31、婚約の刻印(エングレーヴ)、王妃の誓い
その夜、レアンドロは寝室になかなかやってこなかった。
二人での晩餐を終えると自室に籠ってしまって出てこない。
もう深夜近く、さすがに意地を張りすぎたかと溜息を吐いて夫婦の寝室のソファに座っていると、ガチャリと扉が開いた。
「あれ? まだ起きてたんだね、リリエ。……もしかして待っててくれたの?」
「……うん、待ってたの」
「……そっか……」
レアンドロはそのままそっと大きなソファに座っているリリエの隣にそっと腰かけた。
「あの、忙しかったの?」
リリエは自分の合わせた指先を見つめてレアンドロに問いかけた。
「いや、忙しくはなかったんだけど、ほら、明日休みだからさ? 片づけておきたい仕事があったんだよね」
「そう……」
二人の間に沈黙が流れて、何故だかちょっと気まずい。
「……あの、ね?」
沈黙を破ったのはリリエだった。
「……何?」
「今日、ルディが来てくれたの。……聞いたわ。色々と頑張ってくれたんでしょ?」
「……正直、うん、頑張ったよ。だって絶対にリリエと結婚したかったから」
「……あのね、私それは嬉しかったんだけど、正体を教えてくれなかった事はやっぱり腹が立つの」
レアンドロは少し小首を傾けた。
その様子を横目でちらりと見たリリエは再び自分の合わせた指を見つめる。
「私ね? この3ヶ月ホントに悲しかったのよ? もうレクスとは一生会えないんだって思って、本当に悲しかったの」
「……うん」
「他の人の下に嫁ぐのも苦しかったし、レクスが殿下に私が全部証拠を揃えたって言ったんだとしたら、レクスは他の人に嫁ぐ事を認めたんだって思って、悲しくて堪らなかったの」
レアンドロはじっとリリエを見つめた。
読み解けない難しい問題を真剣に聞き取っているような表情だ。
「私、貴方に嫁ぐんだって知ってたら、こんな悲しい気持ちで婚姻式まで過ごさなくて済んだわ。やっぱりもっと幸せな気持ちで嫁ぎたかった。結果は同じかもしれないけど、婚姻までの3ヶ月はなんだったの?ってどうしても思っちゃうのよ」
レアンドロはリリエの方に体を向けて真っすぐにそのセレスティアルブルーの瞳で見つめた。
「……リリエ、ごめんね。俺が言葉足らずだった。本当にごめん」
リリエもまた、レアンドロの方へ体を向けて真っすぐにそのセレスティアルブルーの瞳を見つめた。
レアンドロの瞳の中にはリリエの姿が小さく映っている。
「……私も、意地を張ってごめんなさい。ちゃんと最初から説明すればよかったわ」
「俺はどうも言葉とか感情とかすっ飛ばして行動しちゃうところがあるんだよね。これからはちゃんと説明するよ」
リリエはレアンドロのセレスティアルブルーの瞳を見つめた。
そしてクスリと笑う。
「……この1週間ずっと落ち着かなかったの?」
「うん。なんかずっと背筋がぞわつくというか……なんか落ち着かない感じだった。俺、リリエに怒られるのは嫌なんだなってわかったよ」
「ねえ?」
「なに?」
「私に一目惚れしたって本当なの?」
「……俺、また会いたいって思ったんだ。……初めて女の子にそういう風に思ったんだよ。ルディ達に言わせればそれはもう俺にとっての一目惚れだって」
レアンドロは真剣な表情でリリエを見つめる。そしてそっとリリエの膝に置かれた手に自身の手を重ねた。
「……多分俺にとって、リリエはたった一人心が動く人なんだ。俺の少ない感情を揺さぶる事が出来るのはリリエだけなんだ、きっと」
リリエは真剣な表情のレアンドロに微笑んだ。
「私の心を自由にしてくれるのは貴方だけよ。……レオ」
レアンドロはリリエの言葉で時が止まったかのように無表情で硬直してしまう。
その様子にリリエは不安になってレアンドロに訊ねた。
「……嫌だった? 愛称で呼ばれるの」
「ううん、逆。多分嬉しいんだ、すごく。でもそういう時どう反応していいかわからない。……訓練してないから」
「そんなの訓練しなくていいわ。レオの感じたそのままの反応でいいもの。だって、それは私だけに見せてくれる特別なレオなんでしょう?」
