魔王を倒すその前に。
猫として召喚されて二日目。俺は夜明け前にミーシャの家を出た。施錠された鍵なんて俺の器用な尻尾でちょちょいのちょいだ。内側から開けることはできても閉めることは出来ないから、少し大きな物音を立てて母親が起きたのを見届けてから家を離れた。錠を掛けないなんて無用心すぎるからな。
初めての異世界。画面越しに見ていたとはいえ、ろくに海外旅行も行ったことのない俺には感動的な街並だ。
観光気分でのんびりとぶらつく。日が昇り始めれば市場通りがにわかに活気付いてくる。焼き魚の屋台前で鼻腔を擽るいい香りに立ち止まれば、強面の店主が気前良く小魚を投げて寄越した。小さすぎて売り物にならないやつだろう。遠慮なく口で受け取り頭から丸ごと食べる。
「うまかったよ。次はでかいやつ期待してる」
俺の言葉は猫語にしか聞こえないはずだが、店主は何か察したのか困ったように笑い返してきた。
「礼でも言ってるのか?んなことしたって、今日はもうやらねぇよ。また明日な」
本当に明日来たら何をくれるんだろうか。期待を込めてもう一鳴きして市場を後にした。目指すは王都の象徴、城である。
人通りの多くなってきた道を軽快に歩き続けて、目的の城にやってきた。一人の門番が平和そうに欠伸をして、相方に小突かれている。腑抜けた警備だ。
俺はそ知らぬ顔で門番の前に姿を晒してみせた。
「あ、昨日の猫。お前無事だったんだなー」
「城に潜り込んでたんだって?もう無茶するなよ」
どうやら昨日の俺を見ていたようだ。欠伸をしていた門番がしゃがんで手招きする。
潜り込んだんじゃなくて召喚されたらしいけどな。
未だどこか現実味のない事実を思いながら俺は門番の前を通り過ぎた。そのまま二人が視界から消えたのを確認して物陰に入ると魔法発動。姿を消す魔法と空を飛ぶ魔法だ。
地面を蹴って飛び上がり王城のテラスへと降り立つ。開いていた窓から忍び込んだ部屋はどうやら身分のある人間の自室らしい。シンプルながら高級感の漂うインテリアに囲まれ、ふかふかのソファに腰掛け編み物…レース編みだろうか。ちまちまと編みこんでいく少女に俺は見覚えがあった。
姿を消したまま少女の前に進むと、手を止めて首を傾げる。飴色の髪がさらりと揺れた。
「誰かそこにいるのですか?」
俺は答えない。ここで王女と関わって万が一にも勇者としての力を持った猫だなんて発覚したら面倒なことになりそうだ。
ゲームのヒロインでもある王女は盲目だ。視力が無い代わりに、他の五感が優れているというよくある設定。魔素の流れを読むことに長け、魔法の扱いが天才的に上手い。そんな王女は俺の姿が見えなくとも気配に気付いたのだろう。光の宿らない薄紫色の瞳が確実にこちらを向いていた。
「…不思議な気配。悪意は感じませんし、見逃していいかしら」
一国の王女がそれでいいのか。
誰も居ない部屋に王女の暢気な独り言が零れ、やがて優雅に立ち上がった。一歩後ろに下がる俺に王女は笑いかけ、扉へと足を進める。
「廊下への扉を開けて差し上げます。無用心な私に感謝してくださいませね?」
悪戯を楽しむ子供のように囁いて、王女は扉をゆっくりと開いた。
「レイウェル王女!ベルも鳴らさずにどうされました?」
「驚かせてごめんなさいね。庭の散歩に行こうと思ったのだけど…ベルを鳴らし忘れてしまったわ」
「まぁ、王女殿下がうっかりなんて。春の陽気に当てられてしまわれましたか?」
廊下に控えていた側仕えと王女の会話を後ろに俺は扉の隙間を通り抜けた。礼の代わりに尻尾で王女の踝辺りを撫でていく。ぴくりと足を引いた王女が見えない俺の方を向いたのがわかったが、俺は素早くその場を後にした。
…断じてセクハラじゃない!
