星を売る街
「星、要らんかね?」
そう親仁さんは言った。
親仁さん、と言ってもぼくにとっては見知らぬ人だ。唯この街のみんなが親仁さんと呼ぶのを真似しているからこう呼ぶのだ。
「星、要らんかね?」
親仁さんはもう一度、言った。
ぼくは歩み寄ってその出店の品々を覗き込んだ。黒い幕を敷いた上に、赤い星から黄色い星、白い星、そして青に近い星まで理科の教科書で見たような色が勢揃いだった。そして、そのどれもが、ピカピカと輝いていて、あっという間にぼくは魅せられてしまった。
「わぁ、すごい……」
感歎の声を上げる。商品が陳列された台は、さながら一つの小さな宇宙だった。
ぼくは故郷の星空を憶い出してしまった。天に砂金が散りばめられたようにチラチラと輝く星空は、ここでも観られるのだろうかと纔かばかり期待してふとこの街の空を仰ぐと、果たして星は無かった。唯真っ黒な漆を塗りたくったような空が、静かに広がっているだけであった。
親仁さんの笑う声が聞こえる。
「ハ、ハ、ハ、駄目だよ。俺ぁこの街の星を売っているんだ。」
「と、云うと?」
「つまりこの街にゃ星はないのさ。」
「星がないとはとても淋しい街だね。」
「そうは言っても、それしか売るものがねえ。作物は育たねえし、川には魚もいねえ。近くに鉱山も無けりゃ、これと云って売れそうなもんがねえ。だから仕方なく星を獲ってるんだぜ。」
「何、星を獲るだって?」
ぼくは思わず頓狂な声で尋ねた。
「うむ、そうだ。」
「だって、あの星をですよ?」
「うむ。」
「獲れるんですか?」
「そうなのだ。」
ぼくは眉をひそめた。
「なんだか胡散臭いなあ。ひょっとして、この売り物だって、万華鏡みたく作り物じゃあありませんか?」
「とんでもない!」
親仁さんは目を瞠って、真剣に否定した。
「でも、一寸信じがたいですよ。ぼくは信じられるものにしかお金を払いたくないな。」
親仁さんは渋い顔をして俯き、うーんと丸二三分は唸っていた。まるで夏休みの宿題の山を眼の前にした子供のようだった。
ぼくはその間に振り返って、街の景観を見てみる。
街灯の光りを受けて、赤青黄色……と様々な色のおはじきを敷き詰めた道路が、カラフルに燦めきながらぼくの眼の前を横切っている。往来には人通りは多くないが、通りに列んでいるお土産などを売る出店の御蔭か、決して暗くは見えない。むしろ、街灯や、高い建物の灯りのために夜でも昼間のように明るい。
キィン、と空を斫るような音がしたので見上げると、団栗を横に寝かせたような形をした大きな飛行船が、ゆっくりと街の上空を過ぎっていた。その雄大な光景に、ぼくは一寸見惚れてしまった。あたかもクジラが空を飛んでいるのを見た気分だった。
「そうだ!」
親仁さんのこの一言で、ぼくはハッと我に返った。
「よし坊主、俺と一緒に来なよ。星が本当に獲れることを見せてやろう。その代わり、星が本物だと分かったなら、ちゃんと御代を払ってお呉れよ?」
親仁さんは大真面目だった。
素よりぼくは余り信じてなかったが、仮にそうであったとしても、そうでなかったとしても、帰り際に面白いお土産話くらいは出来るのではないかなと思い、
「よし、その話乗った。」
こうして、ぼくは一寸不思議な冒険をする。
大きな石の建物の、屋上で莨を燻らせる。
『閉店までにはまだ時間があるし、俺は準備して来なきゃいかんから、三時間くらい待ってろな』
あのあと、そう親仁さんは言ったので、ぼくはゆっくり肯いてその場をあとにした。行くべき場所は、飛行船乗り場であるが、持て余した時間がある。そこで、ぼくはチェックインを済ませた宿に戻ってゴロゴロしていても良かったのだろうが、それはしなかった。折角来たのだから、このオイコットの街を散策したかったのだ。
