いつかあなたのことばで恋をする
いつかあなたのことばで恋をする
Anya Smith
キミと初めて出逢った日のことをボクは鮮明に憶えてる。
ほとんど日本人が来ないこの町ではキミはとても目立ったから。目立ったという言い方はちょっと違う、目を引いたといったほうが正しいかな。だってキミは、店内に入って来ても壁のメニューをずっと見続け、あとから来たお客さんにどんどん抜かれていったから。ボクは座る場所がなくなるよと心配し、そして心配していた通り満席になるとやっとキミがカウンターにやってきた。
「こんにちは」
「こ…こんにちは」
それがボクとキミの最初の会話で、目を合わせた瞬間だった。キミの緊張した眼差し、はっきりしない発音と、か細い声。ボクは笑顔でフレンドリーに応えたけど、キミはすぐに下を向いてしまったからたぶんボクの声しか聞こえていなかったと思う。このほんの数秒だったけど、もうこの時に気付いていないキミとのことが始まってしまっていたんだと思う。
「ご注文は何にしますか?」
「ラテ・・・ラテを・・・ください」
発音に気を付けてキミは言い直した。
「ここで飲まれますか?それとも持ち帰りますか?」
「持ち・・・持ち帰ります」
聞き取ることは出来るけど、上手く話すことが出来ないキミの緊張が伝わってくる。キミは全然ボクを見ることなくボクの淹れるラテを待っていた。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
キミはボクを見た。一瞬、時が止まったような気がした。ボクが笑うとキミは少しほほ笑んだ。カップを持つとキミは振り返ることなく帰って行った。一つに束ねた黒髪が印象深かった。
今でもキミが初めてこの店に来た時のことをボクは鮮明に想い出せる。
僕が彼女と再会したのは、彼女の親友の葬儀だった。
彼女は中学の部活の後輩で、僕が三年の時、新入生だった。初めて会った時から彼女たちは仲が良かった。僕からすると二人は正反対の性格で、彼女の方がおしゃべりだった。いつも一緒にいて、とにかく楽しそうだった。
僕はそんな彼女を見守るように見ていた。それはただ、部の後輩としてだと思っていた。彼女はかわいくて、同級生からの人気もあって、クラス委員も率先して引き受けるようなしっかりしているところもあったけど、恋愛については奥手なのか浮いた噂は聞かなかった。
卒業式。なぜあの時一人で帰宅していたのか憶えていないけど、彼女たちが校門の近くでおしゃべりをしていた姿は鮮明に想い出すことが出来る。彼女たちは、僕を見つけると小走りに近づいてきた。そして彼女に「ボタンをください」と、真面目な顔して言われた。その時の衝撃は忘れることが出来ない。たぶん彼女は、僕が僕のことを好きだった?と勘違いしたと思ったのだろう。だから即座に「全部残ってるからかわいそうだなぁって思って」と、言ってケラケラ笑った。その隣にいた親友は「だめだよそんなこと言ったら」と、半分笑いながら言っていた。僕は複雑な思いでボタンを取って渡した。すると「先輩、卒業おめでとうございます」と、にこにこしながら言って、振り返ることなく二人はまた楽しそうに笑い合って僕の元を去っていった。そして僕は卒業と同時に引っ越しし、この街に二度と戻らないだろうと思った。彼女との想い出はそれで終わりのはずだった。それでよかったと思った。
だけど、僕の親友の知らせで来てしまった。こんな状況でないと、ある感情が蘇ってしまうかもしれない。僕は怖かった。でも、ほんの一瞬だけ彼女の姿を見たかった。
「あぁ…」
やっぱり、来なければよかったと僕は猛烈に後悔した。涙を流し続けている彼女は見ていられなかった。僕は誰にも声を掛けることなく会場を後にした。それでも何となく離れがたかった。葬儀場から十分程歩くと彼女と最後に話した中学校がある。まとわりついてしまった今の彼女を忘れたいと思ったら足が向いていた。しかし驚くことにずいぶんと様変わりをして、彼女たちが待っていたレトロな校門は見る影もなく、モダンなタイル張りの校門に変わっていた。校舎の壁面の色も明るい色に変わり、校庭の一角は芝生になっていた。なんだか違う学校に来てしまったようだった。ただ、空しい後悔だけが上書きされた。僕の早く立ち去りたいという気持ちを汲むかのように走ってきた路線バスに後ろを振り返ることなく乗った。
僕が乗ったバスは葬儀場を経由した。降りる人は誰もいなかったけど、乗った人込みの中に彼女がいた。僕は息を飲んだ。しかし、彼女はうつむいていて僕には全く気付くことなく僕の隣に立った。僕は窓ガラスに映る彼女の姿を眺めてしまった。あの頃の面影はなく憔悴しきっていた。不安に駆られるがこれ以上気持ちを近づけるわけにはいかない。気付かない振りしてバスを降りようと思った時、バスが大きく揺れて彼女が僕の方によろけてきた。
「すみません…」
「大丈夫です」
お互いを見ることなく言った。だけどその後、窓に映ったお互いの姿と目が合ってしまった。彼女は気付き驚いた表情で僕を見た。
「・・・先輩・・・来ていたんですか?」
「あぁ・・・」
僕は思い掛けない彼女との会話に動揺し、咳払いをして体制を立て直した。
「大丈夫?」
「私・・・」
彼女は目を潤ませながら首を軽く振った。
「降りようか?」
僕はそう提案してしまった。彼女は話すことなく頷いた。僕たちは公園のバス停で降りた。こんな再会の仕方したくなかった。そもそも再会してはいけなかったのかもしれない…。
ボクはあの日からずっとまたキミが来るといいなと思っていた。本当はそんなことボクは考えてはいけなかった。でもそれはもうボクの意思とは関係なかった。もう帰国してしまったのかなと諦めたときキミは来た。
「こんにちは」
「こんにちは」
ボクはキミのことを憶えているよと笑いかける。キミはほほ笑んだ。キミもボクを憶えているようだった。「何にする?」
ボクは前回と違ってフレンドリーに接した。
「ラテください」
キミもカジュアルに応えた。
「オッケー。ほかに何かいる?」
キミはスイーツが並んでいるショーケースを眺めた。
「チョコチップクッキーください。ここで食べていきます」
と言った。チョコチップクッキーだけプレートに乗せて渡した。
「ラテは持っていくから、座って待ってて」
「ありがとう」
キミの発音はあまりよくないけどボクとのやり取りに全く問題はなかった。ボクはいつもより心を込めてラテを淹れた。ミルクフォームに描いたハート模様も上出来だった。
「どうぞ楽しんで」
ボクはキミと何か話が出来ればいいなと思いながらそう言った。
「かわいい」
キミはカップを見ると、驚きながら笑顔になった。そんなに喜んでくれるとボクは逆に恥ずかしくなる。
「この前は持ち帰ってしまったので、わかりませんでした」
「持ち帰りにはこんなことはしないよ」
キミは笑った。ボクもそんなキミを見て笑った。こんなことで笑える自分が不思議だった。
キミはラテをスマホで撮ると暫く操作していたが、その後はただくつろいでいるようだった。ボクはずっと見ているわけにはいかなかったけど、気にしていた。そして時々目が合った。キミとボクとの距離が静かに近づいていくのを感じた。
「ありがとう」
「またね」
キミは飲み終わると笑顔で軽く手を振って店を出て行った。ボクはキミの残したカップを片付けに行った。コーヒーの香りが強く漂う店内だったけど、その場所には甘い香りが微かに香った。
僕と彼女は公園のベンチに座った。公園といってもこんな時間に遊んでいる子供もなくひっそりとしていたけど照明は明るかった。
「親友なのに病気の事、何も聞いていなかったんです」
彼女は正面を向きながら話始めた。
「何にも?・・・突然だったんだね」
彼女にとって、亡くなったという事実よりも、親友なのに知らなかったことの方がショックだったのだろうと思った。
「今はちょっと忙しいからと言って、メールと電話ばかりでした。でも最後には同じ街に住んでいるからいつでも会えるよっていうんです。そうだね、またね。って・・・私はその言葉を信じて疑いませんでした。本当は入退院を繰り返して、この街にいなかった。親友だと思って、なんでも話していたし、なんでも話してくれてると思っていたけど、そうじゃなかった」
久しぶりに会ったにもかかわらず、彼女は誰でもいいから聞いてほしいといった感じだった。
「親友にだって言えないことはあるよ」
僕なんて言いたくないことばかりで、嘘を常にまとっている。
「私の方が気付かないといけなかったのに。本当は何をして欲しかったのか全然気付いてあげられなかった。最後どんな会話をしたのかも憶えていない。私って最低…」
「自分を責めたら親友は悲しむよ」
「でも…もう会えないんだよ」
「最期にお別れしたかった?」
彼女は頷いた。その気持ちもよく知ってる。
「でもね、それは残された側の都合であって、それがずっと後悔につながるけど、亡くなる側としては優しさなんだよ」
「優しさ?」
「もし、親友が亡くなる直前にお別れ言いたいとなったら、今までの楽しかった想い出は上書きされてしまう。お互い楽しかった想い出を忘れずにお別れ出来た方が幸せなんだよ。親友の笑顔を想いだすことが出来るように」
彼女は再びまた想い出したのか泣き始めた。抱きしめてあげたい気持ちを抑えながら、気持ちが落ち着くのを待った。
「最後に会ったとき彼女、笑ってました」
「その姿を忘れなければいいんだよ」
彼女は少し気持ちが楽になったのか初めて僕の方を向いた。
「ありがとうございました」
「そう。よかった」
彼女の気持ちが落ち着くと、今の彼女のことが知りたくなってしまった。たぶん、最初は化粧をちゃんとしていたんだろうが、何度も涙をぬぐっているうちに落ちてきてしまい、素顔に近いので当時とあまり変わらない。もう少し大人になっているかなと思ったけど、かわいい後輩の感じが抜けていなかった。
彼女には僕と同級生のお兄さんがいて、一度も同じクラスにはなったことはなかったけど、僕と違って人気があることは有名だった。彼女の友達の中にはお兄さんに近づくために友達になったという女子がいたらしい。彼女に彼氏がいなかったのも、もしかしたらそれが原因だったのかもしれないと、かわいい後輩の感じが抜けきらない彼女を見て改めてそう思った。きっと、かわいい妹としてお兄さんに今でもかわいがられているのだろう。
「お兄さんは元気?」
僕の問いはそんな深いものではないのに、彼女は静かに溜息を付いた。
「なんでそんなこと聞くの…」
彼女の声は震えていた。僕は彼女の押さえていた感情の蓋を開けてしまった。
「久しぶりに会った人はみんなそう聞く。そのたびに逃げ出したくなる。もう二度とそんなこと聞く人には会いたくなくなる」
「…?」
意味が分からなかったが、僕は会いたくないと言われているのかと思った。
「私…今…一人っ子なの…」
「えっ?」
彼女の声は震えていた。僕がその意味を理解する前に彼女は続けて言った。
「お兄ちゃんは…もういないの…亡くなったの…」
「ごめん…」
僕は今の状況が色々な意味で信じられなかった。
「お兄ちゃんのこともまだ全然気持ちの整理が出来てないのに…」
もう僕は気持ちを抑えることが出来なかった。彼女を優しく抱きしめた。僕の胸の中で彼女は泣いた。初めからこうなることが運命だったかのようだった。
翌日からキミはほぼ毎日来るようになった。持ち帰るときもあればここでのんびりしていく日もあり、ボクとキミは少しずつ色々な話をするようになった。キミは少し長い休暇を取って、語学学校に通っていると言っていた。今日も、課題をやりながらボクが淹れたラテを飲んでいた。でもなんだか難しい顔をしている。ペンを持つ手がなかなか進まない。
「難しいの?」
ボクはテーブルを片付けながら、聞いてみた。
「ちょっとね」
と言って首を傾げた。その姿がとてもかわいかった。
「見せてよ」
「だめ。あなたはお仕事中です」
キミはいたずらっぽく笑う。
「じゃぁ、仕事が終わった後見てあげるよ」
そんなことを言った自分が信じられない。明らかにこれは行きすぎた行為だ。でもキミは少し考える素振りを見せた。
「ありがとうございます。でも明日、先生に見てもらうので大丈夫です」
キミがボクのことを警戒したのかどうかわからなかった。でもそのあと目が合うことはなかった。そしてボクが仕事を終えた後もキミは店内に残っていた。ボクは本当にキミの課題を見たかったけどキミはボクに「またね」と言って寄せ付けなかった。ボクはどうしたらいいのかわからなかった。そして、気が付くとキミとのこの先のことで頭がいっぱいになっていた。
彼女の親友の葬儀の後、僕たちは付き合うようになった。彼女は親友の葬儀がきっかけだったことが心苦しいようだったけど、僕はそんなことがなければ二度と彼女に逢うことはなかったし、境遇も知ることが出来なかったと、彼女の親友には感謝していた。
彼女の両親は共働きだったので、兄妹でいる時間は長く、兄というより仲良しの友達みたいなところがあったという。彼女は僕に想い出話を沢山してくれたけど、亡くなったことに関しては話してくれなかった。それでも僕は聞き出そうとは思わなかった。聞いてしまって、彼女が離れてしまうより、知らないままでもずっと一緒にいられればよかった。僕の押さえていた気持ちと彼女が求めていた存在が一致したのだった。でも僕の気持ちを彼女は知らない。
