後編
僕らが過ごした時間は今まで見てきたそれの何倍も厚く、そして何倍も早く走り去っていった。そしてそんな時を重ねる毎に僕の募る想いはキシキシ音をたてるかのように彼女の心に重圧としてのし掛かっていたのだろう。そんなある日。
「灯さん…、今度精神科の病院に行ってみない?」
僕は彼女の発言に二つの疑問を思い浮かべた。聞き返す順番は決まっている。だが、もし、返答が僕の予期せぬモノだったなら、僕は話を冷静に進めることが出来るだろうか。
「病院じゃなくても、催眠療法を受けてみるだけでも良いの。行ってみない?」
「…一つ目の質問ね。誰が受けるの?」
僕は恐る恐る順番通りに胸に込み上げた質問を投げ掛けた。
「えと…、受けるのは灯さん。」
「あぁ、そう来るか。じゃあ、二つ目の質問。何故そんな事を言い出す?」
「えと………。」
彼女は考えている。いつもなら聞かれたことには即答する。まるでアイツみたいに。それなのに今回に限っては返答の兆しも見えないほど深く考え込んでいる。何を考えているのだろう…。
「なぁ、彼女は何を考えているんだと思う?」
「さぁ、知らん。なかなか答えようとしないね。」
「面白半分なら良かったのに、あの様子じゃ本気だな。精神科ってどんな病気だ?」
「お前の病気を診てもらうらしいよね。」
「僕は至って健康なんだが…。」
彼女は僕らが話す姿を上目遣いでただ黙って見つめていた。そして、僕らの会話が終わると重々しくその口を開いた。
「ねぇ、前から言いたかったんだけど、灯さんはいつも誰と話しているの?」
僕と彼女は市立病院の精神科の待ち合い席に座っていた。二人は何を話すでもなく黙って患者の名前が呼ばれるのを待っていた。
「佐野…トモシビさん、お入り下さい。」
「…ヒダリです。」
僕は診察室へ通され院長さんと話をした。隣には彼女が座っていてくれた。暫くすると僕は別室へ移され、彼女と院長さんだけが話を続けていた。
「何を話しているんだろうな。」
「さぁ。何かムカつくな。」
「まぁ、でも僕の為を思ってくれているみたいだし。もう少し彼女に任せてみるよ。」
「それにしてもあの女、俺の存在を否定しやがったな。」
「ホントだな、冗談にしては笑えなかったな。いくらなんでもあんなムキにならなくても良いのに。」
「マジで今度同じことを言い出したらボコってやる。」
「いや、その前に僕が止めるから。」
診察室から出て僕に見せた彼女の表情は前にも増して暗さを漂わせていた。そしてそのまま僕は催眠療法を受けることになった。僕は何をするでもなくベッドの上に寝かされ、何かゴニョゴニョと囁かれた…と思っていたらベッドの上に座っていた。そしてそそくさと部屋を出て、また彼女と院長の話を待つ事になった。
「あの女…くそぉ!俺をバカにしやがって!」
「どうした!?いきなり。」
何故だろう、僕も無性に腹が立つ。アイツの気持ちが伝わってくるようだ。僕が眠っている間に何があったのだろう…。暫くして彼女が診察室から出てきた。その表情は先程とうって変わって朗らかだった。
「何ともなかったって。良かったね。」
「そうなんだ。僕も安心したよ。」
「良かったじゃねぇよ!ふざけやがって!テメェ!俺をバカにしてんだろ!?」
「灯さん…、帰ろ…。」
何故かは解らなかった。確信は持てなかったが、僕から顔を背けた彼女の表情から涙の伝う音が聞こえたような気がした。
それからというもの、彼女からの連絡が急激に減っていった。僕からメールを送っても殆んど返事はなかった。その時間が僕にもたらしたのは少しの不安と、多大な怒りの感情だった。
「何で返事しないんだろうね。」
「さぁ。知らん。あの女ムカつくからどうでも良い。」
「確か病院に連れていかれた頃からだよな。」
「さぁ。知らん。あの女、俺の存在を否定しやがったしな。」
「もう一度会って話す必要があるな。」
僕は多少強引にでも彼女を引きずり出し、話をする機会を設ける事に成功した。二人が会うのは今週の日曜だ。聞き出してやる。何故連絡をよこさないのか。そしてあの病院で彼女が何を知ったのか。
その夜、僕は夢を見た。僕は何処かの絶壁をよじ登っている。下を見下ろせば地面は遠く、手を放すならこの命はないだろう。でも、何故か安心している。誰かが僕を支えてくれている。誰だろう?誰なんだろう?
