たこやき
夕焼けが夜に呑まれていく。
赤く染まっていた町並みがそれと気付かぬ内に新しい景色を帯び始めた。多くは街灯に照らされた場所で、それ以外の場所はひんやりと夜を抱え込む。普段から人の行き交う場所とそうでない場所が明確に分けられている訳だ。
幾つかの特例はある。例えば今、立ち並ぶ土色を纏ったマンションの通路などは、例え人が一時間に一人という頻度であろうと灯りを絶やさない。それは実用性を無視したものではなく、灯りがあることで防犯性を高めるという役割を持っているものだ。
早くも酒に酔い、ふらふらと手すりを掴みながら歩く男も、豊かさの象徴たる防犯意識の高さに守られていると言っていい。
彼は一度頭を抑え、表札を確認した。
身体に染み付いた動きでここまで戻ってこれたものの、他所様の家へ飛び込んだのでは世間体が悪すぎる。特に、引っ越してきてまだ一ヶ月と少しだ。表札には『平田』とあった。苗字の下には合計四つの名前が『洋介』『満子』『沙夜』『恭介』の順で並んでいる。
彼は頷き、ドアノブを回した。どうやら間違えず帰ってこれたらしい。ところがドアが開かない。どうしたものかと考えていると、しばらくしてシリンダーの回る音がして、奥から愛する妻が顔を出した。
「あぁ~、今帰ったぞ」
「おかえりなさい……とりあえず水でも飲んだほうが良さそうね」
新婚当初なら真っ先にキスが飛んできた。だが妻は比較的落ち着いたまま、ある意味ではあしらうように言うとさっさと奥へ引っ込んでいった。冷蔵庫の開く音がする。もたもたと靴を脱ぎ、汗ですっかり臭うようになった靴下も脱ぎ捨てた頃、妻が再び玄関へ顔を出した。
「あー、ちゃんと洗濯かごに入れて。脱ぎ散らかさないの」
「いやーすまんすまん」
小言を聞きつつ、受け取った水を飲み干した。
そこまで人間の身体は単純ではないものの、随分と酔いが冷めたようにも感じる。
後は適当なやりとりをしつつリビングへ行けば、今年で小学三年生になる息子がテレビへかぶりつくようにアニメを見ていた。
「おとうさん、野球みたいなぁ」
「だめ」
「だめかぁ」
「恭介、ご飯出来るから、お姉ちゃん呼んできて」
「むり」
「むりらしいぞぉ?」
大きなため息がキッチンから聞こえてきた。
だが男二人はテレビを食い入るように見ており、一家の厨房を預かる母を見ようともしない。
「沙夜ー? 晩御飯出来るよー?」
「恭介、これはなんてアニメなんだ?」
しばらく父と子で意味のない会話を続けていた洋介だったが、一行に現れない長女に気が付いて妻を見た。妻は要領良く出来上がった品々を食卓へ並べており、それは間もなく終わりそうだった。放っておけば自分で呼びに行くだろう。
「呼んでくるよ」
「あぁ、お願い」
「お願いされました」
ほろ酔い気分で適当なことを言って娘の部屋へ向かう。
『沙夜』と木製の表札が扉前に掛かっている。引っ越しで表札を作る時、娘にねだられて作ってもらったものだ。少し手前には青やら白やらのプラスチックで『恭介』と書かれた表札の扉があり、その向こうにリビングがある。娘の部屋は我が家でも一番奥だった。
「さよー、晩御飯だぞー。早く来ないと母さんの頭に角が生えるぞ―」
言って、自分で笑う。典型的な酔っぱらいの行動だった。
それから少ししてノックをし、それでも反応がなかったので仕方なく洋介は部屋に入ることとした。半分以上、入れてくれなくなった娘の部屋に入りたかった気持ちがある。
「おーい」
部屋の中は真っ暗だった。
開きっぱなしの窓から寄った身体に心地良い風がくる。水色のカーテンがふわりと広がり、その下に、愛する我が娘の姿を洋介は発見した。
「沙夜?」
薄闇でも分かった。
娘はどうやら制服のまま眠っているらしい。これが妻なら皺になるだのと考える所だが、普段帰った頃には私服に戻っている娘の制服姿を前に、二児の父親が抱く感想は一つだ。
やっぱりウチの娘は最高に可愛いな!
