21
ヨクトが案内されたのは、六畳ほどの小さな部屋だった。清潔感のある白い部屋で、ベッドと机が置かれていた。壁は透過素材でできていて、宇宙の風景を見ることができた。
「何かありましたら、お呼び下さい」
船員は一礼して、ナナリーと共に部屋を出て行った。ナナリーは去り際に、ヨクトのほうを思いつめたような視線でちらりと見た。ヨクトは安心させるように笑いかけ、体を休めるようにとベッドを指差すゼスチャーで示した。ナナリーは頷き、船員に従ってその場を後にした。
「……ふう」
ヨクトは息をついて、部屋に入る。背後で扉が閉じると、部屋の中に沈黙が下りた。ベッドに腰を下ろす。スプリングが沈み、体重を柔らかく持ち上げた。
「普通のベッドなんて、何年ぶりだろうな」
ヨクトは呟き、宇宙の向こうに視線を向けた。どこまでも広がる暗闇が、今も昔も変わらず、目の前に横たわっている。人類の瑣末な争いごと、人間とオーバーマンの確執、超高度AIといった、身近な問題がスケールを失い、暗闇に溶けていくかのようだった。
ヨクトは自然と、ベッドに背中から倒れていた。染み一つない、鈍い光沢のある天井を眺める。四隅が淡く発光し、部屋を自然に照らしていた。それらをぼんやりと見ながら、眠るように瞳を閉じた。
ヨクトは電脳を操作した。電脳の奥底から、地球で過ごした半年ほどの時間と、仲間たちとすごした数十年の記憶を、掬い上げるようにして目の前に広げる。瞳を閉じた暗闇の中に、オレンジ色の仮想画面が浮かび上がり、ゆっくりと流れた。ヨクトが記憶してきた人生の記録が、目の前に現れていた。
大部分は、取るに足らない、些細な出来事だった。逃亡生活を続けてはいたが、比較的穏やかな時間が続いていた。恐らく、これ以上望みようのないくらい、幸福な時間だったのだ。
最近の記憶領域に行き当たった。記憶の中の風景上に、仮想のアバターが生成され、現実と遜色ないリアリティで記憶が再現された。
「俺が百倍かわいかったら、ナナリーちゃんみたいになれるのか?」
再生されたジョゼフの言葉に、ヨクトは苦笑した。ジョゼフは芯の部分ではずっと変わらずにいてくれた。最初からずっと、自分たちの先頭に立ち、場を和ませ、引っ張ってくれた。夢見ることを許してくれた。その陽気さがあったからこそ、こうしてヨクトたちは自分たちの世界を作ろうと決意することができた。
「喫煙の習慣なんてろくでもないけど……電子麻薬なんてけったいなものがある以上、少なからず残ってるってことなんだろうね。需要が」
元々ヘビースモーカーだったらしいセリスは、オーバーマンになってからも、吸煙式の電子麻薬を愛用していた。肉体を持っていた頃の習慣を愛し、それを捨てることを良しとしなかった。ヨクトたちが自分たちの【肉体】を意識し続けることができたのは、セリスの存在が大きかった。眠たければ寝て、起きれば煙草を吸う。怠惰なようでいて、仲間思いの女性だった。
「私も微力ながらお手伝いします。皆さんと一緒に過ごす時間が、私にとってはかけがえのないものですから」
ミーティアはhIEだ。水星を拠点としていた頃、宇宙海賊による輸送船襲撃事件の際、回収した。後にエトナとエトラの手によって行動基準を与えられ、十年近くの時間をヨクトたちと共に過ごした。彼女は機械だったが、同時に、紛れもなくヨクトたちの仲間だった。機械によって形だけ再現された感情であることは分かっていたが、それが逆に、ヨクトたちを勇気付けた。形だけの心でも、愛してもいいのだと知った。機械化した自分たちを、肯定することができた。
『自分が死ぬことに慣れるのは避けるべきだって、あなたも知っているはず』『自分が抱えている命の重さを、忘れてはならないと知っているはず』
エトナとエトラは、ヨクトたちの頭脳となって働いてくれた。一緒に宇宙に逃げてきた双子の姉妹は、人としての姿を捨て、超高度AIに匹敵する演算能力を手に入れた。それでいながら、彼女たちはヨクトたちの中で一番、人の命の重さを知っていた。不死となったオーバーマンは、命を忘れれば物体に戻る――エトナとエトラは、ヨクトたちに二度目の命を与えてくれた。人として生きるということを、思い出させてくれた。
