私より美しい婚約者を肖像画の中でだけでもどうにかしたい
肖像画に婚約者も入れると決めたのは私だが、彼の付き添いになることまで承知した覚えはなかった。
「先生。こちらの方を、少し大きくお描きになっていません?」
「同じ縮尺です」
画家は鉛筆を置き、試し描きをこちらへ向け直した。
椅子に座る私と、その肘掛けに手を添えて立つルーベン。婚約を記念する一枚として、構図に不満はない。私のドレスの裾は大きく広がっているし、背筋も首も、昨日鏡の前で練習したとおりに描かれている。
それなのに、隣の男の顔から目が離れない。
まっすぐな鼻筋と、ほんの少し持ち上がった口元。鉛筆の線しかないのに、睫毛の下にはあの灰青の目があると分かってしまう。
「では、目立つようにお描きなのでは?」
「まだお二人のお顔を確かめているところです。衣装には、これから手を入れます」
五十がらみの女画家は、私の胸元へ視線を移した。
真珠の飾りを付けた深紅のドレス。肩のふくらみを少し抑え、腰から下へ布が流れるよう、仕立屋と何度も相談した。今朝も髪を結い直し、耳飾りが隠れない位置を侍女と探し、馬車では背をもたせずにここまで来た。
これほど準備をした私が、顔を持って来ただけの男に負けてよいはずがない。
「顔だけではないよ」
隣から声がした。
最後のところを口に出していたらしい。
ルーベンは上着の襟を指で整えた。白に近い薄灰色の布に銀糸の刺繍があり、淡い金髪によく似合っている。よく似合いすぎている。
「これも、新しく誂えた」
「存じております。お似合いですこと」
「よかった」
私の不満を一切受け取らず、彼は嬉しそうにした。
二十四歳にもなって、褒められた時だけは分かりやすい。いずれ伯爵家を継ぐ方なのだから、もう少し含みのある言葉にも慣れていただきたい。
ただし、あまり慣れてしまって、この顔で人を手玉に取るようになられても困る。
「ヴィクトリアのドレスも綺麗だ。昨日まで、見せてくれなかったけれど」
「楽しみにしていてほしかったのです」
「していたよ」
そういう返事を、さらりとなさる。
私は試し描きへ目を戻した。今日の彼は見慣れた顔よりずっと華やかで、私と並ぶのを喜んでいるらしい。そこは喜ばしい。だが、絵の中まで彼一人が人目をさらうのは、まったく別の問題だった。
画家が窓辺の時計を見た。
「お支度を変えるなら、昼までにお願いします。午後からお顔と手を描き始めますので」
下絵のために二人揃って座れる日は今日しかない。私の家は明後日から客を迎え、彼も領地へ戻る。あとは今日の絵をもとに工房で仕上げてもらい、挙式前に新居へ運ぶ予定だった。
何度も着替えている暇はない。
「ルーベン様。お持ちになった別の上着を見せてくださいませ」
「どれがいいか、選んでくれる?」
「ええ。二人で並んだ時のことを考えて」
私は自分の深紅の裾と、彼の輝く襟を見比べた。
この顔を変えるのは無理でも、周りを少しおとなしくすることはできる。私のドレスを地味にする理由はないのだから、譲っていただくなら彼の方だ。
ルーベンは、これから譲らされるものがあるとも知らず、控えの間へ上機嫌で向かった。
◇
最初に選んだのは、刺繍のない炭色の上着だった。
控えの間には衝立があり、私はその手前で待った。着替えを手伝う従者が白い襟布の端を整え、脇へ退く。
出てきたルーベンを見て、私は扇を閉じた。
「どうかな」
どうもこうもなかった。
華やかな銀糸がなくなったせいで、肩から腰へ落ちる線がよく見える。顔の美しい男というだけでも十分なのに、姿までよいことを今ここで思い知らせてくれなくてもよい。
「少し、横を向いていただけます?」
「こう?」
素直に従うのも、考えものだった。
横を向けば横顔がよい。正面へ戻せば目が合う。どちらを向いても私の思惑から外れるのだから、上着を選ぶ程度で何とかなると思ったのが甘かった。
ルーベンは私の顔を見て、口元を緩めた。
「気に入った?」
「まだ決めておりません」
「ずいぶん見てくれるから」
見なくては選べないでしょう、と答えるつもりだったが、それではもっと見せてくれるに決まっている。
私は画室に戻り、絵の椅子へ腰を下ろした。彼が隣に立つ。
