貴族裁判、伯爵による公爵への殴打事件について。
※出産や死亡に関する話題が出てきます。苦手な方はご注意ください。
その事件の報告は、へムルスフィア王国に激震をもたらした。
ユーリ・タバスト伯爵が、ロアブル・ベルナディット公爵に激しい暴行を加えた、というものである。
場所は公爵邸。タバスト伯爵はベルナディット公爵と商談を行っていたが、突然態度を豹変。絶叫しながらベルナディット公爵を殴りつけ、噛みつき、眼窩に指を突き入れ、歯を折ったという。
そればかりか公爵家長子であるサーディ・ベルナディットの腹部を強く蹴った、とも報告されていた。サーディは12歳、まだ成人もしていない年齢である。
20年もの間、特に戦乱など起きていない平和な国である。
それだけにこの情報は、瞬く間に貴族だけでなく平民の口にも上るようになった。
特に貴族たちの戸惑いは大きかった。
ユーリ・タバスト伯爵は23歳、ベルナディット公爵は35歳。年齢の差こそあるが、来歴が違う。
タバスト伯爵は王国における流通の一端をコントロールする文官の出であり、ユーリ・タバストもその仕事を受け継いだ男だった。
やや痩せ気味、性格は温厚の一言。最近に遭った辛い出来事を除けば、柔らかい笑顔で人と相対する穏やかな男であった。
一方のベルナディット公爵は軍人の出。代々、王国の守り刀を自負する威風堂々とした男である。
もちろん彼自身も体は鍛えており、筋骨隆々。厳しい風貌は貴族たちの間でも恐れられる存在であった。
厳格であるが豪快。まさに武人の体現といったところだろう。
全く相反する二人であるが、一つの共通点があった。
それを知る貴族は首をひねり、何も知らぬ平民たちは伯爵の凶暴さを肥大化させて噂した。
「……平民の間では、ユーリ・タバスト伯爵は夜な夜な貴族平民構わず血を啜り、骨を折る異常者ということですよ」
宰相の言葉にギーディア王は呆れたように笑う。
賢王ギーディア。この20年の平和を維持し続けるだけの胆力と知力の持ち主であり、此度の騒動には溜息をついていた。
「……動機が分からんな」
「ええ、まったく」
「これがベルナディット公爵がやらかしたならまだ話は分かるのだ。何かが癪に障って、その武人としての力を発揮したならな。だが、やったのはタバスト伯爵だ」
「タバスト伯爵は公爵に侮辱された……とか?」
「無論、それは暴行するにたり得るかもしれない。だが、いくら何でもやりすぎだし、第一……爵位の差を彼も自覚しているはずだ」
この国において伯爵と公爵では、かなりの格差がある。
広大な領地を支配する公爵と、精々が中規模の領地しかもたない伯爵。もちろん、公爵はそれだけの責任を負うのだが。
「……裁判を開くぞ。謎が多すぎる」
「公開裁判ですか?」
「うむ。……民衆の間でも噂が広まっているのだろう。ここで裁判を非公開にすれば、更なる流言が広まることになる」
「裁判長は――」
「私が務めよう。カルヴァン裁判長を補佐に置く」
ギーディア王を裁判長とする公開裁判が開かれる、との情報に貴族平民問わず見学希望者が殺到したのは言うまでもない。
上級裁判所では貴族同士の争いを裁くのが主だが、ほとんどの貴族は領地の争いや名誉毀損などによって争うものであり、暴行事件というのは異例中の異例であった。
それだけに、ギーディア王が裁判長を務めるという判断に裁判官たちも安堵したという。
暴行事件から五日後。裁判当日。
ユーリ・タバスト伯爵とロアブル・ベルナディット公爵が共に法廷へと入廷した。
貴族牢に収監されていたユーリ・タバスト伯爵は白を基調としたシンプルな収監用の貴族服を。
一方のロアブル・ベルナディット公爵は杖を突いた包帯だらけの姿で現れた。
その痛々しい姿に、傍聴人から同情の声が漏れる。
と同時に、それを冷然とした様子で眺めるユーリ伯爵に疑念、あるいは非難の目が向けられた。
ベルナディット公爵は憎々しい、という様子でユーリ伯爵を睨み付ける。
それでも……ユーリ伯爵は怯えることもなく、ただ静かに彼を見据えていた。
「それでは、神の下。そして王国の下にこのギーディアが裁判を開く。公平に裁くことを全てに誓おう」
カン、とギーディア王が持つ王錫の石突きが床に叩きつけられた。
§
「では、名前を」
「ユーリ・タバスト。爵位は伯爵」
「ロアブル・ベルナディット。爵位は公爵」