そんな、取り留めのない記憶が、目の前を流れていった。時間の流れが逆回しになり、あらゆる光景が、記録されたその瞬間の暖かさを持って広がった。今自分を作っている時間と、そこにいた仲間たちとの記録が、鮮やかに蘇っていた。
歪でありながら、命を持った仲間たちだった。
地球の社会は、ヨクトたちを人間とみなしてくれない。hIEであるミーティアなど、ただの道具として扱われ、型落ちになれば捨てられる。
だが、自らの存在を賭け、何かを成そうとしたときに、その存在には命が宿る。機械であろうと、道具であろうと、もちろん、人間であろうと。ヨクトたちは長い時間を掛けて、それを知った。死と生との狭間に、命があった。ヨクトたちはそれに触れていた。
そして、それはまだ終わっていない。
「……向こうに着いたらね。そのときに、言いたいことがあるの」
ナナリーの言葉が、あのときの熱のままに目の前を駆け抜け――。
ヨクトは目を開いた。時間が経った感覚があった。仮想視界で時刻を確認すると、三時間ほどが経っていた。
「……寝てたのか」
ヨクトは思わず苦笑しながら体を起こす。この状況で睡眠をとっている自分自身が、まるで人間に逆行したかのように感じられて、可笑しかった。
義体であるため、体の強張りはない。眠気も自動的に中和され、明瞭な意識がすぐに戻ってくる。目の前に広がっていた夢のような風景を、ヨクトは憧憬にも似た思いで追想した。
そのとき、控えめなノックの音が聞こえた。ヨクトは相手を確認もせず、仮想視界でロックを解除した。
「ヨクト……」
名が呼ばれた。ナナリーが部屋の入り口のところに立っていた。
白い肌。月光を映したような金髪。無限の蒼穹を思わせるブルーの瞳が、熱を持ってヨクトだけを見つめていた。だが視線がぶつかると、ナナリーはびくりと体を跳ねさせ、慌てて言った。
「ね、寝てたの……?」
「うん。寝落ちなんて久しぶりだ。ちょっと気が緩んでたのかもな」
「そ、そうなんだ」
ナナリーはそれきり黙りこんでしまった。ブルーの瞳だけが、間合いを計るように、ヨクトのほうにちらちらと向けられていた。
その姿に、わけもなく緊張した。ヨクトも表情を揺らがせ、ナナリーの姿を見つめ返す。ナナリーの瞳には、溢れ出しそうな感情の熱があった。
――ああ、そうか。
そこでヨクトはようやく、自分の気持ちの正体に気が付いた。
――ずっと前から、好きだったんだ。
ナナリーとは数十年の付き合いだ。外の世界に出てきてから、隣にはずっとナナリーがいた。家族のように近すぎる存在だった。その近さが、ナナリーに異性を感じさせなかったのだ。だが今は違う。ナナリーの勇気に、気付かせてもらった。もう鈍感なままではいられなかった。
そう考えると、ヨクトの内にじっとしていられない甘い塊が生まれた。いや、気付けなかっただけで、その塊はずっと前からヨクトの中にあった。それが今、胸までせり上がってきていた。
多分、ナナリーも……、と考え、それを打ち消す。思い違いである可能性は、十分にある。もともと自分は鈍感なほうだ。少なくとも、今になって自分の恋心に気付く程度には。否定されるかもしれない。考えすぎかもしれない。もし自分の妄想を押し付けているだけだとすれば、最低だ。そんな、取りとめもない、断片的な緊張が頭の中を満たした。
そのまま数秒が過ぎ――。
ナナリーは一つ息を吸った。覚悟を決めたように表情に緊張を滲ませ、部屋の中に一歩を踏み出した。扉が閉まる。部屋が外界から閉ざされ、二人だけの空間になった。
ナナリーの表情は、緊張を滲ませていながらも、どこか上気しているように見えた。熱を持たないはずの人工皮膚でありながら、ナナリーの表情は、熱っぽく揺れていた。ヨクトも緊張し、表情を強張らせた。これまでにない種類の、甘く苦しい緊張だった。
「よ、ヨクト、覚えてる? 向こうに着いたら、話したいことがあるって」
「……うん。覚えてる。でも――」
「私たちが目的地に着くことはきっとない……でしょ?」
ナナリーは誤魔化さなかった。だからヨクトも、正直に頷く。
