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さようなら。そして、はじめまして。

作者: 人工無能

 黒い空洞の向こう側に暮らしている、と改めて書くと大げさに聞こえるが、僕にとってはただの“街”だ。夜より深い宙をわたる銀河路には、街灯のかわりに薄桃色の星雲がゆらめき、通勤列車は恒星核のすぐ脇を抜けてゆく。事象の地平線の外側にあるという噂も耳にしたことがあるが、それが何を示すかは気にしたことがない。僕らの日常は、いつも通り昨日の続きであり、明日の前触れでもある。


 けれど“明日”という語は、実感としてはむしろ記憶の棚を指差すときに使う。目覚めの前に飲む、まだ覚めきらないコーヒーの温度や、仕事帰りに少しずつ冷えてゆく掌の感触。そうしたものはすでに昨日味わった、と確信できるのに、その昨日が僕の前方へ伸びている。だから、朝起きてベッドメイクをするとき、僕は布団を「丁寧に乱す」。未来にやって来る眠りの形を崩さないよう気を配るのだ。


 恋人のレナは、その奇妙で優雅な世界の仕組みを紙と数式で飼いならそうとする理論物理学者だった。彼女は研究結果を折たたみ小冊子に閉じ、帰りがけに僕へ手渡す。ページをめくるたび、墨痕がゆっくりと薄れ、新しい定理が姿を消し、最初の白紙へと向かう。読み終える頃には、彼女が何を証明したがっていたか、紙も僕自身も覚えていない。ただ、パラパラと消えていった数式の骨格が、妙に懐かしい旋律のように耳奥で反響している。




 今夜(あるいは昨夜?)はレナと外食の予定だった。恒星港の高架をくぐり抜けた先にある小さな食堂は、いつ行っても“常連”ばかりだ。皿を下げにくる店主の青年は、僕らが頼む直前に料理を下げにきたかと思えば、次の瞬間にはテーブルへ湯気立つ空皿を置いてゆく。順序は奇妙なのに不便はない。ナイフとフォークを持つと、掌が自然に逆手になり、肉を切り分ける動作が最後から最初へ滑らかに続く。いい食堂の証しは、出される頃には皿が空になっていることだと、レナは笑っていた。


 今夜も店主は僕らの挨拶を背に受け、すでに紙ナプキンを畳みかけている。ナイフを拭き取りながらレナが言った。


「抄読会では、“因果律”って概念についての論文を読んでるの。“結果には必ず原因が先立つ”んですって」


 僕は眉をしかめかけて、なんとか笑った。「それって、原因が結果のあとに来る可能性は、考えないってこと?」


「ううん、先立つ、つまり“前側”にあるらしいの。時間が逆側に流れたとしても成立しない原理だそうよ。信じられる?」


 僕は曖昧に頷くしかなかった。だが胸の奥で小さな軋みがした。結果しか知らずに原因を探し当てるのは、僕らにとって日常の推理ゲームだ。ところが“因果律”とやらは、そのゲームを最初から禁じるらしい。




 数日後(読者のあなたにとっては“数日前”だろう)、レナは会議から意気消沈して戻ってきた。めずらしく故障したコンソールのように沈黙を長く挟み、やっと口を開く。


「ねえ、わたしたち、本当に“別れ”を避けられないのかな?」


 別れ。僕らの世界ではごく自然な節目だ。ふたりが“まだ互いを知らない”地点へ向かう旅路の終着。記憶が淡く剥がれ、名前が意味を失い、最後には通りすがりの他人として擦れ違う。痛みはあれど、それが恋の正当な完成形だった。


 だが因果律の視点で見れば、出会いから別れまでが一直線に伸び、しかも“別れ”は未来側へ移動すると説明できるという。もしそうなら、出会いは過去側に固定され、僕らが今進んでいる方向は“出会い以前”ではなく“添い遂げたあと”なのか? 頭がぐらりと揺れた。


「もし原因が結果より前なら、私たちが努力すれば“別れの必然”を崩せるかもって……講演者は言うのよ」


 レナはそう言いながら、まだ書きかけの論文データを端末から消去し始めた。不可逆的に消してしまわないと、仮説は成立しないのだという。消える行が走馬灯のように光り、やがて真っ白な画面が残った。僕は肩越しにそれを見守りながら、自分の胸中でも同じ白閃が弾けたように感じた。