僕の気持ちとは関係なく、彼女の両親が僕と食事をしたいと言ってきたときに、仕方のないことだと思った。彼女と付き合うことと、一緒になることは全く別の次元の話だった。でも彼女はすぐにお店を決めていた。僕はもう少し近くて行きやすいところにしようと提案したが、「家族の想い出のフレンチレストランなの」と言って譲らなかった。彼女にとっての想い出の再現なのか、上書きなのかわからなかったが、少なくともその場所に進んで行けることは悪いことではないと思った。
会食当日。僕たちは少し早く到着したが、彼女は久しぶりに会うシェフとも安心したように会話をしていた。僕はこの店にして正解だったと思った。だけど、予定時間になっても彼女の両親は来なかった。時間には正確な両親が連絡もなしに遅れてくるとは考えられないと、彼女は不安な様子で携帯に連絡したが、両親ともに繋がらなかった。なじみの店長も含めて不安が店内に広がった頃、着信があった。でもそれは両親からではなく警察からだった。彼女の悲鳴が店内に響いた。
ボクはキミの態度が気になって、いつも家に着くとガールフレンドにメールするのに今日はキミのことでいっぱいで忘れてしまった。キミのことなんて考えてはいけないと思いながら振り払うことはできなかった。そもそもこんな感情が沸くとは思わなかった。キミはいつまでもここにいられないというタイムリミットがボクをこんな気持ちにさせているのかもしれない。キミがお店に来るようになってからボクは毎日を楽しんでいる気がする。今までただ過ぎていた毎日が楽しめるようになった。ガールフレンドと一緒にいるときは確かに楽しいけど、一緒にいないときはただつまらない時間だった。全然違う。ボクはこの気持ちを伝えたいと思った。でもこれはいけないことだとわかってる。
翌日。ボクはキミが通っている学校の前で待ち伏せすることにした。通報されてもおかしくないことをしているとわかっているけど止められなかった。学校の向かいにある公園のベンチに座りながらキミを待った。沢山の生徒が学校から出てきた。どれだけの人数がいてもキミを見逃すことはないと思っていたけど、生徒がそれぞれの方向に歩きだして、その波が切れてもキミの姿を見つけることは出来なかった。キミに今日は逢えない。諦めて帰ろうと思った時、キミが現れた。ボクは駆け寄ろうとしたらキミはひとりじゃなかった。
ボクは迷ったけど、後をつけることにした。相手は先生のようだったが、二人の距離はとても近く、何を話しているのかまでは聞こえないが、時々見つめ合っているように見えた。ボクは嫉妬した。嫉妬?新たな感情が芽生えてきた。キミはどこまでもボクの感情をかき乱した。
信じられないことに、キミはボクの店に入っていった。キミはボクに一緒にいるところを見せつけるためにいったのかもしれない。そうだとしたら、今日はいなくてよかった。ボクは通りを挟んで店内を見ていた。キミの姿が通り沿いのカウンター席に現れた。相手はそのすぐ隣に座った。何か話して笑い合っていた。相手はボクと違って容姿もよく、敗北感がボクを襲った。帰ろうと思った瞬間、キミと目が合ったような気がしたけど、ボクはその場を後にした。
ボクはすぐに家に帰る気にはならなかった。ボクは親友を呼び出して昼間から飲むことにした。
「どうしたんだよ、こんな昼間に。こっちはあまり昼夜関係ないけど」
フリーランスで仕事をしている親友はいつでも誘えば来てくれたが、昼間に突然呼び出したのは初めてだった。
「急に飲みたくなったんだよ」
「ガールフレンドとケンカでもした?・・・おまえに限って、そんなわけないよな」
幼い頃からの親友はボクのことを熟知している。
「・・・・・・」
「そうなのか?」
「ケンカはしていない」
「嫌になったとか」
「・・・そうかもしれない」
「はっ?何、言ってるんだよ。おまえになんてもったいないくらいなんだぞ」
「そうボクも思う」
「はっ?どうしたんだよ」
「ボクにはもったいないと思うし、思われている」
「まぁ、そうだな。だから?」
「わからなくなってきたんだ」
「何が?」
「自分の気持ちが・・・好きなのかもしれない」
「それは当然だろう」
「ガールフレンドじゃなくて、別の女の子・・・」
親友は真面目な表情から噴き出して笑った。
「深刻な話かと思ったら、浮気の相談?まぁ、浮気は深刻かもしれないけど。おまえには無理だって」
親友は一蹴する。
「浮気じゃなくて、好きなんだよ」
「相手もおまえのこと好きなのか?」
「・・・わからない」
「なら、そんなこと考えるのやめればいい話だよ」
「そんな簡単な話じゃないんだよ」
「おまえがそんなにムキになるなんて意外だな。・・・わかった。もしその相手がおまえのこと好きだったら、ガールフレンドと別れても一緒にいたいと思うほどなんだ」
「それは・・・・・・」
親友に言われて自分の浅はかさに気付く。
「結局おまえには覚悟がないんだよ。世の中にはうまくやるのもいるけど、おまえには絶対無理だ。仮にその相手とうまくいった場合、最終的には必ずどちらかを選ぶことになる。選べればまだいい。両方失うかもしれない」
「・・・・・・」
「おまえは今、幸せ過ぎるから他もうまくいくかもなんて考えるんだよ。少し冷静になれよ」
親友の言う通りだと思う。
「でも。おまえが本当に好きなら誘ってみれば」
親友は急にいたずらっぽい態度に変わった。
「えっ?」
「初めてじゃないか、こんな時間に呼び出すなんて。それに長い付き合いの中で、今日みたいに来たときからはっきりしない態度を取るのはずっと考えてた証拠だよ。誘ってだめならそこでおしまい。誘ってうまくいったら・・・バレないように頑張れよ。協力はしないけど、落ち込むことになったら一緒に飲んでやるよ」
「ありがとう」
ボクの気持ちは固まった。ボクはその後、親友と楽しく酔った。
僕は彼女を文字通りに支えることになった。両親の葬儀でお兄さんが自殺をしたことと、その理由が少なからず彼女にあったことを知ってしまった。沢山の人から、彼女に慰めの言葉はあふれるほど掛けられたが、彼女の心に届くことはなかった。葬儀が終わると彼女は本当に一人になってしまった。彼女の自宅は、お兄さんが亡くなった部屋はそのままだったが、あとはあまり生活感がなく、片付けられていた。これと同じ環境を僕は見たことがあった。僕は彼女に「僕のマンションに来ないか?」と言った。この家にいたら彼女の精神は持たないだろうと思った。彼女は自宅を出ることを激しく拒否したが、僕は殆ど強引に連れてきた。でも僕のマンションに来たら彼女は張りつめていた感情がほどけたのが、ソファーへ倒れるように眠ってしまった。その日から、僕たちの同居が始まった。彼女の精神は不安定で、僕が仕事から帰って来ると真っ暗な部屋の中で泣いていたり、部屋中の物が散乱していたりした。当然、仕事を始められる状態ではなかったし、一人では外に出ることも出来なかったけど、調子がいい時は復職を目指して勉強したり、年末掃除のように掃除したり、凝った料理を作ったりしていた。僕はそれでも幸せだった。彼女が側にいる。彼女も同じ気持ちだったと僕は思っていた。
ある日、初めて彼女の方から「お団子食べに行こうよ」と言ってきた。僕は驚いたけど、彼女はとても楽しそうにしていた。僕は近所の和菓子屋を思い浮かべた。
「じゃぁ、散歩しながら行こうか?」
「うん。神社にお参りもしたい」
いつか行ったコースを希望しているようだった。
「そうだね。最近行ってなかったから、景色も変わっていると思うよ。きっときれいだよ」
「先輩。お団子好き?」
「好きだよ」
「本当?」
「お団子より好きなものあるけど、お団子好きだよ」
「それは何?」
「みたらしの部分」
彼女はちょっと不貞腐れた。僕は「間違った」と言って、彼女を抱きしめた。君が甘えてくれればくれるほど僕は嬉しかった。
僕と彼女は近所の和菓子屋まで並んで歩いた。彼女は「みたらし多めにしてね」と和菓子屋のおじさんに言って笑い合っていた。今日は本当に気分が安定していてとても彼女は楽しそうだった。神社に着くと、境内のベンチに座った。
「きれい・・・」
満開までには少し早かったけど、青空に映えてきれいだった。
「ほんとだね」
「でも、花より団子だよ」
彼女はふふっと笑って、団子の包みを開けた。
「みたらしいっぱい・・・あっ・・・先輩、気を付けて」
彼女は服にたれをこぼした。
「そうだね・・・あぁ・・・」
僕も同じように服にこぼした。僕たちは顔を見合わせて笑った。僕はちゃんと笑えているかわからなかったけど、心から笑った。
「お参りしてくるね」
と言って彼女は急に立ち上がって神殿まで行ってしまった。僕は広げてある団子の包みをそのままにすることもできずに彼女の後ろ姿を見ていた。彼女は一通りの作法を流れるように行うとすぐに戻ってきた。
「何をお願したの?」
「言ったらだめなんだよ…先輩…ずっと側にいてくれる?」
彼女は今まで僕のことを名前で呼んだことはなかった。出会った時のままのその呼び名だった。本当は違う呼び名で呼んでもらいたい。時々、それだけは僕の気持ちをかき乱す。それでも僕は平静を装って「もちろんだよ」と言った。彼女はほほ笑んだ。
ボクはキミが来るのを待っていた。昨日のことは忘れようと思ったが、そんなすぐに忘れられるわけもなく、キミが店に来た時、キミにまとわりついている感じがした。
「こんにちは」
「やぁ」
ボクは明らかにいつもとは違う態度でキミに接してしまった。
「昨日来たけど、あなたはいなかった。話したいことがあって・・・あっ、ラテお願いします」
後ろに並ばれてキミは焦ってオーダーした。キミはいつものように席に座った。ボクはキミのオーダーのラテを淹れる手が少し震えていた。キミが話したいことはきっと昨日のことだと思った。
「どうぞ」
「ありがとう・・・あの・・・」
「ちょっと忙しいから」
「ごめんなさい」
ボクはキミと話したいのに、話すのが怖かった。キミはボクの態度が違うことに戸惑っているようだった。キミはボクと話すタイミングを伺っているようだったけど、視線を感じるたびにボクは気付かない振りをした。今日は閉店時間が早い。キミは閉店までいるようだった。
「・・・閉店だよ」
ボクはキミに言ったけど、お互いに話したいことがあるのに話せないもどかしさがあるのがわかった。「ちょっと、外で待ってくれる?」
「わかりました」
キミは素直に聞き入れてくれた。
閉店作業が終わり、ボクは最後に店を出た。キミの姿を探すと近くのバス停のベンチに座っていた。ボクは駆け寄った。
「ごめん待たせてしまって」
「大丈夫」
キミは表情を変えなかった。
「話って?」
聞きたくないけど聞かないわけにもいかなかった。
「来週、帰国することになりました」
「えっ?」
それは予想もしていないことだった。
「えっ?どうして?なんでもっと早く言ってくれなかったの?」
「・・・言いたくなかったの」
「どうして?」
「・・・最後のラテになるのが悲しいから・・・でも昨日、先生がお別れを言った方がいいとアドバイスしてくれて・・・」
昨日はそういうことだったのかと素早く納得する。
「今日が最後なの?」
こんなに突然、キミともう逢えなくなるとは考えてもなかった。
「あなたが淹れるラテはとてもおいしかったです」
今日のラテは心が込もっていなかった。
「戻ろう」
「えっ?」
「キミのためにラテを淹れたいんだ」
「でもお店は閉まって・・・」
「大丈夫。ボクの店だから」
キミは最初戸惑っていたが、笑顔になった。ボクも解放されたように笑顔になった。ボクは期せずしてキミをボクの場所に誘うことが出来た。キミとはもう限られた時間しかない。この時間が終わったらすぐにボクは戻る。ボクは自分がこんなにずるいとは思わなかった。でも今の気持ちに嘘は付けなかった。
彼女はあの日をきっかけによく笑うようになった。部屋が真っ暗になることも、物が散乱することもなくなった。仕事を探し始め、一人で外に行けるようになった。料理の腕は上がって「レストランやろうかな」と冗談も言えるほどだった。僕はやっと理想の関係が築き上げられたと思った。僕と彼女は間違いなく幸せだと日に日に強く思うようになった。それと同時に周りからは違う期待をされた。早く一緒になればいいのにとか、なんで籍入れないのとか、結婚式には絶対呼んでねとか、本当にうるさかった。ある時、キミと一緒に歩いているとき同僚に会ってしまった。彼女は僕が職場で何を言われているのか知らなかった。だから、「とてもお似合いのカップルですよ」と言われて硬直した。彼女はその日は部屋に籠ってしまった。次の日に見た彼女は憔悴しきっていた。僕と顔を合わせると手当たり次第に僕に物を投げつけた。僕はそれをよけながら君を抱きしめた。
「もうやだ、なんでそういう目でしか見ないの」
「……ごめん」
僕が彼女との関係を説明できないことが原因なのはわかっているけどそれは出来ない。
「もう…先輩…私、限界…」
僕の胸の中で泣きながら言った。僕は彼女の髪をなでながら何も応えることが出来なかった。
「死にたい…」
囁くように言った。だめだ、それは絶対にダメだ。
「先輩も一緒に…ずっと一緒にいられる」
「そうだね」
それが本当に最善だとその時は本気で思った。彼女はどこまで本気だったのかわからない。
翌日はそんなことがあったことなどなかったようにまたいつもの彼女に戻っていた。僕は少し心配だったが仕事に行った。途中で電話をしてみたが特に変わった様子もなく安心した。僕は久しぶりに彼女の好きなケーキを買って帰宅したが、真っ暗だった。部屋中探したが彼女はいなかった。僕は冷静になろうと、買ってきたケーキを冷蔵庫に入れようと扉を開くと夕食に用意とメモがそこにはあった。僕はケーキの箱を落としてしまった。そしてその場で泣き崩れた。