「……リリエは俺の事全部受け入れてくれるんだね……」
「大げさね。これくらいの事、普通じゃない?」
「……そっか。リリエにとっては普通なのか……。母親や今まで会った婚約者候補達はそうじゃなかったから女の人は俺が怖いのかと思ってた」
「感情が希薄だから?」
「うん。母親は笑いも泣きもしない赤ん坊が怖かったみたいだ。だから俺は母親とは殆ど会った事がないんだよね。で、母親は父親に側室を持てって言ったんだよね。もう子供は産まないからって。俺産んで怖くなったんだろうね。同じ様な子供が生まれてきたら……って」
「……そう」
「だからリリエみたいに言ってくれるの嬉しいんだ。本当の俺を見せてもリリエは俺を怖がらない。もうそんな人は現れないだろうから」
リリエは重ねられた手の上に更に自分の空いた右手をそっと乗せた。
「大丈夫。私の前ではレオのままでいいわ。王太子でも、護衛騎士でも、私は貴方がいいの」
「俺も王太子妃でも、町娘でも、リリエがいい」
リリエはその言葉に嬉しくなってそっとレアンドロの肩に顔を寄せる。
そんなリリエの髪にレアンドロは頬を寄せた。
レアンドロの体温が伝わってくる。
今度はたった一人で王宮という戦場で戦っていかなければならないと思っていたリリエにとって、このぬくもりは今まで感じた事の無い安らぎだ。
きっとレアンドロとは支え合って高め合って生きていける。
いずれはモトキス王国の王と王妃になって全てを背負わなければならないとてつもなく重い責任をリリエはレアンドロと担える事を誇りに思う。
しばらくそんな風にお互いを感じ合う。
レアンドロが静かな声音で沈黙破った。
「……リリエ、そろそろ寝ようか」
「うん、そうね」
二人はソファから立ち上がって大きなベッドに入る。
今夜はやっとクッションバリケードが撤廃され、二人の間に隔てるものはない。
レアンドロがそっと燭台の蝋燭の灯りを吹き消すと、窓から仄かな月明りが緩やかに差し込む。
月明りは二人の顔をその緩やかな月明りが照らして、相手の輪郭と陰影をぼんやりと伝えた。
「……ねえ、リリエ?」
「……なあに?」
「手を繋いでもいいかな?」
「うん、いいわよ」
二人は潜り込んだ羽根布団の中でそっと互いの手を握る。
その手のぬくもりに安心感を覚えてリリエはすぐに眠りについてしまう。
レアンドロはそんな眠るリリエを感じながら、自身もその内眠りにつく。
そうして迎えた朝、何かに包まれてる様な気配を感じながらリリエは目を覚ます。
でもそれは心地が良いので安心して微睡むが次第に意識が覚醒してくる。
よく見上げるとレアンドロの顔がすぐ近くにあって、リリエはレアンドロ腕枕をされてその胸に顔を埋めていた。
まだレアンドロは健やかに眠っている。
連日の激務で疲れていたのかもしれない。
そんなレアンドロの寝顔を眺めて、リリエはこれまでの人生で感じた事の無い幸福を感じていた。
きっとこれからも色々な事が起こるんだろう。
5領に領主がいなくて、一部の高官から下官まで捕まってしまうという大変な状況から始まってしまった二人の生活だが、これも二人で乗り越えなくてはならないし、リリエはこれから王宮での立場を確立しないければならない。
反王派の件で失ってしまった王家への信頼も取り戻さなくてはいけないだろう。
それらを思い重圧を感じるけれど、このぬくもりと安らぎがあれば乗り越えていけるとリリエは思う。
窓からは太陽の光が差し込んでいる。
レクスとの最後の夜のあと迎えた朝と同じ陽光に見えるけど、今ここに彼はいてリリエを抱きしめている。
リリエはそれを確認するようにリリエはレアンドロの胸に頬を寄せ、耳にリズミカルなレアンドロの音を拾い瞳を閉じてじっくりとそれを感じる。
朝焼けの桃色の空はどこまでも拡がる。
今度こそその強く柔らかな朝焼けの陽光が二人を包んだ。
これで第一部完結です。
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