18、恋を忍ばせた帳簿の罠
リリエはその日の午前の文学と芸術の授業を終えて、レクスと街に降りた。
いつもの碑石の場所で待ち合わせて、商人街へと繰り出す。
二人で屋台の揚げたパンの様なミートパイ、ピロシキを買った。
「リリー? 熱いから気を付けてね?」
「うん、ありがとう」
揚げたての生地の歯ごたえはさっくりとしていて、でもとても熱い。
「あつっ」
ほふほふと口から熱気を逃す。こんな食べ方は領城では絶対に出来ない。
「あふいけど、ほいひいね」
レクスが熱い生地を頬張りながらリリエに笑う。
「ほんと、ほいひい」
リリエも行儀など忘れて頬張りながらその言葉に答えた。
それを食べ終えると今度、レクスに手を引かれて連れていかれたのは棒に巻き付けて焼き上げられた円柱の形のパン、トルデルニークだ。
砂糖が粉砂糖がまぶしてあって美味しそうだ。
「これも俺、食べてみたかったんだよね」
「王都にもあるの?」
「うん、王都の屋台にもあるよ。でも食べる機会がなかったんだよね」
「……レクスは、ずっと騎士としての訓練を王都で受けて来たの?」
「去年は半年の実地演習に出てたから、その時だけ王都は離れてたよ」
「そう。実地訓練ってどんな事するの?」
「大体、行軍耐久包囲戦、防衛戦の模擬訓練と小隊指揮の実地試験でしょ? 夜襲訓練と、個人戦技試験くらいかな? ああ、あと単独行動訓練があったな」
「? 単独行動訓練って何するの?」
「最低限の装備だけ渡されてサバイバルするんだよ。一週間耐えろって言われて」
「……それって精鋭を鍛える為の特別訓練じゃないの?」
「まあね。さ、リリー、トルデルニーク食べようよ」
そういえば、レアンドロ殿下も去年実地訓練に出たと言っていた。きっとレクスもそれに伴われて一緒に軍事訓練を受けたのだろう。
「美味しいわね、トルデルニーク。甘いわ」
「だね。俺の親友2人居てさ? 甘いのが苦手な奴と逆にもう一人無類の甘い物好きの奴もいるんだ。二人のこれ食べた時の反応が目に浮かぶ」
「そうなの? ……いつか会いたいわ」
「うん、きっとあいつらもリリーの事気に入ると思うよ」
その約束が何か嬉しい気がしてぱくりとトルデルニークに齧りついた。
二人は食べ終えると作戦会議を始める。
「で、私は何をすればいいの?」
「裏帳簿を持った宰相の使いがもうじきやって来るんだ。しばらく惹きつけてくれないかな? 俺が隙をついて裏帳簿を鞄から抜き出すから」
「……わかった。なんとかやってみるわ。相手はどんな人なのかわかるの?」
「うん、シェドルっていう行商人だよ。恐らく本人は帳簿の中身はわかってないと思う。本当に手渡すだけの使いだよ。彼が商ってるのが主に装飾品の類なんだ。だから女の子が声をかける方が長く引き留められるんじゃないかなって」
「それだけ情報があるなら大丈夫よ。目一杯引き留めるから安心して」
二人は交易路の交わる、商人達が最初に集まるエリアの直前の、王都からの道をしばらく見張った。
赤毛の中肉中背の男が大きな鞄を背負ってやって来たのを見つけたレクスの表情は狼が獲物の匂いを嗅ぎ取る時のそれになる。
そんな時の無表情なレクスが本当のレクスなのだろうな……とリリエはその表情を眺めて思った。
こうして少しずつ、本当の彼を見つける度に少し浮かれてしまう自分がいる。
そんな自分の想いに戸惑いながらリリエはレクスに訊ねた。
「……あの赤毛の人?」
「うん、彼に間違いない。伝えて来た情報通りだよ」
「ねえ? レクスはどうやって王都と連絡を取り合ってるの?」
「ん? ああ、鳥だよ。時間が要らないものは人が使いで来てくれるけど、急ぎは鳥に暗号文持たせてる」
「そうなのね」
「シビディアやオルシロンでは幻獣が伝令に使われてるみたいだけどね。精度がまるで違うから俺達移民には使えないのが残念だよ」
「……ねえ? 鳥って結構機密文書がメインになるんじゃないの? 王族の絡むものに限定されてるって聞いた事あるけど」
「……ああ、今回はレアンドロ殿下の密命だから特別に使わせて頂いてるんだよ。あ、ほら、ちょうどあの噴水の所で休憩してる。今がチャンスかも」