ボクはキミと店に戻った。ブラインドが下がり外からは見えない。二人きりの空間だったが、キミは警戒する様子は全くなく、とても自然で心地よかった。
「座って待ってて」
ボクは準備を始めながら言った。
「ねぇ、見ててもいい?」
キミは身を乗り出して言った。
「いいよ」
ボクは少しでも興味を持ってくれたことが嬉しかった。
「どのくらい・・・いつから・・・ラテを淹れているのですか?」
キミは言い換えたけど意味が分からない。ボクは推測した。
「・・・?いつからバリスタをやってるかってことかな?」
「あっ、そうです」
キミははにかんだ。かわいいなと思う。
「えっと、9年くらいかな」
「9年・・・長いですね。コーヒーは好きですか?」
「もちろん」
「どこのコーヒー・・・どの国のコーヒーが好きですか?」
「いい質問だね。そうだな・・・コロンビアかな。苦みと甘みのバランスが良くて、ラテには最適だし、ボクは朝に毎日飲んでるよ」
「毎日ですか?でも何故コーヒー?」
キミは不思議そうに言った。さすがにその質問にはすぐに答えたくなかった。
「バリスタだから」
とごまかす。キミは笑って納得してくれた。そこで会話が止み、コーヒーの香りと静かな時間が流れた。
「お待たせしました。どうぞ」
「すごくきれいなハート・・・飲めません」
キミはとても喜んでくれた。
「ただのラテだよ。飲んでよ」
ただのラテではなかった。今までで一番楽しく淹れることが出来たラテだった。
「・・・おいしいです。幸せ・・・」
「それはよかった」
キミの笑顔をずっと見ていたかった。
「・・・ありがとうございます」
「本当に帰るの?・・・もう逢えない?」
「はい」
ボクは出来るだけ長く一緒にいたいと思った。でもそれはスマホのマナーモードの響きによって打ち砕かれた。ボクは着信を無視するわけにはいかない。
「アドレス交換しようよ」
「アドレス・・・」
ボクはカウンターにあったメモにメールアドレスを書いた。
「これ、ボクのアドレス。あとでメールして」
スマホのマナーモードの響きが一度消えたのに再び響きわたる。
「鳴ってますよ」
「友達と約束していたんだ。でも大丈夫」
「ごめんなさい」
「いや、誘ったのはボクの方だから」
「・・・ありがとうございました。本当においしかったです。忘れません」
キミはそう言って頭を下げた。感謝のアクションであることはキミと出逢って学んだ。
「さようなら」
キミは笑顔だった。
「またね」
ボクはキミにさようならなんて言えなかった。スマホのマナーモードの響きがより大きく感じられた。
彼女はどこに行ったのかわからなかった。電話もメールも繋がらなかった。生きているのかもわからなかった。『今までありがとう』のメッセージを残したということは、もう僕の元には戻ってこないということだろう。それでも僕は諦めきれなかった。とはいえ彼女の交流関係がわからなかった。僕は彼女自身しか見ていなかった。僕は親友を呼びだした。
「会うのは久しぶりだな」
「忙しいのに悪いな」
「お前ほどじゃないよ。こっちは半分趣味みたいなものだからな」
穏やかな笑みを浮かべて言った。大学に残って研究をしていた。お金にならないけど忙しいといつも言っていた。あまり身なりを気にしないでいつ会っても同じものを着ているし、カバンも一緒だった。とっつきにくい雰囲気があるが、話してみると気さくでとても頭の回転が速く、天才肌だった。転校してきた僕に最初に話しかけて来たが、その時は少し苦手なタイプだなと思ったが、今ではそのことは笑い話になっていた。
「知っていそうなところに連絡してみたが、何もわからない」
僕と違って、交流関係も広く、同級生の連絡先もよく知っていた。
「彼女、お兄さんが亡くなってからは同級生とは距離を置いたらしい。亡くなり方も…だし、噂されることを考えると察することはできるよ」
敢えてその単語は伏せて言った。
「実家はどうしたんだ?」
「まだそのままだけど、行った様子はなかった」
「まぁ、戻るとは考えられないな…お前は知ってるのか?理由を?」
「理由?」
「お兄さんの理由だよ」
「彼女に何か原因があるみたいだけど、よく知らない」
親友は深く溜息を付いて姿勢を改めた。
「彼女とお兄さんはだだの仲のいい兄妹じゃなかったんだよ」
僕は緊張した。
「シスコンだったんだよ」
「・・・・・・」
僕は動揺を悟られないように繰り返した。
「心理学者じゃないからそのプロセスにはあまり詳しくないけど、彼女の両親は共働きで、幼いころから兄が妹の面倒を見るのが習慣になっていたことを踏まえて、お前の前でいうのはなんだけど、彼女はかわいくてみんなのアイドル的な存在なところがあったし、兄の方はハンサムでスマートで優しくてスポーツ万能の完璧だっただろう」
僕は何となく違和感を覚えながら頷いた。
「一度だけ、学校外で二人が一緒に歩いているのを見たことがある。…まるで恋人同士のようだった。そのうちあることないこと言いふらされるようになった。もう兄妹じゃないんじゃないかって…」
僕は聞くのがつらくなってきた。
「関係があったのかなかったのか彼女しか知らない…でも、彼女が自分の責任と思っているのは確かだろうな」
僕は持っていいたグラスを落とした。店内に耳障りな音が響いた。
「すみません…」
駆け寄ってきた店員に僕はそう言うと一緒にガラス片を拾い集めた。今の表情は親友に見られたくなかった。
「悪かった…お前に言うべきじゃなかった…」
「……」
「もう関わらない方がいい。お前はあくまで他人なんだから」
「……」
「お前はもう十分彼女に尽くした。もう何もできることはないんだよ」
優しく、なだめるような口調だったが、心をかき乱す言葉だった。
「もしかすると、何もなかったかのように帰って…戻って来るかもしれない。だけど、その時、今までと同じ彼女じゃないかもしれないよ。…もう戻れないんだよ。前だけを見なきゃだめなんだよ」
「……」
確かに僕の思っている彼女ではなくなっている可能性はある。でも簡単に諦められるわけがなかった。
「とは言っても、もし戻ってきたら両手を広げて迎えるんだろ?でもそれは幸せなことじゃないよ。…お前には幸せになって欲しいんだよ。幸せになってなきゃだめなんだよ」
僕の手の上に親友の手が静かに重なった。僕は今になって親友の新たな一面を知った。
ボクが帰宅するとガールフレンドがディナーを作っていた。
「ごめん遅くなって」
「なにかトラブル?」
「ちょっと発注もれがあって・・・でも、明日…来るんじゃなかったの?」
「来たらいけなかった?」
ボクは動揺する。そもそもガールフレンドが来ていて都合が悪かったことなど一度もなかったのに嘘を付いた挙句、これでは「今日なんで来たの?」と聞いているのと同じことだった。
「明日、急遽クライアントの打ち合わせが入ったの。場合によっては遅くなるかもしれないから。…あまり片付いていないようだけど?引っ越しは来週なのよ」
「わかってる。今週末、友達が来て手伝ってくれる予定だから」
「ならいいけど」
ボクは安堵の溜息を付いた。ガールフレンドはキッチンで手際よくディナーの準備を続けた。ボクは初めてガールフレンドに対して後ろめたさを感じた。もうすぐ一緒に住むことにもなっているのにこんな気分になるとは思わなかった。ボクはメールの受信を確認した。キミからのメールは届いていなかった。このまま来なければ、何もなかったことになる。だけどボクはキミからのメールをやっぱり待ってしまっていた。
目の前にガールフレンドいて、温かいディナーが並べられて、もうすぐ一緒に住む。こんな幸せなことがほかにあるわけがない。ボクは今とても幸せなのだ。ボクはこの幸せを続けたい。この幸せに浸らなくてはいけない。
「おいしい?」
「えっ?」
「…いつもとスパイス変えてみたけど、気が付かない?」
「……言われてみれば…おいしいよ」
味覚までわからないほど気もそぞろになっていた。
「そう?いつものほうがやっぱりおいしいと思う」
「どっちもおいしいと思うよ」
食卓がこんなに気を使わないといけない場所なのかと思わず溜息をついてしまった。明らかに聞かれてしまった。
「大丈夫?なんかとても疲れてるみたい」
心配そうにボクを覗き込む。
「そんなことないよ」
と笑顔を作る。きっといつもより不自然な笑顔になっていたと思う。
「本当に大丈夫?これから一緒に住むんだから言いたいことがあるなら、ちゃんと話して」
「別に何もないよ。…やっぱり引っ越すとなると大変だなと思って」
「引っ越しは私のわがままだった?」
「そんなことないよ」
「よかった。大丈夫。いざとなったら全部捨てちゃって。私の家になんでもあるから」
「そうだね」
「そうよ。心配しなくていいの」
ガールフレンドはそう言って微笑んだ。ボクも微笑み返す。このまま流れに身を任せていればボクは幸せな人生を歩めるのだ。こんな完璧なガールフレンドがほかにいるわけがない。ボクが付き合えたなんて奇跡といってもいいくらいのことなのだ。それなのにボクの気持ちは違うところにいっている。
「あっ、ちょっとごめん」
ガールフレンドのスマホが鳴った。ボクの目の前で話しているので大体のことはわかる。やはり仕事が忙しいのだ。仕事でも住む世界が違い過ぎる。自分の仕事が嫌になったことは一度もないけど、格差があるのは確かだった。
「ごめんなさい。明日の資料を作り直さければならなくなって。職場に戻らないといけない」
ガールフレンドは申し訳なさそうに言った。
「ボクの方は大丈夫だから、気にしないで」
「ごめんなさい。キッチンも片付けられなくて」
そう言ったけど、片付けはいつもボクがやっていた。
「気にしないで。仕事、頑張って」
「ありがとう。またね」
ガールフレンドと軽いチークキスをして送りだした。あんなに一緒にいたいと思っていたのにもかかわらず、今日のボクはひどかった。明らかにいつもと違う様子を感じ取っただろう。キミともう逢えない。でも、もしメールが来たらまた逢う機会があるかもしれない。そんなことを思いながらガールフレンドと過ごしていた。でも結局まだ何も起こっていない。キミからメールが来なければ何にもなかったこととして忘れてしまえばいい。出来ない言い訳だった。それを証拠にボクはガールフレンドが帰ってから、もう何十回もメールを確認していた。本当はあの時アドレス交換をしたかった。でも操作中にガールフレンドの着信を取ってしまうかもしれないと思ったら出来なかった。ボクはガールフレンドの着信さえなかったらと思い始めていた。同時に後悔の波が押し寄せる。
ボクは冷蔵庫から缶ビールを取り出し、開けると口を付けた。喉が冷やされ、頭も冷えてくるのも感じた。いつしかボクは寝落ちしていた。
目が覚めたらもうすぐ日付が変わるところだった。数時間前にガールフレンドが帰ったまま、何も変わっていなかった。片付けなければと思うと面倒で起きたくなかった。キミからのメールも来てなかった。ボクは落胆したが、どうすることも出来ないことだった。ボクは大きく伸びをすると食卓を見た。ガールフレンドが行ってから何も食べていなかった。美味しいやまずい以前に楽しくなかった。もしキミだったらどうだったかなと考えてしまう。日本の食卓の写真を見たことがある。小さいお皿の上に色とりどりの料理が盛り付けられとても美しかった。ごはんがあんなに食べられるかわからないけど、キミは日本でごはんを毎日食べているならボクも食べられるようになろうと考えてしまった。あり得ない。もうキミのことは考えてはいけない。
日付が変わったと同時にメールの着信を告げるメロディが鳴った。ボクの鼓動が早くなった。知らないアドレス。でもキミからのメールだと確信した。タイトルは『こんにちは』とあった。
『こんにちは。キティです。ラテおいしかったです。ありがとうございました』
ボクはキミが『キティ』と名乗っていることを知った。今まで名前さえ知らずにキミを想っていた。ただキミの存在が大事だった。でも、『キティ』と知ってしまったら今までよりもキミを想い、こみ上げてくる感情に抗えなかった。ついに離れていても繋がることが出来る秘密のツールが出来た。この機会に何とかしなければもうキミに逢うことは出来ない。
『こんにちは。キティ。ボクはダニエル。メールありがとう』
夜も遅いのでとりあえず最低限のメッセージの返信をした。
『ダニエルさん。あなたに逢えてよかったです。さようなら』
返信は早かったけど、そんな別れのようなメッセージは欲しくなかった。
『いつ帰るの』
ボクはメールのやりとりを続けたかった。
『来週です』
返信が早い。何処にいるかわからないけど、お互いに同じ動作をして繋がっていることが、ボクに喜びを感じさせた。
『それはとても残念です。ボクはもっと色々なことを話してみたかったです。キミのことをもっと知りたかったです。どこかで食事に行きませんか?』
完全にデートの誘いだった。自分がすることとは思えないと思いながらも一瞬のためらいもなく送信する。キミがメールをしてきたことによって、少なくともボクを完全に拒絶しているわけではないと思った。だけど返信はなかなか来なかった。
『わたしはとてもつまらないです』
意味が解らなかった。ボクといることがつまらないという意味か、キミがつまらない人という意味か、退屈しているという意味なのか?