と、云っても、それほど見たいものがあるわけでもなかった。歩いていれば必ず不思議なものにぶつかるので、それを愉しみたいだけだった。例えば、あの店のあった、カラフルなおはじきを敷き詰めた道路とか、高く高くそびえたつ石の建物とか。はたまた、飛行船の飛んでいるところも良かったのかも知れない。とにかく、何でも好いのだ。旅人であるぼくにとっては、このオイコットと云う街の、大きいのに小さなところがとても気に入ってしまったのだ。そしてそれは、実際に歩いて、この眼で見ないと分からない。テレビも新聞もあったし、一度行った人から話を聞いたことがあったけれども、常に物足りなさを感じてしまう。どうしても、それだけだと、ジグソーパズルのピースを一つ一つもらっているかのようなもどかしさだけがあったのだ。
それで、実際にこの街に来た感想はどうかと訊かれると、分からない。分からないのがこの街なのだ。道を歩けば肌の色でさえ黄色、白、黒、茶色……と様々な人が通りすぎる。人たちは川の上流のようにスルスルと勢良く流れている。周りの建物には、ピカピカと光る看板やら飾りなどが激しく自己主張をしている。こんな大きな街に初めて来たのだから、全身を耳にして彼らの光を受け止めようとしたくなる。したくなるほど、飽きるところが無い。夜の街を彩る石の建物も、ぱっと見はつまらないが、その背の高さや、深い森のようにズラリと列んでいるのを見てると、一寸ドキッとする。けれども、全部を受け止めようとすると、身体が持たないだろうなあと直感していた。何せすれ違う人のほとんどが俯いていたのだ。風に飛ばされる小さな砂の粒のように、ピューピュー行き交って、何の悪気もなく目に入って痛い思いを味合わせる。人の興味を誘う割りには、この街には優しさがないなと思えた。
それに、今者こうして高いところから街中を見渡していると、ぼくは、本当は何もかもが逆立ちしている街に来たのではないかと感じる。何せ、見上げれば、真っ黒な天幕が張ってあるかのような空があって、見下ろせば、天の河のようにキラキラと輝いているんだから。さっきは疑っていたが、ぼくはもう親仁さんの言ったことを信じかけていた。ぼくは頑張って天に光を見出そうとするけれども、せいぜい、お古のテントにありがちな、ちっちゃな穴みたいな光が幽かに見えるくらいだった。本当に穴だったかも知れない。
淋しいな、と改めて思った。
そう、この街はどこか淋しかった。みんなが余りにも一所懸命だったからなのか、それとも、機関車を降りたときからあった違和感の正式名称なのだろうか。莨を人差し指と中指で挟んで、口から離す。そして、機関車のように、プォーっと紫煙を吐き出す。毒々しい煙りだったが、それすらもこの街には似合ってると感じた。
ふと懐中時計を開く。機関車でこの街に着いてから四時間。約束の時間までは、あと一時間あった。そろそろここを発ってもいいかな、とぼくは恐る恐る考えた。
飛行船乗り場までの道のりで、ぼくは、俯きがちに歩いている人たちを横目で見ていた。彼らはずっと下を向いていた。それも当然だった。上を向いても何も見えるわけではないのだから。むしろ下だ。足元の光を見逃さないこと、これが大事なのだ。天の光ではなく、足元のおはじきの輝きや、街角の看板の方が、この街の人たちには明るく煌めいているように見えるのだ。
『あんた、旅人だろう?』
ぼくがこの街に来たばかりのとき、目の澱んだいけすかない顔つきをしたお爺さんが、睨みながらこう言ったのを憶い出す。
『ええ、そうですが。……』
『遠いところから、よくもまあこんな、何もないところに来て呉れたね。こんなどでかい石の建物がたくさんあるのを観て何が面白いんだ? きっと、カネが無駄に有り余ってるからこんな酔狂な遊びを思いつくんだよ。ならよ、お遊びじゃなくて、人助けに使って欲しいよな。』
『人助けって、ぼくはそんなたいそうなことは』
『なに猿にもできることだ。余ってるものでもいいから、儂に譲って呉れればいい。』
『そ、そんなものはありませんよ。』
ぼくはあのとき少し気に障るような物言いだったと思う。だけど、邪険に物を言われて、聖人君子でいられるほど好い人にはなれなかった。そのとき、老人は闇の深い底のような眼をして、次のように言い出したのだ。