「ユーリ・タバスト。汝はこのベルナディット公爵に暴行を加えたというのは真実か?」
「はい。真実です」
「それだけでなく、長子であるサーディ・ベルナディットの腹部に蹴りを加えたというのも真実であるか?」
「はい。真実です」
あっさりと事実を認めた伯爵に、ざわめきが漏れる。
「それは何故?」
「話せば長くなりますが」
「王よ! もういいでしょう! この男は事実を認めた! ならば後は罪を裁くまで! 伯爵である此奴が、公爵である私を殴りつけた。それだけで処刑の理由と成り得ます!」
「まあ落ち着けベルナディット公爵。余にはこの狼藉が、いささか信じられなくてな。うむ、理屈に合わないというやつだ。理屈に合わないものは、そのままだと気分が悪い」
カン、と王錫が叩きつけられる。
「ユーリ・タバスト伯爵は温厚篤実、国の流通を担うに相応しい仕事ぶりであった。余も会話をしたが、その評判に違わぬ誠実さが垣間見えたぞ。だから信じられぬのだ。何故、そうした?」
ユーリ・タバスト伯爵は口を開いた。
「ベルナディット公爵は、私が最も大切にしていたものを穢しました。よって、成敗しました」
「……貴様……成敗……成敗だとぉ!?」
掴みかかろうとするベルナディット公爵を、ユーリ・タバスト伯爵はただ静かに見据えている。
「ふむ。大切なものとは?」
「――私の娘です」
その発言に、彼の過去を知る者たちは一斉にざわついた。
ギーディア王も、僅かだが目を見張ったほどである。当然ながら、王は調査した二人の過去を熟知している。
「伯爵。汝に娘はいなかったはずだが?」
「いたのです、我が王よ。確かに、私の娘は」
一瞬、何かを堪えるようにユーリ伯爵は歯を食い縛る。
「先ほど長い話になる、と言ったが。……話すが良い。誰にも邪魔立てはさせぬ」
「感謝を」
そうして、ユーリ伯爵の話は始まった。
§
<<ユーリ・タバスト伯爵の証言>>
他の貴族の方々にもご承知の方はおられるでしょうが、私は一年前に妻を亡くしました。
出産の際に、血が出すぎたのでございます。
産まれた娘も呼吸することなく息絶えておりました。へその緒が首にぐるぐると巻きついておりましたから、そのせいであろうと産婆は言いました。
事故には気を付けておりました。
あらゆる可能性を考慮して、侍女たちにも注意を払うように申しつけました。
その命令を彼女たちもよく汲んでくれました。
ですが、死にました。
ままあることでございます。覚悟を持て、とも言われた記憶がございます。
けれど、実際の死を目の当たりにして私は、しばしの不肖に陥りました。
食事に味がなくなり、寝床についても寝ることができなくなりました。
その癖、ふとした拍子に微睡むとあの光景を思い出して跳ね起きました。
見舞いに来た友が言うには、窶れ果てて今にも後を追いそうだと言われたほどでございます。
それでも、時間が何とか私の傷を癒やしました。
仕事に復帰するまでに、三ヶ月かかりましたが、その間は他の貴族の方々が、私の仕事を代理してくださいました。
それに関しましては改めて厚くお礼を申し上げます。皆様、本当にありがとうございました。
五日前の話です。土地売買の問題があり、ベルナディット公爵との商談へ参ることになりました。
私が担う流通経路の一部に公爵家の土地があり、そこを購入して森林を拓くことができれば、流通がより早くなる。王国にとって大変な利益となる話でした。
幸い、公爵家も別にその土地を活用している訳ではないらしく、商談自体はまとまるであろう、と踏んでいました。
……それから、私はもう一つ。ベルナディット公爵に会いたいと考えておりました。
なぜなら、私と公爵には共通点がございました。
出産の際に、妻が死んだという。
私は妻が死んで一年。公爵は妻が亡くなって十年。時間こそ違いますが、だからこそこの人生の苦しみにアドバイスを戴けないだろうか、そう思ったのです。
公爵邸には、私と執事であるファルマルを連れていきました。
ベルナディット公爵は商談に赴いた私と握手を交わし、歓待してくれました。
話し合いは滞りなく進み、契約書を互いに確認してサインを済ませて商談は成立です。
その後、公爵に私は食事に誘っていただきました。
普段なら断りますが、先も言った通り、どうしても私はアドバイスを戴きたかった。
なので、食事をしながら――私は食事の量が減ったため、残すのは心苦しかったですが――私は尋ねました。
