プロローグ
雨の音でふと、目が覚める。枕元に置いてあるデジタル時計を見ると、時刻は5時17分中頃。土砂降りの雨が窓を打つ音が、やけにうるさく部屋に響いている。しばらくの間布団の中でモゾモゾとしていたが、ベッドにいても仕方がないので起きることにした。
「寒っ……。」
布団から身を出すと思いのほか寒く、起き上がるのが億劫になった。しかしそれは刹那の逡巡であり、寒さを吹き飛ばすように掛け布団を退ける。ベッドから足を下ろし、スリッパに足を入れて立ち上がり、そして部屋を見渡す。
女子の部屋とは思えないほど簡素な部屋。ベッドと勉強机くらいしか目立ったものはない。これは私の性質に起因するものなので、気にしないよう努力している。寝る前と同じ家具の配置で、異常は何もない。当たり前のことだが、私はそれを確認するとほっとする。
カーテンを開けると、雨粒が窓を打っているのが見えた。ニュースで梅雨入りしたのは知っていたが、なるほど自分の目で見るとこうも実感が湧くものか。しばらくの間窓の前に立ち、雨粒に打たれる窓の様子や、水の滴りをぼうっと見ていた。しかしせっかくの早起きがもったいないと思い直した。
ともあれ、私は部屋から出て洗面所に向かった。顔を洗い、歯を磨き、髪を整える、といういつものルーティンをこなすためだ。
そこで私は奇妙な現象に立ち会った。奇妙と言うよりも、不気味だという方がより正確かもしれない。
洗面所に、水が溢れていたのだ。それはただ溢れて居るのではなく、壁や天井までにも水が広がっており、更にはその水が落ちてこないのだ。本当に奇妙なのは、この家には今私しかいないことだ。父は単身赴任でアメリカまで行っていてしばらく帰っては来ない。母は入院していて、家に帰ってくるのは不可能だ。私は寝る前にこんな事をした記憶は全くない。それに、する意味も分からない。
時計の針は6時を丁度超えた所だった。
私、橘 愛美は人生で怪奇現象だとか、オカルトチックなものを信じた事は一度もない。
小さい頃に見たテレビで、UMA特集なるものをやっていた時も嘘くささが付きまとい、純粋に楽しめなかったのを覚えている(今ではその嘘くささも含めて楽しめているが)。
今回も例に漏れず、私は泥棒か何かの仕業だと疑った。家中の鍵を閉め忘れていないかだとか、何か盗まれていないかだとかを探し回ったが、いつも通り何も無い。雨漏りだとか、水道の故障だとかだと業者を呼ばないと原因が分かりそうにない。ただ、そういったものとは違うような気がした。
そもそも何故水が落ちてこないのか、と言う疑問も存在する。科学は高校に入学したばかりなので中学程度の知識しか無いが、表面張力はあそこまで強力なのだろうか。
頭を悩ませつつ時計を見ると、いつの間にか6時57分になっていた。せっかく早起きしたのに遅刻してはかなわないので、さっさと朝食を食べ、登校することにした。水浸しの洗面所に興味が沸かない、ということではないが帰ってからまた考えればいいと思いついた。洗面所が使えなくなったが家にはもう1つ無駄に洗面所があるので、そこを使った。
無駄なものなんてこの世界にはなかったのだ。
朝食には食パン二枚だけで、一枚にはブルーベリージャムを塗り、もう一方にはピーナッツバターを塗った。簡易な朝食だが、女子高生なんて皆こんなものだ。制服に着替え、靴を履き、「いってきます」と誰に言う訳でもなく呟く。いつも通りだ。異常な事はあったが、私の日常には何ら影響は無い。
玄関のドアを開けたとき、私は雨が降っていたことを思い出した。私は傘を差し、学校へと向かった。
橘 愛美が家を出てしばらくした頃、洗面所の水がブクブクと泡立ち始めた。そして、その水溜りから右腕が出てきた。次に左腕、頭、胴体、下半身と徐々に現れていった。