勝手知ったる城の中。俺は迷い無く地下の宝物庫へと向かっていく。目当ては虹の宝玉というアイテムだ。膨大な魔力の込められたこの魔石は、ゲーム中盤で襲撃を受けた王都の結界修正のために使うことになる。
そもそも王都は六ヶ所に設置された魔石を核に結界を張って守られている。その一つが壊されることにより結界の力が弱まり、魔族の侵入を許した挙句に多大な犠牲を出すことになるのだ。襲撃後、ひとまず結界を直そうと国宝級である虹の宝玉を使うことになるのだが、宝物庫に取りに行くと宝玉が無くなっていることに気付く。
慌てて調べてみれば宝物庫の管理を任されている人間が魔族に操られ、宝玉を秘密裏に売り払ってしまったことが発覚。宝玉の行方を追うというイベントが発生してしまう。
未来が分かっていて、そんな後手後手なことやってられるか。
というわけで、俺は先回りして虹の宝玉を回収。さっさと宝玉を使って結界を強化しといてやろうという魂胆だ。それなりの魔石を使って結界を張ってはいるが、虹の宝玉を最初から使っておけば簡単には突破されない。
念のための工作を施してから、俺はとっとと魔王を倒しに行くという計画だ。
宝物庫前の門番は催眠魔法で眠らせる。無防備に眠る門番の腰から鍵を掠め取り、宝物庫の扉を開いた。
中は煌びやかな黄金色…というわけもなく、きちんと整理整頓されている。所狭しと並んだ宝箱を通り過ぎて、宝物庫の奥の奥。マーライオンのような石像の隠しボタンを押せば更に地下へと通じる通路が現れる。それを下っていった先に虹の宝玉は鎮座していた。見る角度で異なる虹彩を放つ魔石。内包する魔力の高さは空気を震わせるほどだ。浮遊魔法で浮かせ、空間魔法で異次元へと収納する。猫になったら手もろくに使えないので魔法様様である。チート万歳。
あとは門番を自然に起こして、素早く城から逃げ出すだけ。すたこらさっさと地上に上がり、手近な窓から脱出しようとしたところでまたもや顔見知りに遭遇した。
「一体何が間違っているのだ!準備は全て整っているはずなのに、唯一召喚できたのが薄汚い猫一匹などと…時は一刻を争うというのに」
壁を力いっぱいに殴る見目麗しい男。首筋で整えられた髪は藍から銀へとグラデーションに彩られ、切れ長の瞳は真冬の針葉樹を思わせる深い緑に染まっている。苛立たしさを乗せた拳からは僅かに血が滲んでいた。
「落ち着いてください、ディーン。焦る気持ちは理解できますが、失われた召喚術の再現なんて夢物語に挑戦しているんです。一度や二度の失敗は予想の範囲内だったでしょう?」
怒りを諌めるよう声を出すのは、騎士風の優男。向日葵のような溌剌とした金髪とは対照的な怜悧な青い瞳が細められる。ディーンと呼ばれた男は大きく舌打ちをして「わかってる」と苦々しく呟いた。
さて、一方的に俺が知っているこの男達。ゲームでパーティに加わる魔法使いと騎士だ。魔法使いのディーンは勇者を召喚した張本人。魔法タイプと言えば大人しいキャラのイメージだが、ディーンの気性はとても激しい。今は勇者召喚に失敗してご乱心のようだ。
一緒にいる騎士の名はブラウリッヒ。レイウェル王女の兄にあたる第一王子の護衛騎士だ。剣の使い手として国で五本の指に入る実力者である。穏やかな性格と裏腹に戦闘では合理性を追求した容赦ない姿を見せてくれる。ゲームプレイ中は操作性の良さから随分と世話になった。
窓枠に腰掛け二人の会話を盗み聞きしていると、失敗したと思われている勇者召喚…つまり俺は二回目のチャレンジだったらしい。一度めは発動すらしないで失敗。二回目は猫。つい先ほど三回目の召喚を行ってみたが、魔法陣は発動したのに何も召喚できなかったと。
「猫が召喚できただけでも前進してるさ。いつかは勇者となる存在を喚ぶことができるよ」
「くそっ、さっさと出て来いよ。伝説の勇者!」
「昨日のあの猫が勇者だったら面白いのにねぇ」
「世界の命運を握るのが猫とか笑えねぇよ」
ホント、猫に救われる世界とか情けなさ過ぎるんじゃねーの?
遠ざかる二人の背中に俺は溜息混じりの鳴き声をかけて窓枠を飛び降りた。
数週間後、ゲームで活躍した人間の勇者様がきちんと召喚されるのを俺はまだ知らない。何も知らない俺は国宝を抱えたままミーシャの元に帰り、その腕の中で惰眠を貪るのだ。
「ねこちゃん、どこいってたの!ミーシャに内緒でおでかけはダメなんだから!」
ぷんぷんと怒ってみせる幼女に俺はへにゃりと尻尾を下げることになるのだけど、それもまだ知らない。