ガラスによって切られたもの。
保健室にて俺は傷の手当てを受けた。
傷は飛び散ったガラスによる切り傷が数か所あり、出血の割に、浅い傷であるという保険教諭の診断を賜った。顔の絆創膏やらガーゼやらを貼るのはどれくらいぶりだろうか。血に含まれる鉄分の匂いや、切り傷の痛みが記憶を揺さぶっている感覚がある。
その有意義でない思考の行き先を止めてくれているのは目の前にいる妹の親友、お嬢様生徒会長、徳佐芽衣美だった。先ほどまでの狼狽した様子は消えたが、依然としてまだ気持ちが落ち着かないのか、彼女は俺が治療を受ける横でずっと俯いたままだった。
「メーミちゃん大丈夫かい?」
「…大丈夫じゃないのは煌斗さんの方です。」
はっきりとは聞き取れない声で彼女は落ち込んでいるような、拗ねているような、判別のつかない声を漏らす。
「なぜあんな危ない事をしたのですか…」
彼女はゆっくりと顔を上げ、視線をこちらに向ける。
その目は普段の彼女からは想像のつかないほど弱弱しく、不安に満ちているものだった。不謹慎ながら彼女にこんな表情カテゴリがあったのかという驚きがある。俺はそれを一瞬魅力的だと感じてしまったのだ。いや、この表情をされて心が動じない男がいるのか不思議にさえ感じる。だが、見とれている場合ではない。彼女は俺の答えを待っているのだ。
「ごめん、体が勝手に動いてしまってね。」
「どうして謝るのです?」
「本当なら君を引っ張って二人とも怪我なくガラスを回避すべきだったんだけど、僕は運動音痴だからね。メーミちゃんに心配をかけてしまう結果になってしまった。」
彼女が自分を庇って怪我をすることに罪悪感を感じないはずはない。それこそ彼女にとっては身を引き裂かれる思いだったかもしれない。しかし、俺にとってはガラスが到達する前に彼女の身代わりになれたことすら奇跡的といってもいい。それ以上の時間的余裕は捻出のしようもない。
「私の事を言っているのではありません。」
そこで彼女ははっきりと俺を睨みつけた。そうか。芽衣美は怒っているのだ。
「ごめん。僕なら大丈夫だから。」
そう言って彼女の頭を撫でる。以外にも彼女は俺の手を拒むことはせずに照れたように顔を赤くする。そこでまた目を伏せてしまったが、
「助けて頂いてありがとうございました。」
はっきりとそう言ってくれたのだった。
「…ありがとう。兄様。」
「え?いまなんて?」
「いいえ。何でもありません。」
一瞬隙間から垣間見えるように彼女の表情が変化したが、俺がそれを理解することはなかった。
もう一人の副会長。黒田静香が保健室を訪れたのは、それからしばらくした後だった。
「現場は先生に任せてきた。」
静かにそしてはっきりとそう告げる。顔はいつも通りの無表情だ。
「ご苦労様でした。それで何か分りましたか?」
元々そのつもりだったのだろう。彼女は淀みなく続けた。
「ガラスが割れた原因は携帯電話だ。携帯電話は壊れて使えない状態だった。ガラスに衝突した影響か、すでに故障していたのかは不明。教室には誰もいなかった。黒田が来てから教室の前後のドアから出て行ったものはいない。教室の窓のカギはかかっていなかった。」
彼女は箇条書きするかのごとく、判明した事実のみを述べる。
「僕たちがいた間も教室から出てきた生徒はいませんでしたし、それで教室の窓のカギがしまっていたなら密室が成立しますね。」
おどけた言葉にも彼女は眉ひとつ動かさず、
「その場合は最初に接触した黒田が第一容疑者だ。教室をこっそり出て、いかにも騒ぎを聞きつけて駆けつけたようにすればいい。」
即座にそう答えてしまうあたりが彼女らしい。
「どうやら僕たちが巻き込まれたのは偶然だったみたいですね。」
「なぜです?」芽衣美が尋ねる。
「もし僕たちを故意に攻撃するとしたのなら、その道具に携帯電話は選ばないでしょう。事前に壊れているにしろいないにしろ個人情報の塊を投げるようなものです。突発的衝動だったとしても心理的にもっと別のものを選ぶのが自然だと思います。携帯電話を投げたことで、ガラスが割れ、そこに我々がいたのは副次的結果だったのではないでしょか。」
「…そうですね。」彼女自身も考えていたのか、直ぐに芽衣美も納得したようだった。
「当事者を見つけるのは簡単でしょう。携帯のデータをサルベージしてもいいし、先ほどの時間にあの教室の外周辺で誰か見かけなかったか聞き込みをしてもいい。その辺りは先生方にお任せして問題ないでしょう。」
我々は漫画や小説に出てくるような生徒会ではない。面倒なことは大人に任せてしまえばいい。
そう聞くと静香は何も言わずに踵を返した。
「今日はありがとうございました。」
彼女の背中に投げかける。
「約束は守る。」
そう言って彼女は保健室を出て行った。
「あ、今は何時ですか!?」
俺は先ほどとは全く別次元の危機が迫っていたのにようやく気付いた。
「もうすぐ5時ですね。どうかしたのですか?」
「母親と買い物の約束をしていたんだった。」
「……母親ですか。」
「え、ええ。怒らせると厄介なので直ぐに帰らないと。」
俺は慌てて席を立つ。
「メーミちゃんも今日は何もせずに帰宅するようにね。この事故の事も深く考える必要はありません。」
「分っていますわ。」
「それで悪いけどはお先に失礼するよ。」
そう言って俺は彼女を残して保健室を後にする。
怪我人がいつまでも目の前にいるのは彼女にとってもよくないだろう。
※
煌斗と別れたあと、芽衣美は生徒会室に来ていた。
「それで静香先輩。犯人は分りましたか。」