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その日一日のバイトを終えると、冴木さんは 「お疲れ様でした」 と私を労ってくれた。
「真面目にやってくれたので、とても助かりました」
丁寧に言われて、いやあ、と照れる。今までいくつものバイトを経験してきたけど、こんなことを雇用する立場の人間から言われたことは一度もない。調子が狂うな。
「それで、私は明日からこのバイトを続けてもいいんすかね」
今日一日の働きぶりを見てから判断してくれ、と提案したのは私なので、確認のためにそう訊ねると、冴木さんは大きく頷いた。
「もちろんです。大神さんのほうで不都合がなければ、明日からもよろしくお願いします」
自分からこのバイトに志願した私に、不都合などあるわけがない。仕事口を探すのは、これでなかなか手間なので、それはよかった、とほっとした。しばらくはあちこちを走り回ることなく、安定したバイト生活が続けられそうだ。
「じゃあ、急ぐんで、私はこれで」
挨拶もそこそこに、すでに私の足が動きかけているのを見て、冴木さんは怪訝な顔 (多分) で首を傾げた。
「あ、はい。これから何か用事でも?」
「六時から、次のバイトが入ってるんすよね」
「えっ……」
目を丸くする冴木さんには構わずに、私は 「じゃまた明日ー」 と片手を挙げて走り出した。
***
「……あのう、立ち入ったことをお聞きして、申し訳ないんですけど」
と、遠慮がちに冴木さんが訊ねてきたのは、バイトを続けて数日が経ってからのことだ。公園の中のいつものベンチに並んで座り、二人で昼食を食べていた時のことである。
「ふぁい、なんれふか」
「パン、飲み込んでからでいいですから。喉に詰まってしまいますよ」
冴木さんはそう言いながら、ベンチの上に置いてあった紙パックのジュースを私に差し出した。「ろうもろうも」 と口の中にパンを頬張りながら礼を言い、ごくんとジュースを飲んでふうと息をつく。
冴木さんはその様子を見届けてから、改めて口を開いた。
「あの、大神さんは、毎日仕事が終わると飛ぶように帰りますよね?」
「はあ、すんません」
「いえ、いいんですいいんです。もちろんそれは大神さんの自由です。仕事はいつも熱心にやってくれていますしね。ですからその、プライバシーに口を挟むようで、僕としても言い出すのをずっと迷っていたんですが」
ずっとって、この数日間ずっとか。毎日顔を合わせて、昼だってこうして一緒に食べているのだから、聞きたいことがあるならさっさと聞けばいいのに、難儀な性格だな。少し声が上擦っているのは、今もまだプライバシーがどうのこうのという躊躇があるためらしい。
「……いや、僕が気になっているのはですね、大神さん、この間、『次のバイトがある』 って、言ってましたよね?」
「はあ」
「もしかして、バイトのかけもちをしてるってことですか。あの、それも、様子を見るに、毎日?」
「はあ、そうですけど」
私はきょとんとした。
「別に、バイトがここ以外の他のバイトをかけもちすること、禁止されてませんよね?」
「あ、はい、もちろんです。もちろんそうですが、でもあの」
恥じ入るように口ごもる。ぱちぱちと気弱に瞬きする目は、私ではなく、どこか別のところに向けられていた。すぐ前の広場で遊ぶ子供を見ているような、全然違うものを見ているような。
この冴木さんってのも、ちょっと変わった人だよな。真面目で几帳面で、仕事中はそれなりにキビキビとした言動をするのに、休憩時間や昼休み、つまり仕事以外の場面では、途端にオドオドして、まともに私と目を合わせることもしない。良くいえば優しげ、悪くいえば卑屈。熊みたいな外見をしているくせに、いつもどこかビクビクしながら他人と接している。この人には、オン・オフのスイッチでもついてるのかね。どこだ。髭の中か。
「……でも、ここの仕事だって、君のような若い女性には、けっこうキツい内容なんじゃないかと思うんですよね。それなのに、この上他のバイトもするって、それはその、かなり負担なんじゃないかと。すみません、余計なお世話なんですけど」
「…………」
ああそうか、と私はやっと気がついた。叱責でも受けるのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
──つまり、私の身体の心配をしてくれているわけか。