レクスに促されて男の方を見ると、確かに男はキセルに火を入れて一服入れている。
リリエはレクスと頷き合う。そしてシェドルという赤毛の行商人に近づいていった。
「こんにちは、お兄さん」
にこりと笑って声をかける。
シェドルはリリエを惚けた様に見上げている。
「お兄さん? どうしたの?」
「あ、いや……、お嬢さん、別嬪だな~」
「ホント? 嬉しい! お兄さんは行商人なんでしょ? 王都から来たの?」
「そうだよ」
「何を売ってるの?」
「装飾品がメインだな。嵩張らないからこのサイズで行商出来るんだよ」
「そうなの? 重たくなったりしない?」
「この位慣れっこだからな。大丈夫だよ」
「凄い! 逞しいのね! ねえ、よかったら私にお品を見せてくれない?」
「ああ、いいぜ。お嬢さんには特別なヤツ見せてやるよ」
シェドルはキセルを片付け、選りすぐった品物をリリエの噴水の前の椅子に並べた。
「これなんかどうだ? ガラス玉だけどカットが良いんだ。あんたによく似合うと思うぜ?」
「ホント! 凄く綺麗ね」
リリエは勧められたガラス玉の髪飾りを髪に差してみた。
「どう? 似合う?」
「ああ、凄く似合ってる! こりゃお嬢さんに店先に立ってもらってたら売り上げも上々だろうな」
リリエはその言葉に顔を赤らめた。
「そんな事ないわよ……。お兄さんお上手なのね」
「いいや? お嬢さんみたいな別嬪見た事ないよ」
「ウソ。王都には綺麗な子がたくさんいるって聞いたわ」
「いや、お嬢さんほどの別嬪は王都にもそうはいねえよ」
「お兄さんは商売上手ね。ホントに口が上手いわ。私、たくさん買っちゃいそう。あ、そこのアジャリア、素敵。この髪飾りと合うわね」
アジャリアは腰に巻き付ける女性用のサッシュの事で綺麗な刺繍にビーズが縫い込まれている。
「おお、これも良い品なんだよ。お目が高いね、お嬢さん。さすが別嬪は違うや」
「少しだけ巻いてみてもいい?」
「ああ、構わんよ」
リリエは薄紅と水色のグラデーションが美しいアジャリアを受け取って腰に巻いた。
「やだ、これ素敵ね。とっても可愛いわ。似合うかしら?」
そう言ってリリエはシェドルの目の前で回って見せた。
アジャリアがひらひらと舞う。
「あ……っ」
リリエはよろめく。
それを見ていたシェドルはリリエを急いで抱きとめる。
「大丈夫か?」
「ありがとう。ごめんなさい、もう少しで商品を汚してしまう所だったわ」
「いや、転ばなくてよかった。怪我でもしたら大変だ」
大きな鞄からシェドルが離れた隙に、レクスはそっと帳簿を探し出して抜き出した。
それを確認したリリエはシェルドににっこりと笑った。
「本当に良いものを見せてくれてありがとう。じゃあ、この髪飾りを頂くわ」
「お、買ってくれるのか?」
「ええ、だって素敵な髪飾りなんですもの」
そう言って笑ったリリエの背後から声がかかる。
「じゃあ、それは俺が贈るよ」
振り返るとレクスがいつもの人懐こい笑顔を浮かべて立っていた。
そしてリリエの肩を抱く。
「うん、ホントに良く似合ってるよ、その髪飾り」
リリエはレクスに少し恥ずかしそうに答えた。演技のつもりだったけれど、何故か本当に恥ずかしくなってしまう。
「ホント? 嬉しいわ」
「お兄さん? これいくら?」
「……ちょっとお高いぜ? 4200ルピルだ」
レクスは懐が財布を取り出すと、金貨を一枚渡す。
「はい。おつりは要らないよ。じゃ、行こうか、リリー」
「え、ええ。お兄さん、ありがとう。素敵な品を沢山見せてくれてありがとう」
リリエがシェドルに笑いかけるとレクスはリリエの手を繋いでさり気なく引っ張る。
リリエは引っ張られた方へ体を向けて歩き出す。
「……? レクス? なに? どうしたの?」
「……わかんない。でも早くここを離れたかった」
やはりいつものお道化た笑顔は成りを潜めて真剣な表情でリリエの手を引く。
裏帳簿を盗んだから早くこの場を立ち去りたかったのだろうか?
そんな風に納得して、レクスに手を引かれるまま、リリエは商人街の喧騒の合間を縫って歩んだ。
レクスは失感情症なので、軍の訓練も淡々とこなした。彼の担当上官は他の訓練生と違って無表情で全く泣き言を言わないのでちょっと戦慄した。