ねぇ?誰だよ?
「誰なんだよ!?」
「んぁ?」
「…何でもない。」
当日、僕の前に現れた彼女は僕の予想を外れて何かを決心したように凛としていた。どうやら、無理に聞き出そうとしなくても、今の彼女なら自ら話を進めてくれそうだ。
「さて、何から話そうか?」
「灯さんは何が聞きたい?」
「そうだな、まずは何故連絡をよこさなかったのかって事かな。」
「会いたくなかったから。」
覚悟はしていた。それでも、彼女の口から出た言葉は間違いなく的確に僕の心の急所を突いたのだろう。
「それは…、何故?」
「灯さんの心の不安定さが私の理解の範疇を脱していたから。」
僕にはあまり意味が通じてこなかった。確かに僕は悲観的で疑り深い。故に理解されない事はザラにある。だけど、彼女の前では出来る限り自分をさらけ出していたはずなのだが…。それでもダメなのか。
「ウザいって事か?」
「だいぶ違う。」
余計解らなくなった。これ以上この質問に拘って進展の見込みがあるのだろうか。たとえなかったとしても今更引き下がるわけにもいかないか。
「じゃあ、どういう事?」
「灯さんが聞きたいって言うなら話すよ。良いんだね?」
「構わないよ。」
そこから彼女の話は始まった。その内容は嘘みたいな笑い話にも似たコメディタッチの作り話に過ぎなかった。ただ、どうしてだろう、彼女の話を全否定出来ない。僕が完全に正しいのであれば彼女の話を覆すことが出来るはずなのに。どうして出来ないのか?その話の全貌はこうだ。
「私、大学で心理学を勉強していて、変わった人と話をするのが大好きなの。だから、灯さんを見つけたとき、凄く魅力を感じた。だって、一人で席に座って見えない誰かとず〜っと喋ってるんだから。最初はドラマのセリフとか何かの芸の練習をしてるんだと思った。でも、灯さんはその後も事ある毎に誰かと喋ってた。独り言なのかなと思ったけど、そうでもなく、本当にそこに誰かが居る様に喋ってた。私、少しずつ怖くなってきて…、だから精神科の病院に連れていったの。そうしたら、灯さんは…」
「良いですか、よく聞いてください。彼の頭の中では右脳と左脳で完全に分離していて、各々が意思を持って存在しているのです。普通の人間はどちらかが活発に働き、もう片方は殆んど機能していないものなのです。普段の彼は理性で行動出来ています。つまり、左脳を使って行動しているのです。本来はそれだけだったはずなのですが、何らかの作用で右脳までもが目覚めてしまったのでしょう。ところで彼の利き手はどちらですか?」
「僕は右利…いや、大学に入ってから気付いたけど、僕は両利きだな。」
「恐らく彼は成人するまでは右利きだったはずです。しかし、今は両利きでしょう。両脳が目覚めている人間はえてして両利きです。彼にとっては右脳の自分が存在するなんて思いもしないでしょう。ですから、彼にはその存在が自分の気持ちをよく理解できる最高のパートナーと感じているはずです。何故なら、脳は二つに別れても心は一つですから。同じ思いを左脳で論理的に表現するか、右脳で感情的に表現するかだけの違いというわけです。」
「どうして、どうして彼はそんな事に?」
「一概には言えませんが、元々彼の心は不安定だったのでしょう。何かのきっかけで自分を責めて、悲観的に考えて考えて考えた挙げ句行き詰まった想いが楽観的な方へ現実逃避した結果でしょう。」
「やめろ馬鹿馬鹿しい…。」