だったらなにもそんな申し訳なさそうな口調にならなくても、普通にそう言えばいいのにな。世の中には、親切の押し売りみたいなことをする人はいっぱいいて、過剰なくらいの優しさアピールをする人だって、たくさんいるじゃないか。誰でも、口先だけならいくらだって厚かましいほどに、「いい人」 の看板をぶら下げられるんだぞ。
不器用な人だなあ。
「大丈夫っすよ、体力あるんで」
「あ、はあ、それはそうかもしれませんけど」
「正確に言うと、六時からラーメン屋、十一時からパチンコ屋の清掃をしてるんですけどね」
「三つ?!」
ぎょっとして、冴木さんがこっちを振り向いた。うん、やっときちんと目が合ったな、よしよし。
「じゃあなんですか、九時から四時までずっと倉庫の力仕事して、その後でさらにラーメン屋とパチンコ屋のバイトをしてるんですか。ウソでしょう」
「ホントです。高校を卒業してからはずっとそんなカンジなんで、もう慣れましたね。高校の時も、学校以外はずっとバイトしてたし。アタマはいいほうじゃないし、勉強も好きじゃなかったんで、どっちかっつーと、働いてる時のほうが楽しかったっすよ」
「え、高校生の頃から、そんな無茶をしてたんですか」
冴木さんはなんだかひどく狼狽して、割り箸でつまんでいたレンコンの煮物を地面に落としてしまった。あーあ、もったいない。食べ物は大事にしろよ。
「落とすくらいなら、私にください。トンカツ一切れもらっていいですか」
「いやそれはマズイですよ大神さん」
「多少味が悪くたって平気です」
「弁当の話じゃないです。君のその過剰労働についてマズイと言っているんです。そんなことをしていたら、いずれ遠からず、倒れてしまいますよ」
「そうっすかねえ」
「ものすごく適当に受け流してますね? もう少し真面目に自分のことを考えましょう、大神さん」
膝の上の弁当をベンチに移動させて、冴木さんはきちんと姿勢を正してこちらを向いた。熊、説教モード発動である。トンカツ……と、私は未練たらしく食べかけの弁当を眺めた。
「いくら体力に自信があるっていっても」
「力もあります。以前、酒屋でバイトしたことがあるんですよね。冴木さん、知ってます? ビール瓶一ダースをエレベーターなしの五階まで運ぶと、マジ腕が使い物にならなくなりますよ。まあ力ももちろんですけど、持ち方にもコツがあってですね……」
「話を逸らさない」
ぴしりと注意された。なんだ、仕事中じゃなくても、ちゃんとこういう声を出せるではないか。いつもこうしてりゃいいのに。いやでも、それもちょっと惜しいか。もじもじ熊を見るのも、さほど嫌いじゃないからな。時々イラつくこともあるが。
「僕の話聞いてます?」
「聞いてます、心の底から真面目に」
私の返事を、冴木さんはあまり信じていないみたいだった。
「そんなことを続けていたら、身体を壊してしまうでしょう。せめて、そのラーメン屋のバイトだけでも辞めるとか」
そう言う冴木さんの瞳には、真摯に私を案じる色があった。この倉庫のバイトは月~金なので、土日にはスーパーの清掃と駐車場整理のバイトもしているんですが、とは言い出せない空気である。
「…………」
少し迷ってから、うーむ、しょうがないな、と私は思った。
適当に誤魔化していいような雰囲気でもないし。そもそも、別に隠しているわけでもないんだけどね。今まで、こんな風に正面きって心配そうに忠告してくる人がいなかった、というだけで。
「私には弟がいるんですけどね、冴木さん」
その言葉を唐突だと思ったのか、冴木さんがちょっと驚いたように口を噤んだ。
「それが、私とは違って、出来のいい弟なんすよね。あ、今、高校三年なんですけど。中学生の時からずーっと、学校の試験では十位から落ちたことがないっていう変人で。でも私と違って素直で性格もいいし、可愛いんすよ」
「あ、はあ……」
冴木さんは話についていけないようで、少しぽかんとした。
でも、私の顔を見て、そこに何かいいものを見つけたように、やんわりと目許を緩めた。
「ご自慢の、弟さんなんですね」
「そうなんすよねー」
へへへと笑う。ブラコン丸出しで申し訳ないが、本当に私のたった一つの自慢なのだから仕方がない。自分の茶髪をぽりぽりと指で掻いて相好を崩す私に、冴木さんはますます顔を綻ばせた (ように思った)。
「だからまあ、なんとか大学に行かせてやりたいなーって」
「え……」
冴木さんが言葉を呑み込む。私はまた、へへへと笑った。こういうことを他人に話すのは初めてなので、正直、どういう顔をしていいのか判らない。