それは現れてすぐ、洗面所にあった全ての水溜りを吸い尽くした。そしてその人形の生物がぴちゃり、ぴちゃりと洗面所から玄関の方まで歩き出した。
ゆらゆらと不規則に、だが確かに進んでいた。
その容貌は人とはまるで異なり、水掻きのついた大きな手足に、表面にびっしりと生えた鱗と魚のような顔。橘 愛美が過去にUMA特集で見た中に、似たようなUMAはこう紹介されていた。
河童、と。
雨の中、私は水溜りを避けながら高校へとつながる道を進んでいた。傘に当たり弾ける雨の音が心地よく、(これはとても奇妙なことだとつくづく自分でも感じるのだが)普段よりも晴れやかな心持ちで登校できた。雨が降ると煩わしい烏は見えなくなるし、雨のカーテンが周囲の人間から私を隠してくれる。更に近所のおばさんから、「いってらっしゃい!」と言われて返事に困ることもなくなる。
つまり私は雨が好きだ。
しばらくすると、校門が見えてきた。校門の横には高校名が小さな石柱に彫られている。ここは耀苑高校、耀苑町にある普通科の高校である。
私が校門から一歩前に出ようとしたその時、視界の端で何かが緑色に光ったように見えた。振り向くとそこには水溜りしかなかった。周囲を見渡しても、もう緑色に光るものは何一つなかった。
「気のせい……ですかね? 疲れているんでしょうか……。」
朝からおかしなことが起こったのだから、ちょっと神経質になっているだけだろう。
私はそう決めつけ、下駄箱へと向かった。校舎に入ると傘を閉じ、水を払ってから傘おきに置いた。私は自分の下駄箱を開け、上靴に履き替えた。
その瞬間、私の視界は消えた。誰かが後ろから私の目を押さえているのだ。
「だーっれだっ!」
「……ユキネさんですか。」
「せっいかーい! メグちゃーんおっはよーう!」
「はぁ、まったく貴女は……。」
彼女の名は藤原 雪音。この高校でも有名な悪戯好きである。背は女子高生の平均程で、私の目を隠すために少し踵を上げている。ウルフカットの黒髪から覗く、赤いインナーカラーが特徴的だ。当然、校則に違反している。
ともかく、私が目隠しされても誰だか分かったのには理由がある。というかこんな変な事をするのはユキネさんしかいないのだ。
例え声を聞かされなくても簡単に答えられるだろう。
いつも私は適当に返事をして終わらせているのだが、今日ばかりは彼女に対して安心のような感情を抱いた。それが今朝のことに関係しているのは言うまでもないだろう。私の反応を彼女がどんな勘違いをしたのか、両腕で体を抱えて震えだした。
「あれ?なんかいつもと反応違う気が……。もしかして怒られる!?」
「そんな事はしませんよ。ただ……。」
私はそこまで言ってから少し考えた。
話すべきだろうか。
チラリと彼女の目を見る。恐らく私がその事を隠せば、ユキネさんが深く聞いて来ることはないだろう。しかし、だからと言って隠す必要もない。
私は続きの言葉を紡いだ。
「今日の朝、少し変な事があっただけです。」
「え、なにそれ。面白そう。教えて!」
「何も面白いことはありませんが……。まあ教室に行くまで話しながら行きましょうか。」
私は今日の朝あった事を包み隠さず全て話した。自分でも現実味のない話だなと思いつつ、ユキネさんは信じてくれるだろうという根拠のない自信があった。
「……面白い、面白いよ! これは!」
私の話を聞いたユキネさんはやはりと言うべきか、変梃な話を信じた。彼女はこの手の話を面白がる質であり、興味を示したのは必然とも言える。
「こんな変な事を信じるんですね。」
「もち、私ならともかくメグちゃんが無駄な嘘つくこと無いからね。」
「無駄な嘘をついてる自覚あったんですか……。」
「ハーッハッハッハッ!」
