第22話「副堂沙緒里、禁断の儀式について語る」
──その頃、紫州の州都では──
「杏樹姉さまがいけないのです。私は、ここまでするつもりはなかったのに」
沙緒里は、座卓に置かれた本に触れた。
錬州候の嫡子、蒼錬将呉からもらった本だ。
そこには高貴な者のみが知るという術と、そのやり方が記されていた。
術の名前は『二重追儺』。
『追儺』とは、邪悪なものを追い払い、福を招く儀式のことを指す。
『二重追儺』は、対象を指定することで、それをより強化するものだ。
人によってはこれを『呪詛』、あるいは『呪い』と呼ぶだろう。
だが、構わない。
沙緒里が杏樹に勝つ方法は、これしかなかったのだから。
「杏樹姉さまが紫州にいらっしゃる限り、お父さまの願いも……亡くなったお母さまの願いも……叶いませんもの」
杏樹の名前を口にするたび、沙緒里の身体は震える。
それが嫉妬によるものか、怒りによるものなのか、もう、わからない。
ずっと付き合ってきたその感情は、沙緒里の一部になってしまっている。
小さいときのことを覚えている。
杏樹が、霊獣と語り合うのを見たとき、沙緒里は『敵わない』と思った。
霊獣とは、霊力で押さえつけて、支配するものだ。
沙緒里もそうしてきた。
力が足りないときは、呪符や、霊力を増す補助具を使ってきた。
なのに杏樹は自然と霊獣を従わせていた。
契約をすることもなく、まるで、彼らの長年の友達であるかのように。
その時の沙緒里は純粋に『うらやましい』と思った。
自分にできないことをする杏樹を、無邪気に尊敬することができた。
その気持ちが嫉妬と怒りに変わったのは、いつからだったろう。
5年前、杏樹とその父が襲撃された事件に、副堂の者は関わっていない。
ただ、『いい気味』だと思った。
これで杏樹も、変わるだろう。心が折れてしまうだろう、と。
襲撃者の悪意にさらされ、自分のせいで人が死んだのだ。
沙緒里だったら耐えきれない。
巫女姫の地位など投げ捨てて、ただの少女になっていたかもしれない。
けれど、再会した杏樹は、さらに成長していた。
襲撃事件は彼女を強くしただけだった。
州候の娘としての覚悟を決めた杏樹は、さらに遠い存在になっていたのだ。
(…………どうして沙緒里が、こんな敗北感を味わわなければいけないの)
そんなことは、ありえないはずだった。
沙緒里の母は、煌都の巫女衆の出身だ。
煌都の巫女衆と陰陽寮は強力な霊力を持つ、最強の術者の集団でもある。皆から仰ぎ見られ、尊敬される者たち。
その一人が、沙緒里の母だった。
巫女衆と陰陽寮の者たちは、皇帝陛下を支えるために存在している。
その選考は、おそろしく厳しいことで有名だ。
能力、性格、血筋さえも調べられ、高倍率の試験を受けなければならない。
それだけの関門を通り、さらに陛下と高官たちが認めた者だけが、巫女衆と陰陽寮に所属できる。首都である煌都に住み、皆に尊敬される存在となるのだ。
沙緒里の母は、そんな巫女衆を辞めて、副堂の家に嫁いだ。
父が煌都に行ったときに、母を見初め、熱心に口説いたのだと聞いている。
結婚したとき、父は天にものぼる心地だったそうだ。
『──煌都の巫女が、私を認めてくれた』
『──なんと光栄なことだろう』
『──兄の暦一に、この気持ちはわかるまい。あの方は庶民の娘を嫁にしたのだからな。なんとまぁ、人を見る目がない人だ』
当時の父はそんな言葉を繰り返していたと、沙緒里は、側近の者から聞いたことがある。
父の気持ちは、よくわかる。
沙緒里も父と同じくらい、亡き母を誇りに思っているからだ。
『──沙緒里。あなたには力があるはず』
だから──沙緒里は母の言葉を、ひとつ残らず覚えている。
『わたしの血を引いているのですもの。こんな小さな町の代官の娘で終わるはずがないの』
『わたしの血を引いているのですもの。もっと、霊力は強いはず』
『わたしの血を引いているのですもの──絶対──に──逆らうことは──』
「…………大丈夫です。お母さまの願いは、叶います」
母は、杏樹に対する沙緒里の想いを、正してくれた。
小さなころの沙緒里は、どうかしていたのだろう。
杏樹を尊敬して、あこがれるなんて……そんなこと、あってはいけないのに。
あやまちは、正さなければいけない。
自分は──沙緒里は、杏樹より上でなければいけない。
父はいつまでも、紫州候の配下であってはいけない。
それは父にも、わかっていたのだろう。
杏樹の父、紫堂暦一が病に倒れたとき、沙緒里の父は迷わなかった。
以前より交流があった錬州候の力を借りて、州候代理の地位をもぎとった。
杏樹たちは必死に紫堂暦一を逃がしたようだが、そのせいで対応が遅れた。
沙緒里の父と、錬州候による紫州の乗っ取りを、防ぐことができなかったのだ。
そうして杏樹は沙緒里のもくろみ通り、鬼門へと追放された。
「でも、杏樹姉さまには、この紫州から消えてもらわなければいけません」
沙緒里は卓上の書物に触れながら、ほくそ笑む。
「杏樹姉さまには生きて、沙緒里たちの栄華を見届けていただかなければ、ね。そのために将呉さまは、沙緒里に『二重追儺』の呪術書をくださったのですから」
