落ちてきた娘 1
見上げる空は、どこまでも青く透明で、風は柔らかな草の匂いを運んでくる。
ほんの少しのつもりが、ずいぶん長い間こうしていたかもしれない。街道を少し離れた木立の影で、木の根に身体を預け、カイは寝そべっていた。両腕を枕に、両足を前の草地に投げ出して。
次の街までは、まだまだ歩かねばならない。
そろそろ重い腰を上げて、動き出すかと、カイが傍らの荷袋を手繰り寄せた時だった。
青い空に光るものが見えた。
最初は何かの反射かと見えたその赤金色の光は、あっという間に大きくなり、たちまち人の姿をとり、そして―――。
どん、という鈍い衝撃音とともに、カイの上に降ってきた。
「い……ってぇ」
うめくカイの上に交差するように、落ちてきた娘は横たわっている。髪と同じ赤金色の睫毛を伏せ、気を失っているようだった。
白磁の肌は幾分血の気が失われていたが、受ける印象は明るく透明で、愛らしい娘だった。娘の纏う空と同じ透明な青を幾重にも重ねたような色の衣服は、軽く見たこのない布地でできていた。肩の下と胸の下あたりで布を絞り、ふんだんに襞を取ったドレスは、カイが知る限り、近隣諸国では見かけない型だ。
突然、空から娘が降ってくるという事態に半ば呆然とし、当の娘をしばらく観察していたカイだったが、娘の下敷きになっていた体を引きずり出すと、
「起きろ」
と声をかけた。
それでも娘が目を開けないので、カイはしゃがみ込み、乱暴に娘の肩を揺すってみた。
「起ーきーろーって」
ふるふると娘の目蓋が震え、やがて大きく見開かれた瞳は、陽の射す森の明るい緑。
一瞬見入ってしまって声を失ったカイに、
「もうちょっと親切に起こせないの?」
と、棘のある台詞が、これも愛らしい声で発せられたのだった。
「はあ? 親切だ? いきなり人様の上に落っこちて来ておいて、どの口が言う? 逆だろうが。ご迷惑おかけしました、お怪我はありませんかと尋ねるのが筋だろう」
カイが立ち上がり見下ろすようにして言うと、娘もさっさと体を起こし、
「私だって落ちたくて落ちてきたんじゃないわ。しかも、こんな失礼な人のところに、誰が好き好んで落ちるもんですか」
売られた言葉を買った。
しばらく睨み合っていた二人だが、
「……それだけ元気に噛みつけるなら、怪我もなさそうだな」
カイが言うと、
「おかげさまで、ぴんぴんしてるわ」
娘が返した。
「そうか、なら、お元気で」
言い捨てて、カイは街道に戻ろうとした。
「ちょっと待って!」
速足で歩くカイを娘が追ってくる。
カイが無視すると、娘はカイのマントを引っ掴んで引き寄せた。
危うく首が閉まりそうになったカイは、マントの首元を抑えつつ、
「殺す気か?」
と振り向いた。
「まさか。あなたが死んだら、私とっても困るもの」
娘は上目づかいで追いすがる。カイのマントの裾は、しっかり握りこまれたままだ。
「俺は、お前がいなくても困らん」
剣を突きつけることも一瞬頭をよぎったが、丸腰の女相手に、とカイは思い直した。
「だって。私、ここがどこなのかもわからないし。見たとおり、何にも持たずに落とされちゃったし、どうしたらいいか困ってるの。……こんなに困ってる人を見捨てるような、薄情な人はいないと思うんだけど」
「じゃあ、俺がその薄情な奴だ」
「……薄情でも何でもいいから! とりあえず、ここには、あなた以外にいないんだから、ここがどこかくらい教えてくれたっていいでしょう?」
娘はカイのマントを握ったまま必死の形相で食い下がる。
「ここ? ここはシルランド。ゼクストンの国境に近いキサナ街道の途中だ」
仕方なくカイが答える。
「シルランド……」
「さあ、答えたぞ。マントを放せ」
「ねえ、私がなんで落ちて来たのかとかどこから来たのかとか聞きたくないの?」
あせった娘が一気に言った。
「興味ない」
「私、ほら、空から来たのよ」
「は?」
確かに娘は、上から降ってきた、が。
「私、空族なの」
そんなことを口走る娘に、カイは目を瞬いた。
「頭、大丈夫か?」
空族。それこそ、伝説の――――空の上に住む人々。空の上には、地上に住む者には見えない国があり、不思議な力を持つ人々が住むという。
「おとぎ話だろ、それは」
しかも、それは、翼族の古老の語るおとぎ話。
「信じなくても、いいわ。でも、私は、ここで、しなきゃいけないことがあるの」
娘はきっぱりとした態度で言い切った。
「地上のことは、習ったことしか知らないし。不案内だから。とりあえず、あなたについていくわ。出会いがしらと思ってあきらめて」
「ついていくって、お前……」
「私だって、こんな不愛想で口の悪い人が連れだなんて嫌だけど」
「嫌なら他を当たれ」
「だから、手近に他によさそうな人がいたらすぐ乗り換えるから。お互いそれまでの辛抱でしょ」
ずいぶんと強引で無茶苦茶な論理である。
「私は、リーゼロッテ。リーゼでいいわ。あなたは?」
よろしくね、と手を差し出され、名乗る義理もないと思いつつ、
「カイ」
憮然と答えていたカイだった。