ユキネさんはあからさまに大笑いをした。彼女は悪質な嘘を言ったことは一度もないが、偶に意味もなく嘘を吐く。それが彼女の性質である。
「笑って誤魔化さないでください。」
「それに、信じられないような話なんて皆持ってるよ。」
「そう……ですかね?」
「私だって……。」
ユキネさんはそこで口ごもり、暫くもごもごと唇を動かした。彼女は何か私に言いたいことがあるのだろうか。普段の彼女を見ていても、隠し事をしているようには見えないのだが……。ユキネさんの目は酷く不安げで、虚ろで、いつもの彼女のような元気さはひとかけらも存在していなかった。
「ユキネさん?」
「いや……ううん、何でもない。」
「?」
「さ、早く教室に行こう! 今なら二人じめだよっ!」
教室までそれほど距離がある訳でも無いので、話している内に教室のドアが見えてきた。ユキネさんとは同じクラスで、席も隣である。と言うより、席が隣だから仲良くなったのだ。
ユキネさんは教室に入ると一番うしろの窓際へ直行し席に座った。彼女は椅子を90度回転させ、隣に向いた。私もユキネさんの隣に座り、彼女に向くように椅子を動かした。
「これはね、現場検証が必要だね。やっぱり実物を見ないと何とも言えないよ。」
ユキネさんは妙に回りくどく話した。
私はその事に違和感を覚えはしたが、考えても仕方がないと諦めた。
またユキネさんの悪い癖が出たのだろう。
「……それなら私の家に来ますか?」
「いよっしゃあ!」
彼女は拳を突き上げて叫んだ。幸いにもまだ人が来ていなかったので、その叫びは教室に虚しく響くだけに留まった。
その叫びで漸く合点のいった私はぽんっと手を叩いた。なるほど、自分からは家に行きたいと言いづらいから私から言わせたというわけか。
「貴女家に来たいだけですよね。」
「だってメグちゃんち大きいし……。」
「正直でよろしい。」
高校に入学したばかりの4月頃に、家へユキネさんともう一人を誘ったのだが、それからと言うもの頻繁に来るようになったのだ。彼女らが家へ泊まりに来たこともあるのだが、あのときはユキネさんの寝相と寝起きの悪さに驚いたものだ。
と、そこまで考えた所で私はあることに気がついた。
「……そういえば朝からユキネさんが居るのは珍しいですね。いつも遅刻ギリギリじゃあないですか。」
「私はYDK、やればできる子だからね!」
「やればできる子なら毎日やってください……。」
「ハッハッハッ、まあそれは置いといて、実際は雨音で起きたんだよね〜。もう、煩くってさぁ。」
「あぁ、分かります。今日は私もそれで起きました。」
「だよね~。」
ユキネさんの相槌を聞きながら、私はふと水浸しの洗面所を思い出していた。彼女も雨音で起きたと言うのは凄い偶然だが、なるほど確かにあの雨は凄かった。
あの水溜りには雨が影響している可能性もあるか。
「メグちゃん、急にぼうっとしてどうしたの?」
ユキネさんの言葉で、私は我に返る。
「あぁ、すみません。水浸しになった洗面所の事を思い出していました。」
「えっもしかして何か思い出した?」
「いえ、ユキネさんが起きるほどの雨なら洗面所も水浸しにできそうだな、と。」
「地味に酷いこと考えるじゃん。まあ分かるけど。」
「ふふっ、でもそれならもう心配はいりませんね。」
「ん? 何が?」
「いえ、全て自然現象……つまり雨のせいだったということで解決するな、と。」
「え~~~っ。」
ユキネさんは露骨につまらなそうな顔をした。彼女はつまり、怪奇現象的な事を期待して居るのだ。彼女の趣味の1つとして、オカルト的なものを集めたり、変な儀式をすることなどがある。とは言ってもカジュアルなもので、狐狗狸さんだとか、花子さんみたいな、所謂そういうものをやっている。
私も何回か付き合わされた事がある。