1ヶ月と少し前、沙緒里は少数の部下を連れて、鬼門に向かった。
その最奥の社で行ったのが『二重追儺の儀』だ。
それは鬼門にたまった邪気を利用し、【鬼】を召喚するもの。
その【鬼】に杏樹を襲わせるための儀式だった。
儀式の日、沙緒里はすべての霊力を使って、【鬼】を喚んだ。
声は、届いた。
呪詛は完成した。
【鬼】はゆっくりと、時間をかけて、この世界へと出現する。
杏樹が鬼門に着くのと、時を同じくして、あの土地には強力な【鬼】が出現するはずだ。
儀式で喚ばれた【鬼】は、周囲に被害をもたらしながら、杏樹を追う。
杏樹を喰らい、取り殺そうとする。
黄泉より出でる漆黒の邪鬼。
その名は【ヨミクラノヤミオニ】。
それは、死後の世界に棲まう鬼だ。
生者をうらやみ、死へと引きずり込みたがる習性があるため、狙った獲物を追い続ける。
霊獣のいない杏樹には、祓えまい。
祓えたとしても時間がかかる。その間に被害が出る。
そうすれば周囲の者は、杏樹こそが被害をもたらすものだと知るはずだ。
そうして杏樹自身も『追儺』によって、追われる者となる。
そうなったら沙緒里は兵を出し、【鬼】と杏樹を紫州から追い払う。
『【鬼】に取り憑かれた杏樹は、それだけの邪気と、罪を背負っている。巫女姫である副堂沙緒里の手によって、紫州より追放されなければいけない』
──沙緒里自身が、そう宣言することで。
それで『二重追儺』の儀式は完遂されるはずだ。
(なんとすばらしいことでしょう)
ずっと沙緒里を──いや、母を悩ませてきた杏樹はいなくなる。
紫州は名実ともに、副堂親子の者となる。
そうして、沙緒里は錬州候の嫡子と添い遂げる。
そうして沙緒里は──母の願い通りに──杏樹を超える。
その上、沙緒里の子は紫州と錬州を継ぐことになるのだ。
亡き母もきっと、褒めてくれるだろう。
沙緒里の未来は輝いている。目がくらみそうになるほど──
「…………あら?」
不意に、沙緒里は目眩を感じた。
座卓に手を突き、倒れそうになる身体を支える。
「少し……疲れているようね」
『霊鳥継承の儀』で霊力を使ったからだろうか。
あれは難しい儀式だった。
神官たちが補助してくれなければ、沙緒里が霊鳥【緋羽根】と契約するのは不可能だっただろう。
助けてくれたのは、煌都から来た神官たちだ。
父が呼んだのだろう。亡き母の知り合いだと聞いている。
話術が巧みな神官たちだった。
だから沙緒里は、杏樹を追い払うことについても相談した。
(そうしたらあの人たちは……【鬼】では不足だと…………【ヨミクラノヤミオニ】では足りないと)
沙緒里の母の気持ちを、もっと尊重するべきだと──
杏樹を消したいのならば、もっと強力なものを呼び出すべきだと──言って。
ぱさり。
沙緒里の手が滑り、書物が畳の上に落ちる。
畳の上で広がった書物には、ところどころに書き込みがあった。
朱筆で、術のやり方が書き換えられている。これは、最初からあったものだろうか。
不思議に思って手を伸ばすと、書物に挟まっていた呪符が、はらり、と滑り出た。
呪符には呼び出すべき者の名前が記されている。
【ヨミクラノヤミオニ】──と。
「この呪符は……持ち帰るものでしたでしょうか……?」
将呉は、【鬼】が存在し続けるには呪符が必要だと言っていた。
ならば、これは鬼門に置いてくるものだったはず。
(それが……どうしてここに?)
奇妙だった。
鬼門で儀式を行ったときのことが、よく、思い出せない。
儀式の最中、すぐそこに神官たちがいたことは覚えている。
鬼門の社に、呪符を置いてきたことも。
けれど、思い出せるのはそれだけ。
だとすると──
(……でしたら、将呉さまは、予備の呪符を下さったのでしょう)
沙緒里はそう考えて、うなずく。
きっとそうだ。
だって、煌都から来た神官が一緒だったのだ。
彼らは『二重追儺の儀』に協力し、『霊鳥継承の儀』でも助けてくれた。
『霊鳥継承の儀』は正しく成功している。
だったら、『二重追儺の儀』も、うまくいっているはずだ。
間違えるはずなんて、ない。
もしも間違えたとしたら、一体、沙緒里は、なにを呼び出したというのだろう?
儀式は成立している。
鬼門の異常事態についての、情報も入ってきている。
そうして、沙緒里はもう、自分が呼び出したものの名前を覚えていない。
「そうです。将呉さまに手紙を書きましょう」
『二重追儺』の儀式は、将呉が教えてくれたものだ。
彼なら、きっと謎を解いてくれるはず。
──どうして、沙緒里の身体から疲労感が消えないのか。
──どうして、こんなに不安なのか。
──どうして、『二重追儺』の儀式のときの記憶が消えているのか。
将呉なら、教えてくれるはずだ。
「……『愛しい将呉さま。沙緒里は、いつもあなたのことだけを想っています』」
沙緒里は、手紙を書き始める。
──杏樹はもう、鬼門の関所を潜っただろうか。
──『ヨミクラノヤミオニ』と出会っただろうか。
──沙緒里の方が、杏樹より優秀なのだと、わかってくれただろうか。
そんな想いに、胸をふくらませながら。
次回、第23話は、明日の夕方くらいに更新する予定です。