第八章 最後の結界
辺りは夕闇が迫って来ていた。
小山舞と雅が根の堅州国に消えてから、数時間が立っていた。
藍は京都と奈良の分家の者と会い、大阪の件を頼むと、再び飛翔術で東京を目指した。
「小山舞がいつ現世に戻るのかわからない以上、東京に帰るしかないわね」
と藍は考え、東京の小野宗家に戻った。
藍から話を聞いた仁斎はしばらく黙っていたが、
「舞は間違いなく日光に現れよう。京都と大坂の結界を潰したのなら、後は江戸曼荼羅の要である日光。雅も恐らくそこに現れる」
「ええ」
藍は悲痛そうな顔で答えた。仁斎は藍を見て、
「舞が姿を現さないのが不安か?」
「うん。どうしてすぐ日光に行かないのか、理由がわからないのよ。何かあるのかしら?」
と藍が言うと、仁斎は腕組みをして、
「確信はないが、恐らく舞が連れ去った武智と言う男と関係があるのだろう」
「武智さんと?」
藍は鸚鵡返しに尋ねた。仁斎は頷いて、
「武智という男が山王一実神道の継承者なら、江戸曼荼羅の秘密を知っているかも知れんからな。舞はその秘密を探っているのかも知れん。それに、何かを待っているのだろう」
「・・・」
藍は自分に推し量れないものを感じ、震えた。何となく不安になった藍は、社務所から出て、境内を歩いた。その時彼女は、鳥居の向こうに剣志郎の車が止まっているのに気づいた。
「あっ・・・」
妙な安心感を覚えて、藍は車に近づいた。ドアが開き、剣志郎が現れた。
「戻ってたのか?」
と彼は声をかけて来た。藍は頷いて、
「うん」
とだけ答えた。剣志郎は藍に近づきながら、
「テレビで大騒ぎだよ。京都で不審火があって智積院と妙法院が全焼して、大阪城が原因不明の倒壊で跡形もなくなったって。あいつらの仕業なんだろう?」
「ええ。そうよ。あいつらがやったことよ」
藍は剣志郎の目を見ないで言った。剣志郎は藍の様子に気づき、
「どうしたんだ? おかしいぞ、お前」
藍は涙ぐんだ目で、
「どうすればいいの? 私、どうしたらいいの?」
と訴えるように剣志郎を見上げた。剣志郎はその目にクラクラ来そうだったが、
「俺には何もしてあげられない。そして、お前は何をしなければならないという義務はないさ」
「でも、あの女は私の親族なのよ。知らないではすまされないわ」
「それはそうだけど・・・」
藍の言葉に剣志郎は次の言葉を言い出せなかった。彼は、
「もう何もかもやめちまえよ」
と言いたかったのだ。藍のことがたまらなく心配であった。だからもうこれ以上妙な連中と関わってほしくないのだ。
「あのさ・・・」
剣志郎が意を決して言葉を発した時、藍はそれを遮るように、
「ごめん、私、逃げようとしていた。逃げても何も解決しないし、何も進展しないんだよね。ありがとう、少し気が楽になった」
「そ、そう」
剣志郎は苦笑いして応えた。藍は剣志郎を見上げて、
「今度の一件が片付いたら、貴方に話があるの」
「えっ?」
剣志郎は心臓が肋骨をぶち破って飛び出すのではないかというくらいドキドキした。藍はそんな剣志郎のパニックに全く気づく様子もなく、
「じゃあ、私戻るね」
と言い残すと、剣志郎に手を振って立ち去ってしまった。剣志郎は藍が家の中に入って見えなくなるまで、ずっと彼女を見ていた。
( な、何だろう、話って? )
剣志郎には、舞達のことよりそのことの方が遥かに気になっていた。
夜になった。
しかし、舞の動きはなかった。仁斎はずっと拝殿の裏にある大岩の前で祝詞を唱え続けていた。藍も心配になって仁斎のそばに行った。
「お祖父ちゃん」
彼女が声をかけると、仁斎は、
「舞は月の満ち欠けを待っているのだ。今宵は満月の夜。あともうしばらくすると、月は完全に満ちる」
