、心が折れちゃうっての」
どこに出口があるのかわからない薄暗い通路。
いつ襲われるのかわからない緊張感。
孤独でなおかつ現状の把握ができないこの状況。
終わりは見えない。
それがたまらなくストレスだった。
まあそれでも、進むしかないが。
いつまでも名もなき白骨とゴブリンの死体の傍で座っているのも気分が悪い。
気力を振り絞って俺は再び立ち上がると、また弱赤に照らされる通路を進み始める。
この先がどこに繋がっているのかなんてわからないし、そもそも出口に向かって進めているのかもわからない。
しかしそれでも、俺には進み続ける以外選択肢がなかった。
「俺は生きるんだ」
生への渇望。ただそれだけを頼りに。
やがてさらに歩き続けていると、どこからか音が聞こえてくる。
骨にも響くような低くて重い音だ。
壁の赤い光も段々と収まってきて、何かが変わる気配を俺は感じ取った。
「これは……」
そしてついに不気味な赤通路に終わりがやってくる。
唐突にひらける視界。
狭く息苦しい長通路はもう続いていなかった。
「湖……か?」
霧のようなものが満ちる広大な空間。
そこには重低音が響いていて、真っ暗な天井からおびただしい量の水が流れ落ちている。
闇より落ちる滝。その水を受け止める莫大な湖。
壁は蒼白く光る苔のようなもので覆われていて、どこか幻想的な雰囲気だ。
少しだけ癒されるな。
とりあえず透き通る湖に近づいてみる。
相変わらず自分以外の何かの気配はしない。
試しに水を手で掬ってみようか。
「あ……もしかして、これが今の俺?」
水を掬おうと手を伸ばすと、俺は湖の表面に見たことのない顔が映り込んでいることに気がつく。
骨が浮き出るほど痩せこけた顔。まさに骨と皮だけという感じだ。
そして二つ眼空には黄金の瞳が煌めいている。いつの間にやらカラーコンタクトを入れてしまったらしい。
髪型だけは見慣れた無造作ヘアーで、骸骨ゾンビな見た目と相まってずいぶんホラーな感じに仕上がっている。
「怖っわ……超名前を呼んではいけない例のあの人じゃん」
燦々と輝く黄金の瞳と見つめ合いながら、俺は諦めたように水面へ手を突っ込む。
変わり果てた俺の顔を消し去るように、ジャブジャブと湖をかき混ぜる。
手で水を掬い終わると、俺はそそくさ湖から離れた。
「ん……普通に飲めるな」
早速といわんばかりに掬った水を飲んでみるが、別に特別な事は起きない。
味は普通の水と同じように思える。味覚も曖昧になっているので、よくわからないが。
喉に関しても、飲んだ傍から尿道スルーということもなく、水はきちんと俺の体内に収まっている。
食事や水分補給がこの身体に必要なのかは不明だが、飲んだり食べたりができないわけではなさそうだ。
さて、それでこれからどうする?
もう一度湖を見渡す。
出処の見えない滝は轟々と流れ落ち続けている。この湖が溢れることはないのか、少し心配になった。
「あっれぇっ!? 珍っしいぃー!? こんなところに“カガリビト”が来るなんてっ!」
そのとき突如聞こえる、誰かの声。
耳触りのよい声は女性のようで、俺の頭に直接話しかけているような響き方をする。
「だ、誰だ!? どこにいる!?」
「私の名前? そうだねー、ニンゲンは私のことを“嘆きの湖”なんて呼ぶよ。ほら、君の目の前に私はいるじゃん?」
旋律を奏でるように紡がれる声。
目の前にいる?
俺は混乱の中で、辺りをきょろきょろと見回す。
するとその瞬間、不思議な光がすぐそこの湖から放たれた。
「え? まさか、君が……?」
「ふふっ、何を驚いているの? 何か不思議なものでもあったー?」
俺は唖然と言葉を失くす。
湖の上には今、一人の少女が立っていた。
ポチャリ、ポチャリ、と雫が少女から垂れ落ちる。
だがそれは少女が濡れているからじゃない。
少女自体が、水そのものだったからだ。いや、この表現が正しいのかすらわからない。
どちらかといえば少女の形をした水が、俺に向かって話しかけているといえた。
「それで、君はなぜこんなところにいるのー? 黄金の瞳をしたカガリビトさーん?」
「ま、待ってくれ? 君は一体何者なんだ? というかカガリビト?」
少女の形をした水が語りかける。
しかしまるで現状に追いつけていない俺にはまともな返答ができなかった。
「へ? 君はもしかして、まだ自分が何者かすらわかってないの?」
「え? えーと、俺はさっき目を覚ましたばかりで、まだ何がなんだか……」
「ふーん? 声は? 声も聞いていない?」
「声? 何の話?」
「目覚める前に、声を聞いてない?」
「いや、目を覚ましたら、なんか篝火の横にいて……」
少女の形をした水が何か面白いものを見つけたように微笑する。
理由はわからないが、俺はその笑顔がなんだかとても怖ろしかった。
「目を覚ましたら篝火の横……声は聞いていない……へぇ! 面白い! 面白いカガリビトさん!」
「あ、あの、そのカガリビトってのは何? 俺の名前はカガリビトじゃないんだけど」
「ふふっ、じゃあ君、自分の名前を持ってる?」
「え? そりゃあるに決まって……あれ? 嘘だろ? 俺の名前……」
問われた自分の名前。
だがなぜか俺はそれに答えられない。
記憶しているのが当たり前過ぎて気づかなかった。
なんと俺は、どうやら自分の名前を忘れてしまっていたらしい。
「ふふっ、大丈夫大丈夫。君みたいな存在はみーんなそう。どのカガリビトも自分の名前を持っていない。いや、逆かなー。君みたいに自分の名前を持たず彷徨う者を、私たちは“カガリビト”、そう呼ぶの」
「お、教えてくれ! ここはどこで、俺はどうしてこんな身体に! どうすれば俺は自分の名前をっ!?」
「いいよー。特別に私が教えてあげる。彼女に声をかけられなかった、憐れなカガリビトさん」
どうやらこの世界について何かをしっているらしい少女に俺は訴えかける。
俺はまだ死にたくない。こんな身体に成り果て、名前すら忘れた今でも、生への渇望が失われることはなかった。
「この世界の名は“ディアボロ”。君は今、生と死の狭間にいる。これ以上死に近づきたくなければ、生者の世界へ行きたければ、自分の名を手に入れたければ、篝火を辿りなさい。それだけが君に出来ること。課されたこと。許されたことよ」
――篝火を辿れ、名もなきカガリビト。
少女は静かにそう告げた。
***
【Level:7/Ability:悠久の時/Gift:嘆きの加護/Weapon:不治のポイズンアッシュ,狂気のローブ】