第10話「巫女姫、覚悟を決める」
──杏樹視点──
「お嬢さま。懸念をお伝えしてもよろしいですかな」
零が去ったあと、執事の橘杖也は言った。
杏樹にとって、杖也は祖父のような存在だ。
彼は忙しい父の代わりに、州候の娘としての心得を教えてくれた。
その杖也が真剣な表情で、杏樹を見ていた。
これはお説教でしょうか──そう考えて、杏樹は表情を引き締める。
「零どのは良いお方だと思います。ですが、霊域までふたりきりというのは……」
杖也は杏樹をまっすぐに見据えて、告げた。
「彼が信頼できる人物とはいえ、お嬢さまの身をすべて預けてしまうのは、抵抗があるのです」
「爺の懸念はわかります」
予想していた質問だった。
杖也が心配するのもわかる。
杏樹が新参者の男性とふたりきりになるとなれば、心配するのも当然だ。
そんな杖也だからこそ、杏樹は、心の内を話すことにした。
「ですが、わたくしは零さまを信じます。あの方はわたくしに、立ち上がる力をくださったのですから」
「立ち上がる力を、ですか?」
「鬼門の村への追放が決まったとき、わたくしは絶望しておりました」
州候代理となった叔父が、自分をうとましく思っていることには気づいていた。
だが、まさか追放されるとは思わなかったのだ。
「もちろん、鬼門は重要な場所です。代官として、精一杯のことはするつもりでした。けれど、わたくしにできることはそれだけです。州都に戻ることはなく、病気のお父さまとお目にかかることもない──そんなふうに、絶望していたのです」
「お心……お察しいたします」
「そんなわたくしに、零さまはおっしゃったのです。『将来、恩給をください』と」
その時のことを思い出すと、思わず笑顔がこぼれてくる。
そんなことを願い出る人は初めてだった。しかも、追放されている途中の杏樹に。
「近いうちに恩給をもらえる立場として、どう考えますか?」
「意味がわかりません。恩給をもらえるのは、わしくらいの齢になってからですからな。それも、州候代理が権力を握っている今は、どうなるものか……」
「鬼門の代官として恩給をお渡しすることもできましょう」
「金額が違います。お嬢さまが代官として恩給を出すとしたら、零どのがそれだけで生きていくことは難しいでしょうな」
「そうです。零さまに十分な恩給を渡すためには、わたくしは紫州を取り返さなければならないのです」
「となると、あの方の言葉の意味は……」
「はっきりとしています」
杏樹は胸を押さえた。
零の言葉は、絶望を吹き飛ばしてくれた。
そう、彼が言いたかったことは──
「『ここで終わってはいけない』──零さまは、そう言ってくださったのです」
「おおぉ!」
「零さまは『老後のために恩給が欲しい』とおっしゃいました。それがもらえる時が来るまで、わたくしに仕えると。ならば──」
「お嬢さまは州候代理を追い落とし、紫州を取り返さなければいけませんな」
「そうしなければ、零さまが満足する恩給は差し上げられないでしょう」
「零どのは、そのために力を尽くすとおっしゃったのですな?」
「そうです。それはおそらく零さまが……わたくしが州都に戻るために、全力で力を貸してくださるということでしょう」
胸が高鳴る。
顔が赤くなる。
杏樹に対して、あんなに情熱的な言葉をくれた人は、はじめてだった。
これは桔梗の言う『ろーまんす』とは違う。
零は杏樹にとって、頼れる相棒のようなものだ。
彼の願いを叶えることで杏樹の、州候を継ぎ、民を守りたいという願いも叶う。
だったら、杏樹が彼に応えるのは当然だ。
杏樹の心と、すべての信頼をかけて。
「わたくしは父から、民を守る州候になれと言われました」
高鳴る胸を押さえながら、杏樹は告げる。
「けれど、追放されたわたくしは、自分のことだけを考えていました。零さまから恩給の話を聞いて、初めてそれに気づいたのです。鬼門に追放されたままでは、民に対してできることは、あまりにも少ないのだと」
「もっともですな。それに、副堂にこのまま紫州を任せるのは危険すぎます」
「それに、わたくしが諦めてしまっては、零さまのお父さまにも申し訳が立ちませんからね」
零の父、月潟万津は、杏樹の父を守るために命を落とした。
零は『父が死んだのは祖父のせい』と言ったけれど、彼の父が、命懸けで杏樹たちを守ってくれたことに変わりはない。
零自身が、杏樹をかばって、戦ってくれたことも。
「知っていますか。零さまは5年前も、わたくしに勇気をくださったのですよ?」
「お父上が襲撃された時ですな」
「はい。母が亡くなった直後でもあります」
