第59話「錬州での出来事」
──錬州にて──
「小賢しい田舎娘に、役立たずの末娘め!!」
錬州候は床に硯を叩き付けた。
板の間に墨が飛び散る。
数滴が、正面にいる青年の頬にかかる。
錬州候──蒼錬惣角の手には書状がある。
自らの手で潰し、丸めた書状だ。
それを憎々しげに睨みながら、錬州候は荒い息を吐き出す。
「計画はすべて、紫州の者たちに見抜かれていただと!? こちらの剣士たちはなにもできず……紫堂杏樹の護衛に命を救われただと!? おまけに真名香を使った計画も失敗し……真名香は紫州に走っただと……こんな馬鹿なことがあるか!?」
錬州候は怒りに全身を震わせながら、叫ぶ。
「霊獣『騰蛇』を失い、敵に錬州を荒らされた挙げ句、領地を割譲することになるのか。この、儂が!? 真名香め……素直に死んでいればいいものを、紫州に走るとはなんという愚かな……」
「あの子を甘く見ていたのはあなたでしょう。父上」
冷えた声が響いた。
錬州候の正面に座る、青年の声だった。
日に焼けた肌。
がっしりとした体格。
青年は手巾で顔の墨を拭いながら、まっすぐに錬州候を見据えている。
「なぜ、計画について、真名香に話さなかったのですか? 父上」
青年は告げる。
「真名香も錬州の者です。父上の意図に従ったかもしれません。だまし討ちのようなことをするべきではありませんでした。なぜ、あの子を信じなかったのですか?」
「父を否定するか! 長幼の序を知らぬと見えるな」
錬州候は書状を投げ捨て、一喝した。
「そもそも、貴様が副堂沙緒里を支配しておれば、このようなことにはならなかったのだ。己の失敗を棚に上げ、父を批判するのか。将呉よ!!」
「私を無能と思うなら、廃嫡すればいいでしょう?」
錬州の嫡子である蒼錬将呉は言葉を返す。
淡々とした口調だが、その視線は強い。
正面から父の目を見返しながら、将呉は続ける。
「私も煌都に怯えるだけの州候になど、なりたくありません。お望みなら私を廃嫡し、弟の颯矢を嫡子となさい。父上」
「ほざくな! 父の苦労も知らぬ者が!!」
「知っておりますよ。父上がどれほど、煌都を恐れているかくらいは」
「わかるものか……あの地と、川を挟んで接していることの恐怖など」
『あの地』とつぶやいた瞬間、錬州候が青ざめる。
まるで、煌都の名を口にすることさえ、恐れているかのように。
錬州候は机に肘を突き、白髪頭を抱えた。
北を向いているのは、煌都が南にあるからだろう。
錬州候は、煌都の方角を見ることを恐れているのだ。
だからこそ、錬州候は常に逆方向を──紫州を見ている。
あの地は山に囲まれている。山が、煌都と紫州を遮る壁となっている。
煌都を恐れる錬州候にとっては、理想的な場所だ。
いずれは紫州を手に入れて、あの地に居を構える。
それが、錬州候──蒼錬惣角の目的だった。
「知っておるか。将呉よ。かつて、この錬州に煌都の者が入り込んでおったことを」
「私が生まれる前の話と聞いております」
将呉の口調が、柔らかくなる。
まるで、父を哀れんでいるかのように。
「その者を、危うく、文官の長にするところだったのでしょう?」
「そうだ。先代の錬州候……我が父は『広く人材を求める』との方針を打ち出したことがあった。それを宣言した直後に、ひそかに煌都から送り込まれてきたのだ」
錬州候は、長い、ため息をついた。
「その者は、陰陽寮の追放された者だった。追放より時が経っていたため、気づくのが遅れた。先代が奴の正体を知ったときには、すでに多くの文官たちが、奴に取り込まれておったよ」
「情報が抜かれたのでしたね」
「ああ。錬州の金銭の流れ、貿易による収益、他国との繋がりまでも知られた。父は奴を斬ったが、情報の流出は止められなかった」
「まるで『虚炉流』の間者のようですね」
「いや、煌都の者たちは本人の記憶さえも操り、別人に成り代わる。他にも潜入した者がいた。その者は、儂の、子どもの頃の……」
「あなたが最も愛した、侍女だったと」
「────!!」
錬州候が、ぎりり、と歯がみして、将呉をにらみ付ける。
触れられたくない件だったのだろう。
だが、錬州候に近しい者は皆、知っている。
錬州候が幼いころ、慕っていた侍女がいたこと。
病がちだった母の代わりに、彼女が面倒を見ていてくれたこと。