と言った。藍はハッとして空を見上げた。確かに、夜空に限りなく満月に近い月が浮かんでいた。
「北極星と東照宮の陽明門と江戸城が一直線上にあることにより、江戸曼荼羅は鉄壁の守りになっている。それを突き崩すには、満月の力を借りるより他にない」
仁斎も月を見上げて言った。藍は仁斎を見て、
「動き出すかしら、小山舞は?」
「恐らくな。お前は東照宮に向かえ。わしは栃木の分家に連絡を取る」
「はい」
藍は拝殿の前に回り込み、柏手を二回打った。
「高天原に神留ります、天の鳥船神に申したまわく!」
呪文の詠唱と共に、藍は光に包まれて飛び立った。
「でも、小山舞は武智さんをどうしようというのかしら?」
藍にはそれがどうしてもわからなかった。
一方雅は、東照宮のそばにいた。
( あの女が最後に現れるのはここだ。武智を連れ去ったのは、最後の結界を破りやすくするためだろう )
雅は誰もいない境内をゆっくりと歩いて行った。そして空に浮かぶ月を見上げ、
「後もう少しで、満月か」
と呟いた。
「むっ?」
雅は周囲に妖気を感じた。
「始めたのか、バアさん!」
彼は東照宮の中心部に向かって走り出した。
人の気配が全くない陽明門の前に、舞が姿を現した。彼女の傍らには、気を失った武智が倒れていた。陽明門を入って左手に「神輿舎」という建物がある。その中には、祭神である徳川家康が祀られており、彼が尊敬していた源頼朝も祀られているが、何故か秀吉も祀られているのだ。
「偶然が作り出した結界だよ、ここは。明治の御世に、時の政府が秀吉公をここに配祀したのは、何も他意はなかった。しかし、それは逆に秀吉公の御霊を呪縛した。徳川の聖地に祀られたため、ここが秀吉公を押さえる最後の結界となってしまった。家康が祀られている場所に、秀吉公を祀ることが呪術的にどういうことを意味するのか、わかっていなかったのさ。あるいは、徳川方の呪術者が暗躍していたのかも知れないけどね」
舞は陽明門を眺めて呟いた。その時武智が意識を取り戻した。
「ここは・・・」
舞は武智を見てニヤリとし、
「やっとお目覚めかい、生臭坊主さん。あんたの先祖が造らせた、東照宮だよ」
武智は立ち上がろうとしたが、目眩がして起き上がることすらできない。
「根の堅州国に長時間いると、黄泉路古神道を修めた者でないと、想像を絶するほどの疲労感を味わう。あんたは今、一週間ほど眠っていないくらい疲れているのさ。身体を動かすなんて、無理だよ」
舞はせせら笑いながらそう言った。武智は歯ぎしりして舞を睨んだ。
「ここで何をするつもりだ? どうして俺をここに連れて来た?」
武智の問いに舞は、
「あんたは先祖からずっと語り継がれて来た怨念を晴らすために、我が教団を見張っていたんだろう? 決して世のため人のためじゃないよねェ」
「・・・」
舞の話が図星なのか、武智は何も言い返さない。舞は陽明門を見上げて、
「あんたの先祖の明智光秀は、本能寺の変で織田信長を殺し、その後で秀吉公により討たれ、逆臣とされた。ところが、明智光秀は死んではいなかった。密かに比叡山に入り、名を変え、経歴を変え、時が来るのを待った」
「何が言いたい?」
武智は首を少しだけ持ち上げて、舞を見た。舞は武智を見下ろし、
「光秀は天海と名を変え、家康に近づき、豊臣一族がいなくならなければ、徳川の世にはならないと説いた。そして自分の正体を明かし、その恐るべき計略を説明した」
「・・・」
武智はまた沈黙した。
「家康もまた、本来なら信長の次は自分という思いがあった。それが一足軽からのし上がった秀吉に天下を盗られたのは、横取りされたにも等しい悔しさがあった。だから家康は天海の計略に乗った。豊臣一族滅亡の計略にね」