『お前さん、ここに住もうと思ったことあるかね? ないじゃろ。ここにはお前さんが思ってるようなものは何ひとつないぞ。有るのは石、石、石! それだけだ。それをお前さんたちはありがたがってカメラに撮ったり、好き勝手な感想だけ云って帰っちまう。一文の得にもなりゃしねえ。無責任なのさ。もちろん、多少の小銭を落として行って呉れるだけ、まだマシだけどよ。ひでえときは、ゴミしか残さないのよ、お前さんたち旅人には、もううんざりだ。……』
言いたいだけ言ったと思ったら、そのお爺さんは通りの角を曲がって消えてしまっていた。
まったく、どちらが無責任だか、わかりゃしない。
とは言っても、このお爺さんの言葉が心に刺さらなかったわけではない。機関車を降りて、三十分も経たないうちにこう言われては、ぼくの楽しみにしていた旅行プランも台無しであった。
この街は綺麗だ。夜も明るく、誰でも簡単に受け容れて呉れる、懐の広い大きな街だ。
だけど、同時に、街の夜が明るい割りには夜天は空っぽだし、この街は広すぎて、ぼくは落ち着けなかった。いつも慌ただしく歩き回って、いつもキョロキョロ四辺を見回して、いつの間にかすっかり疲れている。そんな街だと思った。疲れたら下を向く。もう上を見ようとは思わない。そもそも、周りが明るすぎて、空のほんの纔かな光に気が付けない。
やっぱりこの街は淋しいな、と思った。
「おうい、坊主! こっちだこっち!」
飛行船乗り場では、親仁さんがちゃんと待っていた。大きな声を出して、ぼくを呼んでいる。
ぼくは一寸周りの人たちの白々しい視線が気になったが、苦笑いで誤魔化した。
透き通るようなガラスで覆われた、かまぼこのような形をしたこの乗り場には、本当に鯨が打ち上げられているかのように、飛行船が何台が寝そべっていた。ぼくは、その傍を通り、親仁さんのところへたどり着いた。
「いやあ、来ないかと思ったぞ。冷やかし連はたくさんいるけど、本当は、これは企業秘密ってやつだからな。できるなら他言無用で願いたいね。」
「そんなにですか。」
「おお、そうとも。」
親仁さんは少しもふざけた容子もなく、言った。
「……で、ぼくたちはどうやって行くんですか?」
ぼくがここで、敢えて「星を獲る」と言わなかったのは、親仁さんへの配慮の積りだった。それは間違いじゃなかったのだけれど、御蔭でなんだか話がぎこちなくなってしまった気がした。
「おお……それはな、あれだ。あの小型艇で行くんだ。」
親仁さんが指差したのは、翅の生えたイルカか、或いはトビウオのように観える小さな飛空艇だった。ぼくたちはそこへ歩いて行ったが、近くで見ると、鞍のようなものがあったのに気が付いた。
「まあ本当は一人用なんだが、頑張って二人は乗れるだろう。そのためにちょっくらいじった。」
「これ、どうやって乗るんですか?」
「簡単さ。馬に乗るように、乗ればいいのさ。俺が前。坊主が後ろ。」
「はあ……」
言われた通りにした。鞍には革のベルトみたいなのがあって、親仁さんは「シートベルトさ」と言って、スラスラと装着していた。ぼくもそれを見ながら、着けた。
「いいか、そら行くぞ!」
親仁さんが何かの装置を動かす。すると、両傍の翅が高速で羽ばたいて、機体が浮いた。まるでシャボン玉のように、ふわふわと浮いた。
不思議なことに静かだった。翅の音は一切聞こえなかったのだ。
親仁さんに連れられて旅立った夜空は、飛んでいると云うより、深い海の底に沈んでいるような感触がした。何故って、飛べば飛ぶほど、空は暗くなるんだから。ぼくは、本当なら喜ぶべきだったのだろう。だけれど、ぼくには、周りの薄暗さが身に堪えて、下を向いた。
そのとき、ぼくは地上に輝ける銀河を見た。まるで井戸の底から満天の星空を見上げているような気分だった。
ぼくは感動の声を上げた。
親仁さんが笑う。
「綺麗だろう? だけど、下ばかり向いていると、上の星が見えなくなるぜ。」