その侍女が実は煌都の手先であり、錬州候の実母を呪詛していたこと。
それを知った、先代の錬州候──将呉の祖父により、処分されたことを。
「……煌都を恐れる父を見下すか、将呉よ」
「そのようなことは考えていません。私が考えているのは、紫州のことです」
不快を隠さない父に、将呉は一礼する。
「今回の事件で私は思い知りました。紫州は手強く、利用することは難しいと」
「真名香と、剣士の沖津がしくじっただけだ」
「先の事件の際には、この将呉もしくじりました。しくじりがこれほど続いたのなら、紫州が手強いのだと考えるべきでしょう」
「……紫州の小娘に怯えて、手を引けと?」
「紫州に手こずっている間に、煌都や他州が手出ししてきたら対処に困ることになる。そう申しているのです」
「お笑いぐさだな。錬州の嫡子ともあろうものが、紫州の小娘を恐れるとは」
「恐れていますよ。紫堂杏樹とその部下たちは、二度も【禍神】を祓ったのですからね。それほどの力を持つ者が、錬州におりますか?」
「…………いや」
「ならば、これ以上、手を出すべきではないでしょう」
錬州にとって、紫州は熟れた果実のようなものだった。
副堂勇作によってかき乱された紫州なら、思いのままにできると考えていた。
けれど、違った。
紫州は二度も【禍神】を祓い、煌都の術者を倒している。
一度なら偶然ということもあるだろう。
だが、二度続いたなら、それは実力だ。
「手を引きましょう……このたびは、我々の負けです」
「貴様は紫州との関係修復を望むと?」
「少なくとも、敵ではないようにしておきたい、そう考えておりますよ」
錬州候の部屋に、沈黙が落ちた。
やがて、錬州候が筆を取る。
紙を取り出し、筆先に残った墨で文字を記していく。
「そういえば、真名香からの手紙に貴様の名があったぞ」
「この将呉の名が?」
「ああ。『紫堂杏樹さまは、将呉兄さまとの会談を望んでいらっしゃいます』とな。先方がなぜそのようなことを言い出したのか、心当たりはあるか?」
「ありすぎるほどに」
「ならば、その責任を取るがいい」
「命じられたのは父上ですが」
「副堂勇作を支援すると決めた会議には、貴様も、貴様の配下も出席していた」
「当時は紫堂杏樹に興味がありましたからね。だが、今は彼女に対する恐れと、尊敬の方が勝っておりますよ」
「貴様の感情など、錬州の利益に比べれば塵芥も同然だ」
錬州候は、嫡子将呉の前に、書状を滑らせた。
「行け。紫堂杏樹との会談を兼ねて、領地の割譲の手続きに行ってくるがよい」
「足りませんね」
「なんだと?」
「先方はこちらが、報酬を値切ろうとしたことを知っています。陰謀は見抜かれたのです。報酬を上乗せしなければ、錬州の名が落ちましょう」
「ならば、真名香を紫州の人間と結婚させるとしよう」
錬州候は吐き捨てた。
「今回の事件で真名香が生き延びたのなら、政略結婚に出すつもりだった。相手が紫州の者でも、たいした違いはあるまいよ。真名香の存在こそが、錬州が陰謀をしくじったことの証明となる。その身柄を紫州に差し出すのだ。悪い話ではなかろう」
「賛成いたします」
嫡子将呉は、錬州候の記した書状を手に取った。
それをうやうやしく捧げ持ち、板の間に平伏する。
その姿を見た錬州候は、
「将呉よ。お前は将来、錬州をどうするつもりだ?」
ふと気づいたように、尋ねた。
「貴様を廃嫡すれば、錬州は荒れる。それは煌都に付け入る隙を与えることになる。ゆえに、このまま貴様は儂の後継者となるだろう」
「光栄です。父上」
「だが、その後、貴様はどうするつもりだ? 儂の代で煌都を片付けることはできぬぞ。憂いを残したまま、貴様は錬州をどのように治めるつもりなのだ?」
「良き州にしたいと考えております」
書状を手に、蒼錬将呉は立ち上がる。
その目は、父を見ていなかった。
彼は座敷の外──遠くを見つめながら、
「私の部下が教えてくれたのです。遠い……別の国には発展した、良き国があると。それを手本として錬州を発展させたいと、私はそう考えているのですよ」
そんな言葉をつぶやきながら、錬州の嫡子は父の元から退出したのだった。
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