3、セレスティアルブルーの瞳
リリエは掴まれた手を振り払い、背を向けてひたすら走った。
後ろから男達の声が聞こえてくる。
もし捕まったりしたら大変な事になる。
自分がいない事に気が付かれると抜け出した事がバレてしまう。
バレてしまえば抜け道の事もバレてしまう。
もちろん絶対に口は割らないけれど、抜け道の存在をさりげなく教えてくれたイグナツに迷惑がかかるかもしれない。
きっと大目玉を食らうだけじゃ済まなくなる。
なので、全力で木々を合間を走り抜けた。
だけど、やっぱり女の子の足では男達を撒く事は出来なかった。
喉が灼け、動悸が高まる。走る速度が緩んだ所を思いもよらない所から腕を掴まれた。
「こっち」
リリエの腕を掴んだ人物は落ち着いた声でそう言うとリリエを引き寄せて走り出した。
真っすぐの道から林の方へ入って、リリエの口元を掌で優しく覆って抱きかかえ、岩陰に身を隠した。
走ってきた男達がキョロキョロと辺りを見渡している。
リリエは知らない男の腕の中でドキドキと心臓が煩く鳴っているのを意識した。
「どっち行った?」
「わからん」
「……もういいだろう。どうせ話は聞かれていない」
男達が引き上げていく。
足音も話し声も聞こえなくなって、やっと口に覆われている掌が離れた。
「大丈夫?」
声の方を見上げると、ラスティレッドの髪色とそれに対比的に神秘的に煌めくセレスティアル・ブルーの瞳が印象的な自分と同じ年頃の少年だった。
頭半分くらいの高さにあるその魅力的な蒼い瞳をリリエは見つめた。
「ええ、ありがとう。おかげで助かったわ」
「なんであんな所に迷い込んだの?」
「あの男の人達にも話したけど、本当にお使いの帰りだったの。薬草摘みに林に入ったら、あの男の人達に出くわしたのよ」
「そうなんだ。ツイてなかったね」
少年は人懐こそうな笑顔を向けたけれど、リリエの中に何か違和感が沸いた。
「そうね、ホントにツイてなかったわ」
立ち上がった少年がリリエに手を差し伸べる。
「ありがとう。……お名前は?」
リリエは素直にその手を取って立ち上がらせてもらった。
「レクスって言うんだ」
「そう。私はリリー。助けてくれて本当にありがとう、レクス。お礼をしたいんだけど、私ホントに早く帰らなきゃいけなくて……」
「いいよ、お礼なんて」
「今度会えたら必ずお礼をするわね」
「……じゃあ、甘えちゃおうかな。次会えたらお礼して?」
「ええ、必ず。ごめんなさい、それじゃあ、私行くわね」
「うん、気を付けて」
それだけ言葉を交わすと、リリエは足早にその場から立ち去った。
少年はそんなリリエを夕暮れの中ずっと見送っていた。
リリエは急ぐ。もうすぐ夕食の時間だ。
抜け道を抜けて、その途中に置いてあったドレスに着替えて、ポーチの中に平民の服を仕舞っていつもの場所に置いておく。
そして隠し倉庫に帰ってきた。
倉庫にはイグナツがいた。
「お嬢様、今日は悪い虫でも付きましたか?」
ニコニコと笑顔を湛えてイグナツはリリエに問う。
「悪い虫? どうして?」
「お顔が少しばかり火照っておいでですよ?」
「え?!」
頬を両手で慌てて押さえて確かめるリリエにイグナツはほほほと笑う。
「おやおや、夕焼けに染まってその様に見えただけのようでしたかな?」
「……ここには西日は差し込んで来ないじゃない……。相変わらず意地悪ね」
「ほほほ。さてさて、お嬢様? そろそろ侍女達がお嬢様をお探しでしたぞ?」
「大変、早く戻らなきゃ!」
「ここはこの爺に任せてお戻りなさいませ」
「ありがとう! あ、これ、オルドジフさんからよ」
リリエは懐に仕舞ってあった手紙をイグナツに手渡した。
「はいはい、確かに」
「じゃあ、お願いね」
「チェスラフめが口裏を合わせる手筈なのでご安心なされ」
