深夜のラブホテル
俺は四十を過ぎた独身の男だ。こういう言い方をすると、なんだか人生の敗北者のように聞こえるかもしれないが、別にそういうつもりはない。ただ、離婚をしてもう結婚なんてコリゴリだっただけだ。恋愛にも、ここ十数年縁がなかった。そうなると、男には定期的に処理しなければならない欲求というものがあって、そういう時は金で解決するのが一番手っ取り早い。面倒な人間関係もいらないし、後腐れもない。互いに割り切った関係だ。
その日も、そういう夜だった。十月の半ばで、夜風が冷たくなり始めた頃だ。俺は仕事を終えて、コンビニで適当に弁当を買って食べ、車の中で時間を潰していた。スマホで適当なデリバリーヘルスのサイトを見ていた。
俺はこの界隈に詳しい。と言っても、自慢できることではないが、十年以上も独り身でいると、そういう知識ばかりが蓄積されていくのだ。ラブホテル街、ソープ街、デリヘルの相場、そういった情報は、仕事の取引先の名前よりも正確に覚えている。情けない話だ。
国道沿いには、古くからのラブホテルがいくつも並んでいる。最近は郊外型の洒落たデザイナーズホテルが増えたが、俺が向かったのは昔ながらの趣の場所だった。国道から少し入った、住宅地と工場地帯の境目にある通り。そこには昭和の香りが色濃く残るラブホテルが三軒並んでいた。派手なネオンもなく、目立たない外観で、知る人ぞ知るという感じの場所だ。
その中でも一番古びたホテルに向かった。一階部分がすべてガレージになっていて、車を停めるとそのまま階段で部屋に上がれる、ワンルームワンガレージタイプの古い造りだ。この形式は最近では珍しい。たいていは駐車場が別にあって、歩いて部屋に行くか、エレベーターで上がるタイプが多いのだが、ここは違った。
なぜこの店にしたかと言えば、単純に安いからだ。宿泊で七千円。休憩なら三千五百円。この近辺では破格の安さだった。そして、何よりこの店には、俺が昔から贔屓にしているデリヘル店が出張しやすいという利点があった。提携しているのか、このホテルの部屋番号を伝えると、場所の説明がいらないのだ。
午後十一時を少し回ったところだったと思う。俺はホテルの入口に車を滑り込ませた。ガレージのシャッターはすでに半分開いていて、中は薄暗い蛍光灯が一本、頼りなげに点滅していた。俺は空いているスペースに車を停めた。
車を停めてエンジンを切ると、すぐに後方から足音が聞こえた。振り返ると、小太りのおばちゃんが、サンダルをぱたぱた言わせながら走ってくる。年は六十前後だろうか。パーマのかかった白髪混じりの髪を無造作に束ねて、くたびれたカーディガンを羽織っていた。
「お客さん、宿泊?」
おばちゃんは少し息を切らせながら言った。俺は「ええ」と短く答えた。
「じゃあ、先にいただくね。七千円」
おばちゃんが手を差し出した。俺は財布を取り出して、一万円札を渡した。おばちゃんはポケットからくしゃくしゃの封筒を取り出して、中から三千円のお釣りを出した。
「ごゆっくり」
おばちゃんはそう言うと、またぱたぱたと足音を立てて、ガレージの奥にある管理人室らしき小部屋に戻っていった。
俺は一瞬、違和感を覚えた。このホテルに限らず、ラブホテルというのはたいてい後払いだ。部屋の精算機で支払うか、退室時にフロントで払うシステムが普通だ。前金制というのは、いわゆる格安の簡易宿泊所か、もしくは何かトラブルがあった店くらいだ。
まあいいか、と俺は思った。どうせ寝るだけだ。それに、朝になって支払いのやりとりをするより、今払ってしまった方が面倒がない。
車を降りて、ガレージの奥にある階段を上がる。階段は鉄製の螺旋階段で、一段上がるごとに、ぎしぎしと錆びた音が響いた。壁は長年の排気ガスで黄ばんでいて、あちこちに染みができていた。
