第35話「錬州での出来事」
──錬州の州都にて──
ここは、錬州の州都。
そこにある州候の屋敷の離れで、錬州候の嫡子、蒼錬将呉は書類を読んでいた。
「まさか、私が紫州担当から外されるとはね」
書類を置いて、将呉はため息をついた。
「さすがに父の判断は予想外だったよ。師乃葉」
「申し訳ございません。錬州候さまのご意志を察することができませんでした」
将呉の前で参謀、師乃葉は深々と頭を下げた。
「もう少し早くわかれば、対処もできたのですが……」
「父の周囲には近衛と、手練れの術者が揃っている。師乃葉が近づけぬのも無理はない」
将呉は「気にするな」と付け加え、手を振った。
鬼門での事件の後、錬州では会議が行われた。
『紫州乗っ取り』に関与したことが成功だったか否かを決めるためだ。
結論は『部分的成功』だった。
錬州が副堂勇作を支援したのは、紫州に傀儡政権を作るためだ。
万一、煌都と争いになったときに、紫州を緩衝地帯とするために。
紫堂杏樹を手に入れようとしたのも、彼女を錬州の力として使うためだ。
錬州候は、紫州を追われた杏樹を自分の子と婚姻させることも考えていたのだ。
だが、『紫州乗っ取り』は副堂勇作の敗北で終わった。
原因は『二重追儺の儀』が書き換えられたことにある。
そのせいで、予想外の【禍神】までが召喚されてしまった。鬼門にも巨大な破壊がもたらされた。
錬州は、そんなことは望んではいなかった。
錬州候が欲したのは、自分たちが操ることができる、安定した紫州だ。
田畑が荒れ果て、村が破壊されてしまったら意味がない。
結局、【禍神】は祓われ、紫堂杏樹は紫州を取り戻した。
副堂親子は逃亡した。その行方は今もわからない。
錬州は、なにも得ることなく終わってしまった。
『部分的成功』というのは、単に錬州が傷つかなかったというだけでしかない。
現在の紫州政権において、錬州への感情は最悪だろう。
その責任を、誰かが取らなければいけなかったのだ。
「最も紫州と関わっていたのは、この将呉だ。責任の在処を示すために、紫州担当から外されるのもやむを得まい」
蒼錬将呉は肩をすくめた。
「私としては……紫堂杏樹に会ってみたかったのだがね。彼女がどうやって【禍神・斉天大聖】を祓ったのか、ぜひ聞いてみたいのだよ」
「お勧めしません。【禍神】を祓ったその力で、復讐される可能性があります」
「そのような力で報復されるのなら本望だ。いっそ錬州の嫡子という立場を忘れ、紫堂杏樹どのと語り合うのも……いや、すまぬ。冗談だよ、師乃葉」
言いかけた将呉は、手を振ってごまかした。
「いずれにせよ、紫州も苦労が絶えぬな。それには同情するよ」
「動乱の後となれば、仕方ないのでしょう」
「副堂勇作どのは錬州と煌都の両方を利用しようとしていた。その副作用だろうな。怪しい連中が、出入りするようになっているというのは」
「錬州と紫州の境界……『狼牢山』に、ですね」
「次町のすぐ側だ。あの地に問題があるとすれば、父も放置できまい」
『狼牢山』とは、錬州と紫州の境界にある山のことだ。
錬州と紫州の間には山脈がある。
背の低い山を抜ける街道が、2つ州を繋ぐ唯一の道だ。
街道がある山を『狼牢山』とを呼ぶ。
遠くから見た山が、狼が伏せた姿をしていることと、冬には雪で通りづらくなることから『閉じ込める』という意味の『牢』が使われている。
錬州にとっても紫州にとっても、重要な場所だ。
そして、錬州から狼牢山を抜けた先にあるのが次町──副堂勇作が治めていた町だった。
「錬州の方々が『紫州を乗っ取り』に協力する見返りとして、副堂勇作どのは、あの山を差し出すとおっしゃったのでしたね」
「あれは毒まんじゅうだよ。断った父は賢明だった」
副堂勇作への支援は、おおっぴらに行うものではない。
州境が変わることになれば、他州や煌都へも届け出が必要となる。
そうなれば、『紫州乗っ取り』に錬州が関わっていると宣伝するようなものだ。
他州、あるいは煌都からの介入を招くことになる。
「副堂勇作どのには、それがわからなかった」
「あの方の行方は、いまだにつかめておりません」
「錬州に来なくて幸いだ。そうなれば、紫堂杏樹に突き出すことになっていただろう。あの方は、面倒事を残してくれた。それが今も災いをなしている」
「錬州と紫州の州境……『狼牢山』の件ですね」