と舞が言った時、雅が現れた。
「バアさん、戯言は黄泉の国で言っていろ」
舞はキッとして雅を睨み、
「偉そうなことを言うんじゃないよ。私がどうしてずっと根の堅州国に留まっていたのか、わかるのかい?」
「時を待っていたんだろう? 月が満ちるのを待っていたんだ」
と雅が言うと、舞は彼をバカにしたように大笑いした。雅は舞の態度にムッとし、
「何がおかしい?」
「何もわかっていないんだね。私が根の堅州国に留まっていたのは、満月を待っていただけじゃないのさ。それならどこかに隠れて待っていればすむことだ」
舞のその言葉に雅はギクッとした。
「お前はまさか・・・」
舞は雅がうろたえているのを見て、
「やっと気づいたかい。私が根の堅州国に留まったのは、私の創った魔神霊をより成長させるためさ」
「魔神霊、だと?」
武智が声を絞り出すように言った。雅は、
「黄泉の魔物と人間の霊体を合わせた特殊な霊体。根の堅州国に留めておくと、妖気を増大させ、その力は強大になると聞いている」
と武智に言った。武智は苦しそうな顔を雅に向け、
「どうするつもりだ?」
「俺も何も準備しないでここに来たわけではない」
雅は舞を睨みつけて言った。舞はニヤリとして、
「準備だって? 何を準備したのさ? 私はまだ切り札を出していないんだよ」
「それは俺も同じだ」
雅の言葉を舞は強がりとでも思ったのか、鼻先で笑い、
「減らず口を叩くんじゃないよ、雅。あんたがどう足掻こうと、私に勝てる道理がない」
「そうかな?」
雅もニヤリとした。舞はキッとして、
「そこまで言うなら、私の秘術を受けるがいい! 黄泉の玉!」
「何?」
舞の叫びが雅は何のことだかわからなかった。次の瞬間、
「うごおおおおっ!」
と武智がのたうち回った。さっきまで全く動けなかった武智が、地面を転げ回っているのを雅は驚愕して見ていた。
「何をしたんだ?」
雅は舞に目を転じた。舞はのたうち回る武智を愉快そうに見て、
「黄泉の玉を武智に呑ませたのさ。今その玉が奴の腹の中で大きくなっている。もうすぐ腹を割いて飛び出すよ」
「何だと?」
雅は武智に近づこうとした。舞は、
「いまさらどうすることもできはしない。武智はもうすぐ死ぬ!」
と叫び、大声で笑った。
( 聞いたことのない奥義だ。黄泉の玉とは何だ? )
雅は舞の秘術に恐れを感じた。
「ぐああああっ!」
武智は激痛でのたうち回っていた。雅は何もできない歯痒さに拳を握りしめた。
「もうすぐだ。もうすぐ腹が割けて我がしもべが生まれる!」
舞の言葉に雅はハッとした。
「そうか、バアさん、自分の特殊な結界を使って魔神霊を現世に呼び出したのか?」
「そんな単純なものではない。見よ!」
舞が武智を指し示すと、ついに武智の腹部が割け、黒い塊が宙に飛び出して浮遊した。
「武智!」
腹から大量の血を流して、武智は倒れた。雅は武智に駆け寄った。舞はそんな雅と武智をあざ笑いながら、
「これが何かわかるか、雅? 黄泉の国に存在する魔物全てを凝縮した塊だ」
「何?」
雅は黒い塊に目を向けた。その塊はブニュブニュと蠢きながら、まるでシャボン玉のように浮遊していた。
「普通の召喚術では、とてもこれほどの魔物達を現世に呼び出すことはできない。しかし、我が結界と、武智のような仏法者の身体を使えば、たやすく無数の魔物達を召喚することができるのさ」
舞は得意そうに語った。雅は舞を睨んだ。
「こんなものを召喚して、どうするつもりだ?」
「もちろん、我が神秀吉公の贄とするのさ」
「何だと?」
雅には舞の考えていることがよくわからなかった。
「ぐっ・・・」
武智はまだ息があった。雅は、
「武智、しっかりしろ!」