二階に上がると、階段を上がってすぐの所にドアがあった。
部屋の中は、思ったよりはマシだった。畳が敷かれた和室に、ダブルのベッドが無理やり押し込まれている。壁には古びた木目調のパネルが貼られていて、ところどころ剥がれかけている。窓はなく、換気扇だけがかすかに回っていた。部屋の奥には小さな洗面台と、トイレ、そしてバスルームへのドアがあった。
部屋全体に、安っぽい芳香剤と、長年のタバコのヤニの臭いが混ざった独特の匂いが染みついている。決して清潔とは言えないが、かと言って、耐えられないほど不潔でもない。七千円ならこんなものだろう。
俺はベッドに腰掛けて、スマホを取り出した。いつものデリヘル店に電話をかける。
「もしもし、いつもお世話になってます。今、〇〇ホテルの三番にいるんですが、女の子お願いできますか」
「かしこまりました。三十分ほどでお伺いできますが、いかがですか」
「それでお願いします」
電話を切って、しばらくだらだらとテレビを見ていた。古い液晶テレビで、地上波しか映らない。どうでもいいバラエティ番組が流れていて、出演者たちが作り笑いを浮かべていた。俺はスマホでネットニュースを眺めながら、時間を潰した。
ノックの音がして、ドアを開けると、若い女が立っていた。二十代半ばだろうか。肩までの黒髪で、細身だがメリハリのある体つきだった。顔は悪くなかった。むしろ、この値段帯の店では上等な方だ。
「お待たせしました、ゆいです」
女はぺこりと頭を下げた。俺は中に入るように促して、ドアに鍵をかけた。
「お酒飲まれます?」
「いや、いいや」
こういう時の会話というのは決まりきっている。名前は源氏名、年齢もたいてい偽っている。どこに住んでいるとか、本業は何だとか、そういう話はしない方がいい。互いに深入りしないのが、この関係のルールだ。
女はてきぱきと服を脱ぎ始めた。俺もそれに倣ってシャツを脱ぎ、ズボンを下ろした。仕事に来ているだけあって、女の身体はきれいに手入れされていた。肌は白くなめらかで、下着は黒のレースだった。胸はそれなりにあって、腰のくびれも美しい。これは当たりかもな、と俺は思った。
「一緒にシャワー浴びましょうか」
女が浴室のドアを開ける。中はタイル張りの小さな浴室で、壁に取り付けられたシャワーヘッドと、狹いバスタブがあった。二人で入るには手狹だが、まあ仕方ない。俺たちは身体を寄せ合うようにしてシャワーを浴びた。女は手慣れた様子で俺の身体を洗い、それから自分の身体も洗った。湯気で鏡が曇り、小さな空間に石鹸の匂いが充満する。
浴室を出て、バスタオルで身体を拭きながら、俺は女の身体を改めて見た。やはり悪くない。いや、かなりいい。濡れた髪が肩に張り付いて、水滴が胸の谷間を伝っていく。そういう光景に、俺の下半身は素直に反応していた。
ベッドに移動して、俺は女を横たえ、じっくりと愛撫を始めた。キスはしない。これは俺のルールだ。キスをするとなんとなく情が移るというか、単なる肉体的な処理以上のものになってしまう気がする。それに、こういう仕事の女にキスをするのは、なんだか相手に悪い気もするのだ。
首筋から鎖骨、胸、腹へと唇を這わせていく。手は太ももを撫で、時折強く掴んだり離したりを繰り返す。女は時折小さく息を漏らし、身体をくねらせた。それが芝居なのか本物なのかはわからない。だが、しっかりと濡れてくるのはわかった。
「感じてるのか?」
「はい…気持ちいいです」
女がかすれた声で言う。俺は指の動きを速めた。女の息遣いが荒くなり、腰が浮く。太ももが震え、俺の手をぎゅっと挟む。
「入れるよ」
俺が言うと、女は小さく「うん」と答えた。俺は正常位の体勢で、ゆっくりと女の中に入っていった。温かくて柔らかい感触が、俺を包み込む。そして俺は腰を動かし始めた。
