チョコより甘い日
はあ、と深いため息を吐く。同時に重たい空気が押し寄せた気がした。目の前にあるのは、いびつに歪んだチョコレートケーキ。もともと傾いていたのに、ナイフを入れたせいでさらに残念なことになっている。汐那はまたため息を吐いた。
明日はバレンタインデー。女の子なら、ついつい頑張っちゃう日。汐那もまた、心に思い描く彼のためにとお菓子作りに挑戦していた。高校生でありながら現役モデルでもある彼女は、仕事が終わってすぐ、準備に取りかかった。彼は甘い物はそんなに好きではないと聞いていたので、ほろ苦さのあるチョコケーキを選んだ。
が、結果はこのざまである。素直に既製品にすれば良かったと後悔する。彼のことだから、見た目より味だといって気にせず食べるのだろう。味の方は何か物足りない気はするが、とりあえず妥協点だ。だが、それでは彼女のプライドが許さない。完璧にしたい。気を遣われないくらい上手くやりたい。その気持ちが心に重い鎖をかける。けれど、もう作り直す時間も材料もなかった。
また、何度目かわからないため息が洩れる。汐那は自分の作ったケーキを見やった。箱形のカップに入っているそれは、シンプルだが可愛らしい袋の中に収まっていた。けれども中身は、本体となるケーキは、いびつで何とも不格好だった。
渡すか渡さないか。いっそなかった事にして、別にチョコレートを買ってしまおうか。同じ問いがぐるぐると自分の中で回っている。ケーキは渡すにはできの悪い代物だ。しかし、捨てるのも代えてしまうのも惜しいと思ってしまうくらいには、気持ちを込めている。どうすることもできず、汐那は項垂れた。
結局、汐那は決心できなかった。未練がましく作ったケーキをカバンに忍ばせ、いつも通り登校する。と、赤髪の男子の姿が見えた。彼は眠そうに大あくびしている。
「おはよう、乙梨君」
「……おう」
乙梨涼護。不良のように厳つい顔つきの彼は、汐那に気付いてひらひらと手を振る。汐那はつい顔をほころばせた。
――言い出せばいい。渡したい物があると、差し出せばいい。たったそれだけのことだ。けれど汐那は躊躇した。こんな物を渡してしまっていいのかと。同じ迷いが渦巻いて、思わず拳を握りしめる。
彼は気付かなかったのか、またあくびをして校舎へと入ってしまった。せっかくのチャンスだったのに、離れていってしまった。汐那は軽く息を吐く。けれど、まだだ。まだ機会はある。彼とは同じクラスだから顔を合わせる回数も多い。それに、机の中や下駄箱の中という手もあるのだ。
けれど、あともう一息が足りなかった。できの悪さが気に掛かって、ためらってしまう。いくらでもチャンスはあったはずなのに、とうとう下校時刻になってしまった。
ざわざわと騒がしい校庭を抜ける。週末に入るからか、生徒達はいつもに増して楽しそうに見える。きっと、あの中にはどこかでこっそりチョコを受け渡す人もいるのだろう。それに比べて、自分はどうだ。勇気も出せず、うじうじと渡せずじまいになってしまった。覚えずため息がこぼれる。落胆したまま視線を彷徨わせて――彼を見つけた。
「乙梨君」
呼びかけると、彼はおう、と返事をしてくれる。汐那は営業スマイルを貼り付けて彼の元に歩み寄った。今度こそ。今度こそ、本当にラストチャンスだ。勇気を出して、言い出さなきゃ。そう思うのに、なかなか言葉が出てこない。何をやっているんだと、汐那は自嘲したくなった。
ふとショーケースが視界に入って、汐那はぴたりと足を止めた。それは評判のいいお菓子屋さんで、ショーケースにはチョコレート菓子が並んでいた。凝った細工が施された、繊細なお菓子達。それは一種の芸術作品にも思えた。あまりの綺麗さに、汐那は思わず見入っていた。誰かに呼ばれた気がするが、そちらを振り向けない。
ああ、自分もあんなお菓子が作れたらいいのに。そうすれば、今こうやって、失敗作を渡すかどうか悩まなくて済んだのに。願っても仕方ないことだとはわかってはいたが、その悔しさはぬぐい去ることはできなかった。唇を引き結び、ぐっと拳に力を込める。爪が皮膚に食い込んでいても、汐那は気にならなかった。
不意に、視界の端に影が差した。汐那は驚いて振り向く。見覚えのある赤髪が、ガラスの向こうに見えた。彼はレジで会計を済ませ、足早に店から出てくる。
「……ほら」
「え?」
呆然としている汐那に、ぽんと紙袋が手渡された。どういうことかと、彼の顔をまじまじと見つめてしまう。
「欲しかったんだろ?」
ぶっきらぼうにそう尋ねてくる。そうじゃない、と汐那は答えたかった。ただ羨ましくて、妬ましくて、じっと見ていただけなのだ。そう言いたかったのに、かあっと顔が熱くなる。心臓がばくばくと音を立てて、聞こえてしまわないかと心配になるほどだ。喉は急に渇き、まともに言葉も紡げない。
それをどう受け取ったのか。涼護はくるりと向きを変えて歩いていってしまう。汐那はやっとのことで口を開いた。
「……ねえ」
「あン?」
まだ何かあるのかと、やや不機嫌そうに彼は振り向く。汐那は短く息を吐き出してから言った。
「今日って何の日か、わかってる?」
「バレンタインデーだろ?」
即答だった。聞くのも野暮だと思ってしまうほど、力強い声。じゃあ、と膨らんだ期待を、向けていいものかどうか。汐那にはわからなかった。ただもらった袋をぎゅっと抱きしめる。
「……うん」
頷いて、汐那はうつむいた。そうでもしないと、真っ赤な顔を見られてしまうと思ったから。汐那は腕の中の紙袋を見つめた。この袋の中に入っているのは、何だったのかと考えてしまう。
ざっと足音がして、彼が離れていくのを感じる。その大きな背中に、問いかけてみたくなった。
――ねえ、これは逆チョコなの?
という訳で書いちゃいました『Solve』二次創作!
原作者である紫音さんから「涼護×汐那」のリクエストでした。
ちょっと早いですがバレンタインネタ。
だって美味しいネタが降臨しちゃったんですもん! これは書かねば! という衝動にかられましたはい。
おかげで妄想度マックスです。なんかねつ造しちゃった感がありますごめんなさい。
最初は普通に汐那さんが渡しに行くかなと思っていたんですが、どっちかって言ったら逆チョコかな! と思っていたらこんなネタが降ってきました。おかげで糖度が高いですね(笑)
もし初見の方で興味がありましたら原作の方もどうぞご覧くださいませ。
http://ncode.syosetu.com/n8549bh/