夏の一日
初夏の強い日差しがギラギラと照っている。
僕の住んでいる場所は、周りを山々に囲まれた、緑の濃い田舎の町だ。
宿を求めた蝉達がやってきて、この時期になると昼夜を問わずの大合唱。
今日もうるさく鳴いていた。
蝉の鳴き声には、暑さを倍増する効果でもあるのだろうか。
とにかく暑い。
こうして歩いているだけでもだらだらと汗が噴きだしてきて気持ちが悪い。
暇だからといって、この暑い時期に散歩なんかするんじゃなかったな。
そう思いつつ、汗を手で拭いながら歩いていると、
「あはははははっ」
と楽しそうに笑う声が聞こえてきた。
声からして小さい女の子だろうか。
だけど、何かおかしいような?
うーん……。ちょっと行ってみようかな。
僕は声の聞こえてきた方に向かって歩き出した。
確か、こっちの方には公園があったような気がする。
その公園は小さな物で、遊具なんて滑り台とブランコしかない。
だけど、そこは小さな子たちのお気に入りの遊び場だ。
確かに、遊具があった方がいろいろと遊べて楽しいだろうけど、子どもたちはそんな物無くたって、自分達でルールを決め、そして遊ぶ。
僕の小さい頃もそうだったなぁ、と懐かしく思い、色の剥げた滑り台や錆びついたブランコなどを順々に眺める。
「ん?」
ブランコから少し離れた小さい砂場。
そこに小さな女の子が寝転がっていた。
仰向けで。
あの子がさっきの笑い声の子だろうか。
そうだろう。他に人気はない。
そうか。あの時感じた違和感。
笑ってる声が一人分しか聞こえなかったんだ。
「あはははははっ」
また、少女は笑った。
だけど、空を見ているだけだ。
空を見てみるが、透けるような青の中に、いくつかの白い雲が漂っているだけだった。
それはとても綺麗な空だけど、おもしろい物ではない。
ちょっと頭のおかしな子なんだろうか、と失礼な事を考えてしまう程、少女は楽しそうに笑うんだ。
何がそんなにおもしろいんだろう。
「何かおもしろいものでもあるの?」
僕は気づくと砂場に近寄って、少女に話かけていた。
「ぅん?」
少女が僕を見上げる。
小さな、だけどくりくりとした可愛らしい瞳とぶつかる。
「えっとね、くもがね、すっごいの!」
少女は、そう言って嬉しそうに教えてくれた。
まるで、自分の幸せを分けてあげようとでもするように。
だから僕も、少女と同じ様に寝転がって、夏の青空を見上げる。
少女が、ひとつの雲を指差して言った。
「あれがぞうさんでしょー」
なるほど。そう言われて見ると確かに似ている。
煙のように広がった所が耳で、長く伸びている所が鼻で。
「あれはくまさんー」
少女が別の雲を指した。
「うーん」
くま、に見えない事もないけど……。
「猫、じゃないかなぁ」
「えー、くまさんだよー」
「猫だと思うなぁ」
「ぜったい、くまさん!」
「絶対絶対、猫!」
「ぜったいぜったいぜったい……」
僕らはその後、くまか猫かで揉めに揉めた。
今思えば、とても大人げなかったけど……。その時は楽しくて、そんな事どうだってよかったんだ。
少女も楽しそうに笑ってたし。
結局、雲はくまに決まった。
少女がやたらと頑固な性格で、『くまさんじゃなかったらここから動かないもん!』とか言い出したからだ。
この子の親は苦労しそうだ。
僕らは今、公園のベンチに座って缶ジュースをごくごくと飲んでいる。
さっきの言い争いで疲れた喉を潤して、僕は少女に言った。
「お兄ちゃんと遊ばない?」
特にやる事もないし、それならこの子と遊んでみようかな、と思ったのだ。
どちらかと言うと子供は好きな方だし。
少女は缶ジュースに口をつけたまま、じーっと僕の顔を見つめて、
「おかあさんがね、へんなひとについていっちゃダメっていってた」
「変な人に見られてたっ?」
これはちょっとショックだ……。
ミンミンという、普段はうるさく感じる蝉の声も、今は慰めてくれているような気さえしてくる。
「あはははははっ」
ガクッとうな垂れた僕を見て、少女が可笑しそうに笑った。
「うそだよー、あそんであげるよ。ほら、ありがとは?」
「ありがとうありがとう」
「ありがとはいっかい」
「ありがとう」
「よくできました」
なんで僕、こんな小さな子に頭撫でられてるんだろう……。
まぁ、いいか。
飲み終わった缶をゴミ箱に捨てて、僕らは遊んだ。
鬼ごっこしたり、かくれんぼしたり。
少女の乗ったブランコを後ろから押してあげると、少女は『もっともっと!』と嬉しそうにはしゃいだ。
疲れたら、また砂場に寝転んで、流れていく雲をぼーっと眺めた。
こんなに年の離れた子と遊ぶのはいつ以来だろう。
小さい子と遊ぶのは、結構な体力がいる。
楽しいけどへとへとだ。
三回目くらいの休憩の後、少女が言った。
「セミさんつかまえにいこう」
「おぅ。行こう行こう」
というわけで、公園の周りに植えてある木々を片っ端から見て回った。
蝉の声はたくさん聞こえていたので、簡単に見つかるかと思っていたんだけど。
「いないな……」
「うん」
隠れるのが上手いのか、それとも僕らが見逃しているだけなのか。
なかなか見つからない。
さっきは慰めてくれていると思った蝉の声は、今は僕らを馬鹿にしているような気しかしない。
ただただ木を見つめる作業に疲れてきた頃。
「あー!」
少女が突然大きな声を出した。
「な、なに?」
「ほらほら! ここ、いた!」
どうやら見つけたらしい。
少女の指さす先を見ると……。
「おぉ!」
蝉は蝉なんだけど、まだ蛹の状態だった。
生きている蛹なんて滅多に見たことないので、とても珍しい物を見た気がした。
足を使って一生懸命、木にしがみついている。
出遅れたんだろうか?