向かいの大きな鏡に、深紅と炭色が並んだ。服の色だけなら狙いどおり私の方が目立つ。しかし襟も袖もおとなしくなった彼は、まるで私を引き立てるために控えているように見えた。
それがまた、腹立たしいほど似合っている。
「この上着は残しましょう」
私は渋々言った。
「では、これにする」
返事が早い。私が満足して選んだわけではないと、ご存じなのかしら。
次は髪だった。
額からきちんと撫でつけた髪を、少し下ろせばどうだろう。隙のない顔にも、どこか気の抜けたところができるはずだ。
「普段、家にいらっしゃる時のように」
「朝のように?」
「寝癖を付けてとは申しておりません」
「分かっているよ」
後ろで結んでいた髪をほどいてもらい、彼は鏡の前で前髪に指を入れた。額に一房落ちる。さっきまでの礼装を着こなす青年が、一緒に窓辺で朝を過ごす人の顔になった。
私は扇を開いた。
暑くなったのである。朝から動いているのだから当然だ。
「こちらの方がお好き?」
「絵に合うかどうかを見ております」
「私には似合う?」
そんなことまで聞かないでほしい。
隣に座った姿を想像してしまったではないか。長椅子で、何をするでもなく、私の袖にその髪が触れるくらい近くで。
「似合わないものを、お勧めするわけがありませんでしょう」
「ありがとう」
彼はすっかり満足した顔をした。
失敗だった。私が何度も顔を見ているので、喜んでもらえていると信じている。
画家の助手が、椅子の位置を少し直すために近づいてきた。私と同じくらいの年の女性だ。彼の方を見ると、一瞬だけ手を止めた。
「そちらのお髪ですと、ずっと柔らかい感じになりますね」
分かっています。私がそうしたのだから。
画家も頷き、鉛筆を走らせた。
「髪はそのままで。襟が少し内側へ入っていますから、直して差し上げて」
「私がいたします」
助手が手を伸ばす前に、私は立っていた。
絵になる姿を選ぶのは引き受けたのだから、襟くらい最後まで整える。そういうことだ。そういうことにしておいてほしい。
ルーベンは少し顎を上げ、じっと待った。私が襟を引き出すと、息のかかるほど近くで、ありがとう、と言った。
私は襟から指を離した。
彼はまだ私を見ていたが、私はもう鏡を見たくなかった。
「これで結構ですわ」
椅子へ戻ろうとすると、画家が筆洗いの水を確かめながら言った。
「では、少し休みましょう。お二人とも、その間にどちらを向いて座るか考えておいてください」
助手と従者が先に部屋を出て、画家も下絵を持って隣室へ向かった。
扉が閉まってから、ルーベンが尋ねた。
「私と並ぶのは、嫌?」
それは、服を選ぶ時よりずっと慎重な声だった。
◇
「嫌でしたら、最初から一人で描いていただきます。私には、それだけの料金を払う用意がありますもの」
「払えるかどうかは疑っていないよ」
ルーベンは私の椅子の背に手を置いた。
立ったままの私と、鏡の中の私を交互に見る。先ほどまで、選ばれた上着を得意げに着ていた人と同じには見えなかった。
「でも、私が隣へ来るたびに、難しい顔をするから」
「それは、あなたがお綺麗すぎるからですわ」
言うと、彼は困ったように眉を寄せた。
普段なら褒め言葉になることが、今日は問題の説明になっている。私だって、こんな相談をするために仕立屋へ通ったわけではない。
「私のドレスをご覧になって」
「見ているよ」
「肩から、裾まで」
彼は言われたとおりにした。
私は片足を少し後ろへ引き、裾のひだが綺麗に重なるように立った。見せると決めたからには、最もよい形で見せたい。
「この布は、座った時にも色が沈まないから選んだのです。襟を下げすぎると真珠に負けるので、ここまでにして。髪も、こちらから見れば耳飾りが見えるように」
「うん」
「私が絵を見ても、まず私に目が行くはずでした」
そこでルーベンの口元が動いた。
「笑わないでくださいませ」
「まだ笑っていない」
「準備をなさっています」
彼はとうとう笑った。
私は扇で彼の腕を軽く叩いた。笑ってよいとは言っていない。だが、このことで気遣わしげな顔をされるよりは、よほどよかった。
「あなたばかり目立つのが悔しいのです。絵を見るたびに私まであなたの顔を眺めていては、何のために飾ったのか分からないでしょう」
「私を眺めるため、ではだめ?」