妻を亡くしたという苦しみ、それはまだあるのかと。
大変失礼で不躾な質問だと平謝りしつつも、その質問を投げかけました。
「うむ。私の場合は悲しみというより怒りだ。なぜ、彼女が死んだのだという怒り。それは常に私の中にあり、常に弾けようとしている」
「それは、」
「だが、抑えることはできる。できている。私もようやく、その怒りを……無視できるようになってきた」
ふふ、と公爵は笑いました。その時の笑いが、妻を亡くした怒りにしてはやや残忍そうだな、と感じたのを覚えています。
「妻が死んだからといって後を追えば、妻が悲しむ。それを心に刻んでいれば、食事もできるであろうよ」
……立派な言葉だと、その時は思ったのです。
その時は、ですが。
食事の後、大雨が降り出しました。これはいかん、と公爵は私とファルマルに本日は宿泊するように勧めてくれました。私もこれではと遠慮なく宿泊することにしました。
当然ながら公爵邸にはゲスト用の寝室があり、私たちは主従揃ってそこで眠ることにしたのです。
その日の夜、でした。
誰もが眠りに就こうとする頃だったと思います。一息ついた私も眠るべく、服を着替えようとしていました。
ぱん、という甲高い音。
悲鳴。
私は賊かと思い、ファルマルと共にゲストルームから出ました。
しばらく歩いて音の出所である部屋の扉に辿り着きました。
ああ、そこから聞こえてきたやりとりは今も明瞭に思い出せます。
「申し訳ありませんと言え!」
「申し訳ありません……!」
「生きていてすいませんと言え!」
「生きていてすいません……」
「私は人殺しです、と言え!」
「私は人殺しです……」
「お前は、私の母上を殺した大罪人だ。そうだな!?」
「……私は、大罪人……です……」
扉を開けました。
それが他人の、それも公爵邸の扉であるなどとは思考から吹き飛んでいました。
そこで見たのです。
少年が、明らかに年下の少女を鞭打っていました。
少年はサーディ・ベルナディット。食事の席で挨拶されましたので、当然覚えています。
ですが、少女には見覚えがありませんでした。
見覚えがないのに、見た瞬間に理解できました。理解したのです。
少女は、ベルナディット家の血を引いていました。髪の毛と目に、ありありとその特徴が現れておりました。
「伯爵? どうしてここへ?」
「……」
サーディはきょとんとした表情で私を見ていて、少女は私を虚ろな瞳で眺めていました。
私は、よくもまあ自制したと思います。
「彼女は君の妹かな?」
「ええ、そうです」
「なぜ彼女を鞭打っているんだい?」
「それは、コイツが私の母上を殺したからです!」
「……なるほど。それは、もしかして、」
――出産の時に、殺したのかな?
「はい! 何でもコイツを産むときに、母上は血を流しすぎたそうです!
きっと、コイツが爪を立てて引っ掻いたのでしょう!」
そんな答えを聞きました。
私は頭が漂白しました。それはもう、真っ白になったのです。
サーディを蹴り飛ばすと、彼は甲高い悲鳴を上げました。
声を聞きつけて使用人たちが殺到しましたが、何しろ私は貴族であり、客です。拘束することもできず、様子を窺うだけでした。
「何があった!?」
とずかずかと公爵がやってきました。
「ベルナディット公爵」
「あん?」
「彼女はあなたの娘ですか?」
その問い掛けに、この公……クソ野郎は事もあろうにこう言いました。
「それは私の娘ではない。我が妻を殺した忌まわしきモノだ」
私は獣の如くなりました。
目の前の、この男は、絶対に許すわけにはいかぬと。
後は知っての通りでございます。
先に申し上げておきますが、私は己の狼藉を後悔しておりませぬ。
私の妻は、自分の子供が亡くなったことを知りました。知った後で死んだのです。
あの時の、妻の表情が今でも目に焼き付いております。
ごめんなさい、ごめんなさい、あなた。
本当に、ごめんなさい。
謝りながら、私の妻は死んでいったのです。
子供と、私に謝りながら。
どちらかだけでも、どちらかだけでも生きて欲しかった。
けれど宝物だった二つは、どちらも残ってくれなかった。
この男は、宝物が残ったのです。
自分の血を引いた娘が、ちゃんと残ってくれたのです。
なのに、この男はそれを粗略に扱い、あまつさえ――
憎悪の対象にした!!
