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杜若  作者: 椋原紺
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 志穂はそれから三日三晩、自室に籠もった。母が説得しようと何度も部屋のドアを叩いたが、一切応じなかった。父も幾度か説教を垂れたが、志穂は歯を食いしばって我慢した。今に出て行けば、自分はまだ許されるかも知れない。でも、そうなれば嫌でも夕美と顔を合わせなければならない。またあの辛い思いをしなければならないのかと考えると、志穂の体は動く事を拒絶した。布団の中で丸くなり、境のないあやふやな暗闇の中、じっと息を殺していた。

 しかし、いつもそうしているわけにはいかない。尿意を催したり、空腹を来したり、面倒な問題が生じる。そういった時は、人気がないのを入念に確認してからこっそりと部屋の外に出て用事を済ました。

 一方、熱心な両親とは対照的に、夕美は何も言ってこなかった。存在自体も消えてしまったのではないかと錯覚するくらい、気配を一切感じなかった。心配になって夕美の部屋の壁に耳を澄ませたほどだ。宿題をしているのか、鉛筆を走らせる音が聞こえると、志穂は心の底からほっとした気分になった。しかしそれと同時に、えも言われぬ罪悪感がして、胸にぽっかりと穴が空いたような、物寂しい心地もした。部屋と廊下を隔てる薄い壁が牢屋の柵のようにも思えてならなかった。






 あれは二日目の夜か、三日目の夜か。夜中、何か物音がした気がして、志穂は目を覚ました。辺りを見渡したが特に異常はない。気のせいか。布団を被り直して瞼を閉じたのだが、間髪入れずにまた物音がした。ギィ、ドアがゆっくりと開けられて金具の擦れる音、そしてスリッパで歩く音。志穂は心臓が飛び出そうになるのを押さえ込み、寝ている風を装いながら五感を研ぎ澄ませた。

 足音が志穂のベッド脇で止まると、顔の近づく気配がした。志穂は悟られないように喉を鳴らし、口を真一文字に結んだ。

「・・・・・・・・・」

 無音、無言。あまりに静か過ぎて、ざわざわとした雑音が耳に残る。誰なの、今すぐにでも体を起こしてそう尋ねたかったのだが、もう手遅れというか、決まりが悪い気がした。

 すぅ、すぅ、という志穂のリズムに合わせるかのように、名前の知らない誰かさんも息を吸っては吐いた。その息が、志穂の頬を微かに撫でると、妙な熱っぽさを感じた。濁ったような熱さだ。

 ひたっと左手に誰かさんの指が触れた。志穂は叫びたいのをすんでの所で踏ん張り、息を荒げないよう細心の注意を払った。誰かさんの指は暖かい。丸くて、細くて、小さい。ぎゅっと志穂の左手が握られる。その瞬間、ああとため息が漏れそうになった。

「早く、直りますように・・・・・・」

 夕美だ。初詣のお祈りをするみたいな声で、志穂の左手を握ったきり離そうとしない。ひょっとして、私が気を失ってずっと寝ていた時も、夕美はずっと手を握っていたのかも。直感的にそう思うと、いやきっとそうに違いない、と次の瞬間には確信に変わっていた。志穂は頑なに目を瞑ったまま、左手に神経を集中させる。

 目を開けたい。夕美ありがとうと言いたい。いや、急に目を開けて脅かせてやるのもいい。でも、今一度目を開けてしまえば、何もかもが壊れてしまう。崩れてしまう。この体温も、何も残らない。

 やがて、手を握る力が薄れていき、代わりに大人しい寝息が立ってきた。志穂は薄目をあいて自分の左手を見た。やはり何も見えない。でも、そこには夕美の手があるんだ、ここに夕美がいるんだ。寂しさや悔しさを通り越し、志穂は急に自分が惨めに思えてきた。

 唇を少し噛んで瞼を閉じる。もう朝になれば、左手には誰の気配もしなかった。





 そんな生活が続いて四日目のことである。外は雨が降っていた。ガラス張りの窓をノックするみたく、雨が強く打ちつけていた。志穂はベッドに寝そべったまま、天井をぼんやりと眺めていた。そんなことをしていると、ふと、入院した直後の事を思い出した。夕美しか見えず、それ以外は何も見えなかった頃だ。志穂は一瞬心穏やかになったが、すぐに後悔した。絵に描いた餅は食べられないのである。ぐうと腹の虫を煽るだけだ。

 ガリ、ガリ――――。

 爪で引っ掻くような音がして、思わずぎょっとした。志穂は恐る恐る、音のした窓へと近づいていってカーテンを捲るのだが、何もない。次は、ゴンゴンと窓を叩く音――――いや、大粒の雨のせいだ。目前の窓を打ちつける雨。それを見ると志穂は安堵した半面、騙されたみたいに思えて少しばかりの憤りを感じた。

 窓を開けて、シャッターを下げようとしたその時だった。目にゴミが入ったみたいで、急に左目がむず痒くなった。志穂は一旦手を止め、左目を手で覆って彼方其方を触り始めた。

 ジャリ、ジャリ。目下にある神社の方から、砂利の践む音が聞こえた。ふと目をやる。しかし、鳥居近くにも参道沿いにも、面白いように誰もいない。不思議だなと思いながらゴシゴシやっていると、やがて短い睫毛が一本とれた。志穂は窓からぽいと捨て、また神社の方を見やった。

 傘を差した親子連れが見えた瞬間、志穂は言葉を失った。大きな蒼い傘と、小ぶりの黄色い傘。見間違えるはずはない。こんなにも明確な目印があるのだから。まさか、と志穂はもう一度左目を手で隠してみた。すると、どうだろうか。先ほど見えていた親子の傘は、マジックみたいに跡形もなく消えていたのだ。

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