「雅・・・」
武智はうっすらと目を開けて、雅を見た。そして何かを言おうとしたのだが、血にむせ返って言葉にならなくなった。
「武智!」
雅の叫びももはや武智には届いていなかった。武智は息を引き取り、彼の身体から力が抜けて行くのを雅は感じ取った。雅は歯ぎしりして武智を地面に寝かせると、舞を睨んだ。
「さっきまで、あんたは殺すつもりだった。だが、そんなことではすまさない。それ以上の苦しみを味わわせてやる!」
「ほォ、どうするつもりだい? いや、それ以前に、あんたは私に勝てるのかい? 私は切り札をまだ使っていないんだよ」
舞は浮遊する黒い塊を眺めたまま、余裕の表情で言った。そして、
「誰も知らない黄泉路古神道の秘奥義さ。と言うより、私自身が新しく作り出した奥義だね」
「・・・」
雅はゆっくりと立ち上がり、舞の方を向いた。舞は狂喜して、
「その前に、我が神のご復活だ!」
と叫んだ。東照宮全体が揺れ出し、武智の血がしみ込んだ地面から真っ黒な妖気が噴き出した。
「これは・・・?」
雅はその様子を見てギクッとした。舞は、
「日光の結界は、偶然の産物。しかし、この徳川の聖地にかけられた秀吉公を封じる最後の封印は、南光坊天海の末裔である武智光成の血で汚すことで破れたのだ。江戸曼荼羅は崩壊し、東京は壊滅する!」
「何だと?」
妖気の噴出量がどんどん増大し、ついに巨大な黒い人型が地面を裂いて飛び出して浮遊していた黒い塊と混ざり合った。その人型はまさしく、太閤秀吉であった。しかし、その瞳に光はなく、口からは妖気が噴き出していた。
「もう人ではなくなってしまったのか・・・」
雅は秀吉の様子を見てそう呟いた。舞は秀吉を見て、
「さァ、我が神秀吉公。怨敵徳川の江戸を破壊する時がやって参りましたぞ。いざ、ご出陣を!」
と叫んだ。すると秀吉の霊はゆっくりと飛翔し始め、東京を目指した。
「くっ!」
追いかけようとする雅の前に舞が立ちはだかった。
「どこへ行くつもりだい? あんたの相手はこの私だよ、雅」
舞の笑みは、とてつもない狡猾さに満ちていた。雅は舞を見て、
「まだ何かあるのか? 何を隠している?」
「本当はこの秘術は宗家の仁斎と小娘を殺すためにとっておきたかったんだが、あんたを始末するのに使うことになるとはね」
舞の目が憎悪に満ちて行く。そして彼女自身から真っ黒な妖気が漂い始めた。雅は眉をひそめた。
「何をした?」
「わからないのかい? 江戸曼荼羅は崩壊したんだよ。我が教団が急速に信者を増やしたのには理由がある。それがこの妖気さ」
「何だと?」
雅には舞の言っていることがわからなかった。舞はクククと笑い、
「教団の布教読本には、その一文字一文字に妖気が込められている。しかも、我が結界によって、いかなる術者にもそれを見抜けない」
「・・・」
雅の額に汗が流れた。彼は舞の計略の恐ろしさに気づいたのだ。
「その結界を今解放した。日本各地に分散した妖気が、その周囲の悪意や憎悪を取り込みながら、私に流れ込んでいるのさ。これでもあんたは私に勝つつもりかい?」
舞はまさしく勝ち誇っていた。彼女の周りに妖気が渦を巻いて漂い始めた。
「そんなことができるはずがない。妖気の量が多過ぎる。無理だ」
雅が言うと、舞はせせら笑って、
「だからこそ私は隆慶を利用したのさ。あの男が開発していたコンピュータソフトは、私の思った通りのものだった。インターネットと呪術を融合させ、普通の術者にはできないことを可能にした。だからこれだけの妖気が集まっているのさ」
雅は舞の周りの妖気の莫大な量にただ唖然としていた。
( 勝てるのか? )
雅も秘策を考えていたが、今ではそれが舞に通用するかどうか怪しくなっていた。