「それでは私の立場がありません」
彼は笑いながら、上着の袖を見下ろした。
「この色なら、君の隣で見栄えがすると思った。君が選んでくれて、ずっと見てくれるから、今朝の服よりもよかったんだと」
それは、よかったのだ。
好みかどうかだけなら、今すぐこの姿で新居の長椅子に座っていただきたい。袖に触れたいし、額へ落ちた髪も、私が直したい。
私が望んだのは、私と並んでも目立たない彼だったのに、選んだのは私がじっと眺めてしまう彼だった。
随分と、つまらない失敗をしたものだ。
「お似合いです」
私は扇を閉じた。
「とても。先ほどから、そう申し上げていますでしょう」
「似合う、とは聞いた」
「それ以上、何を?」
「好きだ、とか」
彼は柔らかく言った。
図々しい。これほど気に入っているところを見せておきながら、まだ言葉まで欲しがる。
私がすぐ答えなかったので、彼は椅子の背から手を離した。
「別に、上着のことでもいいけれど」
「よくありません」
そんなところで遠慮をするのは卑怯だった。
私は彼を見上げた。近くに鏡があると、そこへ映った顔まで気になるので、少し横へ移った。
「私は、あなたのお顔が好きです」
「うん」
「腹立たしいくらい、好きなのです」
彼の返事が止まった。
やっと黙ってくれたので、私は続けた。
「人に自慢したくなるほど素敵な方が婚約者で、皆が羨むのも、正直に申し上げて愉快です。でも実際に、ほかの方があなたを見ていると」
私は扇の先を揃えた。
先ほどの助手は、絵のために髪を見ただけだ。それは分かっている。それでも襟を直す手が私のものになった時、ようやく気が済んだ。
「あまり、見ないでほしくなります」
ルーベンはしばらく私を見つめていた。
それから、隠す気もなく嬉しそうな顔をした。
「そういうことなら、もっと早く言ってほしかった」
「こんなことを、嬉しそうに聞かないでください」
「嬉しいから」
短い返事で私を黙らせるのは、やめていただきたい。
彼は自分の額に触れかけ、髪を崩さないように手を下ろした。あの髪型まで、気に入ったと言われて惜しくなったらしい。
「私も、君に綺麗だと思ってほしかった。自分の顔が悪くないのは知っているけれど、知っているだけで満足できるものではないから」
「よくご存じですこと」
「でも、君がドレスを見せてくれる時の顔には負ける」
思いがけないことを言われ、私は眉を上げた。
「顔、ですか」
「これを着た私を見て、と言わなくても分かる顔をする。その後で、私が何と言うか待っているでしょう」
私は扇を開きかけ、やめた。
そこを隠してしまうと、認めたようになる。
「おかしいですか」
「とても可愛い」
「綺麗、とおっしゃってください」
「綺麗だし、可愛い」
欲張りな返事だった。
彼は私の肩の真珠へ目を落とし、また顔へ戻した。きちんと見られていると分かると、落ち着かない。今朝から見てほしかったのは、まさしくこれだったはずなのに。
「君が服や髪を選んでくれたから、私も同じくらい気に入ってもらえたと思っていたんだ」
そう言われれば、彼もずっと待っていた。
上着を替えた時も、髪を下ろした時も、私が何と言うかを。
私は扇を畳み、もう一度彼の襟を見た。白い布はまっすぐ収まっている。直すところは、もうなかった。
「今のお姿が好きです。とても気に入っていますわ」
「よかった」
朝と同じ返事だったのに、今度は私も笑ってしまった。
画家が戻ってきた時、私は絵の椅子の横へ、もう一脚を運んでもらうよう頼んだ。
「二人とも座る形では、いかがでしょう」
「できますよ。少しこちらへ寄せてください。腕が重ならないくらいに。目線は、お互いの方でも構いません」
ルーベンは自分の椅子を動かし、私の隣に座った。
彼が立っていた時より顔が近い。衣装の広がりは私の方が大きく、彼の肩は少しこちらへ向いている。私はドレスのひだを整え、画家の方を向いた。
隣から、視線を感じた。
「何ですの」
「見ている」
「画家の先生をご覧になってください」
「君を見てもいい構図だそうだよ」
そこだけは、よく聞いていらっしゃる。
私は画家を見た。彼女は顔を上げず、紙へ線を足している。
「お嬢様は、もう少しだけ婚約者様の方へ。今の角度ですと、耳飾りもよく見えます」
