第39話「錬州の末姫、紫州に向かう」
──錬州の末姫視点──
「承知いたしました。ならば敵中突破を試みるとしましょう」
剣士の沖津は、深々と一礼した。
錬州の末姫である真名香を、丁重にあつかっていることを、皆に示すかのように。
「末姫さまは馬車から出ないように願います。末姫さまも、魔獣と邪気から身を守る方法はご存じでしょう?」
「わかっています。後は任せました」
真名香は馬車に戻った。
それから真名香は、座席に置いた包みを開く。
入っていたのは呪符だ。
「呪符よ。真名香を護り給え──」
真名香は呪符に霊力を注ぎ、起動させる。
さらに、清浄な湧き水の入った筒を傾け、呪符を湿らせる。
濡れた呪符を四方の壁に貼り付ける。
「清浄なる水と呪符よ。邪気より四方を守る壁となれ──」
呪符がぼんやりとした光を放つ。
これで清浄なる霊力が、馬車を守ってくれるはず。
「真名香にできるのは……こんな、簡易護身の術くらいですが」
真名香はゆっくりと、深呼吸した。
周囲の邪気が弱まっているのを感じる。呪符の効果だろう。
真名香が行ったのは、呪符で馬車の中に結界を作るものだ。
範囲は狭く、持続時間も短いが、急場しのぎにはなる。
「紫堂杏樹さまは……兵士の一団を包み込むほどの結界を張ることができると聞いていますが……さすがに、ただの噂ですよね」
そんなことができる者は、錬州にもいない。
錬州の巫女姫──真名香の姉でも不可能だ。
錬州は豊かだが、霊力や霊獣の能力では、他州に遅れを取っている。
州候が資金を出し、様々な術を研究させているのはそのためだ。
それらを管理しているのが、長兄の蒼錬将呉だった。
末姫の真名香にとって、将呉は気軽に話せる相手だ。
彼が数年前から、得体の知れない少女を側に置くようになったのは、気に入らないけれど。
「将呉兄さまは、あの女にたぶらかされているのです」
その結果、将呉は紫州への対処に失敗し、謹慎処分を命じられた。
【禍神】を呼び出す一因となったことが、処分の理由だった。
【禍神】の噂は、他州へも伝わっているはず。
その責任が錬州にあると、知っている者もいるだろう。
それは錬州の交易や、他州との交流にも影響を及ぼす。
影響を抑えるには、一刻も早く、紫州との関係を修復する必要があるのだ。
そのために錬州候は真名香を派遣したのだろう。
真名香を使って、最大の利益を得るために。
「真名香も州候の娘です。覚悟はできております」
まずは、紫堂杏樹に会わなければいけない。
こんなところで足止めされている場合ではないのだ──
『ブルゥゥウウウウウウ!! ヒヒィィーーーーーーン!』
ガタッ。ガタガタガタガタガタガタッ!!
真名香がそんなことを思ったとき、馬の叫び声が響いた。
同時に、馬車が激しく揺れ始める。
(……な、なにが起きたの!?)
真名香は、馬車の前方にある窓に飛びついた。
外を見ると……馬が、暴走を始めていた。
激しく首を振り、口から泡を吹いている。身体に掛かっているのは、赤黒い血だ。
(ど、どうして!? 御者は……!?)
馬車の御者は、御者席で倒れていた。
その身体に覆い被さっているのは──
(──ま、魔獣の死体。【アオヤミテンコウ】……の!?)
青い羽根を持つ天狗は、御者にしがみつくようにして死んでいた。
胴体には深い傷がある。
赤黒い血がまだ、ぶしゅ、と、噴き出している。
魔獣は、よほど強い力でしがみついたのだろう。
御者の身体には、深々と、魔獣の爪が食い込んでいる。
御者が生きているかどうかはわからない。
彼はたづなを手放し、だらん、と、御者席で倒れている。身体の半分が席からはみ出しているが、それに気づいた様子もない。
気絶しているか……あるいは、死んでいるのだろう。
「────めろ。誰か! 馬車を停めろ──っ!」
沖津の声が遠ざかっていく。窓の外の景色が、恐ろしい速度で流れて行く。
馬車は激しく揺れながら疾走していた。
魔獣の血を浴びた馬は興奮状態だ。
馬車は道を外れ、でこぼこした路肩へとさしかかる。
激しく揺れる馬車の中で、末姫真名香は座席へとしがみつく。
(こ、このままでは……馬車が保ちません。でも、どうしてこんなことに……)
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すべては馬車の外で起きていた。
真名香の護衛である沖津は『銀糸鞘』の剣士だ。
彼が連れている霊獣『騰蛇』は風を操る。
その力を借りた剣士は、空気を裂き、離れた敵を斬ることができるのだ。
だから沖津は、急降下する【アオヤミテンコウ】を、空気の刃で斬り捨てた。
魔獣は一撃で胴体を裂かれたのだったが──
──落下した魔獣が、真名香の馬車に激突することは防げなかった。
御者の男性は魔獣の体当たりを受けて、気を失った。
操る者を失い、魔獣の血を浴びた馬は、我を忘れて暴走をはじめたのだった。
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(馬車を停めなければ……)
このまま走り続けたら、馬車ごと転倒するか、岩壁に激突する。