「すると、あの、大神さんがここまで身を粉にして働いているのは、弟さんのためということですか」
身を粉に、って。
冴木さんの表現に、私は思わず噴き出しそうになった。なんかなあ、いちいちオーバーなんだよなあ、この人。そんなに大したことをしてるつもりはないんだけど。
「そればっかりじゃないです、もちろん。自分のものだって買いたいし、たまには美味いもんだって食いたいし。買ったり食べたりするためには、金が必要でしょ? 天から降ってくるわけでもないんで、金を得るためには働かないと。誰もがやってる、当たり前のことだと思うんですけどね」
「いや、でも、その……ご両親は」
大体見当がついているのか、口ごもりつつ訊ねる冴木さんの声は消えそうなほど小さくなった。私がぴんしゃんしているというのに、冴木さんのほうがよっぽど萎れたようにしゅんとしている。
「母は元気に働いてますよ。私と同じで、能天気な性格してるんですよね。父親は不在ですが、戸籍上では一緒に暮らしてます」
だから、履歴書の家族欄には、いつも父の名前も載せている。書類上では、別に嘘をついてるわけじゃないしな。父親のところが空白になっていたら、あのハゲデブ親父が私を見る目は、間違いなくよりいっそう胡散臭くなっていただろう。
そんなことは、世間を渡っていく上で数えたらキリがないほどいくらでもある。いちいち腹を立てていたってはじまらないのだから、こっちで上手いこと抜け道を通っていかないと。
「戸籍上では、というと……」
「借金残して蒸発しちゃったんですよねー、私が高校生の時に」
「…………」
あっけらかんと言うと、冴木さんは俯いてますます背中を丸めてしまった。なんでそんな泣きそうな目をしているんだか。同情や憐憫は受けてあまり気持ちのいいものではないが、この人の場合、逆に私のほうが慰めてやらなきゃいけないような気にさせられる。ある意味、すごい人だな。
「失踪宣告が下りるまで七年かかるし、生きてるのか死んでるのかは判らないけど、その間は借金は借金として返さなきゃいけないわけです。母の給料はそっちのほうにあらかた取られちゃうんで、だったら生活費くらいは私が稼がないと。受験生の弟に働かせるわけにもいかないですしね」
弟は、俺もバイトするよ姉ちゃん、と言ってくれているのだが、私と母親は許していない。せっかく優秀な頭脳を持っているんだから、それを最大限に活かすべき、というのが私たちの共通の見解なのである。
それに、あと一年で七年だ。どこかで生きているかもしれない父には悪いが、法律上で死亡となったら、いろんなことが楽になる──と、思う。
「まあそんなわけで、今のところはまだ、バイトはちょっと減らせないんすよ」
私が就職して正社員にならないのは、会社というものが大体において社員の副業を禁じているからだ。福利厚生面で優遇を受けるよりも、いくつものバイトをかけもちして報酬を得るフリーターのほうがずっと手っ取り早い。それほどまでに、現時点での我が家はギリギリの状態だ。ギリギリ状態が長く続きすぎて、もうすっかり精神的に麻痺してしまったが。
「……はい……」
冴木さんは、デカい身を縮めてうな垂れた。あまりにも悄然としているので気の毒になり、元気だしなよ、とその広い背中をばんと叩いてから、首を捻った。なんかヘンだな。
「もうすぐ昼休み終わっちゃいますよ。弁当、早く食わないと」
「はあ……。でも、僕、なんとなく食欲が」
「いただきます」
「早っ!」
気が変わらないうちにと、奪った弁当をがふがふ口の中にかきこんでいたら、喉に詰まってむせて死にそうになった。ああほらそんなに急いで食べるから、と冴木さんがオロオロと私にまたジュースを差し出す。
「僕、自販機でお茶買ってきますから、待っててください。それ飲みながら、ゆっくり食べるんですよ。いいですね?」
図体のわりには素早い動きで、冴木さんは広場を駆け抜けていった。
──で、その次の日から。
冴木さんは、自分の弁当と一緒に、私の分の弁当も買ってきてくれるようになった。
私のバイトのことや家庭のことにはもう一切触れてこないが、弁当はミックスフライだったり特選幕の内だったりと、非常に豪華である。一食付きのバイトだ、もうけた、と私はホクホクして大喜びだ。
「大神さん、がっついて食べたら駄目ですよ。消化にも悪いですし、あまり行儀のいいものでもありませんから」
「ふぁい」
「口の中に食べ物を入れたまま喋らない」
熊の説教はうるさかったが、二人で食べる弁当は美味しかった。