「それじゃあ、つまんないよ〜。」
「そう言われても困るのですが……。」
その時、教室のドアが開いた。
入ってきたのは真瀬 愛美。彼女とユキネさん、そして私の三人で居ることが多い。彼女とは下の名前が同じ漢字で、違う読みをすることに気づき、そこから一緒に遊ぶことが増えて今に至る。マナミさんは小動物のように可愛らしい容姿をしているのだが、性格もそれに違わず温厚で素直なのだ。彼女はその愛くるしさから、この学校でもファンが多く、いわば学園のアイドルと言える存在だ。
「ユキネちゃん、メグちゃん、おはよう! 今日は早いね!」
「マナミさん、おはようございます。」
「あっマナちゃん、おはよー。マナちゃん……今日ヤバいことがあったんだ……。」
「えっどうしたの!?」
ユキネさんはマナミさんが来たと同時におどろおどろしく話しだした。私は止めようかとも思ったが、結局私の口から説明するはめになるのなら、今ユキネさんに説明してもらった方がいいと思い直した。
「あのね、メグちゃんちで怪奇現象が起こったんだって。」
「えっ…………、そ、それ……本当?」
「うんうん、洗面所が水浸しになっていたんだって……。それで、そこから………………人間の死体が出てきたんだよ!」
「えっ…………メ、メグちゃん、大丈夫なの!?」
マナミさんはこの手のお話にとことん弱く、更に素直な気性のため、ユキネさんの適当な怪談ですぐに信じてしまう。
先ほどの考えは甘かったか。やはり自分で説明するべきだった。
私は自省しつつユキネさんの頭を叩き、マナミさんに話しかけた。
「マナミさん、ユキネさんの事をまともに聞かなくていいですよ。本当なのは洗面所が水浸しになったところまでですよ。死体なんてどっから出てきたんだ。」
「あ、そうなんだね。良かったぁ。」
「マナミさんはどっかの誰かと違って優しいですね。」
「えへへ、そうでもないよぅ。」
「私叩かれたんだけど!? しかも地味に悪く言われてるし!? 私、メグちゃんが丁寧語使わないくらいの事したの!?」
騒いでいる子を無視して周りを見ると、だんだんと人が増えていることに気がついた。普段よりも早く来る人が多いように見える。
「一気に人が来ましたね。」
「あ、うん。私が来たときはね、近くに結構人がいたんだ。」
「そうなんですね。」
「無視は悲しいよぅ。」
「ご、ごめんね?」
「あら、すみません、忘れてました。」
「余計酷くない!? 私は昔、鬼だって恐れられてたんだからね! 怒らせたら怖いよ~!」
そう言ってユキネさんは頭の上に指を立てて鬼の真似をした。彼女はよく、『鬼』と言う言葉を使う。恐らく彼女の口癖のようなものなのだろう。
私はそんなやり取りの中で、言いたいことを1つ思い出した。
「あ、そうそうマナミさん、今日の放課後にユキネさんと私の家を見に行こうって話になっているんです。ほら、さっきの洗面所が水浸しになった件です。良ければどうですか?」
「あ、今日は委員会があるから……。二人で頑張ってね!」
「ありゃ、それはまた残念無念。ま、一日で解決はしなさそうだから……まあ、また機会はあるよ!」
「私としては早く解決してほしいんですけどね……。」
クラスにどんどんと人がやって来て、もうほとんどの席が埋まって居る。クラスの中もかなりうるさくなってきた。そしてホームルームが始まる15分前にはクラスメイト全員が来ていた。
「あっそろそろホームルームも始まりそうだし、自分の机に帰るね! 」
「え~~~っもうちょっと粘れるんじゃない?」
「一限目の準備もするなら丁度いい時間だと思いますけど……。」
「準備とかするの!?」
「しないんですか?」
「えっ。」
「えっ。」
しばらく見つめ合った後、ユキネさんは動揺しながら口を開いた。