あの時、杏樹たちは魔獣使いの盗賊に襲われた。
倒した者たちの裏は取ってある。
州候代理──副堂は関わっていなかった。それは父が確認済みだ。
本当に金めあてだったのか、あるいは、他州候の手の者だったのか……。
今となっては闇の中だ。
当時の杏樹は、母を失ったばかりで、悲しみにくれていた。
まわりのことも、なにも見えなくなっていた。
死んだら、母の元へと行けると思っていたのだ。
そんな杏樹を背中にかばいながら、零は言った。
「死なない。俺は、死ぬときは齢を取って、畳の上で大往生って決めてるんだ!」
──と。
おどろいた。
魔獣に囲まれた死地で、この人は数十年後のことを考えているんだと。
ここまで前向きな人は、はじめてだった。
あの時、言葉通りに零は、杏樹を守りきった。武術と体術と、不思議な技で。
「あの人は、どのような死地にあっても、決してあきらめない人なのです」
そんな零だから、信じられる。
彼が任務を放棄することは決してない。
なにがあっても、杏樹を守ってくれるだろう。
くじけそうになったら、背中を押してくれるはずだ。『老後の恩給はどうなりますか』と、彼らしく、未来を語る言葉で。
「ですから、わたくしは零さまを信じます。心から、わたくしのすべてをかけて」
「承知いたしました。わしも、零どのに全幅の信頼を置くことといたします」
「ありがとう。爺」
「それにしても……『隠された霊域』ですか」
杖也老は首をかしげた。
「そのようなものは聞いたことがございません。州候にのみ伝わるものなのでしょうか」
「父は、そう申しておりました」
「具体的には、なんと?」
「本当に危機に陥ったときのみ、その地を訪ねよ、と」
父がその話をしたのは、5年前。襲撃のすぐ後だった。
──鬼門の守りを絶やすな。
──魔獣に関を突破されたら、大変なことになる。
──鬼門の魔獣が異常な行動を取るようになったら、地図にある場所を訪ねよ。
──いや……そこまで恐れることはない。
──お前が適格者ならば、その地で力を得ることができる。
──そうでなければ、ただ、なにも起こらない。
──覚えておきなさい。
──州候とは、自分が弱いことを知る者だよ。
──だからこそ、辛いときは、他者の力を借りるのだ。それは悪いことではないのだからね。
母を病で失った直後だったからかもしれない。
それとも、自分を守るために、零の父が命を落とした後だったからだろうか。
杏樹を膝に乗せて、父は、そんなことを言ってくれたのだ。
父は、自分の力に限りがあることを知っていたのだろう。
州候として兵を率い、霊獣を従えても、誰かを守れないときは、必ずある。
そんなときは、誰かの力を借りる。
その力のひとつが、この『隠された霊域』なのだろう。
「おそらく、その地には霊獣がいると思われます」
杏樹は拳を握りしめて、そう言った。
「適格者ならば、そこで霊獣を入手できるでしょう。でも、わたくしが、州候の後継者として適格者でなかった場合は……」
「お嬢さまが適格者でないはずがございません! だからこそ、州候さまは霊域の情報を、お嬢さまに伝えたのではないですか!」
杖也老が声をあげた。
「自信をお持ちください。お嬢さま。わしはお嬢さまを信じておりますぞ」
「ありがとう。爺」
不安はある。
この選択が正しいのかどうかも、わからない。
魔獣の異常行動。そして、鬼門の兵の引き上げ。これらが父の言っていた『危機』に相当するものかどうか、自信がない。
けれど──
(この選択が間違っていたなら、わたくしが責任を取りましょう)
その時は──持っているものすべてを、部下たちに与えよう。
零には、お金になりそうなものを。
生涯の恩給には足りないけれど、節約すれば、数年は暮らせるものを。
そんなことを思いながら、杏樹は覚悟を決めるのだった。
──零視点──
その後、俺は杖也老と、柏木さんたちとの交渉に立ち会った。
商隊の護衛を兵士たちが引き継ぐことについては、すでに話がついている。
柏木さんは、
「正直、助かる。今の状態では、州都に戻るのもままならないからな」
とのことだった。
彼は魔獣の攻撃で足を怪我している。州都まで歩いて移動するのは無理だ。
かといって、リーダーの柏木さんをここに残して行くわけにもいかない。彼が指揮するからこそ、『柏木隊』は力を発揮する部隊だからだ。
だから、兵士が商隊の護衛を引き継ぐのは、願ってもないことらしい。
それから杖也老は、柏木さんたちに杏樹さまの護衛を依頼した。
内容は単純だ。
・柏木さんの部隊には、鬼門の村までの護衛を頼みたい。