もう一度言います。
私は、何度でも同じことを行います。
以上です。
§
法廷の雰囲気は一転していた。
伯爵に投げられていた非難の眼差しは消えて、公爵に対する軽蔑の視線に変わっていた。
だが、公爵は気付かない。気付こうとしない。
忌々しそうに、伯爵を睨んでいる。
ギーディア王は呆れたように額に手をやった。
「裁判長。ベルナディット公爵家の子供は二人か?」
「記録によれば――一人、サーディ・ベルナディットだけかと」
「ふむ。そうか。となると……」
ギーディアはとんとんと自身の膝を指で叩いた。考え事をする時のクセである。
「次の証言はベルナディット公爵でよろしいですか?」
「いや。彼には一旦退廷してもらう。誰にも話したり法廷の証言を聞かれることのないよう、近衛騎士に厳重に見張らせろ」
「ならば、次は?」
「関係者は既に集めているのだろう? 公爵家の使用人を呼べ」
§
<<侍女長の証言>>
は、はい。公爵家には、確かにその少女がおりました。主人からは、これを娘と思うなと申しつけられてございました。
日常……ですか? ええと、その、はい、私たちは、主人の望み通りに。
<<料理長の証言>>
食事の席は別でした。え、使用人と一緒に食べていたのか……ですか?
その……それは……そう、です……。
<<侍女の証言>>
食事の席、ですか?
ええと、その……どうだったかな……。一緒じゃなかったような……。
<<別の侍女の証言>>
何を食べていたか、ですか?
ええと……残り物を……。
それは公爵たちの残り物か? それとも使用人の残り物か?
……こ、公爵様たちの残り物です!
<<庭師の証言>>
あの子は、わしらの残り物を食ってましたよ。
いや、そうしろって言われたんで……。
わしは、よくわかんねえです。いけなかったんですか?
<<執事長の証言>>
……少女を鞭打っていたか、ですか?
と、とんでもございません。我々使用人は、彼女に危害を加えたことなど……。
え。つまり、彼女が貴族であることは認めるのか?
え、あれ? えっと、それは……ええと……。
……。
……はい。あの方は……主人の娘でございます……。
<<公爵家騎士の証言>>
馬小屋の藁にくるまって眠っているのを見かけたことがあります。
孤児かと思って追い出そうとしたのですが、ベルナディット様に止められました。
§
証言が集まっていく。
カルヴァン裁判長はたらたらと汗を流し始めていた。
それはもちろん、前代未聞の公爵家一同による公爵令嬢の虐待ということもあるが。
それ以上に、ギーディア王が不快そうに目を細めているのである。
二十年ぶりだ。
前回、この目をしたときは……戦乱を起こした貴族たちが、何人亡くなったことか。
「では、公爵家長男サーディ・ベルナディットを証人喚問せよ」
「はっ」
使用人たちの証言を一通り聞き終えると、ギーディア王は長男を呼んだ。
幸いにも腹を蹴られた程度で、怪我はないとのことだった。証言に支障はなかろう。
「……名前は?」
「はい。サーディ・ベルナディットです」
状況にも臆することなく、サーディはそう答えた。威風堂々たる口ぶりであるが、
傍聴人は戸惑いの色を隠せなかった。
ロアブル・ベルナディットは軍人であり、筋骨隆々の男である。
故にサーディもそういう姿だと思っていたが、現れたのは12歳にしては肥満の、腹部の膨れたふてぶてしい少年だった。
隣にいるユーリ伯爵は、不快な害虫を眺めるような目で彼を見ている。
「君は自分の妹を鞭打っていたそうだが、本当かね?」
「いいえ、あれは妹ではありません! あれは呪われた子です!」
「……ほう。なぜ呪われていると?」
「私の愛しい母上を殺したからです!」
「殺した……か。だが、彼女は殺してないんじゃないかな?」
「え?」
「だって、出産の時に君の母上は亡くなったのだろう? 赤ん坊が母親を殺すとか、どうやってだね?」
「それは、わかっています。爪です!」
「……爪?」
「爪で母を引っ掻いたのです! 可哀想に。母上は、大量に血を流して亡くなったのだそうです」
「爪で母を引っ掻いた、とは君に誰か言ったのかな?」
「はい、父上です!」
「……なるほど」
それで証言は終わった。
ギーディア王は宰相を呼び出し、すぐに指示を下した。
「畏まりました。全て、取り計らいます」
「では、最後の証人。ロアブル・ベルナディットを呼べ」
「はっ」
傍聴人の一部に、その呼び方に気付いたものがいる。
ギーディア王は、ベルナディット公爵と呼ばなかった。爵位を呼ばなかった、ということは。
まさか、もしかして。
§
<<ロアブル・ベルナディット>>
あの娘について話せ、ですか?
