異世界転生でチートしようと思ったら醤油がなかった件について
反抗期をようやく終えたばかりの娘から、面白い話を聞いた。
なんでも、最近世間では「異世界転生」と云うものが流行っておるのだそうだ。
この大頭六三郎、昨日に長年勤めていた醤油製造企業からリストラを言い渡された。
俗に言う「肩たたき」と云うヤツである。いつの間にか工場の窓際に自分のパイプ椅子をこっそり移動されていた時から薄々予見はしていた。しかし、あと三年で定年を迎えようかというこの時期に何故このようなむごたらしい仕打ちをするのか。社長のお考えが私にはどうしても理解できない。
娘は反抗期を脱したとは云え、まだ高校生である。私立高校の学費もあと一年分残っているし、娘はバカだが、大学くらいはなんとか行かせてやりたいのが親心だ。
頼みの嫁の稼ぎはパートタイムで月数万円。感謝はしているが、私の稼ぎの五分の一に満たない。月に何度か家族で回らない鮨屋へ行くための、ほんの僅かな足しにしかならないのである。
否。今となっては妻の稼ぎは、私の給料を何百倍しても届かないであろう。
なぜなら私は――明日から無職なのだ。ゴクツブシである。言い訳はしまい。
フレッシュな大豆のごとき苦みと頭の固さをもって入社し、社畜となって早参拾余年。にがりのような汗を流して、会社の為に一生懸命働いてきた。だが、もはやこれまでである。
「君のやり方は、会社としては利益を生まないのだよ。辞めてもらいたい」
社長の言葉は尤もだった。しかし私には、醤油製造メーカー社員としての誇りがあるのだ。
その誇りを捨ててまで会社に繋がれていることは望まなかったし、望んだとしても会社の判断は変わらなかったであろう。
私はあくまで職人であり、利益を考えずに旨い醤油を造る。ただそれだけしか存在価値がなかったのである。
今更考え方を変えようにも私は熟しすぎており、その頭髪からは既にフレッシュな大豆の香りなどではなく長年の醸造発酵によりすえたにおいがしていた。嘗めてみればさぞ濃厚な味噌か醤油の味がしていただろう。だが不幸なことに、頭の固さは発酵してなお変化の兆しが見られなかったのであった。
もはや、これまで。
私は勤めていた会社の工場の上から――――ではなく、自分の死後、賠償金等で家族に迷惑がかからないように、足摺岬の岸壁から海に向かって身を投げた。
足摺岬の管理者には大変心苦しい。諸君は真似をしないようにしていただきたい。
尤も、誰も真似などしたくもないだろうが……。
娘の学費は、心ばかりの退職金と私の生命保険で賄えるであろう。
さらば、人生。願わくば、転生先の世界では「チート最強主人公」なるものに生まれ変わり、リストラや熟年離婚の危機などの憂き目には決して遭わぬことを――――
豆
異世界転生。なんとも都合のよい言葉だ。なんでもこの世界では、主人公が死ぬと約83%の確率で、ファンタジー世界やネットゲームの世界へ飛ばされてしまうのだそうだ。私のように冒頭で死んだ場合は実に約100%である。
なのでこれは、計画的な投身自殺であった。最初から自分の意識は死なないとわかっていての転生自殺だ。
目を覚ました先では、なんとも不思議な匂いがした。長年嗅ぎ続けた醤油の発する発酵臭ではない。地球にある日本と云う辺境の国には存在しない、魔法の香りである。
――何もかも、計画通りだ。私は己の頭の良さを生まれて初めて実感した。
いや……この世界の私は何をしても初めての事ばかりだろう。なぜなら別の人生なのだから。
さて。転生した私はどうやら、生まれたばかりの赤ん坊のようである。言葉が一切喋れない。ほぎゃあほぎゃあと泣きわめくばかりだが、イラストに描いたような美人のエルフに頭を撫でられた。