「ジョ、ジョーダンだよ、ジョーダン。まさかね、そんな準備しないなんてね、ソンナワケナイヨ。」
「はぁ……まったく。」
目は泳いでいて、明らかに嘘を吐いているとわかる。
これに騙されるのはマナミさんくらいだ。
二人で一限目の準備をしていると、先生が入ってきた。先生はクラスを見渡したあと、私の隣で視線が止まった。
「おいおい、まじかよ……。遅刻魔の二つ名で知られる藤原が俺より早く来てるとは……。」
「フッフッフ、私は成長したんですよ、先生。今までの私と同じだと見くびってもらっちゃあ困りますよ。それにまだ1回も遅刻はしていませんぜ。ギリギリセーフ……なはず……。」
「遅刻してなくてもホームルーム直前で来られると色々と面倒何だけどな……。だがそうか、今までと変わったって言うんなら明日からもその調子で来いよ。」
「え、それは……。」
「何だ?成長したんじゃないのか?」
「自分には無理っす!」
どっとクラス中から笑いが起きた。等の本人は頭を掻きながらヘラっとして様子だった。先生はやれやれ、としたような表情で呆れたように首を振っていた。
「はぁ……まあ良い。全員揃っているようだし、これから朝のホームルームを始める。」
そう言うと先生はいつになく真剣な空気をまとっていた。その威圧感とも呼べる空気はユキネさんと冗談を言い合っていたときとはまるで別物で、言うなれば大人の顔をしていた。先生がこんな表情をしたことは入学してから一度もなく、いつも適当な雰囲気の先生だからこそ、その変容が異常なものであると思わずにはいられない。
先生の面持ちを感じ取ってか、先程までの緩い雰囲気はどこへやら、クラス中がしん、と緊張した。
「とは言っても連絡事項は1つだけだ。」
そう前置きし、私達を見渡す。誰かがゴクリと唾を飲み込む。どんな重大な事を言われるのかと、誰もが次の言葉を待った。自分が悪いことをした記憶はないが、その目で見られるだけで奇妙な罪悪感が生まれた。心臓の音がこれまでにないほどに鳴り響いているのを感じる。恐らくそれは皆が体験していることなのだろう。
クラス中の緊張が限界まで達したとき、先生の口から溢れるように言葉が紡がれた。
「皆にはとある石を探してもらいたい。いや、探すというよりも、見つけたら必ず報告してほしい。」
先生の口から予想外の言葉が飛び出してきた。そのおかしな内容とは裏腹に、先生の口調は依然として圧を纏っていた。そのアンバランスさがさらに私達を混乱させた。
「石とは言っても、もちろんただの石ではない。宝石って言った方が近いか? 大きさは手のひらに乗るくらいで、色は緑だ。見つけたら、決して触らず先生に報告してほしい。よろしく頼む。それと今日は終わりのホームルームがない。では、朝のホームルームを終わる。」
ようやく緊張が解れた。
先生が終わりを告げてすぐに、ガヤガヤと先生の言った宝石について皆が話し始めた。先生は言い終わるとまるで質問には答えないと言わんばかりに教室を出ていってしまった。隣を見ると、ものすごく話したそうなユキネさんがこっちを見ていた。恐らく、マナミさんが来るのを待っているのだろう。マナミさんの方を見ると、急ぎ足でこちらにやってきていた。
「マナちゃん! メグちゃん! さっきの先生の発言、どう思うかね?」
「どう、と言われましても、何も情報がありませんからね……。」
「緑の宝石を誰かが失くしちゃったのかなぁ。それなら可哀想だけど……。」
「チッチッチッ、二人とも甘いね。」
ユキネさんは勢い良く立ち上がり、奇妙なポーズを取りながらグルグルと円を描くように歩き出した。
「これには巨大な陰謀が隠されているのさ、ワトソン君。」
「おおっ!」
「ワトソン君って誰ですか?」
「この宝石を手に入れるため、様々な秘密結社が動いているのさ、ワトソン君。」