その時だった。
「きゃーーーっ!」
女が突然、甲高い悲鳴を上げた。俺は動きを止めて、女の顔を見た。女の目は大きく見開かれ、俺の肩越しに、部屋の奥の壁を見つめていた。顔から血の気が引いている。
「どうした?」
俺は尋ねた。
「あれ。あの棚、勝手に開きました」
女が震える声で言った。俺は振り返った。ベッドの斜め向かい、トイレとバスルームへ続く壁の上部に、小さな収納棚が取り付けられていた。その扉が確かに開いている。十センチほどだろうか。中には予備のタオルやらティッシュの箱やらが詰め込まれているのが見えた。
「風じゃないか?」
俺は言った。しかし、頭の片隅で引っかかるものがあった。この部屋には窓がない。換気扇は回っているが、それで扉が開くような風が起こるとは思えない。でも、古い建物だから、どこかに隙間があるのかもしれない。あるいは、蝶番が緩んでいて、振動で自然に開いたのか。
「でも…急に開いたんです。風なんてないのに」
女はまだ怯えた様子だった。俺は努めて冷静に言った。
「大丈夫だよ。気にしなくていい。続けよう」
正直、途中でやめるのは忍びなかった。せっかく盛り上がってきたところだし、こういうことで中断したら、余計に怖くなるだろう。それに、俺自身も、ここで怖がってやめてしまうのは、なんだか負けた気がした。
女はしばらく迷っているようだったが、結局うなずいた。俺は再び腰を動かし始めた。だが、さっきまでの高揚感はもうなかった。女も上の空で、時折おそるおそる棚の方を見ていた。俺も、意識のどこかで後ろを気にしていた。
それでも、生理的な反応というのは正直だ。俺は射精し、女から離れた。女は無言で起き上がり、シャワーを浴びに行った。俺はベッドの上で仰向けになり、天井を見つめていた。天井には茶色い染みが広がっていて、まるで誰かの顔のように見えた。
女が戻ってきて、手早く服を着始めた。時計を見ると、まだ一時間は時間が残っていたが、彼女は帰りたそうだった。
「あの、私、もう帰りますね。時間、余っちゃいましたけど」
女は申し訳なさそうに言った。俺は「ああ、いいよ」と答えた。本当はもう少し話をしてもよかったが、女の顔には早くここを離れたいという気持ちがありありと浮かんでいた。彼女はぺこりと頭を下げて、ドアの外に消えていった。
パタンとドアが閉まり、部屋に静寂が戻った。換気扇のモーター音だけが、ぶーんという低い唸りを続けている。俺はベッドに横たわったまま、しばらく動けなかった。身体はだるく、頭はぼんやりとしていた。結局、あの棚の扉は、その後も開いたままだった。
しばらくそうしていたが、ふと気がつくと、部屋の中は奇妙な静けさに包まれていた。テレビはつけっぱなしだったはずだが、いつの間にかテレビショッピングになっている。リモコンでチャンネルを変えようとしたが、どこも番組は終わったようだ。時計を見ると、深夜零時を過ぎたところだった。
俺は起き上がって、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。
ペットボトルの蓋を開けて水を飲む。冷たい水が染みてきて、喉の渇きは癒やされた。
ふと、トイレに行きたくなった。ベッドから降りて、部屋の奥に向かう。収納棚の下を通る時、ちらりと見上げた。棚の扉は、さっき女が叫んだ時と同じように、十センチほど開いていた。俺は手を伸ばして、扉をぴったりと閉じた。特に何かあるわけでもない。タオルとティッシュ。それだけだ。
トイレのドアを開ける。狹い便器が一つあるだけの空間だった。壁紙は黄ばみ、床のタイルはひび割れていた。用を足して、手を洗おうとしたが、備え付けの石鹸がカチカチに乾いていたのでやめた。