どちらにしても、最悪の未来だ。
真名香は座席にしがみつきながら、必死に窓を叩き続ける。
御者は目を覚まさない。
息絶えた魔獣の目が、恨みがましく真名香を見ているだけだ。
(真名香に力があったら……窓ごしに御者と馬を癒やすことができたのに……)
真名香の力はそういうものではない。
『末姫は使えない。忌まわしい』──それが錬州での評価だ。
真名香が紫州へと送り出されたのはそのためだ。
本人も納得しているし、覚悟も済ませている。
それでも無力さに涙が出そうになる。
──命に替えても役目を果たさなければいけないのに。
──そのために真名香は生きているのに。
──せめて、死ぬなら、努力したことをみんなに示さないと。
真名香は馬車の扉に手を掛ける。
扉を開け、いちかばちか飛び出そうとした──とき、
「……紫州で事故られるのは困るな」
声がした。
馬車の前方からだ。
思わず真名香は前方の窓に目を向ける。
着流し姿の背中が見えた。
背中には白木の鞘の太刀。手には弓を持っている。
「……誰」
見たことのない少年だった。
いつの間に、御者席にやってきたのだろう。
「ああ。魔獣の血と邪気を浴びたのか。そりゃ馬も興奮するよな」
少年は【アオヤミテンコウ】の遺体を、「てい」っと馬車から蹴り出し、手綱を握る。
数回、停まるように指示を出す。馬は反応しない。
それを見た少年は、弓を構えた。
びぃん。
弓弦の音が、響いた。
びぃん。びぃん。びぃん。
『……ぶるる』
やがて、馬が速度を落とし始めた。
少年が行った儀式を、真名香は知っている。
弓弦の音で周囲を浄化する『鳴弦の儀』だ。
馬は魔獣の遺体と血に含まれる邪気に怯え、異常な興奮状態になっていた。
少年は『鳴弦の儀』で、その邪気を弱めたのだ。
だから、馬は落ち着いたのだろう。
(……すごい)
真名香は思わず息をのむ。
少年は暴走した馬車を見つけて、気配もなく乗り込んできた。
その上、即座に状況を見極めて、『鳴弦の儀』を行ったのだ。
判断力と行動力。
さらに、暴走している馬車に乗り込む身体能力。
邪気を払う、霊力。
これだけの能力を備えている者は、錬州にも少ないだろう。
(……やはり、紫州はあなどれません)
兄の将呉は間違っていた。
紫州は利用したり、敵に回すべき相手ではないのだ。
「紫州の方とお見受けいたします!」
馬車が停まるのを待ち、真名香は外へと飛び出した。
「危ないところをありがとうございました。真名香は……いえ、わたしは錬州の末姫、蒼錬真名香と申します。お名前をお聞かせいただけませんか!?」
「……月潟零と申します」
少年は地面に降りて、一礼した。
「許可もなく馬車に乗り込んだことをお詫びします。緊急時ということで、お許しいただければ」
「もちろんです。あなたは、紫州の方ですよね?」
「はい」
少年の答えは短かった。
表情も固い。こちらを警戒しているのだろう。
(警戒されるのは……当然ですよね)
錬州が副堂親子による『紫州乗っ取り』に協力したことは、民も知っているはず。
紫州の者が、錬州に好意を持つ理由はない。
それでも真名香が名乗ったのは、そうするべきだと思ったからだ。
どのみち、馬車には錬州の旗印がある。身分は隠せない。
ならば、助けられた者の礼儀として、堂々と名乗るべきだろう。
「末姫さま! ご無事ですか!!」
護衛の沖津が駆け寄ってくる。
おしゃれな青年のはずだが、着物には魔獣の返り血がべっとりとついている。
慌てて魔獣を斬り伏せてきたらしい。
「……末姫さま。こちらの者は」
駆けつけた沖津が、素早く真名香の前に移動する。
彼女をかばうように立ち、少年を見据える。
「この方が馬車を停めてくださったのです。真名香の恩人ですよ」
「そ、そうですか。これは失礼」
沖津は魔獣の血に濡れた太刀をぬぐい、銀糸の鞘に収めた。
それから、少年に向かって一礼し、
「無礼を許してくれ。末姫さまを救ってくれたことに感謝する」
「いえ、通りがかっただけですから」
「……偶然? 霊鳥を連れた者がか?」
沖津は少年を見据えながら、訊ねる。
答えるように、少年の肩で緋色の鳥が『クルル』と鳴いた。
真名香は思わず目を見開く。
緋色の羽。長い尻尾。炎を宿した霊力。兄の将呉から聞いていた姿と同じだ。
あれは紫州候の霊鳥『緋羽根』だろう。
それを連れているということは──
「紫堂杏樹さまの、側近の方でいらっしゃいますか!?」
真名香は、沖津の横をすり抜け、前に出た。
「お願いがございます。どうか、紫堂杏樹さまの元へとお連れください。真名香はあの方にお目にかかるために、紫州へ来たのです!」
「杏樹さまに会うために?」
「はい。錬州の過ちを正すために」
真名香は深呼吸して、告げる。
視線は逸らさない。
弱くとも怯まない。嘘は吐かない。
それが錬州の末姫、蒼錬真名香の在り方だった。
「錬州は紫州との関係修復を願っております。そして、共通の敵へと立ち向かうことを望んでいるのです! 一命をかけて願います。紫堂杏樹さまに会わせてください!!」
少年、月潟零を見つめながら、真名香は精一杯の声をあげたのだった。