そう言われて、ぼくはお爺さんを憶い出した。すると、もう下の景色を愉しむ心は死んでしまった。あるのは、唯眩しいだけの、淋しい街だった。
上を観る。下の灯りにすっかり目をやられていたが、幽かに光る星が見えた。ぼくはその星の一つを指差した。
「あれを獲るんですか?」
「んあ? どれだ?」
「あれですよ、あれ。」
「どれだかよく分からねえよ。それか?」
「それじゃないです、あれだって言ってるじゃないですか、あれ。」
「さっきから指示語ばかりでさっぱり分からねえ! いいさ、着いたら分かる。」
星にたどり着くまでには、まだまだ時間があった。しかし、それまでに、もはや言葉が交わされることがなかった。あれ、とか、それ、とか言っても、その言葉が対手に伝わらないのがよく分かったからだ。
思えば、ぼくが憧れた星は、多くても少なくても、どこにあるのかちゃんと他人に伝えられたことがあるのだろうか? 星の居場所を説明するための言葉が、ぼくたちの言語の中には足りなかった。あれこれ言う。伝わらない。伝わらなくても、対手は考えて、あー、あの妙に明るいやつ? と訊く。でもその明るいやつが何処にあるのかは分からない。星はみんな明るい。どれが、となると指差すのが早い。指差しても、その先にあるものが、誰に分かるのかな? 指差すには、星の光は余りにも遠すぎた。
ぼくの指差した星が、親仁さんには別のものだったりしたとき。
親仁さんの目指す星が、ぼくの気になる星と違ったとき。
そんなとき、ぼくはどうすればいいのだろうか?
「さあ着いたぞ。」
親仁さんはそう言った。
ぼくはふと見上げる。星はまだ小さく見えた。いったい、あれをどうやって獲るんだろうか?
考えていると、親仁さんは、ベルトを外して、急に立ち上がった。そして、ちょいと背伸びしたと思ったら、まるでブルーベリーを摘むかのように、ひょいと星を獲ってみせた。
ぼくは唖然とした。
「えっ、……」
「愕いたかい?」
親仁さんはしたり顔だった。
「は、はったりだ。手品に相違ないさ!」
「ふむ。」
親仁さんは、今度は寛いだ顔で、悩むふりをしていた。そして、悪戯っぽい顔で、ぼくの顔を覗き込んだ。
「ならよ、坊主もやってみるか?」
「えっ!」
思わず声が出た。
「滅多にないぞ、こんな機会。坊主が初めてかもな!」
ぼくは生つばを飲み込んだ。
だが、少し考えてみれば分かる筈だった。親仁さんは固より、こういう商売をしていたのではなかろうか、と。でもぼくはそのとき、何も考えていなかった。唯、いちご狩りに来た小学生のように、何の不安も覚えずに、星を凝視めていたのだった。
そして、ぼくは黙って頷いた。
「よし! なら善は急げだ!」
親仁さんは喜びの表情で、飛空艇を動かした。次の星は、それほど遠くにはなく、直ぐに着いた。
「やり方は簡単さ。一寸立たないと行けないけれど、立って、手で取ればいい。熟れたトマトを採るように獲ればいいのさ。」
ぼくは聞いた通り、見た通りにそれをした。先ず、立つ。オイコットの街の、遥か上空に立つのはゾッとしたけれども、機体は寸分もぶれなかった。ぼくは、先ず上を観ることにした。
星が、見えた。
鈍く光っていた。
少し手を伸ばせば、届きそうな、そんな位置に用意されていた。
「もう少し、高くできないかな、ぼくらの位置。」
「ああ、ダメなんだ。星は、俺らが高く行けば行くほど、俺らから離れて行ってしまうんだ。だから、この距離が一番近いのさ。これでもな。」
「で、でも」
「旅人さんよお」
このとき、親仁さんは初めてぼくのことを「坊主」ではない呼び方をした。
「これは一寸した冒険なのさ。星が欲しかったら、背伸びをする。それだけのことなのさ。それすらできない人間には、星を得る資格なんてない。分かりやすいだろ?」
「そ、そんな……」
「さあ、やるのか、やらないのか。どっちなんだ。」
ぼくは迷った。足元がこれほど心もとなく見えたことは一度もなかった。
それでも、