トイレを出て、再びベッドに戻る。テレビは相変わらずだ。消そうかと思ったが、完全な無音になるのも怖い気がして、そのままにしておいた。
俺はベッドに横になり、スマホをいじり始めた。SNSを眺めたり、ニュースを読んだり。本当は眠たかったが、なんだか目が冴えてしまっていた。さっきまであんなに盛り上がっていたのに、今はその反動で気分が沈んでいるのかもしれない。孤独な夜には、こういう時間が必ず訪れる。他人の体温に触れたあとの、自分の身体の冷たさに気づく瞬間だ。
どのくらいそうしていただろうか。十分か、十五分か。突然、視界の隅で何かが動いた。俺はスマホから目を上げた。
トイレのドアが、ゆっくりと開いていく。すーーーー……というかすかな音とともに、ドアが手前に動いている。俺は見つめた。風か? また風のせいか? しかし、さっきも確認したように、この部屋に窓はない。換気扇の風がここまで届くはずがないのだ。それに、トイレの中に窓があるわけでもない。空気の流れが発生するような構造にはなっていないはずだ。
ドアは完全に開ききり、トイレの内部が丸見えになった。薄暗い蛍光灯の光が、便器の白い陶器をぼんやりと照らしている。何も変わったところはない。誰かがいるわけでもない。
「…なんだよ」
俺はつぶやいて、起き上がった。ベッドから降りて、トイレに向かう。ドアを閉めようとして、ふと手を止めた。蝶番を見てみる。古いタイプのもので、特に緩んでいるようには見えない。ドアを何度か開け閉めしてみたが、しっかりと止まる。簡単に開くようなものではない。
「おかしいな」
俺は今度こそドアをしっかりと閉めた。カチッという感触を指先で確かめてから、ベッドに戻る。今度はちゃんと閉まっている。
テレビを見ながら、俺は考えた。建物が傾いているとか? いや、ドアが自然に開くほどの傾きなら、もっといろんなものが動くだろう。それに、さっき自分で試した通り、ドアは簡単には開かない。
気のせいだ。そう思うことにした。疲れているんだ。仕事のストレスと、中途半端なセックス。それで神経が過敏になっている。
そう自分に言い聞かせて、再びスマホを見る。今度は動画サイトを開いた。お笑いのチャンネルでも見て、気を紛らわせよう。笑い声を聞いていれば、余計なことは考えずに済む。
動画が始まって、数分後。俺はふと違和感を覚えて顔を上げた。
まただ。
トイレのドアが、すーーーー……と開いている。今度はさっきよりもゆっくりと、まるで誰かが内側から慎重に押しているかのように、少しずつ、少しずつ開いていく。
俺は息を潛めた。心臓がドキドキと早鐘を打つ。手に汗が滲む。喉がカラカラに乾いていく。
ドアはまたしても完全に開ききった。トイレの中には、やはり何もいない。
「おい…」
俺は声に出した。誰に言うでもない言葉が、空気に吸い込まれていく。
勇気を振り絞って、もう一度立ち上がった。今度こそ、きっちり閉めてやる。そう思ってトイレに向かう。でも、今度はドアを閉めるだけじゃなくて、ノブをガチャガチャと動かしてみた。ノブはしっかりと機能していて、回さない限り開かない構造だ。ドアを閉めて、ノブを回さずに押してみる。びくともしない。もう一度。やはり開かない。
「よし」
俺はこれで安心できると思った。物理的に開かないのだ。見間違いか、何かの錯覚か。とにかく、このドアはもう開くはずがない。
ベッドに戻り、テレビを見つめる。リモコンを手に取って、電源ボタンを押した。画面が消え、部屋は静寂に包まれた。さっきまではテレビショッピングの甲高いセールストークという音があったが、それがないと、換気扇の低い唸りだけが部屋に響く。かえって不気味だ。
