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杜若  作者: 椋原紺
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 目が覚めると、志穂は知らないベッドの上にいた。ぼんやりとした視界に、半平のような天井が映る。長い夢を見ていたような、不透明な感覚。頭を張り巡らせてみるが、何も思い出せなかった。

 ふと、急に違和感がした。冷静になれば、視界が左半分、お椀でも被せたみたいに隠れている。まるで、左から闇が迫ってきていて、今まさに右側の白い天井が飲み込まれそうな、そんな様相だった。

 視野が遮られた左目を触ろうと左手に力を入れた瞬間、暖かい感触がした。すっかり馴染んでいたのか、神経を集中させるまではっきり分からなかった。

 志穂は体を起こし、左腕の付け根から先の方へと視線を辿った。すると、どうだろう。志穂の手の平に小さな手が重なっていた。持ち主は見るまでもなく、夕美だと悟った。どんどん辿っていくと、桜の蕾みのような、夕美の横顔があった。疲れて眠っているのか、志穂のベッドにうつぶせになったまま、じっと動かなかった。

「夕美」

 何時間眠っていたのだろう。小さく掠れた声しか出ず、志穂は驚いた。二度目は少し力強く、夕美。三回目は揺すって、夕美。

 暫くして夕美はふわっと起き上がり、志穂を見て二三度瞬きをすると、「うわあっ!」と大声を上げた。

「お母さん! 看護婦さん!」

 夕美は椅子を蹴って立ち上がり、ドタドタと室外へと消えていった。間もなく、夕美に手を引かれた看護婦さんと母がやってきた、らしかった。

「良かった。良かったね志穂」

 母が仰々しい声で言い、突然頭を撫でられる感触がして、志穂は思わず仰け反ってしまった。なぜだ。言うまでもない。母の姿が視界には映っていなかったからだ。顔も、腕も、脚も。何もかもが映っていなかった。母も看護婦も、志穂の前にはいない。奥にあるベッド、壁。それだけだ。

 おかしい、必死に夕美を探すと、しかし、夕美は明確に見える。志穂の側に立ち尽くし、涙目になりながら喜んでいる表情も、華奢な体躯も、全部。

 状況をイマイチ把握できずにいると、どこにいるのか分からない看護婦さんが戸惑いを含んだ語調で、「何かおかしいですか?」と尋ねてきた。

「いや、何も見えないんですけど・・・・・・」

「左目ね。志穂の打ち所が悪かったみたいで、今は包帯が巻かれてるのよ。意識が回復したら、手術をする予定だったの」

 母の声がした。

「打ち所ってどういうこと」

「お姉ちゃん、何も覚えてないの?」

 次は夕美だ。物憂げな表情が見て取れる。志穂は夕美を見つめながら、うんと頷いた。すると、映ってないどちらか、もしくは両方が息を飲んだ気配がした。

 話を聞くと、こうだった。

 志穂がいつまで経っても迎えに来なかったので、夕美は一人で家に帰った。しかし、家に帰っても志穂は不在で、母が帰ってきても一向に戻ってこない。さすがに不味いと思ったのか、一家総出で捜索したらしい。夕美の心当たりで小学校へ行くと、プールと校舎の狭間で志穂が気を失って倒れているのを発見したそうだ。

 その時、左目からは出血していて、右目は涙に似た液体が流れていた。すぐさま病院に担ぎ込まれ、応急処置を施した後、三日間も眠っていたらしい。しかし、ここまで話されても、志穂に心当たりはなかった。すっぽりとその記憶だけが頭から抜き取られたように、何度検索してもヒットしない。

 それよりも、志穂は適当に相槌を打ちながら、滑稽だなと思っていた。志穂から見れば、話している相手は見えないのに言葉だけがすらすらと流れてくる。表情も、口の動きも、喉の上下動も、一つも見えない。私は一体誰の話を聞いているのだろうと考えるとちゃんちゃらおかしくて、笑いそうになった。

 実に可笑しな話だ。しかし、この奇々怪々な状況下であっても、志穂が平然と達観していられたのは、夕美がいたからなのかもしれなかった。

 母が何度も何度もよしよしと頭を撫でてくれたのだが、実体の見えない志穂とっては恐怖でしかなかった。透明人間が自分の体をまさぐってくるようで、気味が悪くて仕方がない。

 それよりも、左手に伝わる微かな温もり――――夕美の体温。これだけが、自分に残されたたった一つのよすがである、そんな気がしてならなかった。

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