第41話「錬州の末姫、零と杏樹、それぞれの夜」
──錬州の末姫視点──
「真名香は、本当に紫州に来てしまったのですね……」
自分の居場所を確認するように、錬州の末姫、真名香は周囲を見回した。
彼女がいるのは、畳敷きの広い部屋だ。
錬州の使節に与えられた屋敷の一角で、彼女は座り込んでいる。
ここはかつて、副堂勇作が所有していた屋敷のひとつだと聞いている。
家具がないのはそのせいだろう。
あるのは火鉢と、床の間の『紫州の栄光あれ』と書かれた掛け軸だけだ。副堂勇作の直筆によるものらしい。寒々とした部屋の中、文字だけが存在感を放っている。
(錬州と繋がりのある者の屋敷をあてがわれたのは……皮肉ですね)
そんなことを思いながら、真名香は巫女服の前を押さえる。
日暮れの早さと夜風の涼しさに、紫州に来たことを実感する。
海に面している錬州は日が長く、海流の関係で、日暮れ後でも温かい。だから真名香が寒くないように、紫州の人は火鉢を用意してくれたのだろう。
けれど、火を入れる気にはならなかった。
──自分は錬州候の公式の使者。礼儀正しくしなければいけない。
──紫州の人々は、錬州を憎んでいるかもしれない。刺激するべきではない。
そんな思いが混ざりあい、真名香は寝間着に着替えることもできずにいる。
使者として恥ずかしくないように衣服を整え、正座したまま、ただ時が過ぎるのを待つ。
紫州の者がいつ、訪ねて来ても大丈夫なように。
(あの方は、紫堂杏樹さまに取り次いでくれると、真名香に約束してくれました)
真名香は、昼間出会った少年のことを思い出す。
(霊鳥『緋羽根』を連れていた方……確か、月潟零と名乗っていらっしゃいましたか……)
暴走した馬車を停めてくれたのは彼だった。
真名香の話を聞いて、紫堂杏樹に連絡を取ると約束してくれたのも。
その後、月潟零と、彼が連れた兵士たちの案内で、真名香たちは次町に入った。
月潟零は、親切だった。
真名香を憎んでいる様子はなかった。むしろ……痛々しいものを見るような顔をしていた。
次町の兵士たちは、真名香たちを睨んでいたけれど。
それでも真名香は、使命を果たす必要があった。
だから彼女は、紫堂杏樹への取り次ぎを頼んだのだ。
月潟零は『州都に早馬を向かわせます』と言った。
書状を書いて、正式な連絡をすると約束してくれた。さらに彼は『杏樹さまならすぐに決断されます。一両日中にいらっしゃるでしょう』と付け加えていた。
いい人だと、思った。
おそらく彼は、真名香に気を遣ってくれたのだろう。
いくら紫堂杏樹が有能でも、そんなに早く来られるわけがない。
書状が届いてから──次町に来るまで、数日かかるだろう。
州候代理が部下の報告を聞いて、すぐに動くなどありえないからだ。
少なくとも、錬州では。
「お父さまなら、5日間は熟慮されるはずです。その行いが錬州の──ひいては州候の家の利益になるかどうか、考えるでしょう」
真名香の紫州派遣が決まるまでにも、かなりの時が必要だった。
兄の将呉が反対したからだ。
それでも真名香は紫州に来ることを望んだ。
命をかけて使命を果たすことと……あこがれの、紫堂杏樹に会うために。
(【禍神】を討ち果たし、若年にして紫州候の地位を受け継いだ姫君……一体、どのようなお方なのでしょう)
真名香は、ため息をついた。
紫堂杏樹は堂々と州候の地位を受け継いでいる。
真名香は錬州の使者──人質として、ここにいる。
杏樹は紫州の民を背負っている。
真名香は、自分の命さえも自由にできない。
真名香は兄の将呉から杏樹の話を聞いたとき、あこがれた。
一度でいいから、会いたいと思った。
どうすれば彼女のようになれるのか、聞いてみたかった。