私は言われたとおりにした。
正面から人に見せるための顔を作ろうとしても、隣にいるルーベンの口元が緩んでいて、こちらまでつられそうになる。
その顔をほかの方にも見せるのかと思うと、惜しい。
けれど、私が隣にいるからこんな顔をしているのだと分かる絵なら、描いてほしかった。
「ルーベン様。お顔を戻さないで」
「戻すつもりはないよ」
私は扇を膝に置いた。
もう、顔を隠す用はなかった。
◇
六週間後、まだ暮らし始めていない新居の客間へ、肖像画が届いた。
運んできた従者たちが額を壁に立てかけ、覆いを外す。私はルーベンと並び、少し離れたところから眺めた。
深紅の布は、膝の上で明るく、裾へ下るほど濃く描かれていた。肩の真珠も、耳飾りもよく見える。絵の中の私は背筋を伸ばし、扇を膝へ置いて、隣の男の言葉を待っていた。
待っている、としか言いようのない顔だった。
ルーベンは私の方へ体を向け、何か言う前のように少し唇を開いている。彼の髪は私が下ろさせた形で、炭色の上着の肩には、私の袖がわずかに触れていた。
あの後、何度か休憩しながら午後いっぱい座っていた。私が疲れて扇を開くと、ルーベンが風を分けてほしがった。少しだけ顔を寄せれば済むのに、扇を持つ私の手ごと、自分の方へ向けようとするので困った。
画家は、扇を取り合っている時の顔も描き留めていたらしい。
「よい出来ですわ」
私は言った。
絵の中の私は、たしかに私だった。礼儀正しく微笑むつもりでいたのに、ルーベンが何か言えばすぐ言い返しそうな顔をしている。自分の肖像画にそんな顔を残すとは思わなかったが、思いのほか気に入った。
「とても」
彼も短く答え、なかなか絵から目を離さなかった。
今度は、彼の睫毛が画面のどのくらいを占めているか、数える気にはならない。その目が見ているのは私だと、誰にでも分かる。
私は彼の横顔と絵を見比べ、満足した。
「玄関の正面に、掛けていただきましょう」
「書斎がいいと思う」
聞き違いかと思った。
私の隣で、ルーベンは真面目な顔をしている。
「あなたの書斎?」
「机からよく見える壁が空いている」
「この家へ来た方に見ていただく絵ですのよ。玄関にあれば、誰も通り過ぎられません」
「私も、仕事に行くたびに通り過ぎたくない」
妙なところで張り合わないでほしい。
私は額のすぐ前まで進み、自分の肩に描かれた真珠を見た。小さな光まで丁寧で、仕立屋にも見せたくなる。
その隣には、私だけを見て笑いかける男がいた。
この顔を目当てに、人が玄関へ長居するのは面白くない。友人に褒められたら得意になるだろうが、だからといって、いつまでも眺めさせておきたいかというと、それは違った。
「それでしたら、私の支度部屋へ」
「どうしてそうなるの」
「鏡の向かいに掛ければ、お支度をしながら見られます」
「私の書斎からは見えなくなる」
「書斎へ置かれたら、私だって見られませんわ」
彼は少し考えた。
「仕事中に、会いに来てくれればいい」
「絵に?」
「できれば私に」
そう言い足したので、私は笑いかけた。
危ないところだった。それと引き換えに置き場所を譲る理由はない。
「あなたこそ、私がお支度をするところへいらっしゃればよろしいでしょう」
「その時は絵より、君を見ていたい」
「都合のよいことを」
私はもう一度、完成した絵を見た。
彼がここまで欲しがるのは、私の顔がよく描けているからかもしれない。そう思うと少しは譲ってもよい気がしてきたが、横を見ると本人が同じように満足げな顔をしていた。
私が絵の中の彼を毎日眺めたがっていると、気づいているのだ。
間違ってはいない。だから腹が立つ。
「お二方、どちらのお部屋へお運びいたしましょう」
控えていた従者に尋ねられ、私たちは同時に別の部屋を答えた。
従者の手が止まる。
ルーベンは額から私へ目を移した。絵と同じ顔をしている。
「先に、壁を見比べようか」
「ええ。私の部屋から」
私は彼の腕を取り、扉へ向かった。額はひとまず、そのままにしておいてもらう。
廊下には、まだ何も飾られていない壁が続いていた。どの壁に掛けても立派だろう。けれど彼と私の部屋は、その先で左右に分かれている。
分かれ道まで来ると、ルーベンが右を指した。
私は彼の腕を抱え直し、左の扉を開けた。