・その間、柏木さんをはじめとする『柏木隊』の負傷者は荷馬車に乗せる。
・対価は、商隊を州都まで護衛するのと同じ額 (距離が短いから、かなりの厚遇になる)。
・働きぶりがよければ、杏樹さまの直属部隊として雇うことも考える。
「以上だ。貴公らはどう思われる」
「少し、考えさせていただきたい」
柏木さんは腕組みをしながら、答えた。
「条件に不満はない。紫堂の姫さまが、衛士であるオレたちを丁重に扱ってくれているのはわかる。だが、傷ついた仲間もいる。すぐに動くわけにはいかないんだ」
「理解している。杏樹さまも、数日この村にとどまるつもりだ」
「期間はいかほど?」
「3日から4日」
「……承知した。では、それまでに答えを出しましょう」
「それは護衛の件か? それとも、杏樹さまの直属兵となる件か?」
「いや、護衛の件はお受けしたい」
そう言って柏木さんは、俺の方を見た。
「衛士にも誇りがある。命を救われたというのに、その救い主が困っているのを放置する奴はクズだ。我らは紫堂杏樹さまの部下──月潟零どのに命を救われた。借りは返す」
「だが、直属兵となるなら話は別ということじゃな」
「わかってほしい。オレたちにとっては、生活すべてが変わってしまうんだ」
それはわかる。
杏樹さまの直属兵になったら、しばらくは鬼門に定住することになる。
それはこれまでの柏木さんたちにとっては、まったく違う生き方なのだ。
迷うのも当然だよな。
「申し訳ない。橘杖也さま。我らを買ってくれているというのに、即答できない」
「いや、それでこそ信頼できる」
杖也老は、にやりと笑ってみせた。
「貴公らは誠実なのであろう。実際、商隊が襲われたときも、魔獣から逃げたものはひとりもいなかった。その上、貴公は命をかけて、商人のご息女を逃がした。そういうお主らだからこそ、杏樹さまは側に置きたいとお考えなのだ」
「殺し文句はやめていただきたいな」
「交渉術のひとつだ。気にすることはない」
「食えぬお人だ」
互いに顔を見合わせて笑う、杖也老と柏木さん。
ふたりの話を聞いていると勉強になるなぁ。
いつか俺が頭脳労働に就いたら、杖也老のようなこともしなきゃいけない。
交渉術も身に着ける必要がある。ちゃんと見て、学んでおかないと。
「……まぁ、零どのがいれば、交渉術など必要ないのだがな」
「……断れば刺されると?」
「……零どのはそんなお方ではない。だが、あの方の鋭い視線は、選択に影響を与えるであろう?」
「……食えぬお人だからな」
……ん?
いや、俺は勉強させてもらっているだけですが。
別に断ったからって刺したりしないよ?
文句は言うかもしれないけど、手は出さないよ?
というか。『柏木隊』全員と戦ったら勝てないと思うんだけど……。
まぁ、いいか。
とにかく、柏木さんたちは、鬼門までは護衛してくれるらしい。
だけど、そこから先はわからない。
となると、やっぱり『隠された霊域』に行く必要がありそうだ。
霊獣は、衛士にとってのステータスだ。
柏木さんたちに差し出すことができれば、交渉は有利に進むだろう。
それからしばらくして、俺はまた、杏樹さまに呼ばれた。
霊域の位置確認と、移動ルートについての話だった。
村から『隠された霊域』までは、普通に歩けば半日くらい。
その日のうちに帰って来るなら、早朝に出発しなければいけない。
だから、杏樹さまは杖也老と桔梗さんに命じて、必要なものを集めさせた。
俺は村の人たちから、このあたりの魔獣の棲息地域について話を聞いた。なるべく自然に。鬼門までの護衛をするから、という名目で。
それによると、山の方に魔獣の巣はないらしい。
ただ、魔獣の出没地域は変化している。だから、絶対安全とはいえない。
もしも霊域に向かう途中で、俺でも手に負えない魔獣がいたら、あきらめる。
少なくとも杏樹さまを説得する。そう決めた。
護衛を得るために杏樹さまが命を落としたら、なんにもならないからだ。
俺だってそうだ。
老後の安定のために、若いうちに死んでしまったら意味がない。
……まぁ、先のことはわからないけど。
前世の俺も、20代半ばで死ぬとわかっていれば、もっと別のことにお金を使えたんだ。趣味をあきらめて、その分のお金を個人年金や積み立てに回してたからなぁ。
老後は大事だけど、そのために今を犠牲にしたら本末転倒だ。
今世では気をつけよう。
そんなことを考えながら、俺は出発の準備をはじめたのだった。
次回、第11話は、明日の夕方くらいに更新する予定です。
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