『おやすみなさい』
考えているとメールが届いた。ボクは慌てて返信をした。
『待って。まだ寝ないで』
『まだ起きています』
『ボクは退屈な人だった?』
『あなたはとてもいいバリスタです。でもわたしは何もありません』
キミは自分を過小評価しているのだとわかった。
『そんなことないよ。ボクはまたキミに逢いたい』
『逢う?』
『ボクとデートして欲しい』
あまりにも直接的だったが、彼女の理解力でも間違いなく伝わると思った。
『本気で言っているのですか?』
今度の返信は早かった。
『もちろん』
簡潔な言葉で送る。
『本当?』
『ボクとデートしようよ』
キミの気持ちはわからないけど、ボクは止められない気持ちを改めて素直に伝えた。だけど、今度のメールの返信は遅かった。ちょっと早まりすぎかのかもしれない。早く返信は欲しいけど、もし断りのメールだったらこない方がいい。キミは何を迷っているのだろう。どちらにしても簡単な単語を返信するだけなのに。するとよくわからない文章が送られてきた。
『心臓がよちよち歩いています』
意味が分からない。キミは自分の気持ちをどうトランスレーションしているんだろう?文字だけのコミュニケーションは難しいなと思った。心臓が歩く?歩く心臓…歩く心…歩くハート…気持ちが歩く…気持ちが揺れる…?
「あぁ、そういう意味か!」
連想ゲームのように考えるとわかった。キミはあの慣用表現をアレンジしているのだと気が付いた。間違いない。そう思うと、嬉しさが込み上げてくる。これはボクだけに使ったフレーズ。逢いたい気持ちが止まらなくなった。ボクは日時と場所を指定し、返信した。数回のやり取りでついにボクはキミと二人で逢う約束が出来た。何もなかったところから、少しずつ見えるものが出来てきてしまったけど、すぐに壊れてなくなってしまうものだと思っていた。キミだって同じ気持ちだろうと思っていた。ふと目に付いた写真立てをボクはそっと伏せた。
僕が小学生の時、妹を病気で亡くした。僕はまだ人が亡くなるということをよく理解していなかった。病弱だった妹はあまり友達もいなくて僕とよく家の中で遊んでいた。ある日学校から帰ると仕事に行っているはずの父親がいて、ランドセルもそのままで車に乗せられた。「妹は?」と聞くと「先に行ってる」と言ったまま黙ってしまった。車が停車したのは病院だった。父と一緒に病院に入った。そして見たのはたくさんの管に繋がれた妹の姿だった。「病気になって治療しているのよ」と母は僕に言ったけど大変なことになっているのは何となくわかった。ボクは妹の手を取った。前日にふざけて手にペンで書いた落書きがまだ残っていた。昨日までは何も変わらなかったのにと思った。僕は妹の名前を呼ぶと手を握り返した。僕は顔を見ようとしたけど目を閉じて酸素マスクをしていてあまりよく見えなかった。僕は耳元で「はやくまたあそびたいね」と言った。最初より強く手を握り返された。それが僕が記憶している妹の最後の記憶。そのあとのことは忘れた。ただ日に日に妹がいなくなったという悲しみが強くなっていった。妹がいる友達が羨ましかった。きょうだいがいる友達も羨ましかった。そんな友達と距離を置くようになった。そしてだんだん学校に行くのも嫌になった。そんな僕を見て両親は喧嘩するようになった。修復は無理だった。僕は悲しい選択を迫られた。父に付いていくか母に付いていくか。僕はどちらを選択してもつらい思いをすると思った。僕は残ってしまった方だった。僕の存在が妹を思い出させる存在であることもわかっていた。それに登校拒否の子供なんて面倒だろうと思った。僕はどちらも選ばなかった。妹の葬儀の時にとても優しくしてくれた子供のいない遠い親戚の名前を提示した。両親は驚いたというよりほっとした感じだった。どんな手続きをしたのかわからないが、その家の引っ越しと同時に優しく迎い入れてもらうことが出来た。今思えば、新しい両親も最初から三人家族を演じたかったのだと思う。そして苗字も変わったし、一人っ子にもなれた。
僕の新しい人生が始まった。妹のことは…彼女に会うまで思い出さなかった。もし生きていたら彼女と同い年だった。そして彼女の兄が僕と同級生だと知ったとき、封印していた感情が蘇ってきた。妹をかわいがりたい。ずっと側で見守っていたい。でも、そんな感情は実際に兄がいることで何とか抑えられていた。
彼女と再会した時、運命だと思った。彼女の心の隙間に僕は簡単に入り込むことが出来た。兄として。思った通りだった。彼女はブラコンだった。僕は妹のことは話さなかった。今後誰にも話すつもりはない。だから僕の感情の根底にあるものを知らない。僕を日に日に彼女が僕のことを本当の兄のように錯覚していると感じる一方で、こんな関係がいつまでの続くわけがないとも感じていた。『先輩』の呼び名には兄妹と他人のギリギリのラインがせめぎ合っている。僕と彼女は男女の仲には決してなれない。僕と彼女は兄妹なのだから。でも世間はそれを認めてくれない。彼女はそれに耐えかねてどこかにいってしまった。
もしまた彼女が僕のところに戻って、帰って来てくれるなら、誰がなんと言おうと受け入れる。そして今度こそは絶対に離れない。彼女がどんなに嫌がっても、仕方がないそれしか方法はない。
なかなかメールの確認ができず、たまっていたメールを確認しているとその中に彼女からのメールが届いていた。
キミとのデートはキミが帰国する前日になった。その日しか逢えないのはとても残念だったけど、ガールフレンドも来ることもなかったし、この日までボクはずっとキミのことばかり考えることが出来た。だけど、当日になるとアフェアーだと心が痛んだ。それでも待ち合わせ場所に指定した海岸沿いにあるモニュメントの前に早めに着いてしまった。まだキミは来ていないと周りを見ると、こちらに向かって歩いているキミの姿があった。
「やあ」
「こんにちは。遅れてごめんなさい」
「遅れてないよ。ボクも今来たところだし。元気?」
「・・・はい。あなたは?」
キミは笑顔を見せたが、少し緊張している様子だった。
「元気だよ」
ボクはキミを見つめた。キミはほほ笑んで恥ずかしそうに目を逸らす。キミのしぐさはボクにとっていつも新鮮だった。服装も特にいつもと変わらなかったが、いつも束ねていた髪を下ろしていた。自然な感じでいつもと雰囲気を変えていることに嬉しく思った。
「近くのレストランを予約したんだ」
「ありがとう」
キミと並んで歩く。ただそれだけのことなのにとても特別なことだと感じた。
「よかった。またキミに逢えて」
「誘ってくれてありがとう。でも…あまりおしゃべり出来ないけど」
「今、おしゃべりしてるよ」
キミはほほ笑む。ボクも自然と顔が緩む。
ボクが予約したレストランまで二人で並んで歩いた。もっと何か話したかったけど、何となく話さなくても話をしているような心地のいい時間が流れた。目が合うだけでも会話をしている感じだった。ボクも本当は緊張していたはずなのにどこかにいってしまった。
レストランに着くと予約していた海が見える窓側の席に案内された。ウェイターがキミの椅子を引き、キミは「ありがとう」と言ってボクの前に座った。
「何にする?」
キミはメニューをじっと眺めていた。きっとキミは外国語で書いてあるメニューを瞬時に理解できないのだろう。不思議な気持ちだった。もしボクが日本に行ったそうなるのかなと思った。
「おすすめはどれですか?」
「えっと・・・このお店はみんな魚料理を頼むけど、ボクはいつもカラマリとピザを注文するよ、ここのピザはクリスピーでおいしいし、カラマリもどこよりもすごくおいしいよ」
「カラマリってなんですか?」
「イカのフライだよ」
「食べたいです。あとはピザ?」
キミはメニューを覗き込んだ。
「トッピングが色々あるよ・・・説明してあげるよ。マルゲリータはわかるかな?」
キミは頷く。
「次のはペパロニのトッピング。次のはロケットがたくさんトッピングされているもの」
「ロケット。それにします」
キミは嬉しそうに言った。
「ロケットすきなの?」
「はい。こっちに来て好きになりました。でも日本ではルッコラって言っています」
「ルッコラはイタリア語だよ」
「あぁ、そうなんだ」
キミはまた頷く。
「そう、飲み物は何にする?アルコールの種類はたくさんあるよ。アルコールは大丈夫」
「はい」
「ワインがいいかもしれないけどボクはソムリエじゃないんだよね」
そう冗談を言うとキミは口に手を添えて笑った。
「あなたはバリスタです」
「正解」
ボクも笑う。オーダーを決めるだけでこんなに楽しいなんてことが今までなかった。
「ボクはいつもビールを飲むんだけど、もしキミがビールを嫌いじゃなかったら、同じもの一緒に飲みたいと思うけどどうかな?」
「はい。同じものでいいです」
キミは頷いた。ボクはその仕草に違和感がなくなった。
注文するボクをキミの視線が心地いい。特別なシチュエーションではあっても特別なことをしているわけではない。
「どのくらいここに住んでいるのですか?」
オーダーを済ませるとキミは言った。
「2年くらいかな」
「いいところですね」
サンセットが近い海は少しまぶしかったけどきれいだった。きれい?こんなに見慣れた景色でさえキミといると初めての景色にさえ思える。
「どうして、こんな不便なところに来たの?」
「・・・わからない」
「わからない?そんなことないでしょ」
「・・・たぶん・・・海が見たかったのです」
「海?ここの?」
「インターネットで・・・海を検索して・・・たくさん見て・・・決めました・・・特別理由はありません」
キミは考えながら話していた。意味は解るけど、理由はわからない。
「ハウスホテルからの景色がとてもきれいです」
「ハウスホテル?」
そんなところに滞在していたのか。
「はい。お兄さん・・・お兄さんみたいな人がいて、とても親切にしてくれて。買い物して料理して、みんなで一緒に食べます」
お兄さんみたいな人が気になるがそれ以上考えないことにする。
「楽しそうだね」
「はい。楽しく過ごしました」
キミは上手く話せないと言ったけど、ボクには十分通じていた。
オーダーしたものが揃うとキミは驚いていた。
「たくさん・・・チップスも?」
「何をオーダーしてもセットで付いてくるんだよ」
「そうなんですか」
「乾杯する?」
「はい」
ボクとキミは同時に窓の外を見た。サンセットを静かに眺めて、軽くグラスを合わせて口にした。
「そう。キミのメール」
「早く返信出来なくて、ごめんなさい」
「そんなことないよ。大体理解できたよ。ボクは日本語全然わからないからすごいと思うよ。…あぁ、あのフレーズはなかなかわからなかったけど」
それがボクの心にいちばん突き刺さっている。
「あのフレーズ?」
「私の胃の中に蝶々がいる。という慣用表現のキミのオリジナル」
「あぁ…」
キミはわかりやすく顔が赤くなった。『私はドキドキしています』って意味のつもりでキミは送って来たのが証明されたようだった。
「理解してくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
キミとの距離が一気に縮まったのがわかった。
それから、食事をしながら簡単な質問のやり取りのような、特に印象に残らないような他愛もない会話をした。でもそれは決して退屈なものではなく、むしろ新鮮で楽しかった。いやもしかすると会話内容よりもキミが笑ったり、困ったり、驚いたり、感心したりする表情が新鮮だったのかもしれない。
時々スマホでわからない言葉を検索しながらだったので、思ったよりもあっという間に時間が経ってしまった。食事を終えてレストランを出ると、このままここで別れられるような気持にはなっていなかった。ボクはビーチサイドを少し歩こうよと言うとキミは黙ってボクの隣に並んだ。フルムーンの光が海面に映り輝き、穏やかな海面から流れる風が心地よかった。
「とてもきれい…」
キミは海を見ながら言った。
「そうだね」
本当に今日は特別な景色だった。
「羨ましい。ここに住んでいて」
「…そうかな・・・」
一瞬言葉に詰まる。この景色を見るのはもしかするとボクも最後になるかもしれなかった。
「…本当は日本に帰りたくない。日本にはいい思い出がないから…」
まさかキミがそんなことを言うとは思わなかった。さすがにキミを引き留めることは出来ない。ボクが返事に困っているとキミは続けた。
「…今日は本当にありがとうございました。本当にいい想い出が出来ました」
そして頭を下げた。
「ボクの方こそありがとう。本当に楽しかったよ」
だんだんキミとの別れが近づくにつれて、今日のことは忘れないといけないことだと感じてきた。これはやっぱりアフェアーだと。
「最後に…最後に…一つだけ、お願いがあります」
キミはボクと視線を合わせないで言った。
「なにかな?」
最後という言葉が思った以上に胸をかき乱す。
「最後に…一度だけ…本当に一度だけ…カドリーしてください」
