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19、盤上の眠り、女王の手番

 裏帳簿を手に入れてから三日後、貧民街ではまた大きな一斉休業が起きた。ノエリアの調査結果が『出入の商会を替えるには及ばず』という結果が出たからだ。

 リリエには鉱山夫達の気持ちが痛いほどわかる。碌な装備も与えられずに命を賭けろと言われて納得いく人間なんている訳がない。

 神妙な顔でリリエとレクスはリリエの居室の応接間で向き合った。

「……お義姉様の調査は、正直とても甘いモノだと私も思う。もう一度、私がお義母様やノエリアお義姉様に掛け合ってみる。そして次は私が調査するって言ってみるわ」

「……リリエ嬢の立場がまた悪くなるかもしれないよ?」

「そんな事言ってられないわ。これは人の生き死にのかかった事だもの。私の立場なんて気にしてる場合じゃないわ」

「わかった。リリエ嬢がその覚悟なら、俺ももう一度貧民街に行って説得してみるよ」

 早速レクスは立ち上がる。

「レクス、本当に気を付けてね?」

「うん、リリエ嬢も気を付けて?」

 リリエも同じ様に立ち上がる。

 二人は向き合ってじっと見つめ合う。

 ややあって、レクスがリリエの手を取った。

「行って来るよ、俺の姫君」

 そしてリリエの指背に優しく口づけた。

 その行為にリリエの心臓は高鳴る。

 再び目が合った時のレクスの表情は真剣な眼差しで、いつもの人懐こいお道化た笑顔ではなかった。

「……あのね?」

「ん?」

「早く帰ってきてね?」

「うん、出来るだけ早く全部終わらせて来るから」

 そう言ってレクスは名残惜しそうにリリエの手を離した。

 そして背を向けて扉に向かう。

 その背にリリエもまた名残惜しそうに声をかけた。

「本当に気を付けてね?」

 レクスは振り返って微笑む。月明りの下で見た、本当のレクスの笑顔だろう。

 その笑顔一つ残してレクスは扉を閉めて去っていった。

 その足音が遠くなって行く事に寂しさを感じてしまう。

 足音が聞こえなくなるまで耳を澄まして聞いていた。

 完全に足音が消えた後、リリエは目を閉じる。

 自分のすべき事をなりふり構わずする事に決めた。

 頬を叩いて気合を入れる。

 そして自分の部屋を出た。

 領城の廊下を歩いていると、マハチェク副団長が向こうからやって来た。

 彼がリリエに頭を下げリリエの通過を待つ。

「マハチェク副団長」

 リリエが名を呼ぶと頭を下げるマハチェク副団長が硬直したのがわかった。

「頭を上げてください。話がしにくいわ」

 ギクシャクと頭を上げたマハチェク副団長は眉間に皺を寄せて難しい表情をしているが、耳が少し赤い。

「あのね、いつも私の事見守ってくれているのでしょう? ありがとう」

 領主の娘や王妃の微笑みではなくて、普通に一人の少女として笑って見せた。

 マハチェク副団長は俯いてしまう。

「……それでね、私は今からまた執務室に言って、今度はお義母様やお義姉様に逆らう様な事を言うと思うの」

 その言葉にマハチェク副団長はハッと顔を上げる。

「だからね、また私……その」

「……心得ております。どうぞ御随意に」

 ぼそっとそう言ったマハチェク副団長をリリエは見上げた。

「……俺では大した役には立てませんが……。リリエ様を見守る者として出来る限りの事はします」

「本当にありがとう、マハチェク副団長。もしレクスが戻ってきたら、執務室にいると伝えて欲しいの」

「承りました」

「ありがとう、お願いね?」

 マハチェク副団長が再び頭を下げる。

 リリエはそれを見た後その場を再び歩み始めた。

 執務室に入ると、今度はヘルムート先生がいた。

「やあ、リリエ嬢じゃないか。どうした?」

 やはりヘルムート先生はどこか可笑し気な様子でリリエに声をかけた。

「ヘルムート先生もご存じでしょう? また一斉休業が起きてしまいました。それもあのノエリアお義姉様の報告書に不満があるからです」

「その様だね。領主代理が調べ、決定した事に逆らうとは、やはりここは武力に訴えるべき場面だとは思わないかい?」

「いいえ、私も報告書を読ませて頂きましたけれど、肝心の6年前の商会変更の事情や粗悪な物品配布への追及が全くありません。グロックナー商会に対する聞き取りも行われていません。これでは鉱山夫達が納得しないのも仕方がない事と思います」