これは私への暴行事件に関する裁判ではないのでしょうか?
あの子は、生まれついて呪われていたのでございます。
私が心より愛した妻を、その手で殺したのです。
生まれついての殺人鬼、生まれついての母殺しです。
血に塗れた体で笑っていた姿を今でも夢に見ます。
私の愛しい妻は、殺されたのです。
ですが、私は我慢しました。耐えたのです。
彼女には、罪を償ってもらわなければならない。
だから、忌々しいですが育てましたとも。
育てて、彼女が罪を自覚して貰わなければ――ぷぎゃ!?
§
証言はここまでだった。
ユーリ・タバストが彼を殴り飛ばしたのである。
「何が罪だ! 何が償いだ!! あの子には何の罪もない!」
「落ち着かぬか、ユーリ・タバスト伯爵!」
ガァン、と一際大きく王錫が床を打ち鳴らした。
騎士たちが慌ててベルナディットからユーリ伯爵を引き離す。
「ベルナディット。王からの言葉だ。よく聞け」
「……はっ」
殴りかかられた男は、頬を押さえながら立ち上がる。
今し方、自分が述べた証言がどうしようもなく終わっていることに、
まだ気付いていないのだ。
「極めて当たり前の話をしよう。常識だ。当然の理屈の話だ。
――出産で汝の妻が死んだのは、娘のせいではない」
「………………は?」
「当たり前ではないか。赤ん坊がどういう理屈で母を殺す。
出産の際に爪で引っ掻いた? 赤子の爪は柔らかいぞ。そもそも、赤子は胎内にある水と共に産まれてくるのだ。水の中で力も入れずに胎内を引っ掻けるのか? 愚者の理屈だ」
「いや、その……あの女は……呪われし……」
「呪い? そうかそうか。ではその呪いとやらはどこにあって、どこに見えるものだ?」
「呪いは……見えるものではなく……触れられるものでも……」
「無いと同じではないか!」
じりじりと、ベルナディットの額に汗が滲み出る。
王、という自分より権力のある人間に責められることで、
今頃、今更であるが。
彼は気付き始めたらしい。
「ええと……それは……その……私が……もしかしたら……」
「強いて言うのであれば。妻を殺したのは汝であろう、ロアブル・ベルナディット」
「な!?」
「な!? も何も。孕ませたのは汝であろうが。汝が妻と情を交わし、汝が妻を孕ませ、汝が出産させたのだから、汝には少なくとも半分の責がある。汝が産ませなければ、妻は生きていたぞ」
「そ、それは! それは……! ですが! 妻はサーディを産んでも平気でした!」
「運が良かったな」
「ですが! あの娘は!」
「運が悪かったな」
……突き詰めれば、それだけの話である。
出産は命懸けの行為だ。万全を尽くしてなお、亡くなってしまう者もいる。
それでも百年前よりは酷くないはずだ。百年前の記録を見る限り、子供は死ぬのが当たり前。五人産んで、二人生き残れば御の字。
今は、三人産んで二人というところだろう。
それでも、子供は死ぬ。死に続ける。死なせたくないのに死ぬ。
そして、出産の度に母親の方も死ぬ確率がある。無論、子供よりは死亡確率は低い。
低いが……死んでも決しておかしくはないのだ。
その理不尽な死が、たまたまベルナディット夫人の身に襲いかかっただけ。
「――ベルナディット。自覚したか」
「……う、うう……うううううっ……! おおおおおおおおお!」
がくりと膝を突く。嗚咽するベルナディットに、先ほどまであった非難一色の眼差しも僅かに柔らかくなった。
最愛の妻の死。それが彼を狂わせたのかもしれない。
……まさか。
ギーディアが先ほどから怒っていたのは、ユーリ・タバスト伯爵と同じ結論に達したからである。
「ベルナディット。跪いていて良い。そのまま聞け」
「はっ……」
「気付いていただろう、お前。娘に責任がある? 嘘をつけ。そう思い込もうとしただけであろう」
「……は?」
身を起こし、ベルナディットは心胆が凍り付く。
ぞっとするほど寒々しい目で、王が彼を覗き込んでいた。
「我が王よ。……それは、一体どういうことでしょうか?」