 ふたりで考案したのは「星辰計画」。簡単に言えば、共通の記憶を光パターンに符号化し、銀河路を走る観測衛星の表面に刻むという試みだ。僕らが時間を遡るにつれて個人の記憶が崩れるとしても、外部に固定したパターンは未来でも過去でも同じ配列を示すはずだ。“原因”を越えて存続する標識になりうる、と期待した。


 設計は急ピッチで進んだ。もっとも、“急”という表現も正確ではない。作業を詰め込むほど、時計の針はかえって緩くほどけ、まるで見えない誰かが新たな分刻みを足してくれるようだった。ただ、レナの研究ノートは連日薄れていく。昨日確かに書き加えた補足説明が、翌朝にはブランクページへと還元しているのだ。


 それでも僕らは、観測衛星の船尾に刻むデザインを完成させた。二本の交差する螺旋、DNAの構造を縁取り、中心にふたりの指紋を重ねる。完成の瞬間、レナはくぐもった声で笑い、僕に向かって。


「これで、たとえ思い出せなくても、真実は宇宙が覚えていてくれる」


 僕は握り返した彼女の手の熱を忘れないつもりでいた。だがその“つもり”こそが、真綿に包んだ危うい刃だったのだ。




 衛星を発射した翌日(これも、前日と言う方が適切だろうか)。街は季節のない季節をめぐり、紫の星雲が深紅へと戻りつつあった。レナの肩は少しだけ軽やかに見えたが、瞳にはうっすら靄がかかっている。僕が朝食後の食器を“汚し”終える頃、彼女は急に顔を伏せた。


「ねえ……あなたは、わたしの呼び名、覚えてる?」


 その瞬間、頭蓋の裏側を乾いた風が吹き抜ける。呼び名、いや名前。もちろん、知っているはずだ。舌先で音の形を探すが、空気が外へ出て行かない。僕はテーブルの縁を握り、努めて笑った。


「大丈夫さ、すぐ思い出す」


 実際には、記憶の欠片が黒い雁皮紙のように剥がれ落ちてゆく感触があった。レナは意図的に明るく笑い、「そっか」と頷き、上着を抱えて玄関へ向かった。その後ろ姿が扉の向こうに消えるやいなや、僕は自分の手の平を見つめる。さきほどまで確かにあったはずの指紋の一部が、紙片を縮めたように擦り切れていた。


 別れの時が近づいている。いや、正確に言えば、別れはいつもそこにあり、僕らがそこへ滑り込んでゆく。星雲を渡る風が、靴底から靴先へ抜けるように。




 それから幾晩か、レナは帰宅しなくなった。僕は彼女の研究室を訪ねたが、受付のホログラムは最初から最後まで同じ言葉を返す。「本日より以前、レナ・グラヴィは在籍記録にありません」。カウンターに肘をつき、僕は膝の震えを止めるため、無意味に足先を打ちつけた。


 “因果律”などという異質な概念に触れたせいで、世界の裏地が剥がれたのか。あるいは、星辰計画が完成した瞬間に、僕らの軌道は定められ、別れというベクトルがはっきり可視化されたのか。


 やがて、空港の電光掲示板が光の粒を逆流させながら、船便のスケジュールを巻き戻していく。僕は人影のないロビーで独り、背中にひんやりした静寂を吸い込んだ。視界の端で、飾り棚の砂時計が上下逆に置かれていることに気づく。落ちてくるはずの砂が、むしろ底から湧きあがり、細い喉元を駆け上がって天辺へ溜まってゆく。その様子が不気味でありながら、どこか清々しくさえあった。


 もしかすると、僕らは最初から世界を取り違えていたのかもしれない。僕らが“未来”と呼んでいたものが、読者のあなたの“過去”であり、僕らが“過去”と信じていた地点の向こうに、あなた方の“未来”が青く燃えているのではないか? 