「ええ、わかったわ!」
隠し倉庫からは城内へ入る事になるのでお嬢様然として歩く。途中普段から世話をしてくれる侍女、ベルキと出くわす。
「お嬢様! ずっとお探ししておりましたよ?! どちらに行かれてたんですか?」
「チェスラフの作業を見させてもらってたの。つい夢中になってしまってこんな時間になってしまったわ」
「またチェスラフの所ですか? もう、どうして土いじりなんかに興味がおありなんでしょうね、お嬢様は」
「あら、花が育っていくのは楽しいわよ?」
にっこりと微笑んで見せると、ベルキは溜息を吐いた。
「それでは今日はお食事の後に湯浴みをして下さいませね? ご用意しておきますから」
「まあ、少し汗をかいてしまったからありがたいわ」
「さ、お早く食堂へ。奥様とノエリア様がお待ちですよ?」
「そうなのね、わかったわ」
その足で食堂へ向かって、いつも通りの少し気詰まりのする食事を終える。
だけど今日は何故だか少しだけ浮かれている自分がいる。
洗いあげてもらい侍女が下がった後、香油の混ぜた湯に浸かり今日の事を反芻する。
今日の一番の出来事はやはり追われた事だ。
あんな事は初めてだったので、とてもスリリングな体験だったと少し笑う。
そして一緒に思い出すのはあのセレスティアルブルーの瞳だ。
透明で透き通る青。夜半の青い月のような瞳。
「……あの瞳は……反則だと思うの……」
リリエはその瞳を思うと、何かきゅっと胸が絞められる様な、でも不愉快ではない、むしろ何か嬉しい様なそんな感覚を覚える。
セレスティアルブルーの印象的な瞳。
対比的なあのラスティレッドの髪色。
抱きかかえられた時に分かった、細身なのに鍛えられた体。
口を塞がれた掌は剣だこがあって表皮がゴツゴツしていて剣を沢山握って来た事を物語ってる。
いつの間にか、湯浴みの時間は彼の事ばかり考えていた。
そんな自分に我に返り、頬を染めてしまう。
湯浴みを終え、侍女達が丁寧に拭き上げてくれ、更に香油で全身を解してくれる。
「ありがとう、ベルキ。とっても体が軽くなったわ」
ドレッサーの前で髪を梳かれながら鏡越しにベルキにお礼を言った。
「そうですか? それはようございました。今日はお疲れのご様子だったので」
「ええ、少し疲れていたから助かったわ」
「……今日は何か疲れる様な事をなさっていたのですか?」
「チェスラフの作業を見ていたら興奮してしまったのかしらね? 解してくれた皆にも伝えてね。お礼に今日の焼き菓子を皆に振舞ってあげてくれる?」
「まあ、それは皆喜びますでしょう」
ベルキは大層嬉しそうに笑い、リリエの髪を整え終えるとティータワーに乗せられた焼き菓子を人数分清潔な手拭いに包んで退室した。
湯浴みの後は軽く残ったクッキーとベルキが淹れてくれた紅茶を頂く。
紅茶に口を付け、カップをそっとソーサーに置いた。
小さく陶器の触れ合う音がする。
ふと大きな窓から空を見上げたら、大きな蒼い満月が美しく浮かんでいた。
その光景はあの底の知れないセレスティアルブルーの瞳を連想させて、またぼんやりとあの少年の事を考えていた。
あの男達が何かを密談していた事は間違いないけれど、あの少年は何をしていたのだろうか?
あそこは昔原住の民が巡礼に使っていた朽ちた道が続いていて、もっと奥へと行くと祭壇のある廃屋がある。
あんな場所はそれこそ密談にしか使わないだろう。
……あの男達の事を探っていたのかしら……?
出くわしたタイミングからして、そうである可能性が高いように感じる。
次会う事が出来たら聞いてみようと思い、ふと我に返る。
約束も何もしてない。
なのにレクスという名前しか知らない彼と、また再び会える確信を持っている自分に少し驚いた。
物語が動き始めた模様。