俺はもう一度テレビをつけた。やはりテレビショッピング。でも、音がある方がマシだ。そう思って、そのままにしておいた。
もう動画を見る気にもなれず、俺は目を閉じた。眠ろう。眠ってしまえば、こんな気味の悪いことも忘れられる。
どれくらい時間が経っただろう。俺はうつらうつらとしていた。眠りに落ちる寸前の、意識が朦朧とするあの状態だ。現実と夢の境界が暧昧になって、自分が今どこにいるのかも定かではなくなる。
そんな中で、俺はまたあの音を聞いた。
すーーーー……
微かな擦過音。蝶番が軋むような、小さな金属音。
俺の意識は一気に覚醒した。目を開ける。心臓が破裂しそうだ。横向きに寝ていた体を起こし、恐る恐るトイレの方を見る。
ドアが、開いている。
さっき、あれほど確かめて閉めたはずのドアが、まるで最初からそうだったかのように、大きく口を開けている。
背筋を冷たいものが走り抜けた。全身の産毛が逆立つ。手が震える。頭の中では警鐘が鳴り響いている。逃げろ、ここを出ろ、と。
俺はベッドから飛び降りた。震える手で服を掴み、急いで着替える。時計を見ると、午前四時を少し過ぎたところだ。外はまだ暗いだろうが、ここにいるよりはマシだ。
ズボンを履き、シャツを羽織り、上着を掴んで、足早にドアに向かう。靴は履かずに、手に持ったまま部屋を出た。
廊下に出ると、非常灯の緑色の明かりだけが頼りなげに点灯していた。薄暗い中を、俺は螺旋階段に向かって歩く。後ろから何かが追ってくるような気がして、一度だけ振り返った。もちろん、何もいない。でも、開いたままのトイレのドアが、脳裏に焼きついて離れなかった。
階段を駆け下りる。鉄製の階段が、ぎしぎしと悲鳴を上げる。一階のガレージに降り立つと、自分の車だけがぽつんと停まっていた。
車に乗り込み、エンジンをかける。セルモーターが回る音が、いつもより大きく聞こえた。ヘッドライトをつけると、ガレージの壁に貼られた剥がれかけた壁紙が浮かび上がる。染みだらけの壁。排気ガスの煤で黒ずんだ天井。
俺は急いで車をバックさせた。ガレージから出て、細い路地を通り、国道に出る。信号はすべて点滅に切り替わっていて、道はがらんとしていた。街灯のオレンジ色の光が、アスファルトを照らしている。
国道をしばらく走り、二十四時間営業のファミリーレストランを見つけて、駐車場に車を停めた。やっと一息つけた気がした。ハンドルを握る手に、まだ汗が滲んでいる。
「なんだったんだ、あれは…」
俺は独り言を言った。誰に聞かせるでもなく、ただ声に出さずにはいられなかった。
あのドアは、なぜ開いたのか。ノブを回さないと開かない構造だったはずだ。それを三度も確かめた。物理的に、ありえないことだ。
風? 違う。窓はない。換気扇の風圧? ありえない。トイレの中に空気の逃げ場はないはずだ。気圧の変化? そんなことで、ノブ式のドアが開くものか。
建物の傾き? それにしては、他のものは何も動いていなかった。ベッドも、テレビも、冷蔵庫も、すべて定位置のまま。動いたのは、あのドアだけ。
誰かの悪戯? 部屋の中には俺一人だった。天井裏かどこかに誰かが隠れているのか? いや、それも考えにくい。そんなことをする理由がわからない。それに、ドアを開けるだけの悪戯なんて、なんの意味があるのか。
結局、俺が出した結論は一つだった。
「霊の仕業か…」
そう考えるのが一番しっくりきた。あの古いラブホテル。何人もの人々が、様々な事情で訪れた場所だ。楽しい一夜を過ごしたカップルもいれば、俺のような男もいただろう。あるいは、もっと暗い事情を抱えた人々も。自殺。心中。事件。そういった負の記憶が、場所に染みついているのかもしれない。
あのトイレで、誰かが死んだのか? それとも、あの部屋全体が、そういう場所だったのか?