中学に入ってますます大人びてきたと思う。あのまん丸顔がどことなくほっそりとし始め、三つ編みだった髪を今はポニーテールにしている。もしかするともう化粧なんて始めているかもしれん。いや、自分たちの時代には考えられなかったが、最近は何もかも早いと言うし。洋介は子どもの意志は尊重する考えだ。時に失敗もするだろうし、謝った道に行ってしまうこともあるかもしれない。だが、あくまで自分は、そうなった時誰よりも子どもたちの味方でありたい、そうあろうと考えている。まあ、ウチの子は二人揃って真面目だ。妻の放埒さも引き継いで、勉強一直線だった自分よりは有意義に学生時代を過ごせるだろう。
いかんいかん、と洋介は額を叩く。いつまでも浸ってはいられない。洋介はできるだけそっと、娘の肩を叩いて呼び掛ける。
「沙夜、起きろ。沙ー夜ー?」
一緒にお風呂へ入るのを嫌がり始めた思春期の娘へ、自分なりに最大限の配慮をしながらゆすり起こす。しばらくして、反応があった。洋介は音もなく離れて部屋の灯りをつける。
「ご飯出来てるぞ」
最後に身を起こしたのを確認して、扉を閉めた。
小さくため息をつく。リビングから妻が顔を出していた。お互いに吐息。こちらの表情を読み取り、予定していたのとは順序が違ってしまったのを悟ったらしい。
「学校で何かあったのか」
「えぇ……」
寝顔に涙の跡があった。
※ ※ ※
明くる日の昼前。
「平田さん」
会社で午後に開かれる会議の書類を纏めていた洋介は、まだ幼さの残る青年に声を掛けられた。
「財津くんか」
「昨日は折角の飲み、途中で終らせてしまってすみませんでした」
「付き合ったばかりの彼女は大切にしなさい」
「はは、実際行ってみたら、くだらん用件やったんですけどね」
仕事中ではあったが、身振り手振りで昨日の顛末をおもしろおかしく語る財津を、洋介は苦笑い半分、純粋に楽しむ気持ち半分で見ていた。
彼の言葉には、独特のイントネーションがある。頭高のアクセント。音の一つ一つがしっかりと発音され、ある意味で発音されすぎた商売人の話し方。一般に、関西弁とよばれるものだが、正しくは大阪弁と言うべきだろう。少し耳を澄ませればそこかしこから聞こえてくる。商社であり、朝からの予定調整に追われる電話口でさえ、隠し切れない大阪弁で会話している。
一ヶ月ほど前に来た時は、外国にでも来たんじゃないかと思った。
行き交う人から電車内で聞く人の会話まで、何もかもが大阪弁だ。
だが当然だ。ここは大阪なのだから。
「やっぱり、仕事帰りだろうと下着はちゃんとしたのを穿いててほしいんですよ」
お決まり通りの脱線を受けて、洋介はやんわりと仕事へ戻るよう促した。運悪くやってきていた班長が咳払いをする。財津は芸人じみたリアクションで顔を歪めると、こちらに視線を送って反対側の席へ座った。班長も本気で怒った様子はなく、むしろノリ良く笑うと他の班員を巻き込みながら財津を弄り始めた。
話が中々進まない、とは思うものの、こういう雰囲気は東京本社には無かったものだ。
しばらくすると各自真面目に働き始め、しかし時折思いついたように面白話を振りながら仕事は進んだ。
昼休み、これも明らかに東京本社よりも美味い社員食堂で、洋介は班長と卓を囲んでいた。誘ったのは洋介だ。まだ会って短い仲な為、最初は躊躇ったが、やはり相談しておこうと考えた。そういう気安さが班長にあったというのも大きい。
「そうか……娘さんが」
「はい。私は、皆さんに良くして頂いてますが、どうも娘には辛いものもあるようで」
「いやぁ、東京の方からすると、どうも僕らのノリは強引過ぎるみたいやからね。取引きで話するときも、よぉ気ぃ使うわ」