傍聴人の意見を代弁するように、裁判長が尋ねた。
うむ、と頷いて彼は声を張り上げる。
「皆も聞くがいい! このベルナディットという男は、妻の死を悲しんで娘を認められなかった。そうではない。怒りだ。悲しみから逃げるために、怒りを選んだのだ!」
傍聴人たちがその言葉に目を見開く。
「ち……違う! 違います! それは、それは!」
「理屈に合わんのだ。妻を殺した娘をある程度の年齢まで養育し、怒りをぶつけられるようになるまで待つ? 実に計画的ではないか。娘と思うな? 呪われた子? 他の者にまでいじめを誘発するような発言をする理由があるか?」
「お前は確かに己の妻を愛していたのだろう。だから死んだことに対して悲しんだ。だが、お前はその悲しみに耐えようとしなかった。ついでに言うと、自分が子供を産ませたためという責任にも耐えられなかった。違うか?」
「…………ちが…………わたし、は…………」
「だから、怒りを選んだ。誰かのせいにすればいい、と考えたのだ。幸い、目の前には責任を負わせることのできる相手がいる。そんな小賢しい理屈を練り上げて、憎むべき……いや、違うな。憎しみをぶつけてもいい相手を養育したのだ」
「何たる筋違い。何たる邪悪。お前は、守るべき自分の子供、労るべき自分の子供、愛すべき自分の子供を使って、自分の欲望を満足させた最低の人間である」
「ち、違います! 違うのです! 私は、娘を愛しております! ですが! 先ほどまでの私は、ただ……ただ、素直ではなく……!」
「ほう。そうかそうか。娘を愛していると証明できるか?」
「できますとも!」
「では。娘を呼ぶとしよう。近衛騎士。公爵邸に向かい、急いで娘を連れてきてくれ。ただし、もちろん丁重にな。何しろ公爵令嬢なのだから」
近衛騎士が敬礼して、法廷を飛び出して一時間後。
困惑したていで、彼らは戻ってきて報告した。
「ベルナディット公爵令嬢ですが、どこにもおりません」
「え……?」
「残っていた使用人と騎士たちも尋問しましたが、本当に知らないようでした。普段いるという屋根裏や馬小屋ももちろん調査しましたが――」
「そうか。という訳だ、お前の愛は証明できない。これは貴族による貴族殺しと見なさざるを得ないな。うむ。どの道、そうするつもりだったのだろう?」
「ま、まさかそんな……」
「加えて。そもそも貴族でありながら、出生証明書を王国に提出していない。これもまた大罪だ。叛逆を考えていると見なされてもおかしくない。だろう?」
平民であればお目こぼしされる出生も、貴族の血を守るために必要な出生証明書を提出しないのは、王国の叛乱と見なされる。
「以上の相当事由を以てベルナディット公爵家は貴族籍を剥奪。公爵家の土地は順次、各貴族たちに分配するものとする。分配に関しては時間が掛かるので、その間は王国が代理で預かる」
「な……な、な、なぜ!? 我が公爵家は、代々王の護り刀を務める由緒正しき家! それが、それがッ……!」
声高らかに、ベルナディットは最後の失言を放った。
「――たかが、娘一人のコトで!」
静まりかえる法廷。もはや非難どころではない。
貴族も平民も、人間以外の存在を見る目で彼を見ていた。
「愛すると言ったり、たかがと言ったり、忙しいことだな。王国に対しても忠誠を誓ったり、叛逆を企んだりするのではないか?」
「バカな! ……い、いえ。今のは言葉の綾でした。私は娘を愛しておりました! 妻との間にできた子です! 本当は、本当は愛していましたとも!」
「――我が王よ。一つよろしいでしょうか?」
「ああ。ユーリ・タバスト伯爵。言ってやりたまえ」
同じ疑問……疑問というのは、あまりに確信に満ちているものがあるのだろう。
虐待していた娘に対して、本当は愛している、素直になれなかっただけ、そんな弁解をまくし立てている。
傍聴人も誰一人として信じていないが、唯一信じる……信じようとしている人間がいる。
ロアブル・ベルナディット本人である。