考えれば考えるほど、気味が悪くなってきた。俺はファミレスでコーヒーを飲みながら、夜明けを待った。窓の外が白み始めるまで、車の中で過ごした。
一週間が過ぎた。あの夜のことは、記憶の隅に追いやられつつあった。昼間の仕事に追われていると、夜の恐怖は現実味を失っていく。人間の脳は、そういう都合のいい作りになっているらしい。
でも、完全に忘れられたわけではなかった。トイレのドアを見るたびに、あのすーーーーという音を思い出した。自宅のトイレは大丈夫だったが、会社のトイレで、誰かがドアを開けた拍子に、心臓が跳ね上がったりもした。
仕事で、あのホテルの近くを通る用事があった。国道を車で走っていたら、ふとあの路地を思い出したのだ。別に行く必要はなかったのだが、どうしても気になって、ハンドルを切ってしまった。
路地に入る。昼間だというのに、この通りは薄暗い。両側に古い建物が迫っていて、日差しが遮られているのだ。もともと人通りの少ない通りだが、今日は特にひっそりとしている。
そして、あのホテルの前に着いた。
「なんだ、こりゃ…」
思わず声が出た。建物の一階部分のガレージの入り口に、ベニヤ板が打ち付けられていた。俺が入った三番の部屋だけでなく、両隣の二番と四番も、だ。板は無造作に釘で打ち付けられていて、入り口を完全に塞いでいる。まるで、何かを封じ込めるかのように。
「改装か? それとも…」
俺は車を停めて、外に出た。近づいてみると、ベニヤ板はかなり新しかった。せいぜい数日前に打ち付けられたものだろう。つまり、俺が泊まった直後に。
管理人室のドアも閉まっていて、呼び鈴を押しても反応はなかった。ガレージの奥を覗き込もうとしたが、板で塞がれていて中は見えない。ただ、かすかに黴臭いような、生臭いような、妙な匂いが漂っている気がした。
結局、何もわからずにその場を去った。車に戻り、もう一度ホテルを振り返る。無骨な建物は、昼間の光の下でも薄気味悪かった。窓という窓はどれも小さく、まるで誰かに覗かれているのを拒否するかのようだった。
それから、さらに一ヶ月後のことだ。再びあの通りを通りかかった。すると、ホテルの建物は様変わりしていた。いや、建物自体は変わっていないが、一階部分がまるごと改装されて、建築会社の資材置き場か倉庫のようになっていた。ガレージだったスペースには、鉄パイプや木材が積まれていて、作業着を着た男たちが出入りしている。看板は取り外されていて、以前ここがラブホテルだったことを示すものは何も残っていなかった。
俺は車を停めずに、そのまま通り過ぎた。振り返りもしなかった。見たくはなかった。
あの夜以来、俺はラブホテルに行っていない。デリヘルも呼んでいない。性欲は相変わらずあるが、あのドアが開く瞬間を思い出すと、どうしても行動に移せない。金で処理するという安易な考え方が、どこかで歪んでいたのかもしれない。それとも、あのホテルが特別おかしかっただけなのか。
真相はわからない。あのドアが開いた理由も、ホテルが閉鎖された理由も。ただ言えるのは、あの夜体験した恐怖だけは本物だったということだ。物理的に開かないはずのドアが、三度も開いたという事実。その事実だけが、俺の中に冷たい影を落としている。
たまに夢を見る。あの部屋で、ベッドに横たわっている夢だ。部屋は静かで、テレビは砂嵐。そして、トイレのドアがゆっくりと開いていく。すーーーー……という音とともに。俺は逃げようとするが、身体が動かない。声も出ない。ただ見ていることしかできない。
ドアが完全に開ききると、中から何かが出てくる。何かが見える。でも、俺にはそれが何なのかわからない。目が覚める直前に、それが何かを見る気がするけれど、目が覚めた後は忘れてしまっている。
ただ一つだけ確かなことがある。あのおばちゃんが、宿泊料を前金で徴収しに来たのは、俺があの部屋に入るのを止めるためだったのかもしれない。あるいは、あの部屋で何が起こるかを知っていて、せめて金だけは取っておこうとしたのか。
どちらにしても、俺があの夜払った七千円は、何の役にも立たなかった。七千円で体験するには、あまりにも濃い恐怖だった。
今でも、時々思うことがある。あのドアの向こうには、一体何があったのか。何が俺を覗き込もうとしていたのか。そして、もし俺があそこで一晩中留まっていたら、どうなっていただろうか。
答えの出ない問いが、夜の静寂の中で反響する。俺はただ目を閉じて、朝が来るのを待つだけだ。
読んでいただきありがとうございました




