第25話「術者、破られた術の代償を支払う」
──同時刻、紫州の州都にて──
「ああああああああああああああああああああっ!!」
州候の屋敷に、沙緒里の絶叫が響き渡った。
「こわれた……術が……私の霊力が壊れ……ああ、ああああああああああっ!!」
「沙緒里、しっかりするのだ! 沙緒里!!」
父の──州候代理の声など、沙緒里の耳には届かない。
彼女は身体をかきむしりながら、床を転げ回る。
痛みが、全身を駆け巡っている。
彼女の身体にある霊力の流れ──霊脈が激しく脈打っている。焼けるような熱と痛みが止まらない。
逃げ場はない。痛みの源は、自分の身体の内側だ。
すぐ側に、巨大な猿猴の気配を感じる。
それが沙緒里から、すべての霊力を引きずり出そうとしている。
それは、邪悪な儀式の代償だった。
儀式が果たされたのなら、【禍神】は杏樹を生け贄にできた。
沙緒里の代償は、儀式に使う霊力だけで済んだはずだ。
だが、『二重追儺』の儀式は破壊された。
杏樹を喰らうことができなかった【禍神】は、術者である沙緒里から、その代償を奪うことにしたのだ。
「ああああああああああっ!!」
沙緒里は喉がかれるほどの叫びを上げる。
自分が腕を振り回しているのにも気づかない。
膳がひっくり返り、料理が飛び散る音にも。熱い汁物が、自分の脚を灼く痛みも。
(──痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!! なにこれ! これはなに! なんなのよぉ!!)
力が抜けていく。
霊力を感じる力が、消えていく。
「助けて……沙緒里を助けて! 『緋羽根』! ひはねぇ!!」
『?』
沙緒里の叫びに、霊鳥は答えない。
意思が、通じていない。
紫州の霊鳥『緋羽根』は、沙緒里を見て、首をかしげただけ。
まるで初めて出会った人間を前にしているかのようだった。
そして──
「な、なんだ!? 『緋羽根』が炎を!?」
「お嬢さま……籠が、籠が燃え落ちて……」
誰かが叫んでいる。
沙緒里が目を開けると、『緋羽根』を閉じ込めていた籠が、焼け落ちるのが見えた。
『緋羽根』は全身から炎を噴き出している。
部屋が深紅の光に満たされる。
まるで、ここだけ真昼になったようだ。
『クルル?』
籠を破壊し、自由になった『緋羽根』は外を見た。
方角は、北東。鬼門のある方だ。
そこに大事な者を見いだしたかのように、霊鳥は翼を広げる。
『クルル──ッ』
「待て! どこへ行くのだ! 待ってくれ『緋羽根』!!」
州候代理の声は、『緋羽根』には届かない。
『緋羽根』は籠の残骸を蹴り、飛び立つ。
そのまま窓を蹴破り、外へ。
霊鳥『緋羽根』は、手の届かない場所へと飛び去って行った。
「……どうしてこんなことに。沙緒里。大丈夫か! 沙緒里!!」
州候代理が、娘の沙緒里を抱き起こす。
彼女の身体に触れた州候代理の顔が、真っ青になる。
「な、なんだ……この熱は。なにが起こったというのだ!?」
「……こわれ、ました」
「な、なんだと?」
「『二重追儺』が…………破られました。呪符が破壊されて……【ヨミクラノヤミオニ】が……」
──違う。
違和感に気づいて、沙緒里は弱々しく頭を振る。
倒されたのが【ヨミクラノヤミオニ】ならば、ここまで強い『呪詛返し』は来ない。
沙緒里は、目を閉じる。
まぶたの裏に、巨大な猿猴の姿が浮かぶ。
(……【ヨミクラノヤミオニ】…………いえ、これは……【禍神】?)
その姿を見て、沙緒里は鬼門に行ったときのことを思い出す。
あの地で、彼女は儀式を行った。
煌都から来た神官と共に。
忘れていた……いや、忘れさせられていた。
あの儀式を行うには、沙緒里だけでは霊力が足りなかった。
だから、神官たちが協力してくれた。沙緒里に「指示通りの祝詞を唱えるように」と言った。力を貸す代わりに、すべてを自分たちの言う通りにするように、と言ったのだ。
沙緒里は、その通りにした。
彼女の記憶があいまいになったのは、そこからだ。
(あいつらは……呪符をすり替えて……儀式を書き換えたの……?)
他に考えられない。
煌都から来た神官たちは、『二重追儺の儀』に介入し、儀式そのものを書き換えたのだ。
蒼錬将呉から教わった【鬼】を召喚するものから【禍神】を召喚するものに。
(あいつらは……他に……なにを……言っていましたか……?)
