プロローグ
「……覚悟は、できた?」
リーゼロッテを落とす前に、母は言った。
そんなもの、できるわけない――――とは言えなかったので、リーゼロッテは黙っていた。
王家の者しか入ることのできない宮城の中庭に、水鏡はあった。大人の両手でやっと抱えることのできる大きさの水鏡は、花弁の尖った花びらが重なる真っ白な空の花に囲まれ、ゆらゆらと見たいものを映し出す。
その水鏡に映るのは、目を閉じた端正な顔。少年とはもう言えず、かといって大人と言うにはみずみずしく伸び盛りの姿。ゆるく波打つ黒髪は短く、少し目にかかるほど。今は閉じられているその瞳は、黒く、けれど光の加減によっては深い海の青にも見えることをリーゼロッテは知っている。
物心ついたころから、ずっと、この鏡で彼を見てきた。リーゼロッテの力が、伝説の一端を担う特別なものとわかったときから、水鏡に映る彼の成長を追いかけてきた。
彼の力の封印が保てなくなるまで、もう残された時間はわずかしかなかった。
リーゼロッテは、わずかな可能性にかけるしかなかった。彼が、一人で城を飛び出して、さすらっている今が、好機ともいえる。地上に降りて、彼と接触し、そして―――。
……愛されるか、そうでなければ滅ぼすか。覚悟なんかない、けれど。
空族を統べる女王でもある母は、答えないリーゼロッテに頷き、そして、娘を水鏡の中に突き落とした。
水鏡は、一瞬大きくわだちを広げ、リーゼロッテを飲み込んで、また何事もなかったかのように元の大きさに戻った。