それでもなんとかあの星が欲しかった。手に届くかもしれない距離。そこまで近付けられて、欲しいと思わない人がどこにいるんだろうか? 大抵の人は、星空を見上げて、溜め息を吐く。何故なら、届かないからだ。あの、太陽とは違って、綺麗なのに冷たいあの光は、決して人の心を温めてくれない。何故なら、暖かさが伝わらないほどに遠く離れているからだ。
ならば。
ならば、今者、ぼくはこの星を手にする絶好のチャンスがある。これまでぼくは、綺麗なもの、好きなものしか見てこなかった。見てるだけだった。何故なら、手を触れると壊れるだろうと思ったからだ。お金はあった。お金があって、好きなところへ旅に出て、でも、そのお金を、何かを手に入れるために使ったことがなかった。物はいつも壊れる。壊れた物は、戻らない。それをずっと怖れていたのかも知れない。
でも、このときは、手を伸ばさなければ、一生涯のあいだでこんなに絶好の機会は、たぶん二度と巡らないと確信していた。
だから、ぼくは、手を伸ばした。
届きそうだ。でも届かない。
背伸びが必要かな。
一寸踵を浮かせた。
足元が怖くなる。
でも届かない。
そうか。ぼくみたいな安全地帯に立ち続けた人間には、ジャンプする勇気がないと届かないのか。
「なあ、坊主、」
そのとき、
ぼくは跳んだ。
親仁さんの凍りつくような悲鳴を耳にしながら……
落下するのは速かった。
ふわりと空気に抱かれる一瞬。あとは手頼りもなく落ちて、堕ちて、墜ちて行く。
とめどなく落ちて行く!
触れるものなら何でも良いと思った。が、飛空艇を過ぎたぼくの身体は、もう、何にも触れることがなかった。
声を上げたかった。しかし、声が出なかった。恐怖が咽喉の奥でつっかえていたのだった。
手足をひたすらばたつかせる。しかし落ちて行く。
嗟呼、ぼくは流れ星になるんだな、とほんの纔かばかり思った。憶い出が早送りのビデオテープのように、脳裡を過ぎった。
死。
その一言が、ぼくに語り掛けてきた。赤でも白でも、況してや黒でもない死が、ぼくの眼の前を彩った。甘くも苦くもない、酸っぱくもない味が、ぼくの舌を麻痺させた。
もう声が出なかった。
自分の居場所が分からなくなった。
もうダメかな、とぼくが諦めかけて、意識がだんだん落下速度に追いつかなくなって来たとき、ぼくはものすごい勢で持ち上げられるのを感じた。
助かったのだった。
「おいおい、とんでもないことしたな。俺ぁ愕いたぞ。本当に、愕きのあまり死ぬかと思った。」
親仁さんは少し泣きそうな顔でぼくを抱えて、言った。
「ぼくは……助かったのか。」
思わず、呟いた。
さっきの感触が、まだ身体中を駆け巡っていた。ひょっとすると、これはぼくの妄想で、死ぬ前の一寸した猶予だったのかも知れない、と思った。
視界は暗く、狭かった。
唯揺れているな、と感じた。
止まったと思うと、親仁さんがぼくの肩を叩いて、「大丈夫か?」と訊いて来た。ぼくはそれに答えようとしたが、口を突いて出たのは笑いだった。
どうしてだろう? 笑いが止まらないや。
何とか応答しようとして、立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。腰がすっかり抜けてしまったみたい。内股に、震えながら二本の脚で身体を支えてみる。ダメだ、身体が安定しない。フラフラと歩こうとする。
ずっと、笑いが止まらない。
親仁さんが、蒼褪めた顔でこちらを見ている。でも、ぼくはもうそんなことはどうでも良かった。ぼくは、よろけながら、飛行船乗り場から出ようとした。そして、転んだ。まるで酔っぱらいが泥酔して道端に転がるように、崩れ落ちた。
そのとき、ガラス細工のように繊細な音が響いた。
足元を見る。
星だ、星がある。あのとき、ぼくはちゃあんと掴んでいたのだ。ぼくが獲った、ぼくだけの星。この街のくすんだ色に鈍く輝く星。まだ顫えの止まらない指先で、何度も取り落としながら、それを拾った。
青白かった。生まれたての星なんだね、キミは。今者のぼくは、きっとキミと同じ顔色をしてるんだろうな。生まれたばかりで、手頼りなくて、でも輝いている。