仲間達がミンミンと鳴いている中、その蛹は、いまにも成虫になろうとしていた。
背中に亀裂が走っている。
「ねーねー、さわってもいいかな? いいかな?」
きらきらした目で少女が僕を見てきた。
「今はダメだよ」
「どうして?」
「この蝉はね、今大人になろうとしてるんだ。そんな時に触っちゃうとびっくりするだろう?」
「そっか……」
途端にしょんぼりしてしまう少女。
ちょっと悪い事したかな……。
「だったら」
少女が、いいことおもいついた、とでも言うようにパッと元気よく顔をあげた。
「おーえん、ならいい?」
「おーえん?」
「うん!おーえん!」
あぁ、応援か。それくらいならいいんじゃないかな。
よく分からないけど。
「うん、いいと思う」
「やたー!」
それから少女は、蛹に近づいて、
「がんばれー。がんばれー」
と応援し始めた。
驚かすといけないからだろうか。小さめの声で、ささやくように。
「がんばれー。がんばれー」
僕はその光景を、懐かしいような、ちょっとだけ悲しいような、なんだか不思議な気持ちで眺めていた。
大人になっていく蝉を、真剣に応援している少女。
そんな少女もやがては大人になる。当たり前の事だ。
僕たちは、大人になる過程でいろんなものを得る。
だけど、同時に失いもする。
得たものと同じか、それよりも多くのものを。
それは、今の少女の持っている、こういう優しさだって例外じゃない。
時間や環境や、いろいろなものにもみくしゃにされて、良くも悪くもいろんな色に染まってしまう。
それは仕方のない事で。
誰だってそうやって生きてきたんだろう。
だけど、もし、できる事なら、この少女の優しさは、ずっと変わらずにいてほしいと思う。
そんな願いを込めて。
大人になる蝉と、これから大人になっていく少女に。
「がんばれー。がんばれー」
夕方になった。
これでもかと暑い日差しを放っていた太陽は力を無くし、今では穏やかなオレンジ色を滲ませている。
「そろそろ帰らなくちゃ」
少女が寂しそうに呟いた。
「そうだね……」
僕も少し寂しい。
雲を見たり、鬼ごっこやかくれんぼをしたり、蝉を探したり……こんなにのんびりとした時間を過ごしたのはいつ以来だろう。
「また、会えるかな?」
この少女と別れたくない。
なぜか僕はそう強く思っていた。
この気持ち、どこかで感じたことがあるような気がする。
「きっと会えるよ」
少女はにっこりと笑って言った。
「だってあたし達、お友達だもんねっ」
そっか。そうだ。この感じ。
小さい頃に友達と遊び終わって帰る時に感じた切なさに似てるんだ。
「うん。そうだね。友達だ」
「えへー、やった」
ふと、僕は少女に会った時のことを思い出し、不思議に思ったので聞いてみた。
「君、お友達はいないの?」
すると少女は、眉を寄せて俯いた。
聞いちゃいけないことだったかな、と反省していると。
「……お友達、いない。遠くからきたばっかりだから」
悲しそうな声で答えてくれた。
たぶん、引越しでもして来たんだろう。
知らない人ばかりの中にいて、なかなか友達も出来なくて不安だったに違いない。
今にも泣きそうな少女の頭を、わしゃわしゃとなでる。
「大丈夫。君ならすぐお友達できるよ」
「ほんと?」
「本当本当。友達の僕が言うんだから間違いないよ」
「そ、そうかな」
「うん」
この子はとてもいい子だ。
友達なんてすぐ出来るだろう。
「が、頑張ってみる!」
張り切った顔で、ぐっと握りこぶしをつくる少女の姿は、見ていて元気をもらえるような、そんな気がした。