「しかし、これだけは注意です。この話は彼には話さないでください。彼にとっては漸く見つけた逃げ場です。それを失っては彼の心は崩壊してしまうでしょう。あなたが側に居て、少しずつ、徐々に徐々に不安定な心を介抱してあげてください。」
「私ね、頑張ろうと思った。普段の灯さん大好きだから。でもね、催眠術で左脳を眠らされた灯さんは…私の知ってる灯さんじゃなかった。怖かった。灯さん、あの時、私の事殴ったけど、覚えてないでしょ?」
「嘘だろ?何言ってるんだよ。お前、冗談にも程があるぞ?」
「今思えば納得できる。灯さんが初めて私を抱いてくれた時も、私はおかしいと思ってた。何か違うって。その後も、度々灯さんは私の知らない灯さんになって、気が付けば何事もなかったかのように平然としてる。灯さんは記憶力には自信あるって言ってるけど、自分のした事覚えてない時がいっぱいあるでしょ?」
そして話はここへ辿り着く。そうだ、僕は人が言ったことも自分が言ったことも事細かに記憶できるほど記憶力には自信がある。しかし、聞き覚えがあるのにいつ聞いたか覚えがないことが屡々ある。それは否定出来ない。何故だ?なぁ、何故だ?
「なぁ、黙ってないでお前も何か言ってくれよ!」
「灯さん、今言ったお前って誰の事なの!?その人の名前は!?言ってみて!」
「な、名前…?」
誰…?僕の友達さ。いつも一緒に居てくれる。僕の話を聞いてくれて、僕の足らない部分を補ってくれる友達さ。でも…名前…何て言うんだろう。
「お前…、名前何て言うの?」
「さぁ。知らん。」
「なぁ、はぐらかさないで答えてくれよ。」
「だから、知らないって。」
「何でだよ!何で自分の名前も知らないんだよ!」
「だって…。だって…、誰も俺の事名前で呼んでくれないじゃん…。俺にも解らねぇよ…。」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁaaaaaaaaa!!!」
「灯さん!!?」
「俺か?いや、僕か?あの時、女に声をかけてフラれたのは僕なのか!?いや、俺なのか!?俺は鮮明に覚えているぞ、確かホットカフェモカ360円奢ったんだよな?それでメアド聞こうとしたら断られて、それで…。それで…?俺はお前に愚痴ったよな?俺に?僕に?それで僕は仕方ないと宥めたんだよな?誰を?俺を?僕を?僕自身を?誰が?僕自身が?嘘だろ?お前、居るんだろ?そこに!」
「灯さん…、怖い…。私帰るね…。」
「なぁ、居るんだよな?僕はここに!返事しろよ!あぁ、居るよ俺はここに!!でも俺は誰なんだよ!お前は誰なんだよぉ!!ぐぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
「お客様!?」
僕は臆病者だ。いつしか殻に籠っていたのだろう。誰も信用していなかった。一人で生きたかった。だからこそ毅然とした態度で振る舞うために心を全て左脳に委ねた。まるで仮面を被るように、左脳で心を隠した。でも、心には僅かながらにも欲がある。論理的に理性で計算する左脳にとってはそんな欲は無駄なもの。だから、長いことずっとその無駄なものを切り捨てていたのだろう。それを繰り返し、積りに積った欲が爆発するようにアイツが生まれたんだ。そう、アイツ…誰もその名を知る事のないアイツが。僕の話はここまでだ。後の僕に残されたのは鳴り止むことの無い耳鳴りと、逃げ場の無い孤独だけだった。