好き
俺はあるものを取りに行ってから、再び、里奈さんの部屋の前に戻っていた。
一呼吸置いてから、ノックをする。
さっきと同じミスをしないよう、今度は部屋の中から返事が来るのを待つ。
されど、十秒経っても返事がこない。
俺は恐る恐るドアノブに手をかけた。
「……すん」
中に入ると、里奈さんが声を殺して泣いていた。
「り、里奈さん? 大丈夫ですか⁉︎」
「……大丈夫じゃない」
掠れた声で、里奈さんは鼻水をすすりながら答えてくる。
「え、えっと……どうしよ……」
「一人に、しないでよ」
ポツリと里奈さんが呟いた。
俺の心臓がピクリと跳ねる。
近くの椅子に腰掛けると、里奈さんの左手を右手で握りしめた。
「すみません。寂しい思いをさせたかった訳じゃないんです」
「……心細かった。また、拓人くんがどっか行っちゃうと思った」
熱に浮かされているせいだろうか。
里奈さんがいつになく素直に、胸の内を明かしてくる。少しだけ幼児退行したみたいに見えた。
「どこにも行きません。ずっと、里奈さんの隣にいます」
「言葉だけじゃ、信じられない」
重々しく、里奈さんは告げる。
そうだよな。
言葉だけならなんとでも言えてしまう。
言うのは簡単なんだ。
だから俺はこれから行動に示したいと思う。
俺は後ろ手に隠していた紙を、里奈さんに差し出した。
「これ、受け取ってくれませんか?」
里奈さんはまぶたをパチパチと開閉する。
しばらく呆然と見つめた後、彼女は俺から紙を受け取った。
「こ、婚姻届?」
「はい。さっきもらってきたんです」
市役所まで行ってもらってきた。
もちろん、まだ俺の年齢では結婚はできない。
さしたる意味はないかもしれないが。
「俺の記入欄は埋めました。俺、里奈さんのことマジで好きなんです」
「た、拓人くん……」
「結婚だってしたいです。ずっと里奈さんと一緒にいたい。そう思ってます」
「…………」
里奈さんの頬にツーッと一筋の雫が伝う。
頬を赤らめ、里奈さんは顔を伏せた。
「拓人くんっておかしいんじゃないの?」
「そ、そうですか?」
「うん、重すぎだよ。まだ高校生なのに婚姻届渡してくるとか、どうかしてる」
「うっ……」
でもこのくらいしか思いつかなかったのだ。
「それに、私にこんなの渡しちゃダメだよ。拓人くんが18歳になった瞬間に、役所に出しちゃうよ?」
「か、構いません。俺はそれでも!」
前のめりになりながら、俺は力強く言う。
「いいんだ……」
「は、はい!」
「ま、まぁ、これだけじゃ結婚できないけどね。身分証明書とか諸々必要だった気がするし」
「あ、そうですよね……」
でも今、身分証明書を里奈さんに渡すのはさすがに難しい。
俺の日常生活に支障をきたしてしまう。
「私、拓人くんが思ってるような女の子じゃないと思う。ワガママだし、嫉妬深いし、面倒臭いと思う。私の本性知ったら嫌になるよ、きっと」
里奈さんが不安を帯びた声で、そっと訊ねてきた。
里奈さんは可愛くて、話していると楽しくて、とにかく相性がいいと思った。
彼女と一緒なら、ずっと楽しく暮らせる。
そんな直感が俺の中で働いている。
それに俺は、昔の里奈さんだって知っている。まぁ、最近まで忘れていたのだから偉そうに言えないけど。
初めて会った時の里奈さんは、なにかとワガママだった。
俺を色々なところに連れ回して、俺を独占したがって、ちょっと鬱陶しいくらいだった。
でも、そんな時間がすごく楽しかったのを覚えている。
「大丈夫です、俺はどんな里奈さんだって好きです。絶対、愛想尽かしたりしません」
だから、俺は臆することなく里奈さんの問いかけに答えた。
里奈さんはわずかに目を見開く。
俺の手を握り返して。
「本当に、好きでいてくれるの?」
「好きです。一生好きでいます」
里奈さんはただでさえ赤い顔に、さらに朱を注いでいく。
「後悔してもしらないから」
「しませんってば」
意外と自己肯定感が低いんだな、里奈さんは。
もっと自信に満ち溢れている人だと誤解していた。
でも、好きな子の知らない側面を知れていることが、嬉しくてしょうがない。
里奈さんは布団を深く被ると、目元だけこちらに覗かせて。
「……今日はずっと、傍にいてくれる?」
「いますよ、ずっと」
「そっか」
「はい」
里奈さんは安心したように吐息をもらすと、まぶたを落とした。
眠りにつくまでそう時間は要らなかった。