師乃葉は資料を手に、うなずいた。
「あの山で異常が起きていることは、すでに報告を受けております。だからこそ錬州候は、紫堂杏樹どのとの関係修復をすべきだと判断されたのでしょう」
「父の考えはわかる。『狼牢山』は要の地だ。錬州にとっても、紫州にとってもな」
蒼錬将呉は壁にかかった地図を見上げた。
かつて、副堂勇作が彼に贈ったものだ。
将呉が副堂勇作から手に入れた価値あるものはこれだけだった。
地図には紫州の、次町周辺が描かれている。
次町から北に向かえば『狼牢山』。その先が錬州だ。
『狼牢山』の付近には、錬州と紫州を繋ぐ街道が何本もある。
そんな要の場所を、副堂勇作はぞんざいに扱っていた。
錬州にも報告が入っている。
紫州に向かう商隊が、『狼牢山』で魔獣に襲われたと。
魔獣と戦おうとした衛士が、異常な吐き気とめまいに悩まされたと。
「おそらく『狼牢山』で、なんらかの術が行われたのでしょう」
参謀の少女は地図の一点を見つめながら、そう告げた。
「それが山の霊気を乱して、人々の害を与えているのだと思われます」
「はぐれ者の術者集団の仕業だろうな。他州か、あるいは煌都の」
「どちらにしても対処のためには、紫州の協力が必要です」
「そうだな。父が紫堂杏樹どのに使節を送ったのも、そのためだろう」
将呉は苦い口調で、
「虫のいい話だ。副堂勇作が消えたとたん、手を結ぼうと言うのだからな。利害を第一に考える錬州の、本領発揮というものだ。しかも、そのために最も弱い姫君を使者に出すのだからな」
「妹君のことがご心配ですか。将呉さま」
「山の異常。紫州の思惑。父の計画。私のまわりに、安心できるものなどなにもないよ」
将呉は苦々しい口調で答える。
「なのに、使節の責任者となったあの子は……まともなのだ。錬州という場所にあって、煌都との軋轢を見てきたというのに、純粋さを保っている」
「お気持ち、お察しいたします」
師乃葉は言葉を切った。
言いにくそうにしている彼女を見ながら、将呉は、
「私の気持ちはどうでもよい。師乃葉、参謀としての言葉を告げよ」
「錬州候さまは、利害を考えるお方です」
「そうだな。わかっている。理解しているよ。私も」
恨みを買っているのがわかっていながら、使者を送る。
それには関係修復の他にも、もうひとつ目的があるのだろう。
将呉も、参謀師乃葉も理解している。
だが、口には出さない。
錬州候への批判になるからだ。
どこにでも目はあり、耳はある。
将呉の弟妹の手の者が入り込んでいる可能性もある。
うかつなことは、口に出せないのだった。
「あの子は、ただ、羽を伸ばしてくればいい」
ふと、将呉はそんなことを口にした。
「あの妹には、それが似合いだろう。紫州との交渉が不首尾に終わるのなら、ただ、旅を楽しみ、羽を伸ばしてくればいい。これは私の本心だよ。師乃葉」
「はい。将呉さま」
将呉は窓を開けて、東の空を眺めた。
あの方角──山を越えた向こうに紫州がある。
謎に満ちた州だ。一説によれば、神に近い霊獣が棲まう場所だとも言われる。
西の方の窓を開けると、港が見えた。
錬州の交易の要となる、大港湾だ。
ただ、同じように港を持つ煌都と、錬州は交易の権利を常に争っている。
将呉が幼いころから、ずっと。
たぶん、永遠に終わらないのだろう。
錬州は煌都に近すぎるのだ。
だから常に錬州候は、煌都の介入を恐れている。将呉の父も、祖父も。たぶん、その先代も。
「錬州の船乗りにでも生まれればよかったな。そうすれば、どこへでも行けただろうに」
「……生まれをお嘆きになっても、仕方ないかと」
「……ああ、そうだな。すまない」
師乃葉の声を聞き、即座に将呉は詫びる。
生まれを嘆く──それは、師乃葉の前では、してはいけないことだった。
ここよりも遙かに進んだ世界の記憶を持ち、そのせいで苦労してきた彼女に比べれば、将呉の不満など、取るに足りないものなのだから。
「では、生まれてしまった者同士、策を練るとしよう」
「はい。将呉さま」
将呉と師乃葉は打ち合わせを始めた。
紫州に存在する力と、危険性。その情報を得るための策を。
そして、再び将呉が錬州の主導権を握る──その計画について。
・用語解説
『狼牢山』
紫州と錬州の境目にある山。
周辺には紫州と錬州を繋ぐ、数本の街道がある。
街道を紫州側に抜けると、『次町』に出る。