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手術は速やかに行われた。診療室に入れられてベッドに寝そべると、まず麻酔を打たれた。次第に意識が朦朧としてきて、寝ているのか起きているのかの区別もつかなくなってきて、あれと思ったのも束の間、志穂は深い眠りの底へと沈んでいった。
起きた時にはもう新しい目が移植されていた。といっても、包帯が巻かれているので、自分で確認する術はなかった。
最初は異物を眼窩に押し込まれたみたいで、体のあちこちがむずむずした。思わず左目へと手を伸ばすのだが、その度、絶対に触っちゃダメと関係者に口酸っぱく言われた。
手術を終えたとはいえ、相変わらず夕美以外の人間は見えなかった。おそらく右目が悪いのだろうと志穂は密かに思っていたのだが、手術してまた手術というのも決まりが悪い。透明人間達による祝福を受けながら、志穂は窮屈な日々を過ごした。
包帯を外して良いと許可が下りたのは、四五日後のことだった。姿形を成さない先生が、するすると自分の包帯を解いていく。志穂から見れば、まるで蛇が蠢くように、包帯自身が勝手に解けていくように見えた。実に奇妙だ。
少しずつ視界が開け、久方ぶりの外の光に目を細めた。虹彩が調節を施し、段々と色が見えてくる。映像が明確になる。志穂ははっとした。それもそのはずだ。目前には丸椅子に腰掛け、白衣を纏い、眼鏡を掛けた太っちょの中年医者がはっきりと見えたのだから。
「何か、おかしい所はあるかい?」
「ううん。見えます全部」
「そうかい、そりゃ良かった」
先生はその後、長々と懇切丁寧に今後の経過を大事にという旨の話をしたのだが、志穂の耳には入ってこなかった。あまりにもあっさりと元通りになってしまったもんだから、拍子抜けだったのだ。
退院の手続きを終えると、志穂は母の車で自宅に帰ることとなった。母は病院に着いてすぐ、良かった本当に良かった、と志穂に抱きついてむせび泣いた。嬉しかったのだが、久々に見た母の顔が、目元に一筋の黒い影ができていたせいか、志穂には別人に見えてそれどころではなかった。こんな顔だっけ、と志穂は半信半疑の気分に侵されながら、助手席で揺られた。
車を降りると、秋の風が顔をかすめた。芝生、いや麦の匂いがする。浦島太郎の気持ちが、何となく分かる気がした。コンクリートの道路を駆ける音がして、振り向けばランドセルを背負った学校帰りの少年が二人、我先にと拙い脚裁きでかけっこをしていた。夕美しか見えなかったのが嘘だったように思えてくる。あれは一体、なんだったの――――。
「お姉ちゃん?」
夕美の声が聞こえた。はたはたと志穂は首を巡らせてみるが、どこにも夕美の姿がない。
「お母さん。いつ帰ってきたの?」
パタパタパタ、と近づいてくる足音がする。しかし、志穂の目には動いてる物陰は一つも映っていない。志穂はデジャヴを感じた。胸騒ぎがする。ああこれ以上はダメだ。波が海岸沿いに向かって押し寄せるように、さあっと鳥肌が立った。やめて、やめて。
「今帰ってきた所よ」
「そっか。間に合って良かった。夕美ね、走って帰ってきたんだよ」
母はあさっての方向を見て、空気と会話している。いや、確かに、そこには夕美がいる・・・・・・はずなのだ。志穂は愕然とした。顔に出ていたのだろうか、夕美がもの悲しい声で、「お姉ちゃん、どうかしたの?」と訊いてきた。
「夕美。そこにいるんだよ、ね」
「何言ってるの。私はここだよ」
夕美の笑い声がした直後、志穂の右手にひやりと冷たい感触がした。きゃっ、と甲高い悲鳴を上げ、志穂は尻餅をついた。母が怪訝な顔をして、「どうかしたの」と深刻そうに尋ねる。が、志穂は問いに答えている余裕すらなかった。
「嘘だ・・・・・・」
自然に漏れた言葉は、微かな震えを含んでいた。体から力がすっと抜け、気を許せば今にでも倒れそうな姿は、枯れ木に首一枚繋がっている葉を連想させられる。見えないよ、夕美だけ。ううん、見えないの。そんなこと、言い訳になるだろうか。夕美はきっと悲しい顔をしているだろう・・・・・・いや、絶対そうだ。もし夕美が泣いていたとしても、私はその涙を拭うことも許されないんだ。ずぶずぶと体が何者かに侵食され、まるで気違いになっていくようだった。