悪くない気分だが、前世で若くして死んだお母ちゃんを思い出す。彼女はもっと不細工だったが、お母ちゃんに尻を叩かれている時の方が、今この女性に頭を撫でられるよりも嬉しかったような気がしてならなかった。
そして私はそのまま、小説にはあるまじき展開の早さで何の世界観説明もなくわずか一行と十字で成長した。
実はエルフの母と皇帝の父の間にハーフとして誕生していたらしい生まれながらの勝ち組である私は、親子で食卓を囲んでいる最中、言葉に言い表すのも憚られるような実におぞましいものを目撃してしまう。
なんとエルフの母と皇帝の父は、どちらも自分の目玉焼きにマヨネーズをかけていたのだ。そのまま私の皿にまでマヨネーズを塗りたくろうとする極悪非道な父の手を、私は無言で払いのけた。
「ど、どうしたのだ息子よ!」
「ありえん。君らのやっていることはありえん。醤油をかけなさい。醤油を要求する」
父も母も困惑しているようだった。
「息子よ。醤油とは、なんだ」
――計算外であった。
異世界に存在するこの国には、醤油が存在しなかったのである。
当然のことながら味噌もない。味噌ラーメンも醤油ラーメンも、この世界では一生食べること叶わないのだ。そもそもラーメンはあるのかという些細な疑問はこの際隣の席にでも置いておこう。
しかしそれをすぐには察することのできなかった私は……いや、決して認めることのできなかった私は、皇帝とエルフに
「まったく、君たち夫婦は醤油も知らんのかね。本当に最近の若者はなっとらんな。私のような赤ん坊に対してまで、むやみに漢字からは想像できないような横文字の名前をつける教育が横行しとるからこうなるんだ。日本人なら醤油をかけろ。日本人でなくとも醤油をかけろ」
などという、本当にわけのわからないことを言った。
この二人と変わった名前を持つ子供たちとマヨネーズ愛好家の諸君には心から謝罪したい。私はその時、若干理性を失っていたのである。
兎に角、醤油などないと知ってからの、私のショックは測り知れないものであった。
しかし私も伊達に人生を五十余年も生きてきたわけではない。
人生は辛いことの繰り返しなのだ。だから私は、皇帝にこう命令した。
「今すぐこの国に、味噌醤油工場を建築しなさい」
豆
そして私は、小説にはあるまじき展開の早さで大豆の品種改良をし、一生かけて、満足の行く出来の醤油を作ることに成功した。
前代の皇帝は死んだが、その時の私はすでに現職の皇帝と云う立場を捨て去り、国は共和制に変わっていた。
結論から云って、この世界での私の一生は実に有意義なものだった。だからこの一生に後悔はない。
ただ……私はこの魔法の香りがする異世界でエルフの妻を娶り、クォーターの息子を儲けたが、やはり妻は人間が良いし子供は娘が良いと、心のどこかで常に感じていた。
こんな醤油の存在しなかった異世界でも楽しく生きられたのだから、前世ではもっと良い人生が歩めたはずである。どうして私は、もっと上手くやれなかったのか。
最高吟醸の醤油を手にし、最高の笑顔で永遠の眠りに就いた私にとって、唯一それだけが心残りであった。
豆
「――うさん! お父さん!」
どこかで、娘が私を呼ぶ声がした。
「あんた! 死なないで!!」
妻の声だ。
わずかに残る毛髪の根元から。
身につけている病院の入院服からさえも、嗅ぎ慣れた醤油の香りがした。
「お父さん……! おどうざぁぁぁぁん!!」
一家の家長として、妻と子供をいつまでも泣かせておくわけにはいかない。
人生は辛いことの繰り返しなのだ。
だからこそ、一滴の喜びにも醤油のごとき深い味わいがある。
私は、長い長い夢から目を覚ますことにした。
妻と娘のいるこの世界に、最高の醤油工場を建設するために。
<終>