先日、妻が学校から聞いた話によると、娘は休み時間中に体調を崩したとかで早退した。ただ、担任の先生も心配して家を訪ねてくれたのだが、その時、どうにも娘がクラスに馴染めておらず、一人で居ることが多い、と言われたのだ。
洋介は話の内容にまず驚き、次に先生の行動にも驚いた。家にまでやってくるのもそうだが、下手をすれば娘を咎めるようにも聞こえてしまう話を妻に対してしてくれたのだ。相手が悪ければ先生の発言事態が問題にされることもある。見て見ぬ振りでいじめを擁護、なんて新聞の見出しが浮かぶ。度胸がいいというより、熱心、いや情が厚いと言うべきか。
「娘さん、中学一年やったか」
「はい」
「難しい時期に環境がガラっと変わってまうと、やっぱり辛いもんがあるんかいね。いや、すまん。会社の都合で三年だけの転勤なんて、普通なら単身赴任やもんな。そんな中、一緒に来るゆーてくれる娘さん、ご家族も、滅多におらんわ。どーにかしてやりたいもんやな」
「具体的に、こう……大阪の方に馴染むにはどうすればいいんでしょうか?」
「適当やな」
言われた洋介の顔がよほど途方に暮れていたらしく、班長は苦笑いして付け加えた。
「ひらたくん、よしも○は見に行ったんかな?」
「はい。この前の休みに家族で」
「正直、おもろなかったやろ」
「あ……はは」
息子の恭介と妻の満子は大笑いしていたが、気難しい年頃の沙夜と生真面目な洋介はあまり笑えなかった。周囲は大笑いしているのに、なにがそこまで面白いのかよく分からなかった。
「ありゃあな、楽屋落ちみたいなもんやからや」
「楽屋落ち、ですか」
「そや。内輪で最初からあったまっとるネタを出す、観客はそれを待っとるんや。僕らなんかはテレビで小さい頃から毎週見てきたから、お決まりのネタってもんが肌に染み付いとる。せやけど、それがない人が見ても、正直ネタそのものが爆笑するか言われたらそうでもないもんな。灰皿で頭叩いて叫ぶんの何がおもろいんや、って話やで」
言って、しかし班長は笑う。
なるほど、分析すればするほど面白くないんじゃないかと思えてくる。けれど、何十年という単位で繰り返し輪の中で親しまれたネタとすれば、それをすること事態に付加価値が出て、楽しく感じられる。
洋介も時折妻と外出する際、付き合っていた頃と同じ行動を取ったりして、妻を喜ばせようとする。他人からするとどうでもいいものだが、二人からすると幾つもの積み重ねられた重みがあるんだ。
「娘さんは笑っとったか」
「いえ。私と娘は、どうにも……」
「その時、ひらたくんが感じ取ったことを、娘さんは今、学校で感じ取るんやないかな」
「あ……」
思わぬ形で繋がった。
転勤してきて一ヶ月と少し、班長の独特なリーダーシップには強い敬意を持っていた洋介は、改めて話の上手さに舌を巻いた。
「ですが、それならどうすればいいんでしょうか。内輪に入れないから諦めるしかないんでしょうか」
「そんなことあらへんよ」
力強く班長は言う。
「この土地にはアホが多いからな。他所様に迷惑掛けてまうこともあるけど、慣れへん人らに冷たくするような懐の狭いアホやないからな。今娘さんがおるクラスのアホも、内輪のノリが通じん人におうて慌てとるだけや。なにせまだ中一や、どうしたらええんか分からんで、腰が引けとるんかもしれん」
確かに、こうして同じ反応をしていた洋介はなんとか輪の中に入って行けていると思う。勿論社会人としてある程度の和を尊ぶ気持ちが土台なのかもしれないが、班長を始め、班員の皆が上手く引き入れてくれたことに違いはない。
「僕も十八歳くらいの頃、急にお笑いがつまらんと感じることがあったわ」
「それは……一体どうして?」
「受験勉強を真面目にやりすぎてな。色々頭でっかちになっとった」
確か、班長は関西でも有名な大学の出身だ。飲みの席で三位通過と言っていたから、当時は物凄い勉強家だったことだろう。