「カドリー?…」
ボクは理解してしまった。
「だめですか?……」
「……それは……」
これは本当にいけないことだ。
「わかりました。大丈夫です」
ボクはその瞬間彼女を抱き寄せていた。甘い香りがする。ボクは気が付くと抱きしめていた。
「これでいいかな」
「……好き…」
「えっ?」
なんてことだろう。今までの人生の中で最大の事件が起きてしまった。ほんの数分前にはアフェアーだからと思っていたのに。ボクはもうキミを離したくないと思っていた。キミの腕がボクの背中に回った。ボクたちは抱き合っていた。
「いっぱい好き」
「?いっぱい・・・好き?」
意味が解らないことをキミは言った。
「…あと少しだけ。あと少しだけこうしていていい?」
「・・・いいよ…」
キミから香る甘い香りがボクを包む。キミはこの後どうしようとしているかわからなくても、ボクの心は決まった。
「鳴ってる」
タイミング悪くボクの胸ポケットに入れてあったスマホがバイブレーションで着信を伝えている。キミはボクから離れた。相手は見なくてもわかった。現実に引き戻された気がした。ボクは初めて無視をした。
「いいの?」
「いいんだ」
迷いはなかった。
「ごめんなさい…」
ボクはもう一度キミを抱きしめようとした。だけどキミは受け入れてくれなかった。キミはボクのガールフレンドの存在を敏感に感じ取ってしまったようだった。
「もう、帰らなくちゃ」
「帰らせたくないよ」
見つめ合う視線がお互いの心情を感じ取っている。でも、キミはボクの言葉を嘘だと思ってしまっているのかもしれなかった。
「…ありがとう。カドリーしてくれて」
再度スマホが震える。キミはそれがわかるとボクに背を向けた。ボクはスマホの電源を切った。
「カドリーしていい?」
「…もう…いい」
「どうして」
「日本に帰らないといけないから」
「帰らなければいい」
「そんな簡単なことじゃない」
「わかってる。でも…」
ボクはキミを後ろから抱きしめた。この瞬間が永遠に続けばいい。越えなければならない壁はここにはない。
「…本当に…好き…だから…離して」
キミの声は震えていた。
「ボクは…」
「もう何も言わないで…」
「……」
結局ボクは言えなかった。何も言わない変わりにキミと向き合った。暫くボクたちは見つめ合った。ボクはもう一度キミを強く抱きしめた。キミはボクに身体を委ねてきた。
「とても素敵な時間をありがとう」
キミは泣き出しそうになりながら笑顔を作って言った。
「キミに出逢えて楽しかった」
ボクも精一杯の笑顔を作った。キミはボクに背を向けた。キミは追いかけてきて欲しかったのかもしれない。だけど、それは現実的ではなかった。キミは特別な角度でボクを見てくれていただけで、実際のボクは平凡でなんの取柄もない。だから結局、一時の激しい感情で運命を変える勇気はなかった。でもキミに対する感情に嘘はなかった。それだけは信じてもらいたい。そう思いながら、ボクはスマホの電源を入れた。
ボクは人生を諦めていた。バリスタになったのは伝統を重んじていた家系がボクだけそのレールに乗れないと見限ったからだ。ボクはちょっと他の人とは違うところがあった。ボクはただ前を向いて目の前のことをこなしていただけだった。
ボクがガールフレンドと出会ったのは一年前だった。ボクの同級生の誕生日パーティーで知り合った。モデルのように華やかでボクには関係ないと思っていたのに、次の日ボクの店に来て食事に誘われた。ボクは付き合うことになった。ガールフレンドは有名企業に勤務していて、とても忙しくデートの時間もあまりなかったけど、幸せだった。こんなボクを好きになってくれるなんて奇跡だと思った。そしてボクの人生はガールフレンドと一緒なら諦めなくてすむと思った。ずっと喧嘩もなく幸せな時間が流れていたのに、一緒に住む直前になって思ってもみなかったことが起きた。
そう、キミに初めて逢った時、ボクは幸せの絶頂にいたにもかかわらず心が揺れた。確かにキミに優しくし、一緒にいたいと思った。でもそれはただそれだけのこと。今の生活にキミが必要じゃないし、どうにかなりたいと思ったわけではなかった。ただボクは初めてのことに浮かれたんだ。ごめん。こんなボクに起こった信じられない出来事は今まで知らなかった感情を生み出した。ボクがもっと器用だったらこんなことにはならなかったと思う。
キミには結果的に本当に悪いことしたと思ってる。信じてくれないかもしれないけど、キミにメールをもらった時から、ボクはキミのことばかり考えていた。ボクは完全にガールフレンドを裏切っていた。だけどこれはすぐに戻ることのできるアフェアーだと思っていた。
でもキミに逢ったらそんな気持ちがどんどん消えていった。本当に今想い出しても間違いなく素敵な時間だった。本当にキミと一緒になりたいと思った。キミはボクに好きって伝えてくれたけど、ボクはなんて言っていいかわからなかった。ボクの言葉はちゃんとキミに伝わるかわからなかったから。嘘じゃない。もう自分の感情にないくらいキミを離したくなかった。もし色々な壁がなければ…朝までボクの部屋だった。まぁ、ボクに度胸というものがあればだけど。ごめん。そして、ボクはキミへの気持ちを封印して、今までの続きの人生を選んでしまった。本当にごめん。次の週にはガールフレンドと一緒に暮らしていた。ガールフレンドと一緒の生活は楽しくて、幸せに浸っていたよ。もっと早くしてればよかったなんて思ったりもした。キミとのメールのやり取りは全て削除した。ボクはガールフレンドとの生活だけを見ていた。
でもいくら気持ちを封印したっていっても、時々無意識に想い出していた。あの場所には行ってないよ。キミとの想い出はボクの周りにはもうなかったんだよ。それなのに飛行機を眺めながら、全然空路が違うのにキミが乗っているかなとか、パブに行ったらキミとボクが好きなビール飲んだなとか、ロケットはキミが好きだったなとか…。想い出したらいけないんだなんて思ったら余計にキミの笑顔を想い出してしまったりして…。そんなことがあっても、ボクは目の前の幸せに浸っていたよ。ごめん。
でもある日、ボクがガールフレンドに「コーヒーとティーどっちがいい」と聞いたら返ってきたのが「別れましょう」だった。ボクは何かの聞き間違いかと思った。だって、その日はとても天気が良いドライブ日和で、ガールフレンドと高級レストランのアウトサイドランチをして、お互いの欲しいものを買って、楽しく過ごした一日だったから。ボクは当然聞き返したよ、そしたら「別れましょう。私たち」真面目な顔してガールフレンドはもう一度言った。そして「もうずっと前から決めていたの」と続けた。全然理解が出来なかった。半分パニックになっているボクを淋しそうに見て言った。「あなたが見ているのは私じゃないから」ボクは意味が分からないと言った。キミの顔が浮かんでいるのに。「浮気なら全然許せるけど、あなたはそんなことできる人じゃない。もう会わないと決めたのかもしれないけど、あなたはずっと相手を想っている。きっと相手もそう。私が気付かないと思ってた?私の手の届かないところで本気の恋愛をしているあなたと一緒にいることはできない」ちょっと待ってくれって思ったよ。だって何を根拠にそんなことを言い出すのかさっぱりわからなかった。キミは現時点でいないんだし。そんなことはないと言えばすむことだと思っていたけど、そんな簡単な話ではなかった。「あなたは真面目だから、絶対そんなことはないと思っていた。でも引っ越す少し前からあなたの様子は変だった。そして今まで一度も私の電話を無視したことなんてないのに電源まで切って無視した。ごめんなさい。スマホ見た。何もなければいい。何かあっても全部削除してあればいいと思いながら」全部キミとのやり取りは削除したはずだった。「何もなかった。これで全部気のせいだったと思えると思った」そうだよ、全部気のせいだよとボクは言った。「やっぱりあなたに浮気は出来ない」当り前じゃないかって、それで終わると思った。「あなたが浮気出来るような器用な人だったら、下書きまで、ちゃんとチェックしたでしょうね」下書き?それも削除したはず…。「何度もやり取りしたんでしょ。メールアドレスと日時だけのメールが残ってた。ショックだった。でも見なかった、知らなかったことにすればいいって何度も思った。そして、あなたがもし正直に言ってくれたら過去のこととして処理できた。でもあなたは嘘を付いた」もう言い訳は出来なかった。きっとどこかで全部削除したつもりでいたのかもしれない。「あなたは何もなかったように振舞っていたのかもしれないけど、今までと全然違う。時々とても満たされた幸せそうな顔してる」そんなの今一緒に住んでいるんだから当たり前だよ。と言ってもただの言い訳にしか聞こえなかった。もうボクには正直に話して許してもらう方法しかなかった。「ほんの気の迷いで一度だけ食事だけした。あとは何もありません。許してください」許してください以外は全部嘘を付くことになった。「許す、許さないの問題じゃない。あなたに気の迷いなんかあるわけがない。その女性が今ここに現れたら、あなたの心は確実に揺れるわ。それが長く持たなくても。とにかくあなたの心にその女性が忘れることが出来ないくらい居るのが耐えられないの。あなたが真面目な人だからなおさら」そう言われて、世の中の同じ立場に立った男性はどう対処しているのか知っていればよかった。そうすればこんなことにならなかったはずだった。ガールフレンドは正確にボクの性格も傾向も理解していた。今までのボクはそれで気持ちが通じていると思って幸せだった。でも今は全て見透かされてしまっていたと気付いて居心地が悪かった。それでも別れるのは嫌だった。でも別れたくない理由は好きとか愛してるの前提があるわけではなく、今の状態を保っていたいというものだった。「今だったらあなたのこと嫌いにならないで別れられるわ」だからそんな簡単に別れられるわけがない。今のボクにはガールフレンドしかいない。「もう一生逢えないんだから、もう終わったことだよ」「やっぱり会わないじゃないのね。ずっと会いたいのに会えないなんて思い続けている」だめだやっぱり嘘を突き通せない。「そういう真面目なところが好きだった」もう何を言っても修復は無理だった。たとえ修復できたとしても…やっぱりできない。「ごめん。本当にごめん…」ボクにはそれしか言えなかった。「ごめん…。でも、きっともうボクのことなんて忘れてるはずだよ」「どうして?」「だって、日本人だから」「…信じられない。あなた日本人に声かけたの?」ガールフレンドは呆れていた。「本当に素敵な女性だったのね。嫉妬しちゃうわ」ってボクに抱きついてきた。ボクは抱きしめ返そうとしたら離れた。「ありがとう。今まで本当に楽しかった。…あなたも笑ってよ」ボクは何とか笑顔を作った。「会いに行ってくれば?」「えっ?」「うまくいかなくても、私のところには戻って来れないからね」ガールフレンドはおかしそうに笑った。「なんだか今になってあなたのこと知った気がする」それは間違っていないと思った。ガールフレンドはいつでも正しい。ボクはそれに合わせてきた。そうすれば間違いはなかった。ボクはまっすぐな舗装された道を歩きたかった。「あなたの新しい人生応援してるわ」「ありがとう…。ボクが言える立場じゃないけど、幸せになってください」「あなたより早く幸せになるわよ」ガールフレンドが気丈に振舞っているのか、ボクのことを馬鹿馬鹿しく思って言っているのかよくわからなかった。でも最後はお互い笑顔で別れた。ボクの目の前の道が急に舗装されていない泥だらけの荒野になった。
最初、ボクはガールフレンドと話をしている間、「キミが現れなければこんなことにはならなかった。なんでボクの前に現れたんだよ。なんであんなことした。なんであんなこと言った。もうキミのせいでボクの人生めちゃくちゃだよ。ほんとキミのせいで。キミがいなければ」ってどこかでずっと思っていた。誘ったのはボクなのに。でも途中から変わった。「キミは今どうしてるんだよ。キミはあれから幸せなの。キミは今でもボクのことを想い出す時がある。キミは今でもボクのこと好き?もうボクはキミのことでいっぱいなんだよ。もう一度逢いたい。逢いたい」って思ってた。
『キティへ お元気ですか。やっぱりボクはキミのことが忘れられません。逢いに行きます ダニエル』
僕はまさか空港に彼女を迎えに行くとは思ってもみなかった。到着ロビーで僕は彼女を待った。到着時刻から一時間後、彼女は僕の記憶している彼女よりも元気な様子で現れた。彼女は僕を見つけると駆け寄って来た。そして僕に抱きついた。
「先輩、ごめんなさい。心配させてしまって」
懐かしい声が響いた。
「ほんと…心配したよ。でも、おかえり。元気そうでよかった」
「……違うの」
「えっ?」
「元気でいられなくなってきたから帰って来たの」
「どうして?」
