7、忍び寄る夜と、狼の囁き
レクスははぐれない様にリリエの手を繋いで歩き出した。
レクスの真剣な眼差しの先には一人の商人であろう風体の男がいる。
明らかに挙動不審な男の跡をつけると、男は裏通りに入っていく。
こそこそと路地裏の角で佇んでいる男をじっと観察するレクスに小さな声で訊ねた。
「……あの男の人がどうかしたの?」
「あの男はレアンドロ殿下がマークしてる王都のある大物の元に出入りしてる商人の一人なんだ。……行商人だからどこで見たっておかしくはないんだけど、なんか挙動がおかしかったから気になった。……ほら、来た」
レクスは視線を男へと向けたままそっと唇に人差し指をあて、顎で男の方を指した。
もう一人の同じような背格好の男がそわそわと角に佇む男の横に付いた。
男達の声に耳を澄ませる。
「荷は用意できているか?」
「ああ、問題ない」
「今回はどこの倉庫だ?」
「エルテギダ通りの4番倉庫だ」
「指示書は?」
「荷と一緒に」
「では、夜半前に」
そう言うと二人は足早にその場を離れた。
しかしレクスは二人を追わない。
「……いいの? 追わなくて」
「うん、多分これ以上深追いしても大した事は得られないし、何か怪しい取引があるみたいだからそこを押さえるよ」
「うん、そうね。エルテギタ通りは小さな倉庫がたくさんある倉庫街の通りよ。しかも夜半前に荷の引き渡しをするなんて怪しいわ。ちゃんと証拠を掴んで訴え出なくちゃ」
レクスはリリエを見ていつもの人懐こい笑顔を見せた。
「リリー。君はお留守番」
「え?」
「リリーは夜出歩くの難しいでしょ? それに危険な目には合わせられないからね」
そう指摘されてふと我に返る。
確かに夜、しかも夜半前という時間に出歩いた事などないし、基本的に侍女達が一緒にいて色々と世話をしてくれる。
人払いをすれば、きっといつもと違う様子を侍女達から聞いた義母や義姉は父の前で色々な尋問を始める。
そして必ずリリエが父から心配をかけない様にと釘を刺される。
リリエが考え込む様子に、レクスはクスリと笑った。
「大変だよね。王子殿下の婚約者じゃなければもう少し自由なのにね」
リリエは顔を上げ、レクスを見上げた。
「……リリーは自由になりたくないの?」
よく考えてみれば、幼い頃から王妃になる事を決定付けられていて、それを目標にして王妃教育を受けてきた。
道徳の授業では繰り返し自分の血筋の事を強調され、唯一無二になってしまった自分に流れるモトカリオンの血脈はこの国にとって大きな火種になるかもしれなくて、王家に嫁ぐ事が唯一のその火種を鎮火させられる方法だと思っていたから、自由になる事など考えた事がなかった。
レクスの問いかけはリリエの中に大きな衝撃を以て迎えられた。
「……どうかしら……」
リリエは曖昧に笑い、こう答える事しか出来なかった。
レクスはいつもよりも少し大人びた微笑みを一瞬だけ浮かべた。
そして次の瞬間にはいつもの人懐こい笑顔に戻ってリリエに念を押す。
「ま、この件は俺に任せて? 今夜は護衛につけないけど、ごめんね」
「……今夜は暇を出したと皆には言っておくわ」
「助かるよ。さ、じゃあ、散策の続きをしようか。行こう?」
「ええ」
その後リリエとレクスはまた街を散策して、楽しんだ。
だけど、ずっとレクスの問いかけが心の中で響いて、どこか落ち着かなかった。
夕刻になり、レクスに待ち合わせ場所と同じ宿場跡の石碑の辺りまで送ってもらう。
「俺、このまま行くよ。リリーは気を付けて帰ってね?」
「ええ……。ありがとう」
廃屋まで行って抜け道を使って領城に帰る。
ドレスに着替えて自身の居室に戻ると大きな溜息が出てしまった。
レクスが投げかけた問いかけにリリエは向き合う。
自分の置かれた立場。自分の望み。自分がしなくてはいけない事。
それらを逡巡し、それでもやっぱり答えは見つからない。
でも1つだけわかる。
今の自分がしなければいけない事。
領主でありリリエの父であるオスヴァルト・グフタス・クラヴァードが不正を働いているのならば、それはきっと娘である自分が糾さねばならない事だ。