でも、輝いている。
もうダメだった。堰を切ったように笑いが止まらない。ゲラゲラクツクツ、へらへらあははと思いつく限りの笑い方が、自然とぼくの内側から溢れ出ていた。
周りの人は、たぶん遠巻きに眺めていたり、遠ざかっていたりしていたんだと思う。こんなに笑いが止まらないなんて初めてだった。悪いクスリをやったときだって、こんなに笑わないだろうな。
それから、丸切り十分近く笑っていたような気がした。若しかしたら、もっと短かったかも知れない。顫えは微弱ながらあったものの、取り敢えず立ち上がって、親仁さんと会話できるくらいには恢復していた。
「あんな生命の危険を冒させたんだ。悪いことしたと思ってるから、その星はタダだよ。まあ、坊主が獲ったもんなんだから、当然ちゃ当然なんだがね。」
親仁さんの考えでは、ぼくが勇気、と云うか、無茶をしないで、獲ってもらうと言い出すのを期待していたようだった。そうでなくても、悪い覚悟をする前に、お駄賃をもらうよう持ちかける積りだった。そう言っていた。だけど、取引を持ちかけるそのとき、思いがけずぼくがジャンプしてしまったことに、愕いた。愕いたが、直ぐに飛空艇を動かした。
「お客さんに怪我でもされたら困るからな。お客さんには、カネに見合うだけの物をもらって欲しかった。それだけなんだがね。」
親仁さんは、このときばかりは仕方ない、と割り切っていたようだった。ぼくも、まあ結果的には死なずに済んだし、親仁さんを責める気にはなれなかった。
けれど、ぼくが体験することになった、死へのカウントダウンのような、あの感触は、あとになっても、当分は忘れられないものになってしまった。
そして、ぼくは、親仁さんと別れた。
もう、この街に未練も思い残しも無かった。唯一つ、恐怖のみを取り残して。
機関車の音が聞こえる。
赤煉瓦の巨大な駅構内は、蒸気の白煙で上半分が覆われていた。
手荷物は既に列車に載せてあった。あとは出発時刻を待つだけ。
次はどこに行こうかな、とぼくは駅を見回しながら、考えた。もう次のことを考えている。ここでの憶い出は、もう何もないのかな? そんな冷たい質問が、ぼくの内側から聞こえてきたが、ぼくは無視した。
結局、お爺さんが言ったとおりだった。ぼくはこの街に対して無責任だった。でもいいんじゃないかな。旅人は行った先で、いい気分になって帰られればいい。何より、活きているのは、良い。旅先で死ぬなんて云うのは、現代には似つかわしくない。
機関車が出るまであと十分だった。ぼくはそろそろ列車に乗ろうと思ったのだが、いつしか見掛けた人を見たので、足を止めた。
お爺さんだった。彼は相変わらず濁った色の目つきで四辺一面を睨みつけていた。ぼくは、避けようかな、と考えたけれども、少し考えて、やめた。代わりに彼のもとまで歩いて行って、言った。
「ちょっとぶりですね。」
「ああ? ……なんだお前さんか。」
「ほら。あれから少し考えるところがありましてね。もう街を去るもんですから、ぼくはあなたにお渡ししたいものがあるんですよ。」
ぼくは彼の目の前に小銭をいくらか持って、渡した。
お爺さんは、目を瞠ると、乱暴にその手を払った。だがその小銭を掻き集め、懐に仕舞い込んだのだった。
ぼくはその容子を唯見ていた。
突然お爺さんは、充血した赤い目でこっちを見たと思ったら、意外なことに哀れっぽい声で言った。
「お前さん、とうとう落ちぶれてしまったな。今者のお前さんは、儂よりも惨めじゃぞ。」
ぼくは、その一言に非常に混乱した。
「ふふふ、そんなバカな、と思っとるようだが、お前さんはこの街で何かとても大切なものを失くしたぞ。儂はそう思う。じゃなかったら、こんな酷いことをせんかったろうにな。……」
相変わらず、言いたいだけ言うと、お爺さんは去ってしまった。今度はどことなく淋しそうな顔をしていた。
ぼくはすっかり不愉快になって汽車に乗り込んだ。そして、懐から星を取り出したとき、ぼくは悲しい事実を見た。
星の光は死んでいたのだった。