「…明日、病院連れてって…」
「病院?」
「…たぶん……」
彼女は泣き出してそれ以上言うことが出来なかった。自宅マンションまでの間、彼女はそのことには一切触れず、意外にも”一人でなんでも出来た”エピソードを僕に聞かせてくれた。僕は相槌を打ちながら気がどんどん重くなっていった。彼女は久しぶりに戻って来た部屋が何も変わっていないことを喜び、寝る前に自覚症状を少しだけ話した。でも僕の見解を聞くこともなく眠ってしまった。ちゃんと検査してみないとわからないという希望だけで、その必要はないと思った。僕は引き出しにしまってある一枚の紙を取り出した。僕と彼女との関係を変えないといけない。
翌日。僕は彼女と一緒に車で通勤した。僕は無理を言って、検査してもらった。検査結果を彼女に見せる前に全て目を通した。もし一人でいたら号泣していたと思う。僕からは言いたくなかった。彼女も僕からの説明を拒否し、彼女は一人で結果を聞いた。もうそれは結果というよりも病状の進行状況だった。彼女は僕のところに来ると悲し気に笑った。
彼女が帰って来てくれて嬉しいという気持ちはすっかりどこかにいってしまった。僕と彼女との時間はもう限られていた。
「お願いがあるんだ」
マンションに帰ると僕は彼女をダイニングテーブルの椅子に座らせて言った。
「お願い?」
「もうこれ以上、このままの状態で一緒にいることは出来ない」
「わかってる。もう先輩に迷惑は掛けられない」
僕は一枚の紙を彼女の前に置いた。彼女は驚いて僕を見た。
「僕は最後まで一緒にいたい。今のままだと最後まで一緒にいることが出来ない。今のまま、今日のままでいるために必要なんだよ。僕たちの関係が変わるわけではないよ」
彼女は動揺した。そして紙を遠ざけた。
「できない…」
「ごめん。急過ぎた…」
「急がないと時間ないもんね…ごめんなさい」
時間がないという言葉が本当に痛く突き刺さる。
「わがまま言ってもいい?」
「いいよ」
「先に書くから、そのあと書いて欲しい。そして出したことも言わないで欲しいの」
彼女の気持ちはよく分かった。
「わかった。書いたら引き出しにしまっておいてくれればいいよ」
彼女はその日のうちに記入していた。同僚にも上司にも知られるわけにはいかなかったので、少し時間が掛かってしまったが、何とか提出することが出来た。これで彼女のことを最後まで僕が見届けられると思ったら涙が溢れた。
彼女は少しだけ甘えることが少なくなったけど、僕は彼女と紙切れでつながったことでより精神的に近くにいることが出来た。彼女の体調は目に見えてということはなかったが、確実に進行していた。帰国してから、まだ遠くに出掛けてられていなかった。それでも、僕は彼女の側にいることが出来て幸せだった。だからもう思い残すことはないと思っていた。しかしそうではなかった。
彼女の手料理をふたりで楽しく食べている時だった。サイドテーブルに置いてあった彼女のスマホがメールの着信を告げた。取りに行きながら特に普段通りに彼女は確認した。
「えっ?」
彼女は視線を画面に落としたまま固まっていた。
「大丈夫?」
「…」
瞬時に彼女がまた壊れてしまう原因を作ってしまうようなメールなのではと思った。
「大丈夫?」
僕は彼女に近づいて言った。
「もう二度と逢えないと思ったのに…」
「えっ?」
「逢いに来てくれる…」
「誰が?」
彼女は僕を見た。
「逢いたい・・・。逢ってもいい?」
珍しくそわそわしていた。
「別に構わないけど」
僕は特に何も考えずに言った。
「ほんとに…でも…でも…。先輩…これ…」
彼女はメールの文面を僕に見せた。何?と、思うと同時に思ってもみない内容に驚愕する。「何があったの向こうで?」
僕の口調はきつくなってしまった。僕との関係がある中でまさか彼女が僕以外と恋愛関係になっていたなんて、信じたくない。
「……」
「言えないの?」
「…何もない…」
「何もないわけがない。忘れられなくて会いに来るって、どういう関係?」
きつい口調で聞きながら知るのが怖かった。
「わかんない…」
「わからないことないでしょ」
「…先輩…怒ってる…」
「怒ってないよ…ごめん」
僕はその相手に対してだった。彼女に手を出すなんて許せなかった。
「やっぱり、逢わない」
「……」
「先輩の側にいるから、逢わない」
彼女の決意は明らかに揺らいでいた。このまま本当にこれでいいのか思案する。
「僕が側にいなかったら会う?」
「……」
「じゃぁ、こうしよう。一日だけ僕は側にいない。会っても会わなくても僕は関係ないし、何も言わない」
彼女の表情がパッと明るくなった。
「本当?いいの?」
「いいよ。ちゃんと戻ってくるんだよ」
「うん」
彼女は食事を放棄して、スマホ片手に自分の部屋に閉じこもった。どんな相手なのかとても気になった。僕はある決断をした。
キミが待ち合わせに指定したのはボクが宿泊しているホテルのラウンジだった。空港からここに来ることは簡単だったが、ここからどこかに行くのはちょっと難しかったから、キミの気遣いは嬉しかった。キミが来ることだけに集中できる。東京の中心市にあるこのホテルはとても美しくまぶしかった。行きかう人々も洗練されていて、国際色も豊かで大都市東京なんだと思った。そんな場所にボクがいるのが何とも不思議だった。ボクはスマホと入り口を交互に見ながらキミを落ち着かない気持ちで待っていた。
「こんにちは」
少し緊張した面持ちのキミがそこにいた。それ以上にボクの方が緊張してたと思う。キミはよりきれいになっていた。ボクとどう考えても釣り合わないほどに。それでもボクたちは見つめ合ったまま微笑み合った。ボクは抱きしめたかったが文化の違いを知って我慢した。
「こんにちは。…元気?」
「元気。あなたは?」
「元気だよ」
「遠かったから、疲れた?」
「遠かったよ。本当に」
本当に遠かった。お互い同じフライトを経験してお互いの国で逢っているのはとても不思議だった。
「なんか不思議」
キミがほほ笑む。ボクと同じ思いをキミも持っているみたいだった。
「日本の…東京のイメージはどうですか?」
「きれいだね。部屋から富士山とスカイツリーと東京タワーが見られたよ」
「素敵な部屋なのね」
「見に来る?」
自然に口から出てしまった。深い意味はもちろんなかった。ただ言った後に気付いた。でもキミは「見たいな」とさらっと言った。
ボクとキミは目に見えない何かが間にあるかのように一定の距離を保ちながら部屋に入った。
「ほんと。すごい」
窓から東京を一望すると、キミは感動していた。空は澄み渡り富士山もくっきり見えていた。
「初めて見るの?」
「そう。東京に住んでいると、東京のホテルには宿泊しないから。こんな景色が見られるんだね」
「ボクと同じなんだ」
キミがボクを見つめた。
「どうして…来たの…?」
単純な質問だったけど、そこに含まれる気持ちは複雑にとれた。
「…ごめん。迷惑だったよね」
「迷惑じゃないけど…」
「別れたんだ。あれからすぐに」
「わたしのせい?」
「…いや、ボクがすべて悪かった」
「…なんで来たの…、わたしがまだ好きでいると思ったから?」
ガールフレンドと別れたから、キミにシフトしたと思われてもしかたがない。
「ごめん・・・もう一度逢いたかった…」
「わたしも……友達として」
期待していた自分が滑稽だった。現実はこんなものだ。
「東京案内してあげる」
キミはとても嬉しそうに言った。
日本は外国人に人気の観光スポットがたくさんあるのは知っていたけど、自分がまさか来ることになるとは思ってなかった。特に東京は見所にあふれていた。だけど何処と聞かれるとわからなかった。だからキミが「お花見しよう」と言った時、それが一番素敵な観光なんだと思った。キミは生き生きとして、本当に細かく気遣ってくれた。緑茶は飲めますかとか、お米は食べられますかとか、お団子はわかりますかとか、ボクは全部試してみると言った。キミがどんな物を食べているのか知りたかった。
色々と買いこんで、公園に向かった。その場所はそれほど広くなかったが公園を囲むようにと、中央に桜の花が美しく咲いていた。
「これが桜なのか。本当にきれいだね」
「でしょ、きっと今日が一番きれい」
ボクたちはベンチに腰掛けるとお弁当を広げた。写真でしか見たことがないものが目の前に現れた。
「スプーンとフォークあるよ」
キミはバックから取り出した。そんな気遣いに本当に感心した。
「ありがとう」
さすがに箸は使えない。そしてキミはなにか言って器用に箸を使って食べ始めた。
「美味しですか?」
「・・・これはおいしいけど、これは苦手かな」
「どれ?・・・かまぼこです。魚のすり身を固めたものです」
「魚?食感が変わってる。・・・好きじゃないな」
「えっと、実はわたしもあまり好きではありません」
「そうなの?」
「はい」
キミはおかしそうに笑った。キミが笑っているとボクは幸せだった。お弁当の味よりもキミと一緒に同じものを食べて、同じものを見て、同じ時間を共有していることが本当に嬉しかった。
「不思議」
「何が?」
「この状況」
「確かに」
お互いまた笑顔になる。
「…今も…あなたのお店は変わっていない?」
「変わっていないよ。いつでもキミの場所用意するよ」
「ありがとう」
ボクたちはちゃんと会話出来ている。これでよかったんだと思う。国を超えて言葉の壁を越えてボクたちは友達になった。あの時とは逆でボクがこれは何かと質問している。今度来るまで少しは日本語の勉強をした方がいいかなと思った。
お弁当を食べ終えるとボクたちは桜の木の間を歩いた。桜をバックにしたキミの横顔はとても美しかった。
「写真撮ろうよ」
ボクはその時にはシャッターを切っていた。キミは気が付かなかった。
「そうだね」
キミは誰かに撮ってもらおうとしていた。同じように撮っている通行人に彼女は声を掛けてボクはスマホを渡した。ボクとキミは並んだが、もっとくっついてというようなジェスチャーをされた。キミはボクの肩にもたれた。そしてボクはキミの腰に手をまわした。
「ここは日本だけどね」
キミは笑った。撮ってもらった写真を見る。こうやって客観的に見ると違和感がある。ちょっと複雑な思いが去来する。
「後で、送ってね。私のでも撮って」
キミはセルフィーの構えをしてボクにくっついた。でもなかなかうまくいかなくて笑ってしまった。そんなときの一枚は二人とも本当に楽しそうな笑顔だった。ボクはやっぱりキミと一緒にいるべきだと感じた。
桜の木の下、風が吹き、数枚の花びらが風に舞った。キミは手を伸ばしていた。そしてキミの手に花びらが落ちた。そして、キミは静かに倒れた。
ボクは病院のソファーに座っていた。キミが倒れてどうしたらいいのか焦っていると、近くにいた男性がスマホ片手に話しながら近づいてきた。
「大丈夫。救急車の手配はした」
「ありがとう」
男性は手慣れた様子で、脈を見たり、服のボタンを緩めたりしている。
「もしかして、お医者さん?」
「そう」
ボクは安心した。
「ガールフレンド?」
「…そうです」
少し迷ったけどそう答えた。しかし救急車が到着してからもボクは何も出来なかった。キミの本名さえ知らなかった。生年月日も、年齢も、住所も何も答えられなかった。代わりにすべてその男性がキミの免許証をボクに探させてそれを見ながら応えていた。
救急車に乗り、病院に到着すると一人待たされた。ボクはキミを心配しながらも、病院の雰囲気は、どの国もあまり変わらないと思った。
ボクはとても落ち込んだ。その時あの男性がボクのところに来た。改めて見るとハンサムでスマートで俳優みたいだった。
「隣いいかな」
「もちろん…あの、本当に感謝しています」
「大丈夫。大した事ない。あと数時間したら帰れる」
「よかった…」
「日本は初めて?」
「そうです」
「あなたの国で知り合った、ガールフレンドに会いに?」
「ええ、まぁ」
「いつから付き合ってるの?」
「えっと……そんなに長くないです」
なんだか尋問されている気分になった。
「あなたは彼女のこと知らなすぎる」
何も返す言葉がない。
「…どうしたいんだ?」
「どう…」
キミと一緒になるという淡い期待は数時間前に完全に無くなったのにもかかわらず、まだ未練があるのは明らかだった。
「ガールフレンドじゃなくて、ただの友達だよね」
「・・・」
否定も肯定もできなかった。ボクはこんな場所で何を責められているのかわからなかった。
「あなたとの出会いは彼女にとってかけがえのないものだったんだろう。でも、もう過去のことだよ。あなたは来るのが遅すぎた」
この男性はキミのボーイフレンド!?
「でも、あなたには感謝もしている。彼女はとても楽しそうだった。ありがとう。…羨ましいよ、あなたは彼女のこと何も知らなくて。だからあなたが好きだったんだよ。…好きだったじゃないな。今でもあなたを好きでいるよ。僕に対する感情とは違う…」
いや、ボクは数時間前に振られてる。というより、この男性は…?