この男の頭の中では、自分はただ素直ではなかっただけ。娘に対して素直になれなかっただけで。本当は愛しているのだと形を変えようとしているらしい。
なので、トドメを刺そう。
跪いたベルナディットを見下ろして、ユーリ伯爵が尋ねた。
「ロアブル・ベルナディット。一つ質問がある」
「答えよ、ベルナディット」
王の言葉に、ベルナディットは必死の形相で彼を弱々しくも睨んだ。
「娘を愛している、と言ったな?」
「ああ……言った、言ったとも! 確かに!」
「愛しているなら、言ってみろ」
「娘の名前を言ってみろ」
その言葉は、ベルナディットが夢想しようとした妄念を破壊し、現実に覚醒させるに
充分な破壊力を持っていた。
「な、まえ?」
「言えないだろう。あれ、だの、それ、だのと呼んでいたのだろう。どうせいつか憎悪をぶつけるのに飽きたら捨てる予定だった子供だ。だから、名前をつける行為すら疎んだのだろう」
親として、最初にやるべき事すらもベルナディットは放棄していた。
抱き上げ、名前を付けるという事も。
「私は娘にティリーという名を贈ったよ。妻と一緒に、男ならば、女ならばと名前を考えていてね。呼びかけられたのは、ただの一度しかないがな。お前は、それすらも……それすらも! 地獄に落ちろ、ロアブル・ベルナディットッッ!!」
「あ……あ、ァ……アアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?
そんな、ハズ……ちが、いや、でも、アアアアアアアアァ!?」
かくして王の勘違いで殺される可哀想な自分、という妄念は打ち砕かれた。
腰を抜かして倒れ込み、襲い来る罰の恐怖に耐え切れず――失神した。
「さて。それからもう一つ。ユーリ・タバスト伯爵についての裁判だ。貴族殺しの犯罪者を殴ったのは、罪ではない。はい終わり。ホイ無罪」
かんかん、と力なく王錫が床を打ち鳴らした。
§
暴行裁判の記事が新聞社から号外として振りまかれ、詳細は別売りの記事に記載というやり口は上手かったらしく、内容を知るべく貴族や平民が新聞社に殺到した。
数少ない、傍聴人に選ばれた者たちはいかに凄い事件だったかを語り、場の人気をかっさらった。
さて、王の裁きによってベルナディット公爵家は取り潰された。
ロアブル・ベルナディットは死刑に処される予定であるが、ほぼ廃人と化していて死刑執行予定日まで保つかどうかも怪しいらしい。
使用人たちも大部分が処罰された。何しろ、ロアブルによって大部分の人間は名前も付けられなかった娘が貴族令嬢である、と知っていたのだ。彼女の事情を詳しくは知らない、新しく雇われた使用人や騎士の何人かを除いて、それぞれ縛り首や鉱山労働などをあてがわれた。
サーディ・ベルナディットはベルナディットの名を捨て、修道院での生活を命じられた。
彼はまだ、己の罪を自覚できていない。
だが、修道僧たちの教えによって彼は日々、学びを進めている。
そしていつか自覚するのだろう。どうしようもない自分の大罪を。
彼が進むのは、それを理解してからの話である。
もしかすると進むかもしれないが、もしかすると……いつまでも罪の自覚がなく、いつまでも修道院に留まり続けるのかもしれない。
どちらの道も辛く険しい。それだけは確かだった。
§
――半年ほど経っての話である。
「ユーリ・タバスト。御前に」
「苦しゅうない。ここは玉座の間ではないからな」
王専用の応接室に呼び出された伯爵は、覚悟をした表情でギーディア王と向かい合っていた。
「うむ。端的に言った方が汝もよかろう。ベルナディットの娘、汝が預かっているな?」
「……やはり、その事に……」
「ははは。気楽にせよ。責めるつもりはない」
あの裁判で、娘が行方不明だと知らされた時、ギーディアはベルナディットではなく、ユーリ伯爵を観察していた。
本来であれば、驚愕か激情、あるいは絶望。浮かべる表情はどれかのはずだ。
だが、彼は些かも表情が崩れることなく平静を保っていた。