「おおおおっ!」
「だからワトソン君って誰なんですか?」
「そして! 国家までもがこれに関与しているのさ、ワトソン君。」
「おおおおおおおっ!」
「いや、だからワトソン君って……」
私が言い切る前にユキネさんが私の唇に人差し指を置いてきた。
「うるさいよ、ワトソン君。」
「私だったのか。」
「フッ、完璧な推理だ。」
「凄い宝石なんだね!」
「マナミさん、貴女の純粋さに尊敬の念を示します。」
そうこうしていると、一限目の予鈴が鳴った。マナミさんはユキネさんに引き留められつつ、自分の席へと戻っていった。私も自分の席で数学の先生を待っていた。「あ、そういえば」と、朝見た緑色の光を思い出しながら。
そして、本鈴が鳴った――――。
薄暗い部屋である二人の男が大きな長机越しに対面していた。
一人の男は酷くやつれていて、対面する男をとても恐れていた。もう一人の男はいかにも傲慢そうな巨漢だ。そのそばに秘書のような女がおり、タブレットで二人に緑の宝石のようなものを見せていた。その宝石はギザギザとした表面をしており、中心には星のような模様が浮かんでいた。特筆すべき点は、それが宙に浮いていることだ。
「この宝石、知っているよな?」
大男はやつれた男に話しかけた。それはただ確認をしただけだった。それでもやつれた男には十分すぎる威圧感を与えていた。
「は、はいもちろんです。何でも、願いを叶える力があるとか。そしてどこかに封印されている、と。」
「ああ、これは裏に少し詳しけりゃ皆知ってることだ。」
「は、はい。」
「じゃあよ、それがどこにあるか知っているか?」
「さ、さあ。見当もつきません。」
大男はやつれた男をじろりと見ると、何でも無い事の様にこう告げた。
「それは耀苑高校という場所に封印されている。」
「!? そ、それでなんのご用なんでしょうか?」
「実はな、『あれ』の封印が解けたらしい。」
「っなんですと!?」
やつれた男には驚きの連続だった。『あれ』が耀苑町という町にあることも知らなかっし、何より封印が解けていることにも驚きだった。
「それでな、そこには当然『あれ』を守っている連中が居るんだよ。ただ忍び込むのは簡単だが、それじゃあ『あれ』は探し出せない。」
「ま、まさか……。」
「スパイを送り込む。そこで、お前娘がいたろ。そいつを転入させる。」
やつれた男の顔がどんどんと悪く、青ざめていく。
「そんな、何故?」
「合法的に近づくのが一番だからな。他の方法はお前らが失敗してからでもいいしな。」
「あの子はまだ未熟です。『骸』を使いこなせるとは思いません。」
「スパイだけだ。戦いは極力避けてもらう。それに娘の戦闘力は世界でもトップクラスだろう。」
「私達が裏切るとは思わないのですか? 『あれ』の願いを叶える力を使うとは?」
「『あれ』には使い方がある。それを知らない人間に、『あれ』を使うことはできない。決してな。お前らには選択権は無い。やらないなら俺がお前ら一族を皆殺しにする。やれ。成功だけが生き残る道だ。」
「…………分かりました。」
やつれた男が帰って行くのを大男は秘書と眺めていた。秘書は大男に近づき、質問をした。
「成功すると思いますか?」
「さあね。運命は誰にも分からない。やつの娘が運命に選ばれる可能性は十分にある。」
「そう、ですね。」
「だが、」
大男は少し言葉を溜めたあと、高らかに宣言した。
「最後に『龍の逆鱗』を手に入れるのはこの俺だ! 」
大男はギラギラと野心に満ちた目で、王となった自身の未来を夢想した。
『龍の逆鱗』を巡って多くの人間が動き出した。
橘 愛美もまたそれに巻き込まれるだろう。だが、今はまだそれに気づかない。
静かに、ゆっくりと、戦争は始まっていく。