「えっと…?」
「僕は彼女の夫です。彼女は僕の妻です。」
衝撃過ぎて顔が引きつる。間違えようがないように言い方を変えて言われた。
「…すみません」
キミが既婚者だったとは思いもよらなかった。
「やっぱり彼女言えなかったんだ。…あなたのことが好きだから隠した」
「本当にすみませんでした」
これ以上どう謝罪したらいいのかわからなかった。
「もう謝ってもらわなくてもいいんだ」
「でも…」
「実は彼女はもう長くは生きられない。今日倒れたのもそのせいだ。でも、もうどうすることもできない。」
「えっ?」
すぐに理解出来るほどの余裕はなかった。ボクはキミの姿が見えるわけがないのに処置室を見た。
「医者である僕も、夫である僕も出来る限りのことをしても…。だからあなたにお願いがある」
「お願いですか?」
「彼女をあなたに預けたい」
「何を言っているんですか?」
「僕は正気だよ。彼女はあなたといたいんだよ」
そんなことを簡単にわかりましたと言えるわけがない。
「あなたにしかできないんだよ」
うっすら涙を浮かべながら懇願された。ボクは複雑な思いを抱きながら受け入れた。
最初の印象は地味だなと思った。とりわけ目立つところがない。外国人だからここではそれなりに目立っていたけど、そうでなければ溶け込んでしまって全く印象に残らないだろう。彼女の好みはよく知っているけど、どこに惹かれたのかわからなかった。でも彼女はとても嬉しそうだった。
僕は最低なことをしている自負はあった。でも、どうしても気になってしまった。あとで発覚し、彼女に非難されても仕方がない。でも後悔はなかった。彼女が喜ぶ顔が見られたから。それでも二人で客室に行ったときは心がかき乱された。戻ってこなかったらどうしようと心配になったが、意外にも早く戻ってきた。二人は並んでロビーを出ていった。僕は二人の後をつけた。距離があるので何を話しているのかわからなかったけど、彼女が色々と気を使っているのは見て取れた。それでも楽しそうだった。お弁当を買って公園で食べるなんて素朴なデートをするとは思わなかった。いくらでも行くところがあるのに…。並木を歩く二人は楽しそうなカップルだった。僕と一緒の彼女は楽しそうにしていてもどこか遠慮がちなところがあった。写真を撮ってもらい、セルフィーで楽しくふざけ合いながらいる二人を見てだんだん辛くなってきた。確かに今の僕たちは…少なくとも僕は彼女と一緒で幸せだと思っている。でもあんなに屈託なく笑えたりはしていない。どうやったらあんな風になれるのだろう。彼女に好意を持っているのは間違いない。来るのが遅すぎたんだよ…。もう帰ろうと思った時、彼女が倒れた。僕は救急に連絡しながら慌てて彼女に駆け寄った。あなたは動揺していた。
「大丈夫。救急車の手配はした」
「ありがとう」
こんなところで倒れるなんてだめだよ。あなたは何もできない。
「もしかして、お医者さん?」
「そう」
それも一番側でよく見ている医者だ。あなたは安心したようだった。僕はあなたを試すことにした。
「ガールフレンド?」
「…そうです」
少し迷ってそう答えた。日本語のカノジョの意味で聞いてそう答えるとは思わなかった。でも、本名も生年月日も知らなかった。目の前の彼女だけでそんな気持ちになったのか。知る時間もなく、もしかするとそんなことは重要じゃなかったのかもしれない。二人の関係は簡単で、単純で、今が全てなのだろう。そう言葉の壁はそう簡単に越えられない。深く考えられないというのは悪いことじゃないのだ。特に今の二人には。僕はあなたに彼女の財布から免許証を出させた。救急隊員には僕は通報した者で、あなたのことはカレシだと伝えた。あなたは不安そうにしながら彼女と一緒に救急車に乗った。僕はその後を追った。
あなたはとても暗い表情で半分放心状態だった。僕は少し余裕のある表情を作ってあなたに近づいた。
「隣いいかな」
「もちろん…あの、本当に感謝しています」
不安げながらもしっかりとした声で言った。
「大丈夫。大した事ない。あと数時間したら帰れる」
「よかった…」
顔がほころんだ。僕は色々と聞かなければならなかった。
「日本は初めて?」
「そうです」
「あなたの国で知り合った、ガールフレンドに会いに?」
「ええ、まぁ」
「いつから付き合ってるの?」
「えっと…そんなに長くないです」
やっぱり付き合っていたのかと裏切られた気分だった。
「あなたは彼女のこと知らなすぎるな」
それはしょうがないな。でもそんなことはどうでもいい。
「…どうしたいんだ?」
それが一番知りたいことだった。
「どう…」
すぐに明確な返事はなかった。それにはちょっとがっかりした。
「ガールフレンドじゃなくて、ただの友達だよね」
「・・・」
否定も肯定もせず黙っていた。
「あなたとの出会いは彼女にとってかけがえのないものだったんだろう。でも、もう過去のことだよ。あなたは来るのが遅すぎた」
でも、本当は来てほしくなかった。
「でも、あなたには感謝もしている。彼女はとても楽しそうだった。ありがとう。…羨ましいよ、あなたは彼女のこと何も知らなくて。だからあなたが好きだったんだよ。…好きだったじゃないな。今でもあなたを好きでいるよ。僕に対する感情とは違う…」
本当のことだ。とても淋しいことだけど。
「えっと…?」
さっきからあなたはずっと動揺していた。
「僕は彼女の夫です。彼女は僕の妻です」
多分想像を超えた事実だったのだろう。顔が引きつっていた。僕もわざわざ強調して言い換えたのだから。
「…すみません」
「やっぱり彼女言えなかったんだ。…あなたのことが好きだから隠した」
もしかしたら伝えていたかもしれないと少し期待していたけどやっぱり隠していた。
「本当にすみませんでした」
当たり前の反応だった。でも攻めるつもりはなかった。
「もう謝ってもらわなくてもいいんだ」
「でも…」
「実は彼女はもう長くは生きられない。今日倒れたのもそのせいだ。でも、もうどうすることもできない」
「えっ?」
戸惑いと動揺が見てとれた。僕は本題に入った。
「医者である僕も、夫である僕も出来る限りのことをしても…。だからあなたにお願いがある」
本当はこんなことをしたくない。
「お願いですか?」
身構えたように言った。
「彼女をあなたに預けたい」
本当に本当にこんなことはしたくない。
「何を言っているんですか?」
当然だよ。あなたは驚きを隠せない。
「僕は正気だよ。彼女はあなたといたいんだよ」
こんなことを言う僕はおかしいと思われても仕方がない。できればこんなことはしたくない。でも…。
「あなたにしかできないんだよ」
僕は泣いていた。なんの涙だろう。彼女が僕よりあなたを選んだことか、自分が彼女の為といって最低な行為をしていることか、それともあなたことが羨ましいのか…。そんな僕を見てあなたは深く頭を下げた。
ボクはホテルに戻った。キミはちょっと疲れがたまっていただけと言って病気のことは言わないつもりのようだった。ボクは心配だったけど、ただいたわることしかできずそこでキミと別れた。キミの夫だという…まだ認めたくない気持ちがあるけど、あの約束もキミが帰ってしまえばどうすることもできない。でもボクはほっとしている。ボクとキミはこれからもずっと友達でいられる。この滞在期間に想い出が作れればいい。食事に誘うことくらいはできるだろう。
目まぐるしく状況が変わり、ボクはぼんやりと窓の外を見ていた。昼間キミと一緒に見た風景は、色とりどりに輝く美しい夜景に変わっていた。キミに見せたい。キミと一緒に見たい。キミは本当に大丈夫なのだろうか。ボクはスマホを手にすると、写真を撮った。その時、部屋のチャイムが鳴った。なんだろうと思って出ると立っていたのはキミだった。一瞬夢なのかと思った。
「入ってもいいですか?」
キミは遠慮がちに言った。
「いいけど…どうしたの?」
ボクは招き入れた。キミは昼間と違って落ち着いたワンピースを着ていた。
「電気付けないのですか?」
「あぁ、忘れてた。夜景がきれいだったから」
ボクたちは昼間と同じように並んで夜景を見た。
「ごめんなさい」
キミは震える声で言った。
「何も言わなくていいよ」
ボクはキミを強く抱きしめた。キミの香水が甘く香ってあの日の記憶が蘇る。キミの時間を今度はボクでいっぱいにしてあげたい。
「ごめん…来るのが遅くて。でも、キミのこと忘れたことはなかった」
「本当に遅いよ・・・わたしも忘れることが出来なかった・・・」
キミの潤んだ瞳がボクを見る。
「でも・・・なぜ好きなのかわからない」
「ボクがキミを好きだからだよ」
キミも笑顔になる。
「どのくらい?」
「どのくらい?」
「どのくらい好き?」
「量ったことないからわからないよ」
「量れるの?」
「量れないね」
「おかしい」
「気持ちは量れない。でも止められないよ」
ボクはキミの唇に軽くキスをした。
「・・・好き・・・たくさん好きだよ」
ボクはキミの言葉を想い出して言った。
「わたしも・・・たくさん好き」
ボクたちはどちらともなく唇を重ねそのままベッドに倒れこんだ。
僕は親友と一緒に飲んでいた。彼女は病院から僕を呼び出した。僕は慌てて駆け付けたように装った。そして一緒にマンションに帰って来ると、彼女はせっかく逢えたのにちゃんとお別れ出来なかったと泣きながら言った。僕は約束の一日はまだ終わってないよと言ってあげた。
「で、彼女は行ったのか?」
親友は改めて確かめるように言った。
「今日は特別な一日なんだ。彼女にとって」
「本当にいいのか?」
「いいわけがない。でも、彼女は本当に楽しそうだった。僕の踏み込めない二人しかわからない時間がそこにはあった。運命の二人だよ。止められないよ」
「ちゃんと帰って来るのか?」
友人は腕時計を見た。もうすぐ今日が終わる時刻だった。
「来るよ。…きっと」
「もし帰って来なかったら?」
「……初めての反発かな。でも、彼女がそれで幸せならしょうがないよ…。彼女が生きているうちに僕が出来ることはたぶんもうない」
「生きているうちにか…」
「そう…」
「大丈夫か?」
「わからないな」
もうすぐ彼女の存在自体がなくなってしまう。もしあなたと一緒になることによって彼女の存在がそのままなら、僕は彼女を手放してもいい。そんなことを何度も何度も思った。でも現実はそうはいかない。
「なんで今になってこんなことになるんだろと思ったけど、知らないよりはよかったと思っている」
「どうして?」
「彼女はやっぱり僕に対して恋愛感情がなかったとわかったから」
「あぁ…」
「相手がチャラチャラしたようなやつだったら、絶対やめろっていったけどさ。なんていうかどこに彼女が惹きつけるられたんだろうと思うくらい普通…っていうか、地味なんだよ」
「お前とは違って?」
「そう」
わざと真面目な顔して言った。
「日本語も全くわからないのに彼女に会いたい一心で来たんだ。そんなやつなんだよ」
「…一途だったわけか」
「それはどうかわからないけどな。…でも今はそうだ」
「…」
「あんなに地味なやつだったけど、彼女本当に嬉しそうでさ…。彼女は間違いなく一途に思っていたんだよ。その二人が会ってしまったんだよ」
見たくなかった時計を見てしまった。今日は終わって明日になっていた。
「もういいんだ。よくないけど…いいんだ」
僕は日本酒を浴びるように飲んだ。
ボクの横でキミは安心したように眠っていた。キミの頬にそっと触れる。こんなに側にいるのに届かない…。
「あっ、起こしちゃった?」
「・・・・・・わたし・・・帰らないと・・・」
「どうして?」
ボクはキミを見つめた。キミは悲しそうな表情でボクを見て言った。
「……言わなきゃいけないことがあるの」
「言わなくていいよ」
こんなタイミングでキミの口から聞きたくない。
「聞いて」
「聞きたくない」
「実は…」
ボクはキミの口を唇でふさいだ。今が全てなんだよ。余計なこと考えたくない。
キミはそんなボクを振り切るようにして離れた。キミはもう完全に泣いていた。
「ごめん。知ってるよ。キミが結婚してることも。病気のことも。カレが病院で教えてくれたよ」
キミの口から聞くより自分で言った方がましだった。キミは息が止まりそうなくらい驚いていた。嘘であってほしいという僅かな期待は完全になくなった。
「…ごめんなさい。言いたくなかった。だって…だって、本当にあなたのこと好きだから。…でも、やっぱり約束を破るわけにはいかない」
立ち去ろうとするキミの腕を掴んだ。
「今日だけ、ずっと一緒にいようよ」
「・・・…」
「涙を拭いて。もう一度東京の夜景を一緒に見よう」
ボクはキミの手を引いて窓際に並んだ。
「フルムーンだよ。今日は特別なんだよ」
「・・・あの日と同じ。また一緒に見れて嬉しい・・・」
キミはボクを見つめた。
「ボクもだよ」
空調の音が微かに聞こえるだけの静かな二人だけの空間だった。
「もうすぐ明日。やっぱり帰らなきゃ」
「シンデレラみたいだ」
キミは少し笑った。
「でも、今日は一緒にいよう」
ボクはキミを優しく抱きしめる。
「今日はもうすぐ終わるの……」
「ボクの国の今日はまだ終わっていないよ」
キミは笑った。
「ずるい…」
「そうだね…」
ボクたちは笑顔で見つめ合った。言葉はもう必要なかった。東京タワーのライトが消えた。
彼女と彼の間に何があったか知りたくない。結局、彼女は僕との約束を破りその日には帰って来なかった。仕事から帰って来ると、気まずそうな表情で僕を見ると一言だけで謝った。正直なんというのが正解かわからなかった。僕は「今度はちゃんと帰って来てね」と、彼女の顔も見ずに言った。
「先輩?」
すぐに、いつもの彼女に戻っていた。
「なに?」
「好きと愛してるではどっちの気持ちが強いと思う?」
「なんだよ、突然。」
「難しい質問?」