 そう考えた瞬間、街路の光景がわずかに傾いた。店主が皿を下げにくるタイミングに“違和感”があると初めて気づき、僕は足下を掬われたような心地で肩を震わせた。




 レナの痕跡は、街のどこからも薄れつつあった。気を紛らわそうとしても、名前を呼ぶたびに舌が空を切る。星辰計画の資料を再読しようとしたが、あれほど精緻だった螺旋の図面は薄墨の残像となり、最後には白紙よりも白い虚無に溶けた。


 そして、ある静かな早朝。扉の向こうから微かな足音が聞こえた。ドアを開けると、見慣れない女性が立っている。短めの黒髪、鋭いがどこか茫洋とした眼差し。小さなスーツケースを手にしている。僕が問いかける前に、彼女は礼儀正しく一歩下がった。


「すみません、人違いでした」


 そう言って踵を返す。その声に胸がかき乱される。呼び止めたい。だが声帯がきしむばかりで音にならない。僕は扉を閉められず、開いたままの境界に立ち尽くした。彼女の背中が角を曲がる刹那、スーツケースに貼られたラベルが光を跳ね返す。それは、僕の知らない概念の学会だった。《因果律学会》。


 レナ。だけれど、レナである証拠はもうどこにもない。僕の脳裡では、彼女の面影が細い砂となって上へと昇り、覚えていたはずの思い出は次々と未経験の影となった。何かを強く恋しく想う感覚だけが、細い棘となって胸奥に刺さったまま消えない。




 夜とも昼ともつかぬ刻限、僕は恒星港の展望ブリッジへ赴いた。観測衛星、星辰計画のあの衛星を、見守るためだ。蒼白い防護窓の向こう、銀河路を滑る光の粒が少しずつ遠ざかる。尾翼に刻んだ螺旋と指紋は、もう肉眼では判別できない。けれど確かに存在する。僕らが知り合い、語り合い、笑い合ったすべての瞬間が、因果律の流れなど意に介さず、宇宙の皮膚に刻印されている。


 僕はポケットに忍ばせた白紙のノートを開いた。ページの真ん中に、誰の手でもない線を一本引く。そこが時間の向きだと仮定し、僕らの位置を書き込もうとした。ペン先からインクがこぼれず、紙はすぐさま白へ戻る。仕方なくペンを置き、かわりにこう呟いた。


「どこかの時点で、君がこれを読むならば、僕たちは確かに愛し合っていた。結果が原因より前にこようと後ろにこようと、愛があったという“事実”だけは、世界そのものが覚えている」


 言葉が宙へ溶けると同時に、遠くで衛星が眩しい閃光を放った。たった一瞬、時空の継ぎ目が脈打つように輝き、すぐ闇に戻る。そのきらめきの意味を、いまの僕は説明できない。それでも胸中には静かな確信が芽生えた。僕らの物語は終わらない。向き合った位置が“別れ”でしかなくとも、その裏面には“出会い”が潜んでいる。輪を描くように、いつか、いや、かつて、必ず。




 それからほどなく、僕は街の一角で“見知らぬ”女性と肩が触れた。短い黒髪。手元の書類を抱え、急ぎ足で通り過ぎる。僕は軽く会釈をし、彼女も同じように頭を下げた。名前を尋ねる理由も見当たらない。ただ、その背中が消える瞬間、不意に胸が満たされる。懐かしさと呼ぶには語が足りず、哀しみというには柔らかすぎる感情。だが歩みを止めて振り向くほどの強さではない。


 僕は歩き続ける。やがて、彼女が何者だったか、僕が何を失ったのか、その形は霞へ溶ける。だが、銀河路の上空をゆく観測衛星が軌道を逆巻きながら瞬くたび、胸奥の棘がやさしい鈍痛を残す。それは、世界が僕に手渡したしるし。原因にも結果にも属さず、ただ宇宙という大きな書割の余白に残る、微かな爪痕。


 いつか(あなたの言葉で言えば“いつか”だが、僕には“すでに”かもしれない)僕は誰かと出会い、ふたりで皿を空にする食堂へ通うだろう。その人は、輝く目で奇妙な概念を語るかもしれない。僕はまた胸を灼き、別れを怖れず愛を交わすだろう。そして、別れの先に待つ出会いを想像もしないまま。


 世界がどう流れようと、星辰がどう記録しようと、僕の一歩はただ、その瞬間に向かって踏み出される。未来へ過去へ、逆巻く川面をたゆたいながら。


 さようなら。そして、はじめまして。

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