「真面目に考えれば考える程、お笑いゆうんはつまらんくなる。そりゃ真面目な笑いもあるけど、やっぱしアホがアホやっとるのが一番多いしな。そんで、小柄なおっさんが見えなくなることの何が面白いんやと考えた」
「はい」
「感性の違い。ツボの違い。趣味が合わん。言ってまえばそれだけかもしれんが、そんなもん、好きな相手が好きゆーたら、なんやしらんけど好きになってまうやろ」
「あぁ、それは分かります」
思わず笑った。学生時代、妻が趣味にしていたマリンスポーツに洋介もどっぷり浸かったのを思い出したのだ。きっと付き合う前の妻が好きだと言わなければ、一生やる機会もなかっただろうし、一回二回で満足していただろう。
「苦笑いでもええよ。とりあえずなんか笑ってみたらええ。どうやったら笑かせるんやと頭抱えとるアホらも、それ見て勢いづくやろうしな。お互い、仲よおなりたいんは一緒なんやから、そんな人の笑う顔も、笑う話も、ずっと楽しくなるよ」
洋介は大いに納得した。
「ただ、娘にそれを言って出来るかどうか」
「不登校っちゅう訳じゃないにせよ、確かに学校でいきなりは難しいな」
どうしたものか。昼下がりの社員食堂で悩んでいた二人の元へ、仕事上のミスでズレ混んでいた財津が素うどんを持って現れた。
「よーやっと終わりですわ~~」
「おつかれさん。これに懲りたらチェックはしっかりやるんやな。休みはズレた分、しっかり延長してええ」
「ホントっすか! あ、でも残業……」
「したいんやったらしたらええけど?」
「したくありません」
「ま、午後の頑張り次第やな」
「午後はお口チャックで頑張りますわ」
大先輩相手のこの会話だ。確かに東京でも先輩に気に入られて気安く話す人は居たが、その数が圧倒的に多い。
「そや、財津」
「ふぁい」
素うどんをほうばりながら答える財津。
班長は少しだけ言葉を選んで言った。
「ひらたくんがもっと大阪の空気に馴染みたいゆーとるんやけど、どうしたらええかな?」
「あれ!? まだ馴染んてないつもりやったんですか!?」
「ははは……」
どうやらすっかり馴染んでいるとされていたらしい。いや、この場合はそういうこと、なのか。
「俺が昨日途中で帰ってしまったからですね……すみません平田さん。今度は班長の奢りで朝まで飲みましょうね」
「あ、それはありがとうございます」
「おお、ひらたくんが言うようになったでぇ財津」
「これは奢り決定ですね」
「あっ、しまった!」
ははは、と三人で笑う。
「そんでですね」
改めて財津は箸を置き、身を乗り出した。
どうにも大阪人というのは、真面目な話を一度ふざけないと先に進めないらしい。
「僕はやっぱアレやと思います」
「ほう、なんや」
「アレですってアレ」
「おおアレか」
「はい解答を」
財津が班長を示し、当然のように班長が洋介を示し、少し遅れて洋介は財津を示した。彼は一大事故が発生した原因の解説を依頼された学者のように頷き、
「これはアレですね」
指を一本立て、
「たこやき」
※ ※ ※
土曜日。時刻は十二時。
朝から買い物に出掛け、戻ってきた洋介の荷物に、リビングに居た妻と息子の恭介が驚いて声をあげた。
「すげえ、たこ焼き機だ!」
「お昼がいらないって、こういうことっ?」
材料とたこ焼き器、全て纏めて持ってくるのは骨が折れたが、二人の反応にとりあえず満足する。ただ、少し急いで作らないといけない。
「あら、電気式じゃないのね」
東京で売られてるのはまず電気式だ。だが、大阪ならやっぱり調整の効きやすいガス式がいい。
洋介は手早く鍋を出し、カップで計量してコンロに置く。まだ火はつけず、先に取り出した昆布を固く絞った布で拭いた。水洗いするとせっかくの出汁が流されてしまうからだ。それからカットした昆布を鍋に入れ、弱火でじっくり煮こむ。買っておいたタイマーをつけると、妻が呆れたように笑う。