「……真名香が錬州候の娘でなければ……ただ、普通に……紫堂杏樹さまにあこがれていられたのに」
真名香は部屋の窓を開けた。
外にいた兵士たちが振り返る。彼らは一斉に、渋い顔になる。
部屋のまわりにいるのは真名香の護衛役の錬州兵だ。
他の者は分散して、それぞれの宿に入っている。
今は護衛隊長の沖津と、その側近だけが真名香の周りを固めている。
使命を果たすまで、真名香にもしものことがないように。
「末姫さま。むやみにお姿をさらすのはおやめください」
護衛隊長の沖津は、たしなめるような口調で、
「……屋敷のまわりには紫州の兵士たちがおります。彼らの前にお姿をさらすのはお控えください。面倒事を避けるためにも」
「紫州の兵は、紫堂杏樹さまの護衛の方が率いていらっしゃるのでしょう?」
真名香は訊ねた。
「あの方は、真名香を助けてくれました。良い方のように思えます」
「末姫さまのお気持ちはわかります。ですが自分は剣士として、あの者が信用できません」
沖津は視線を逸らして、
「あの者は気配もなく、戦場に入り込んできました。あのまま末姫さまに危害を加えることもできたのです」
「気配をさせなかったのは……魔獣に気づかれないためでは?」
「用心すべき相手であることは確かです」
「あの方は『紫州で事故を起こされては困る』とおっしゃったのですよ?」
真名香は反論する。
「あの方が、真名香を助けるために来てくださったことは疑いありません」
「陰でこそこそ動くような者は、剣士として信用できぬのです」
語気を強める沖津。
「『剣士とは正々堂々とした立ち会いを行うもの』──それが、自分が尊敬する村の掟です。邪道の技を使う者を信用はできませぬ、それに、ご覧ください。あちらの屋根を」
言われて、真名香は隣家の屋根に視線を向けた。
屋敷を囲む、高い塀。さらに道を挟んだ先に民家がある。
その民家の屋根の上に──緋色の羽の鳥がいた。
暮れ始めた空の下で、炎のような羽を広げて、じっと真名香の宿舎を見ている。
「……霊鳥『緋羽根』」
「月潟という者は、ああして自分の存在を誇示しているのです。霊鳥がお前たちを見ている。自分はここにいる、と。そんな者が信用に足りるとお思いですか?」
「監視されるのは……仕方ないでしょう」
逆の立場なら、真名香も同じことをする。
錬州に紫州の使節が来たら……おそらくは、周囲に蛇の霊獣『騰蛇』を配置するだろう。
警戒と、監視のために。
「逆の立場だったら、錬州は同じことをするのではないですか?」
「錬州は序列2位。州土の豊かさも違うのです。だからこそ自分はあの村で修行して、『無双剣』の候補者と手合わせすることが……いえ、これ以上は無駄話です。末姫さまは窓を閉め、室内にいてくだされ」
「……承知しました」
言われた通り、真名香は部屋に戻り、窓を閉じた。
目を閉じ、じっと耳を澄ます。かすかに『クルル』という、霊鳥の声が聞こえる。
(真名香は本当に紫州にいるのですね。そして、紫堂杏樹さまにお会いすることになる……)
だったら、できることをしよう。
紫州との関係修復と、共同戦線。
あこがれの紫堂杏樹と話をして、使命を果たす。
(錬州と紫州で発生している異常事態を止めるために。あれは……ひとつの州の力だけでは、止められないものなのですから)
霊鳥『緋羽根』の声を聞きながら、蒼錬真名香は覚悟を決めるのだった。
──零視点──
「それでは杏樹さま、お願いします」
『承知しました。では──』
『精霊通信』で杏樹の声が伝わってくる。
距離は、馬車で1日半。俺が全力で走れば1日足らず。
道に配置した精霊を経由すれば声は届く。
そして『四尾霊狐』と合体した杏樹なら、霊力を届けることもできるんだ。