この場合の推測は二つ。
一つ、娘の死を覚悟していた。二つ、娘の生存を知っていた、である。
「同行した執事が秘密裏に彼女を匿ったのかな?」
「はい」
そもそも、今回の暴行は最初からおかしかった。
……いや、無論。怒りのあまりベルナディットに暴行を加えた。それは確かなのだろう。
だが、必要以上に派手に……目に指を突っ込み、歯をヘシ折り、噛みついて派手に血を噴き出させるほどに暴行を加えたのは。
執事と、彼が連れている娘から目を逸らさせるためだ。
「先の覚悟を決めた表情から、娘を連れてきたと見たが」
「はい。部屋の外に執事と共に待たせています」
「よし。入らせなさい」
「おいで、アリシア」
おずおずと、少女が姿を現した。
「この方は我らが王、ギーディア陛下とおっしゃる。さあ、挨拶をしてごらん」
「アリシア、です。よろしくお願いいたします」
「うむ。楽にしなさい。伯爵、彼女をどうするね?」
「ご承知の通り、私には子供がおらず――養子にしたいかと」
「できなければ?」
「野に下ろうと考えています。その準備も、」
「おいおい、可能性の話を聞いてみただけだ。準備を整えているとか、間違っても言わないでくれ。宰相が泣くぞ」
「いや、泣きませんがね」
応接室で静かに座っていた宰相が指摘した。
「良かろう。さて……王家に忠実な貴族の一人であるルーゼヴィル侯爵家は八人の子を持っている。書類上の子が今更一人増えたところで、誰も気にするまい」
「い、いいのですか?」
伯爵は初めて戸惑った。本来は執事であるファルマルの名を借りて、そこから引き取った養子とするつもりだったのだ。
「執事の子から貴族であれば侮りも増えるであろうが、貴族から貴族の養子ならば侮られることもあるまい。という訳でここに養子としての契約書があります。サインを」
「早い……」
王が差し出した契約書を見る。完璧であった。既に予め、あらゆる準備が整えてあることにユーリ伯爵は少し戦慄する。
「とはいえ、最後にもう一人の当事者に尋ねばならんな。アリシアよ」
「はい」
「汝はこれからタバスト家の令嬢となり、ユーリ・タバストを父として仰ぐことになる。それで良いか?」
アリシアは一瞬の躊躇もなく頷いた。
「あの家で、私に『大丈夫だから』と言って抱き締めてくれたタバスト様を、私は信じます」
死ぬべきだ、と思っていた。
苦しくて、辛くて、悲しくて、救ってもらおうと思うことすらも罪だと思って、ただ俯いて耐え続けるしかなかった。
そんな自分を、ただ一人抱き締めてくれたのだ。
「ならば良し。ではこの契約書と宰相の立ち会いを以て、アリシアをアリシア・タバストと認めよう。では話は終わりだ。帰りたまえ、自分たちの家に」
アリシアは馬車の中で、ぼうっとしていた。
痛みはない。
飢えもない。
寒さもない。
悲しみは残っているが、それよりは嬉しい方が大きい。
戸惑う自分の手を、しっかりとユーリが握っている。
大きく、温かな手だった。
やがて伯爵家に到着したアリシアは、ファルマルに出迎えられて屋敷に入った。
「ただいま、みんな」
「おかえりなさいませ。旦那様、お嬢様」
使用人たちが最上の礼を以てアリシアを出迎える。
「おかえり……」
「そう。君は帰ってきたんだよ、アリシア。だからこの屋敷に帰ってきたら『ただいま』が挨拶だ」
こくりと頷き、恐る恐ると言った様子で彼女は呟く。
「ただいま……ただいま……」
何度もそう言う内にはらはらと涙を零し始めたアリシアを、ユーリは抱き締める。
ユーリは思う。
幸せに、どうか幸せに。
彼女の人生が、これからうんとたくさんの喜びに満ちますように。
そしていつか、私もアリシアに向けて語る日が来るのだろう。
君には妹がいたよ。
君には母がいたよ。
その思い出を痛みではなく、柔らかな喜びと共に語り合う日が、きっと。
そう願いながら、ユーリはアリシアをしっかりと抱き締めた。
これまでのような悲しみではなく、喜びによって涙を流しながら。
<了>