「ねえコレ開けていい?」
「おういいぞー」
待ち切れない様子の恭介に、手伝いながらテーブルへたこ焼き器を設置する。
「ねえコレ何処に繋げるのー?」
「おう、こっちだこっち」
コンロの下を開け、元栓に繋げる。
「あら」
声をあげたのは妻だ。
「ガス栓、二つあったのね」
「そう。大阪の半分くらいの家にはあるらしいんだ」
一つはコンロ用で、一つはたこ焼き器用だ。特殊な理由が無い限り、東京じゃ普通に一つだけで、コンロに繋がりっぱなしとなる。これを見ると、たこ焼きというものがどれだけ大阪人に親しまれているかが分かる。
次に洋介はネギとタコを取り出した。
「私がやるやる」
と、妻。
「包丁なんて大して握ったこともないんだから任せなさい」
「ねえ次なにやるの!?」
「タコの下茹でかな」
「なにそれ!?」
「生のままたこ焼きに入れるより、ずっと柔らかくておいしく出来るんだぞー?」
「はい、それなら先にタコを切ればいいのね」
「頼む」
「はいはい」
そうこうしている間にタイマーが鳴った。
鍋の中で昆布が浮いている。目を離していたが、沸騰していた様子もない。
洋介は手早く昆布を取り出し、火を強める。ほう、とタコを切り終えた妻が笑う。流石に出汁の云々は付け焼き刃だ、本業には叶うまい。
「ちょっとだけ沸騰させると、水と昆布の臭みが飛ぶのよねー」
妻の言った通り、数秒だけ沸騰させた後一度火から下ろし、差し水をする。温度計で測りたい所だが、流石に午前中だけだと手に入らなかった。因みに温度は九十度くらいがいいらしい。
少し冷まして、また弱火に掛ける。
用意しておいた花かつおを一掴み豪快に入れる。これは一煮立ちさせるだけでいい。班長なんかは濃い方がいいと言って少し長めに取るが、初心者である洋介に見極めは難しい。まずは基本を大切にした。
沸騰したら火を止め、アクを丁寧に取る。それからペーパータオルを張った金属容器へ流し込んでこす。
すぐさま冷凍庫へ入れた。
「ああ電気代がっ」
妻の叫びは一旦無視した。昨日の内に場所を開けておいたから、冷凍モノが駄目になることもないだろう。
「ねえコレいつできるの?」
「冷やすのに三十分はかかるかなぁ」
「そっかー」
息子はおもむろに洋介の開けている冷凍庫へ手を伸ばし、四つのアイスを取り出した。
妻と洋介へ配った後、部屋の方へ駆けて行く。しばらくして戻ってきた手には、一本のアイスしかなかった。
「それにしてもいきなりどうしたの」
「折角大阪に住んでるんだ。たこ焼きでも作ってみようと思ってさ」
「それで調べて……」
「いや、これは仕事中に教わったんだ」
「はは、仕事中に」
打ち合わせと称して連れ出された時は驚いた。
まさか、財津が東京でも聞いたことのあるたこ焼き屋の店員と親しかったなんて。流石に秘伝の方法までは教えてもらえなかったけど、基本的な作り方と、なにより焼き方を教われた。まだまだ拙い限りなのは、本職の手つきを見れば分かる。彼らは一度に六十個から八十個もの数を大火力で一気に焼き上げる。その素早さと正確さ、分量の正しさには目を丸くさせられた。
「何やってるの……?」
アイスを食べ終え、のんびりとテレビを眺めていると、沙夜が奥から現れた。
「たこやき」
「たこやきだ」
「まだ生地も作ってないけどね」
「……たこやき? おもしろいことが?」
どうやらアイスを渡す時、恭介にそそのかされたらしい。
「ほら、こっちきて座りなよ」
「うん……」
入れ替わりで洋介は立ち上がり、冷凍庫の出汁をたしかめた。
冷えているとするには不十分だったが、時間がないのでよしとする。そこで取り出した大きなボウルに氷を入れ、出汁を注ぎ込み、混ぜる。氷が溶けきった頃に薄力粉を入れ、卵を入れてかき混ぜた。