『紫州候、紫堂暦一の一子、杏樹の名において、この地を我らが社と為す。四方を護持し、邪鬼と邪気を祓い、地の清浄を守らんことを』
──しゃらん。
鈴の音がする。
ふよふよ、ふよふよ。
まわりにいる精霊たちが、光を放ちはじめる。
ここは『狼牢山』の奥。
昼間来たばかりの『邪気払いの社』の前だ。
杏樹には山の状態について説明してある。
社が汚染され、邪気を放っていることを聞いた杏樹の決断は早かった。
『一刻も早く邪気を祓い、山を安定させます』──だ。
今回の事件はおそらく人為的なもので、錬州の末姫は事情を知っているらしい。
けれど、相手の思惑に乗る必要はないんだ。
そもそも、現在進行形で民が困ってるのに、会談は終わるまで待つのは下策だろう。
それに『狼牢山』の側には俺がいる。
俺と杏樹は繋がっている。精霊たちも。
だから、杏樹は俺たちを通して、浄化の儀式を行うことができるんだ。
距離は遠いけれど、杏樹が『四尾霊狐』と合体すれば、なんとかなる。
それに『狼牢山』の邪気は、鬼門の中枢に比べればはるかに弱いからな。覚醒状態の杏樹なら浄化できるはずだ。
そんなわけで──
ふるふるふるふる。
『祓い給え……清め給え』
夜の『狼牢山』に、杏樹の声が響いている。
澄んだ声に合わせて、精霊たちが光を放つ。
『紫州の守護霊獣「九尾紫炎陽狐」の名において、あらゆる邪気を祓わんことを。巫女姫、紫堂杏樹が願い奉る──』
しゃらん。
神楽鈴の音が響くたびに、山の空気が澄んでいく。
社の周囲に残っていた邪気が、消えていく。
昼間、酒をかけて浄化した『魔獣核』も、炎天下に置かれた氷のように、溶けていく。
それを確認しながら、俺は社の裏にある岩場に近づく。
かつて、泉があった場所だ。今は、崩れた岩に埋もれている。
周辺にふりまかれていた魔獣の血は、杏樹の浄化の力にさらされて消滅してる。
だから俺は身体に霊力を循環させて、身体強化。
さらに杏樹と『四尾霊狐』が生み出した浄化の霊力も取り込んで、それを拳に集中する。
「『虚炉流』──『削岩破』!」
俺は前世の知識で言う『発勁』の要領で、霊力を岩場に叩き付けた。
岩が砕けた。
泉の出口を塞いでいたものが消えて──地中から、澄んだ水があふれ出す。
よし。
「こんなものでいいですか? 杏樹さま」
『十分です。ありがとうございます。零さま』
精霊経由で答えが返って来る。
『浄化の儀式としては十分です。これで、山が邪気であふれることはなくなります。あとは社を修復するだけですね』
「それは次町の代官さんにお願いしましょう」
俺は答えた。
「問題は、誰が社に『魔獣核』を供えて、泉を壊したか、ですね」
『はい。誰かが意図的に、社を汚し、邪気を呼び込むための儀式を行ったのは間違いありません。犯人は儀式に詳しい者──陰陽師か巫女、あるいは在野の術者でしょう』
「錬州の末姫は『共通の敵』と言っていました」
『だとすると……錬州でも同じことが行われているのかもしれませんね』
「錬州に同情する必要はないですけどね」
というより、俺はすでに錬州候とその嫡子が嫌いだ。
あいつらは、杏樹を追い出した副堂親子を支援していたんだから。
しかも錬州候は、外交使節として蒼錬真名香を──小さな女の子を寄越した。
紫州の民が錬州に反感を持っているのをわかった上で。
その上、蒼錬真名香は魔獣に襲われたことが原因で、死にかけてた。
俺が馬車を停めなかったら……あのまま岩壁に激突していたか、馬車が横転していたか、馬車から投げ出されていたか……いずれにせよ、無事には済まなかっただろう。
護衛が少なすぎたんだ。
まるで……事故が起こってもいいと思ってるようだった。
そういうやり方は嫌いだ。
