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杜若  作者: 椋原紺
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 左目の手術は三日後だった。志穂はその間、安静にしておくようにと医者に釘を刺され、入院することになった。あっという間に時は過ぎたが、段々とこの可笑しな現象の全貌が分かりつつあった。

 具体的に言えば、「見える」と「見えない」の境だ。

 ベッドのシーツ、余り物のような病院食、トイレの便器、青い空、白い雲、桜の木に留まった雀、屋上に干された洗濯物の一式、コンクリートの地面を蠢動するミミズ、中庭の花に誘われた紋白蝶。これらの物が「見える」に該当した。他にもあったのだが、皆共通していたのは「人以外の物」であった。動物、植物、衣服、食べ物。挙げだしたら切りがないが、つまりは人以外の物が見え、人は「見えない」に属した。

 しかし、例外がひとつある。それは夕美だ。毎日様子を見に来る看護婦さんも、見舞いに来た担任の先生、クラスメイト、友達、父、母、祖父母、従姉妹、病院ですれ違った(らしい)おばあちゃん、おじいちゃん。これら皆、一人残らず姿形がなくて、急に現れては勝手に消えていった。

 でも、夕美だけは違う。はっきりと見える、確かに見えるのだ。その凜々しく通った鼻、ぱちくりとした瞳、控えめな唇、緩やかに弧を描いたコップの取っ手を連想させる耳。枝のような腕、滑らかでいてしなやかな指先、細身の体躯。ニーソックスに覆われた脚、おもちゃみたいな靴。

 全てが愛おしかった。同時に、懐かしくもあった。幼い頃、夕美をおぶって帰ったのを思い出す。志穂と夕美、二人だけの世界。邪魔する物は何もない。外面だけの人間関係にも、学校や家庭の社会的束縛にも、決して冒すことの出来ない、言わば聖域のようなものだった。

 夕美が見舞いに来ると、志穂はたちまち元気になった。夕美がいなければ、永久に一人ぼっちなのだから、当然の事だった。夕美がいれば、何気ない会話も楽しく感じられた。心の底から笑えた。いつまでもこんな時間が続いてほしい、志穂は心からそう願った。

 しかし、面会時間は限られている。夕美が「じゃあ、また明日も来るから」と、手を振ってあっちの方を向いてしまえば、もう二度と会えないのではないかという恐怖に駆られ、「夕美。そういえばさ」と、志穂は何度も何度も呼び止めた。それでも夕美は嫌な顔一つせず、親身になって受け答えしてくれたのだ。結局、二人は時間を忘れて話し込み、こっぴどく叱られた。

 いっそ、鬱陶しそうに、冷酷に突き放してくれたらまだ良かったのかもしれない、と志穂は思ったことがある。しつこい、ウザい、ぼけた老人かと、罵倒し、罵って、蔑んでくれたのなら、私はこれほどまでに夕美を頼りにすることもなかったのだから。






 志穂は夜が一番嫌いだった。目を閉じて明日が来たとして、もし夕美がいなくなったらどうしよう。そんな途方もない不安を抱え、右へ、左へ、また右へと寝返りを打っていれば、もう辺りは早朝の刻を迎えていた。

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