(九)
「うみ、うみ、うみー」
「楽しみでございますね」
感情を感じさせない少女の声に、左手を朱火、右手をのっぺらぼうとつないだ常盤が嬉しそうに答える。
朱火ものっぺらぼうも虚無僧姿で天蓋を深くかぶっており、その表情は見えない。
しかしながら元気よく前後する繋がれた手からは、ふたりの気分が高揚しているのがわかる。
「ずいぶん懐かれておるようだのう」
三人から少し遅れて歩いていた躯血がしみじみと呟く。
「彼女は朱火様が物心ついた頃よりいまのお役目についておりますから」
興味深げに顎をさすりながら常盤の背に目を向ける彼に、夢助が答える。
「娘はまあわかるのだがな。妖にも好かれているようではないか。わしが妖を見るようになったのはこやつと出会ってからじゃが、妖に懐かれる者など見たのは初めてじゃ」
夢助が得心した様子でうなずく。
「左様でございましょう。てまえもあの人以外では見たことはございませんから」
「お前みたいなやつを見るのも、わしは初めてじゃがな。まあ、こやつの導きじゃろう」
躯血がぺしぺしと益荒男を叩く。
一行は京から、夢助の拠点がある堺へと向かっていた。
「せっかく護衛がついたのです。どこかへお出かけしませんか?」
躯血からすれば迷惑極まりない提案に、人里離れた屋敷に閉じこめられた少女が「海が見たい」と答えたのである。
「ならば堺にいたしましょう。てまえも一度店に戻らねばなりませんし、宿泊先もご提供できますので」
躯血にしてみれば護衛対象に好きに動きまわられるのは迷惑であるが、これまで一所に押し込められていた朱火の環境には同情も抱いていないではない。
しかしながら、まさかのっぺらぼうまで連れ出すとは思っていなかったのだろう。困惑したような視線をふたり揃ってのっぺらぼうに向けている。
ふと朱火の足がぴたりと止まった。
瞬間、躯血の目つきが鋭くなる。
「囲まれておるか、ちと油断し過ぎたか」
目の端に黒く小さなやもりのような姿をとらえ、忌々しげに吐き捨てるが、のっぺらぼうを足にしがみつかせた常盤は、慌てた様子もなく妖艶な笑みを浮かべ振り返る。
「この者たちは妖力が低いので仕方ありません。守宮といいましてね。戦で亡くなった者たちが姿をかえたものでございます。たいして害のある者たちではありませんが、他の妖を呼び寄せることもございます。ここらで蹴散らしておきましょう」
躯血はうなずきながらもその表情はさえない。
「なかなかすばしっこそうだな。数も多い」
益荒男を肩からおろすが、益荒男は力なく垂れさがったまま。もっとも力を戻した状態でも的が小さく多ければ、刀でさばききるのは難しい。
「ご安心を。どなたにも得手不得手がございます。弱くて数が多いならば私の領分。ささ、ふたりは骨皮様のもとへ」
常盤に促され、朱火とのっぺらぼうは、とてとてと躯血に走り寄り左右仲良くわけあって、彼の足にしがみつく。
その様子を優しい眼差しで見送った常盤は、おもむろに胸元に手を入れると一本の竹筒を取りだした。
すぽんと封をはずす音が周囲に響く。それを合図に数を増し一行を完全に取り囲んでいた守宮が、ぎゃあぎゃあと喚きだす。
「よろしくね」
彼女がそう呼びかけると、竹筒から勢いよくなにかが飛びだし、守宮の一団に飛び込む。
途端に守宮の喚き声が悲痛な叫び声にかわる。
「なんじゃ、あれは。鼬か?」
「管狐というそうですよ。初めてお会いしたときから便利使いされていましたね」
風のように駆け巡り、守宮を鋭い爪で切り裂いていく小型の獣。辛うじてその爪を逃れた守宮たちは四方へと散っていく。
役目を終えた管狐は軽やかに常盤の肩にのると、甘えるように彼女の頬に身体をこすりつける。彼女はそんな管狐の頭を優しい手つきでなでる。満足したのか、管狐は甲高い声でひと鳴きすると竹筒の中へと戻っていく。
竹筒の封をし胸元にしまい込む常盤のもとへ、朱火とのっぺらぼうが戻っていく。
「あっという間に振られましたな」
淡々とした口調で茶化してくる夢助に、躯血は苦笑で応える。
「まあ、わしでもあちらを選ぶのう」
幸いその後は妖に襲われることもなく、一泊する予定の街へと到着する。
夢助が事前に手配していた宿で夕餉をすませると、おもむろに躯血が立ちあがった。
「ちと出てくる」
「骨皮様、お待ちを」
部屋から出ようとする彼を常盤が呼び止め、益荒男を握る躯血の右手に梵字の書かれた札を貼り付ける。糊がついているわけでもなかろうに、札はしっかりと彼の手に張りつく。
「これで多少無理使いしても、外への妖力の漏れを抑えられましょう」
「お主、こんなこともできるのか」
目を見張る彼に彼女はくすりと笑う。
「これは有修様におつくりいただいたものですよ。あまりにも朱火様の外出を気にされるものですから、それではご協力くださいと。ただ朱火様は、外に漏れる妖力の制御なされますので」
苦虫を噛み潰したような有修の顔が想像でき、躯血は内心で同情する。
「ありがたく使わせてもらう。いちいち天邪鬼の相手をさせられるのも面倒でな」
礼を述べ宿を出た彼は、右手を前に突き出し益荒男をだらりとたらす。
すると益荒男が風に逆らうように、一方に向けてぶらりと揺れる。
「川からか。さて宿にたどりつくまえに蹴散らさんとな」
躯血は道をはずれ川へとむかう。
堺へと続く街道は大きな川沿いにあるが、この宿場はその支流のそばにある。
彼の耳に川のせせらぎが届く。
時刻は暮れ六つ。陽はもう間もなく山の陰に隠れようとしていた。
川べりまできたが、彼の探し求めている相手は見当たらない。
だが黙って川の流れを見つめていた躯血の眉がぴくりと動く。
「来たな」
言うが早いか後方へと大きく飛びしさる。
同時に響き渡る巨大なものが地面に落ちる音。
落ちてきたのは巨大な顔だった。
「はずした。潰して喰ろ――」
巨大な顔の妖怪釣瓶落としが言葉を言い終える前に、飛び上がった躯血が釣瓶落としの脳天に益荒男の柄を叩きつける。ぐにゃりと歪んだ顔がそのまま塵となり消えていく。
消える釣瓶落としを見送りながら、益荒男を肩にかけた。
「さて戻るか」
躯血が川に背を向けた瞬間、鋭い爪の伸びた手が彼の足首を掴む。
「ぬおっ」
抵抗する間もなく、派手な音をたてて彼の姿が川の中へと消えた。