少しずつ、記憶がはっきりとしていく。
儀式の時に聞いた神官たちの言葉を、思い出す。
神官たちが口にした言葉は──
『──あなたには才能がある』
『──母君は、これくらいできた』
『──術式は我々が書き換えて差し上げましょう』
『──あなたは、紫堂杏樹の死を望んでいるはずなのだから』
(……違う)
そんなこと、望んでいなかった。
沙緒里が望んでいたのは、杏樹に勝つことだ。
州候の娘としての地位も、霊鳥『緋羽根』も失い──行くべき場所も失い──。
そうして、寄る辺のなくなった杏樹に、沙緒里はこう言うのだ。
『負けを認めるなら、沙緒里の側にいてもいいわよ』
『沙緒里の下にいなさい。仕えなさい』
『それがあなたの、唯一の生きる道なのだから』
杏樹が死ぬことなど、ひとかけらも望んではいなかった。
(……なのにどうして。沙緒里は……さおりは!!)
沙緒里は全身をかきむしる。
身体中を走るのは、血管を引き抜かれるような激痛だ。
だか、引き抜かれているのは、彼女の霊力だ。
沙緒里の霊脈が破壊されて、すべての霊力が失われようとしている。
彼女自身が召喚した【禍神】が、沙緒里に代償を求めているのだ。
信じられなかった。
かすかな記憶の中にあるのは、人の数倍の体長を持つ、巨大な猿猴だ。
神官たちは、異界の神だと言っていた。
それは大きすぎ、強すぎ、邪気が濃すぎた。
この世界の霊獣や魔獣とはまったく違う。存在自体が別物だった。
なのに、術は破られた。
ありえないことだが、事実だ。
煌都の神官と協力して召喚した【禍神】──神が、倒されたのだ。
神は消える前に、沙緒里に代償を求めている。
杏樹を喰らうことで得られるはずだったものを。
なのに──
(……どうしてさおりはまだ、いたみをかんじてるの…………)
あれは杏樹を殺すための呪詛だった。
それが破られたのなら、沙緒里は絶命しているはず。
召喚した【禍神】の怒りによって、潰されていてもおかしくない。
なのにまだ、生きている。痛みを感じている。
沙緒里は絶望と敗北感に打ちのめされながら、呼吸している。
消えていくのは命ではなく、霊力。
さらに、霊力と関連した記憶──巫女姫としての知識と技術も消え去っていく。
霊力が感じ取れない。
自分がどうやって術を使っていたのかも、わからない。
それは、ある意味、穏やかな呪詛返しだったのだろう。
零は呪符を、霊力に沿って断ち切った。
【禍神・斉天大聖】そのものには、一切の傷を与えなかった。
だから、沙緒里は霊力と霊脈を失うだけで済んでいる。
沙緒里は、生きながらえる。
二度と、杏樹に対抗することはできないけれど。
杏樹に勝つという彼女の夢は、決して、叶うことはなくなるけれど──
(いやだぁ……いやだあああああああああっ! 殺して、殺してよおおおおお!)
泣き叫びながら、沙緒里は胸をかきむしる。
これは杏樹の怒りだろうか。
杏樹は、沙緒里からすべての能力を奪い、ただの人間にしようというのか。
そう考えて、沙緒里はすぐさま否定する。
杏樹はそんなことはしない。
そんなことはしない人間だからこそ──沙緒里は、憎んだ。
絶対に敵わないから。
州候や巫女姫の地位を奪っても、杏樹は揺るがなかった。
沙緒里は神官の力を借りて行った呪詛さえも、破壊した。
彼女にどうすれば勝てたのか……もう、わからない。
(なんなのよぉ。杏樹姉さんは、どうして私にこんな思いをさせるの!? どうして見下してくれないの!? どうして殺してくれないの!!)
勝てなかった──杏樹に負けた。
勝ち、負け? どうすれば勝ち? どうすれば負け? わからない。
自分はどうしてこれほど杏樹を憎んでいたのか。
どうして巫女姫の地位を奪うだけで満足しなかったのか。
どうして、殺そうとしたのか──
『沙緒里。あなたの方が、杏樹よりもすぐれているのです』
それは、亡き母の言葉だ。
『命令です。それを周囲にわからせなさい。母が煌都から嫁いできたのは、こんな村の代官の妻になるためではないの』
『お父さまは駄目でも、あなたは違うでしょう?』
『杏樹に勝ちなさい』
『強い力を持つ州候は、この国には不要』
『偉大なる皇帝陛下にお仕えする、巫女衆の娘として──すべては、陛下のために』
繰り返し、繰り返し、埋め込まれた言葉。
いつか自分の血となり肉となり、骨となっていた。
自分のものだと思い込み、母が死んだあとは、父の耳に吹き込み続けた。
そうして、父が煌都から神官を連れてきたとき、彼らを無条件で、信じた。
将呉から教わった術のことも、話した。
助言を受けた。指導を受けた。『二重追儺』も、手伝ってもらった。
彼らの名前も、顔も、今は思い出せないけれど。
「……かぁさま、さおりはどうやって、あんじゅねえさまにかてばよかったの……」
(……勝つって、なに?)
やがて、母の言葉も、彼女の記憶から消えていく。
からっぽになった沙緒里の中に残ったのは──
(……本当は私は、杏樹姉さまと一緒に)
──そんな言葉を思い浮かべたあと、沙緒里は意識を失ったのだった。
州候の屋敷から副堂親子が姿を消したのは、その翌朝のことだった。
次回、第26話は、明日の夕方くらいに更新する予定です。