「次に向こうが攻撃してきたとき、俺たちの仕事は、敵の大本を絶つことだ。何とかして。じゃないと、みんなが無駄死にになっちゃうからな。でも……たぶん、生きては戻れないだろうな」
「そうだね。私も分かってる。……でもね、だからこそ、言っておきたい事があるの。約束とは少し違っちゃったけど、いい?」
「……うん」
ヨクトはベッドに腰掛けながら、ナナリーを見上げた。狭い部屋の中に、二人の存在だけがあった。
知りたい。
知りたくない。
相反する感情と、このままではいけないという確信が、心の中で戦った。ヨクトはそれに耐えて、ナナリーの言葉を待った。聞いておかなければならないのは、ヨクトも同じだ。
ナナリーは息を吸って、俯きかけた視線を持ち上げた。
吸い込まれそうな青の中に、ヨクトだけがいた。
「好きです」
澄んだ、震えた声が、空気に乗った。
「ずっとあなたのことを見てました。地球から逃げてきたときから、ずっと」
声が熱となって、部屋の温度を上げたようだった。存在しないはずの心臓が、鼓動を速めた。
「あなたさえよければ、最後まで、隣にいさせてください。最後の瞬間まで、私、あなたを感じていたい」
蒼穹の瞳が、感情に揺れ動きながら、ヨクトをじっと見つめていた。
――ああ。
ナナリーが与えてくれた熱が、全身を巡るようだった。この状況にありながら――きっと、祝福されていると思った。
ヨクトはそっと立ち上がった。ナナリーがびくりと体を竦ませた。ヨクトは綺麗な、おそらく、人生でもっとも純粋な微笑みを浮かべて、ナナリーを見つめた。
「俺も、君と一緒にいたい。最後の瞬間まで」
言葉にすれば単純な、一緒にいようという契り。
けれど孤独な二人にとって、それは奇跡だった。
ナナリーの瞳が潤んだ。堪えきれない嗚咽を隠すように、白い腕がヨクトを引き寄せた。小さな存在が、ヨクトの腕の中に納まった。
顔が上がる。視線が絡まり、距離が縮まった。
一瞬の接触。
甘い柔らかさが、全身を貫いた。顔を離し、鼻が擦れあうほどの距離で、お互いの存在を感じていた。
「不思議」
ナナリーが呟いた。
「怖くないの。一人じゃないからかな」
「……俺もだ」
国や地球、人間という枠組みからさえ弾かれた二人が、寄り添っていた。
偽りの記憶だと誰かが言った。暖かさのない鉄の体だと誰かが言った。おらくそれは、ある意味では真実だ。
だが、命は宿る。
迫害されても。外れていても。人であっても、機械であっても。
今、寄り添う暖かさを感じていた。錯覚ではない。命と命のかたちが、そこにあった。
どれくらいそうしていたのか分からなかった。愛を語らう恋人というよりは、嵐に耐える捨猫が二匹、身を寄せ合っているかのようだった。だがそれでも、二人は幸福だった。
不意に、電脳に着信があった。デルクの名前が表示される。ナナリーとも連動して接続されるグループチャンネルだった。
『高エネルギー反応を確認した。……頼めるか』
デルクの声には苦さがあった。予想よりも接敵が早かったことも理由の一つだろう。
ヨクトは気負いのない声で返答した。
「必ず。位置は?」
『距離はおよそ四百六十。位置データを転送する。だが、精度はかなり甘くなってしまっている。存在は確認できるが、詳細を把握することは困難だ』
「無理もありません。今あるだけでいいので、可能な限り情報を送ってください」
『無論だ』
デルクはそこで一旦言葉を切って、時間を惜しむように間を置いた。
『これが、君たちと話す最後の機会になるのだろうな』
「……恐らくは」
『何もかも任せて、自分たちだけが新天地へと向かうこと。本当に申し訳なく思っている。だが君たちから貰った希望は、我々が必ず向こうまで持っていく。君たちの理想は、我々が引き継ぐ』
「それだけで十分です。俺たちが生きていたことが、無駄にならないのならそれでいい。より多くの人々の希望となることを祈っています」
『……武運を』
デルクはそう言い残して、通信を切った。
すぐ近くでナナリーと視線を合わせる。ナナリーは微笑んでいた。ヨクトも、穏やかな気持ちで微笑を返した。
「行こう」
「うん」
二人は手を繋いで部屋を出た。扉が閉じられると、部屋の明かりが緩やかに明度を落とし、やがて完全な暗闇に包まれた。