「なんで氷を?」
「小麦粉にはグルテンっていう物質が入ってて、それが柔らかく焼きあがるのを邪魔するんだ。薄力粉にはグルテンが少ないからそこまで気にしなくてもいいらしいけど、冷やしておいたほうが上手く生地が作れる」
「へー」
「グルテン。グルテンが入ってる!」
恭介は新しく覚えた言葉に夢中となった。
最後に長芋を摩り下ろして加え、混ぜたら金網でこして、だまを潰していく。
「本当は何時間か寝かせたいけど、まあ完成だな。材料は?」
「とっくに切り終わってますぞ」
さすが妻。
「よーし、たこ焼き器に火をつけるぞー!」
「おー!」
「なんかドキドキしてきたっ」
ガスの元栓を開け、機械の栓で調整する。洋介は取り出したマッチに火を点け、
「かっけー!」
その火でガスに引火させた。マッチはそのまま中へ放る。その内燃え尽きるだろう。
この方法、実際にはチャッカマンで十分というか、そっちの方が安全だ。けど、やっぱり火を点けるのはマッチでやったほうがカッコイイぞ、と班長からオススメされたのだ。実際に家族の洋介を見る目は……、
「なんか新鮮ねー」
「たこやきたこやき」
「テレビなにもない」
まあ、男の願望と現実はよくすれ違う。たこ焼き器に夢中な二人とテレビに気を取られた娘を前に、一家の大黒柱はそっと涙をふいた。
さあここからだ!
カップに油を流し込み、油引きへ吸い込ませる。イソギンチャクみたいに紐が沢山あるアレだ。それを使ってたこ焼き器の鉄板へ油を敷いていく。最初は周囲の平坦な部分、後は穴の中を。穴の中は油引きを少し斜めにすると入れやすく、満遍なく濡れる。極力穴の底に油がたまらないようにもする。
オタマで生地を掬い、全ての穴へ少しづつ流し込む。
タコ、ネギ、天かす、紅しょうがを加えて、更に上からまた生地を張る。全て流し込んでから天カスなんかを入れると、生地の上に浮き上がってしまい、返す時にやり辛いのだ。半分づつ分けることで、具材が全て沈み、非常にやりやすくなる。火力も高めに設定してあるから、生地はすぐ固まり始めた。
鉄板からこぼれそうなほど流し込んでおくのも大切だ。ただ、鉄板それぞれに余剰範囲は違うから気をつけよう。生地が多すぎると返しづらくなる。
生地の下に空気の層が生まれてくる頃合いになって、洋介は千枚通しを二本持ち、生地を掻き始めた。余剰範囲にある生地を穴の上へ集めていく『寄せ』と言われる行程だ。この時に生地の量が均等になるよう調整しておくと、後でぼこぼことサイズ違いが出来なくていい。
寄せが終わればいよいよ返しだ。
洋介が教わったのはお店のスタイルなので、両手に千枚通しを持つ。
利き手を中心に穴の側面へ、千枚通しを滑らせるようにして返す。
「おぉ~」
うまくいった。
返す時に左手でそっと支えてやったりするとよりうまくいく。そして返すのはあくまで三分の一程度だ。
世話を焼いてくれた店長が言っていた。
『最初は不格好でもええから、とにかく生地が固まりかけの状態の内に全部回しちまうんや』
幸い、見せのたこ焼き器に比べればこの機器は数が少ない。一度に焼けて二十四個だ。だから火を上げたまま、二回目に移る。
次の返しは、一回目で凡そ切り分けられたたこ焼きをきっちり分けてしまうことを第一にする。これも丁寧にやりすぎれば焦げてしまうので、早さを意識する。
数が少ないおかげで、まだまだ慣れていない洋介でも十分に焦げ目が付く前に終らせられた。
三回目だ。
このくらいになると気付くものだが、一回目二回目とそれなりに雑な返しをしていたにも係わらず、思ったよりも形になっている。そして生地がまだ柔らかさを持っているおかげで、多少不格好なものがあっても表面を潰して穴の中へ押し込めば簡単に整形できるのだ。これは、二回目の返しでも同じことが言える。