「なるほど。……まあ、掛けようか」

 ヘルムート先生はソファを差してリリエに着席を促した。

 リリエはそれに従って優雅に腰掛ける。

 ヘルムート先生はそれを見届けると自身も向かいのソファに座った。

「さて、君はこの盤面、どの様に手を打つべきだと思う?」

「もちろん、今回の一斉休業はこの調査報告書に不満を持っての事なのですから、彼らの言い分を精査して更に事実関係を確かめた新たな調査が行われるべきです」

「しかし、リリエ嬢? もしその彼らの言い分、という前提が間違いだった場合どうする?」

 リリエは疑問を表情に乗せてヘルムート先生に先を促す。

「君の護衛騎士の持ち帰った報告そのものが、間違いだったら、という事だよ」

「それはあり得ません。レクスはレアンドロ殿下から派遣された護衛騎士です。ヴァルタリアの利害関係に一切絡んでいないという最も中立に位置する者で、これ以上の適任はいませんわ」

「……全幅の信頼を寄せているようだね。だが、その護衛騎士に情報を与えている、鉱山夫達が嘘を言ってる可能性だってあるだろう?」

「それは調査に彼らの意見を精査するというのも条件に入れておりますもの。結局それすら証明できない位にはこの報告書ではまだ足りない、という事です」

「はははっ! なるほど、そう来たか。やはり君は面白い一手を打って来る」

 リリエの背後に控えていた侍女がそっと二人に紅茶を差し出す。

 ヘルムート先生は優雅にその紅茶を口にした。

「まあ、再調査をするのは良いとして、ノエリア嬢ではなく、誰が調査をする? クラヴァード夫人か?」

「……失礼を承知で申し上げますが、お義母様はその方面には明るくないかと。ですから、今回は僭越ではありますが、私が調査いたします」

「……ほう、『クイーン』自ら動くと?」

 ヘルムート先生はそう言いながら、リリエにも差し示して紅茶を勧める。

 リリエは優雅にその紅茶に一口を付けた。

「ええ。今回ばかりは本当に切迫している状況だと判断しました。これまで鉱山夫達がこの様に騒ぎを起こした事など無いのですもの。余程の事だったのだと推察されます」

 ティーカップを音も立てずにそっと置く。

「リリエ嬢? 以前に教えたはずだ。盤上だけが戦略ではない、と」

「ええ、憶えています」

「君は『クイーン』を動かした。そして、全幅の信頼を置く、『ナイト』に遠征させてしまった」

「……? はい。今回はそれが最も最善手だと考えました」

「君の性格だともっと手堅い方法を選ぶと思ったんだが……、今回は急いてしまったようだ」

 会話をしている最中、何故か頭がふわふわと回り始める。

「……? な」

 上手く思考が回らない。目の前がぼやけてふらふらとする。

 起きていられない位に目が回ってしまってソファの背もたれに寄りかかる。

「我々もね、そろそろ新たな一手に出ようと思うんだ、リリエ嬢。……いいや、『女王陛下』」

「……ま……さ、か……」

 ヘルムート先生が、反王派の……?

「さあ、我らの『女王陛下』よくお眠り下さい。そしたら次にはあなたの戦いが待っているよ」

 リリエはもう意識が無くなりそうな直前に、わざと紅茶の入ったティーカップめがけて突っ伏した。

 紅茶がドレスにかかってしまう。

 それを確認すると、何とか必死に保っていた意識を手放した。

 後ろに控えていた侍女は意識を失ったリリエにそっと触れて上体を起こした。

「エリザ女史、我らが『女王陛下』を早速運ぼうか」

 侍女のお仕着せ姿のエリザ先生がこくりと頷く。

 エリザ先生とリリエを抱き上げたヘルムート先生が執務室を後にした。

リリエ、油断しちゃった

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