自分たちが有利な状況では嫡子を送り込んで、その後の後始末には末姫──州候の継承権もなくて、幼い子どもを送り込む。やり口としては最悪だ。
逆らえない相手に無茶な仕事を振ってるんだもんな……。
「錬州の末姫には……とっとと帰ってもらった方がいいと思います」
俺は言った。
「会談して、必要な情報を手に入れたら、護衛をつけて州境まで送った方がいいですね……あ、もちろんこれは護衛としての、個人的な意見です。杏樹さまや杖也さま、文官の人たちの職分を侵すつもりはありません。差し出口をお許しください」
『そこまで気を遣わなくても大丈夫ですよ。零さま』
杏樹が微笑む気配。
『それに、現場の意見は貴重です。余計なことなどではありませんよ』
「それなら、よかったです」
俺はあくまでも杏樹の護衛で、担当は魔獣や霊力・邪気関係だ。
外交にまで口を出すのは避けた方がいい。
文官や、その長の杖也さんに怒られても困るからな。
杏樹の元での長期雇用を目指す者として、職場の人間関係は大切にしないと。
「そういえば……杏樹さまは今、覚醒しちゃって大丈夫なんですか?」
俺はふと、訊ねてみた。
「覚醒すると杏樹さまは狐耳と九本の尻尾が生えちゃうんですよね? その状態のまま次町に来るのは大変だと思うんですけど」
『大丈夫です。桔梗と杖也と、柏木さまが協力してくれることになってますので』
杏樹から答えが返って来る。
光の精霊が杏樹の姿を映し出す。巫女服で、やっぱり狐耳と九本尻尾が生えてる。
恥ずかしそうに尻尾で顔を隠しながら、杏樹は、
『移動中は、桔梗が替え玉になってくれます。わたくしは夜のうちに、あらかじめ馬車の中に潜むということで』
「……ばれそうになったら呼んでくださいね」
『承知しております』
「約束ですよ」
杏樹の覚醒状態は、俺にしか解除できない。
そして、杏樹と『四尾霊狐』の真の力を知るのは、俺と杏樹の他には桔梗と杖也老、近衛の柏木さんだけだ。
杏樹の真の力は隠しておいた方がいい。
知られたら、他州がちょっかいを出してくるかもしれないし。
「社の浄化は、こんなものですか」
ひとつめの社の浄化は終わった。
山の邪気が、さらに薄れたのを感じる。
「ここには犯人の手がかりは無し。あるとしたら、残り2つの社ですね」
『狼牢山』には3つの『邪気払いの社』がある。
昼間の邪気の濃さから考えると、残り2つの社にも、変な儀式が施されていると考えるべきだろう。
せっかく杏樹が覚醒したんだから、今のうちに浄化しよう。
時刻は夜。忍びがうろつくには、ちょうどいい時間だ。
光の精霊が大量にいるから、灯りは不足していない。仕事柄、夜目も利く。山の邪気も薄れてきたから、精霊たちも自由に移動できる。なにより杏樹が覚醒してるから、精霊たちもやる気十分だ。
今夜のうちに、社は全部浄化してしまおう。
邪気が薄れたことに気づいた犯人が、証拠隠滅をする可能性もある。
その前に、手がかりを見つけておきたいんだ。
紫州のためと、俺の安定した生活のために。
「杏樹さま。そういえば、次町の名産ってなんですか?」
『名産ですか?』
「なんかこう、このあたりでしか獲れない作物とか、珍しいものとか」
『……かなり昔に、次町に行ったお父さまが、果物とも野菜ともつかないものをもらってきたことがあります。真っ赤で酸っぱくて、あまり美味しいものではなかったのですが……』
果物とも野菜ともつかない。真っ赤で酸っぱくて、珍しい。
なんだろう。
「あとで詳しく教えてください。できれば生産者を紹介してくれると助かります」
『は、はい。わたくしも、零さまとお話をするのを楽しみにしております!』
俺と、狐耳の杏樹はうなずきあう。
そうして俺は『軽身功』で宙を駆けながら、次の社へと向かったのだった。