後は火力を調整しながら、千枚通しでたこ焼きの表面に軽く引っ掛けてくるくると回す。最初の頃はやわらかくて上手くいかないから、二本で支えながら回せば形を崩してしまうこともない。
「よし、完成だ!」
恭介と妻が揃って拍手した。
「凄いっ、お店の人みたい!」
「お父さんかっこいい!」
「はははは!」
かっこいい。父親が息子に言われたい言葉のトップスリーだ。
と、そこで洋介は時計を見て、十二時五十四分を刺そうとしていると知るや慌ててテレビのチャンネルを変えた。だれも見ていなかったから抗議も出ない。
「あー、こんな時間にやってたんだ」
「こないだ見た奴?」
「そうそう。大阪の定番だ」
○しもとを見ながらたこ焼きを作り、食う。
これが大阪の土曜日だ。
「よーし、食うぞー」
これも買ってきた木製のお皿にたこ焼きを乗せていく。陶器だと冷たくて冷めるのが早いんだそうな。
「そ・し・てっ、これは父さんの会社の人が貸してくれたボトルだ!」
先端が細長く、三つに分かれたボトルを見て、妻が楽しそうに手を叩く。
「こないだお店で見たよソレ!」
そのボトルにたこ焼きを教えてくれたお店から、特別に分けてもらえた特製ソースとマヨネーズをそれぞれ入れる。因みに市販品でたこ焼きソースなるものが大阪にはある。
ボトルを逆さまにして、押し込みながら前後に振る。
「おー!」
マヨネーズも同様に、見た目を重視するなら短冊がけで!
それから青のりをかけ、かつお節をかければ出来上がりだ!
「さあ食った食った!」
「いただきます!」
「ありがとう、いただきます」
「いただきます」
テレビではおなじみの芸人たちが舞台に登場し、その度に拍手と笑いが巻き起こる。
妻は笑った。恭介もたこやきをこぼしながら大笑いした。洋介も、以前見た時よりずっと楽しめた。
「たこやきどうだ?」
「うん、おいしい」
沙夜は真面目な顔つきでテレビを見ている。
「よし、次はみんなでやってみよう」
ある分を食べ終えた頃、洋介は妻が用意して、一度キッチンへ下げていた材料を取り出す。
「ウインナー!」
「おう。チーズ、もち、明太子、えび、キムチ、納豆! それとこれは奥様におすすめ長芋だ」
生地につかった長芋だが、たこ焼きに細切りにして入れるととてもシャキシャキして美味しいらしい。納豆やキムチは半信半疑ではあったものの、意外といける、という財津の意見を信じることとした。
「沙夜もやってみろ」
「うん」
二回目のたこ焼きは散々な出来となった。
三人が三人とも初心者だから仕方ない。ただ、沙夜の作った分だけはいくつか綺麗に出来ていて、
「おいしいっ」
「さぁ姉ちゃんすげー!」
「いや凄いな。父さんも結構特訓したんだぞ」
「お父さん、作ってるの見てたから、真似しただけ」
その時、芸人の一人がお決まりのネタをかまして会場から拍手が巻き起こった。
家族四人、沙夜の作ったたこやきを食べながらテレビを見る。
「おいしい」
「うん、流石私の娘」
「奥さん次は頑張って」
「これは専門外かなぁ」
「俺がやる俺!」
「私も。お父さん、もっと教えて」
「よし任せろっ!」
それから番組が終わるまで、何度も失敗したり、成功したりしながら皆でたこやきを焼いた。ソースに飽きて醤油を使ってみたり、はたまたポン酢、作っただし汁の余りまで。
番組の終わり、大阪人にとっては慣れ親しんだ音楽で、洋介たちにとっては特別な音楽の中、出てきた芸人たちが笑顔で挨拶をしていく。楽屋裏へ消えていった彼らをカメラが追い、そこでまた打ち明け話や楽屋ネタを披露する。
笑った。
芸人たちも、スタッフも、観客も。
妻も、息子も、洋介も。
そして娘も。
皆、笑っていた。
土曜の昼下がり。
それは、大阪が見る者全てを輪の中へ取り込もうとする、笑顔溢れる時間に違いない。