「愛してるじゃないかな?」
「どうして?」
「そんな簡単に言えないから」
「じゃあ、私のことは?」
「愛してるよ」
「…簡単に言った」
彼女は笑った。そして僕の隣にもたれかかった。
「先輩のこと好きだけど、ごめんなさい。愛してるかわからない。好きがいっぱい集まったものが愛してるなら、そうだけど…。」
「いいよ、それでも。別にわざわざ言うことじゃない」
「わからないの。…昨日やっと逢えて、好きで好きでどうしようもないくらい好きなのに別に愛してる気持ちとは違うの。だからきっといけないんだよね。忘れてもらった方がいいんだよね。もう逢わない方がいいよね」
「会わない方がいいって、言ってほしい?」
「…だって…もし私が病気じゃなかったら、もっと怒るでしょ。先輩が会って私のこと話したこと聞いたんだよ」
あなたは話したのか…。
「そうだね、病気じゃなかったらきっと怒ったね。でも、僕だってわからないんだよ。怖いんだよ。失った後のことを思うと。だから、毎日、楽しかったね、幸せだったねって過ごしたいんだよ。会って楽しかったって思うなら、僕のことなんていいんだよ。僕の愛してるの形だよ」
「ごめんなさい。…約束破って」
「今度はちゃんと帰って来ればいいよ」
僕は彼女を抱きしめた。
「ありがとう・・・先輩・・・」
彼女はせき込んだ。僕のシャツが赤く染まった。僕は静かに強く現実を受け入れた。
病院に向かうタクシーの中で、ボクは祈っていた。カレの様子ではかなり危険な状態らしかった。つい数時間前の出来事がまさに夢のようだった。だめだよ。まだ、キミとやりたいことがいっぱいあるんだよ。もう一度ラテを淹れてあげたいし、初めてデートした場所にも一緒に行きたいんだよ。もう一度あの景色を見ようよ。
病院の救急受付では、ボクの姿を見ただけですぐに案内された。心臓が激しく鼓動していた。
「来てくれて、ありがとう。今、処置してもらってる…」
ボクの姿をすぐにカレは見つけてそう言った。様子からしてあまりよくないのがわかった。それ以外に微妙な気まずい空気が流れる。
「あの…」
「言わなくていい」
どこまでキミは言ったのかわからないけど、キミは怒られたのだろうか。
そんな時キミの処置室から看護士が出てきて、カレに何か言っていた。日本語で全てはわからなかったが聞き取れた言葉があった。
「珍しい血液型なんですか」
「そう、彼女は珍しい血液型で、輸血用の血液がたぶんもたない…」
ボクに分かるように言ってくれた。
「血液が確保出来れば助かりますか?」
「確保は今の状況では難しい」
「ボクの血液を使ってください」
「無理だよ」
「ボクはゴールデンブラッドです」
「えぇっ・・・!」
驚きと、疑うような視線を感じたがそんなことどうでもいい。
「ボクの血液ならすぐに輸血可能です。お願いします。ボクの血液を使ってください」
カレも看護士も、ボクをそんなはずはないといった眼差しで見ていた。
「ボクを使ってください、助けてあげてください。お願いします」
ボクは頭を下げた。
「すぐに準備してください!」
ボクは誰にも言わずに抱えてきた重い使命感のようなものからようやく解放された。これでキミが助かれば、ボクはもうどうなってもいいと思った。
「まさかゴールデンブラッドの持ち主だったなんて…」
僕は何度も反芻する。どんな血液型タイプにも輸血可能なゴールデンブラッド。世界で40人ほどしか確認されていない。しかもその中で輸血に応じてくれる人物は10人もいなかったはずだ。そんな幻の血液型を持っていたなんて…。
二人のベッドは並んでいて、チューブで繋がれている。その光景はまさに赤い糸で繋がっているようだった。好きとか愛してるとか超越したところで結ばれている二人。僕と彼女はただの紙切れ1枚でしか結ばれていない。いや、結ばれているわけではない、ただくっついているだけ。僕は結局、彼女の兄の代わりで、彼女は妹の代わりだったんだと思う。妹の恋愛がうまくいくように願う兄。成就したと思うよ。よかったよ。僕も幸せだよ。
「あの、もうこれ以上は…」
その宣告に僕は頷いた。
ボクは出来る限りのことをやったのかわからない。でも、処置する前、一瞬だけ目を開けてボクを見た。そして力なく笑った。ボクはキミの手を取るとキミは反応した。だめだよ、絶対にまた笑ってくれなきゃ。ボクが助けてあげるからと、本当に助ける、助かると思っていたのにキミはもうボクに笑いかけてくれなかった。もうこれ以上キミの側にいることは出来なかった。そして、葬儀も出席することなく、逃げるように帰国した。キミはボクに送ってもらいたかった?ごめん、出来なかった。ボクはまたキミを手放してしまった。
ボクは独りの生活に戻った。いや、キミがいなくなった今、戻ったわけではない。楽しい、嬉しい、幸せと、キミと一緒に過ごした時の感情がなくなった。明日はもっと辛くなる、明後日はもっともっと辛くなる、これから先、つらい気持ちがどんどん積み重なっていくだけ。何度も何度もキミのところに行きかけた。でもごめん、なぜかまだここにいる。生き続けてしまった。
そして気が付けば一年経っていた。その日、知らないアドレスからメールが届いた。キミから送られてきたような気がして開いた。カレからだった。
気が付くとあなたはどこにもいなかった。僕と彼女と二人の時間が静かに過ぎていた。彼女が亡くなった今、僕が言わなければ、あなたと彼女が特別な関係だったことは誰も知ることはない。それよりゴールデンブラッドの持ち主のインパクトが刻まれた。そしてあっという間にいなくなってしまったこと。すべてが幻だったかのように。僕もあなたのことは思い出さないようにした。僕と彼女の想い出にいてほしくなかった。僕は彼女と共に過ごした部屋のまま片付けることも出来ずに過ごした。親友は早く引っ越した方がいいと言っていてが、そうした方がいいと頭では思っていても出来なかった。だけどある時、彼女が残した手紙を見つけた。僕がプレゼントして、とても気に入ってくれた絵本に挟まっていた。彼女の几帳面な美しい筆跡で僕の名前が記されていた。それを見ただけで泣いた。最後の会話を想い出す。好きと愛してるはどっちの気持ちが強いかとかいう…。彼女は本当は僕のことどう思っていたんだろう。その答えが書いてあるような気がした。そう思うと封を切るのが怖かった。結局封を切る決心がついたのは、もう一通の手紙を見つけたからだった。
まさかまた会うことになることになるとは思わなかった。しかもボクの国で。詳しいことは会ってから話すとのことで、何を告げられるのか不安だった。お互いぎこちない挨拶をして、沈黙後カレが話し始めた。
「きちんとお礼を言いたかった。…輸血してくれて感謝してます」
「…そんなこと…助けられなかったし…」
今でもあの時のことを昨日のことのように思い出す。
「あなたのせいじゃないから」
そうかもしれないけど、少なくともあまり役に立った気にはならなかった。
「……色々とすみませんでした」
「あなたとの時間が少しでも長くできたからよかったんだよ。…やっぱり彼女は、あなたのことがとても好きだった。それは僕の知らないキティとして。彼女がキティとして生きられたら僕と別れてもよかったけど、それは出来なかった。でも最期は間違いなくキティだったんだ。彼女は幸せだったって…あなたに伝えてって手紙に書いてあった。」
「手紙?」
「あなたとのところに行く前に書いていたんだ。もう思い残すことはなかったんだよ」
カレは一通の封書を取り出した。
「残念ながら全部日本語だよ。…見るかい?」
ボクは受け取ると一通り目を通した。丁寧に書かれたものとしかわからなかった。返そうとすると、カレはある一点を指さして言った。
「これが日本語で書かれたあなたの名前。このセンテンスが、幸せだったと書いてある。」
ボクは読めない文字列を見つめた。この長い手紙には他に何が書いてあるのだろうと思ったらそれを見越したようにカレは言った。
「ここには、あなたとの想い出の海に散骨して欲しいと書いてある。ここに来たのはこの手紙をあなたに見せに来たんじゃない。僕は彼女の希望を叶えるために来たんです。一緒にお願いできますか?」
「散骨…」
カレが大事に抱えていたのはキミだったのか…。
「わかりました」
カレは微かにほほ笑んだ。
雲一つなくよく晴れ渡っていた。
ボクとカレは船上に居た。カレは真紅の薔薇の花束を持っていた。ボクは美しいなと思いながらキミの姿を想い出していた。その場所に到着するまで、二人の間に会話はなかった。ボクはいつしかなんの気なしに薔薇の本数を数えていた。何度も何度も。そして船が止まった。
「美しいところですね…」
「そう思います…」
暫くの間、透き通る海面を眺めた。カレはおもむろに薔薇の花束をほどき海面に投げた。見事なコントラストで17本の真紅の薔薇がちりばめられた。
「希望をかなえてあげるよ」
カレはキミが入っている箱を開けた。キミは細かく砕かれた白いサンゴのようだった。かれはキミをすくって蒔いた。薔薇の間の海面に沈んでいった。
「あなたも」
ボクは恐る恐るキミに触れる。これがキミなのかと思うと押さえていた気持ちが一気に溢れだした。あぁ、ボクも一緒にこうなってしまいたい。キミと一緒に沈みたい。
「彼女の希望だよ」
カレの声にボクはキミを勢いよく離した。そのあとはもう見ることは出来なかった。ボクは船内の方を向いて座り込んだ。その横で、カレが静かにキミを手放していた。
「終わったよ…」と言ってカレはボクにもするようにと、手を合わせた。ボクは見習った。もうキミの姿はわからないが、あの薔薇の下に沈んでいった。薔薇の下。17本の薔薇の下。
「ありがとう。付き合ってくれて」
カレは爽やかに言った。
「…いえ」
そういうカレの本心は違うのだ。ボクは一度キミに花束をプレゼントしようとした時がある。薔薇の花の数には意味があった。17本。それはキミにプレゼントする数ではなかったけど、強く印象に残っている。それは『取り戻せない絶望的な愛』を意味する本数だった。そして薔薇の下、アンダー・ザ・ローズは『秘密にする』の意味だ。
ボクは遠ざかるキミのもとをずっと見ているカレの姿を眺めた。ボクなんかよりも比べものにならないくらいキミへの深い愛をボクは見せられた気がした。結局、ボクはキミとカレの幸せな生活をかき乱しただけだったのかもしれない。
「もう、会うことはないかな」
港に戻ってくるとカレはそう言った。
「そうですね」
何となく感傷的な気分になったのはボクだけじゃないと思う。キミはそれぞれの想い出になった。
「お元気で」
「あなたも」
「やっぱり…渡さないわけにはいかないな」
カレはバックから、さっきとは違う封筒を取り出した。
「あなたへの手紙だよ。…もちろん見ていない」
桜の柄の日本的な封筒にボクの名前が、カリグラフィーで書かれていた。
「全く、僕に届けさせるとは。僕は郵便屋さんじゃないのに。じゃあ、これで」
「ありがとうございました。…あの…お元気で」
「頑張るよ。あなたもだよ…」
ボクとカレはそうしてもう二度と会うことはなかった。あの日、改めて二人の男のキミのいない人生が始まった…。
僕は引っ越した。彼女を思い出すものは全て処分した。余命宣告をされていた彼女の私物は殆どなかった。そこまでしなくてもと言われたけど、そこまでしないと前には進めなかった。生きられる人間は生きなきゃいけない。できるだけ元気で次の日を迎えなければならない。それが使命だと思ってる。僕は彼女をずっと支え続けた。僕は最期まで彼女を愛していたかわからないけど、愛で支えてきたことには違いないと思っている。
「荷物少ないな」
「殆ど処分したからな」
「心機一転にはいいな」
親友と暮らすことにした。僕のこの新しい生活がどうなるかわからないけど、親友はとても楽しそうだった。僕は自分よりも他人の幸せを願う人間なのだと思う。
まだキミからの手紙の封を開けずに眺めていた。キミとの最後の会話は何だったのだろう。ホテルで一晩過ごした後。ボクとキミは自然に唇を合わせて「またね」と言ってキミは部屋を出た。キミにどれだけ罪悪感があったのだろう。でも本当はキミを帰してはいけなかったのかもしれない。ボクは二度も選択を誤ってしまった。後悔してもしきれない。たとえそれが短い間だったとしても、もっとキミと一緒にいて想い出を作りたかった。そしてもう一度あの海を一緒に見たかった。
ボクは震える手で封筒を開けた。カレ宛の手紙と同様に日本語で書かれているかもしれないと一瞬思ったが違った。短いメッセージだった。
「あぁ……」
あの時の光景がよみがえる。最初言われたときは理解できなかった。文法的に間違っているし、数えられるものではなかったから。でもキミと一緒にいたら何となくわかった。絶対ボクたちしか使わない。ボクはその言葉を反芻する。ボクたちは本当に幸せで素敵な関係だったと少しだけ気持ちが明るくなった。そしてメッセージの後には、猫なのか犬なのか、クマなのかわからない笑った表情の動物のイラストが描いてあった。書体はきれいなのに絵は下手なんだなとちょっとおかしかった。
「キミは本当にボクのこと想ってくれてたんだね…」
キミと初めて逢った日を想い出した。キミはボクと一瞬しか目を合わせなかったけど、あの瞬間から始まってた?ごめん、ボクは自身の感情を全然理解できていなかった。キミの感情も理解してなかったかな?でも、キミは時々変な言葉を使ったけど、それをボクは理解できたよ。すごくない?…だからもっと一緒にいたかった…。本当に楽しかった。
ボクは泣きながらキッチンに向かった。久しぶりに何か手の込んだものを作ろうと思った。
『ダニエルさんへ いっぱい好きです ごはんちゃんと食べてね キティより』
終
この物語はフィクションです。