リリエは窓を開いてバルコニーに出、城下を見下ろす。
二重壁に囲まれたこの城からは街を見下ろす事は出来ない。
見下ろした先に成さねばならない事があるのなら、それを見逃すのは道に悖る行為だ。
それだけは確かな事なので、きゅっと唇を噛みしめて決意した。
呼び鈴で侍女のベルキを呼ぶ。
普段はあまり使わない呼び鈴。決められたルーティンをこなしていれば義母や義姉に根掘り葉掘り聞かれる事はない。だからあまり使わないけど、今日はそう言っていられない。
ドアをノックされてどうぞと入室を許可する。
「どうされました? お嬢様」
「今日はちょっと体の具合が悪いの。食事も要らないわ。寝巻に着替えてもう眠ってしまうから呼ぶまで来なくてもいいわ」
「さようでございますか。では寝巻をご用意いたします」
ベルキはドレッシングルームに入室してクローゼットを開いてネグリジェを取り出した。
ドレスを脱がされて、ネグリジェに着替える。
そしてベッドに潜り込んだ。
「おやすみなさい、ベルキ」
「はい、おやすみなさいませ」
ベルキはそう言うと一礼して退室していった。
きっとこの事はすぐに義母と義姉に伝えられ、すぐに領城全体の知るところになる。
幼い娘を連れて後妻に入った夫を愛する健気な女性。それが領城内の皆がカスタネアに持つイメージだ。
カスタネアは苦労人で殆ど庶民と同じ様な生活を送り、結婚させられた相手はカスタネアに酷い暴力を振るった。そんな夫が亡くなり路頭に迷う寸前だった時、リリエの父、オスヴァルト・グフタス・クラヴァードに出逢い、見初められて領主夫人となった。
その境遇に同情する者が多く、何かと彼らを優遇する事が多い。
一方リリエはいずれ王太子妃となり、この家を出る事が決定している身。
そんな恵まれた少女よりも使用人達は自分達と心情的に近いカスタネア達に心を注いでしまう。
だから、リリエには信頼出来る使用人は少ない。イグナツとチェスラフ位だろう。
幼い時からこんな雰囲気を作られていては心を開くのは難しいものだ。
明日の朝食はもう覚悟を決めた。
体調管理が出来ていない事を暗に責められるだろうけど、今はそのリスクを冒す時だ。
寝静まったふりをしてある程度時間が過ぎた頃、リリエはベッドを抜け出した。
部屋を出て、ネグリジェに羽織ものという出で立ちでこっそり領城を出て、隠し倉庫まで急ぐ。
外壁の内側なので人はいないけれど、こんな格好で見つかったら大変だ。
何とか隠し倉庫の中に入ると中にランタンを携えたイグナツがいた。
「こんな夜更けにこんな古びた倉庫に御用とは。さてはて、この倉庫番はどう動いて良いものやら」
「イグナツ、お願い! どうしても行かなきゃいけないの!」
「ふむ。では爺やと約束して下され。レクスと合流したら決して離れず、指示に従うと」
「……どうしてレクスと一緒だと思うの?」
「お嬢様。爺やの情報網を甘く見てはいけませんぞ?」
イグナツは悪戯っぽく笑い、隠し扉を指さした。
「さ、お早く」
「ありがとう! 大好きよ、イグナツ」
リリエはお礼を述べながら隠し扉を潜り抜け道の石畳を駆けだした。
いつもの手順を急いでこなして街に出る。
人通りのなくなった職人街を走り抜け、まだ人が少しだけ行き交うメイン通りを駆け、件のエルテギダ通りのある倉庫街にやってきた。
4番倉庫の辺りには荷馬車とちらほらと人影がある。
男達が集まって、何かの荷を運び出している最中だ。
こっそりと隠れながら人影の様子を窺う。
何か話しているがはっきりとは聞こえないので近づこうと体を浮かせた瞬間、後ろから抱きしめられて、口を塞がれた。でも、この剣だこのある表皮の固い手とそして覚えのあるこの香りがリリエを落ち着かせた。
上目遣いでその人物を確認すると、やはりレクスだった。
レクスがリリエの耳元に唇を寄せて小さく囁いた。
「来ちゃったんだね。悪い子だ」
だけどレクスの笑顔はどこかこの状況を楽しむようで、いつも通りの彼に安心感を覚えた。
ベルキもカスタネアをいい人と思ってるので、心から信頼できなかったりする。