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神社の境内に腰掛けながら、志穂は新しい煙草に火を点けた。煙草を燻らせ、夜空を見上げる。秋の夜長に相応しい満月が、天高く陣取っている。それを囲むように微細な粒のような星々が散在していた。雲はさながら、カーテンであろうか。月や星々が演者だとするなら、雲が覆い被さった間、彼らは私のように煙草を吹かしながら一息ついているのだろう。
ふぅ。志穂が息を吐くと、流線を描いた煙が龍の如く空へと駆け上がっていく。が、空へと届かないまま、儚く消え失せた。
シャボン玉という童謡が何故か心の中で流れ出した。そういえば、母に膝枕をしてもらい良く聞いた気がする。暖かい膝の上、そっと頭を撫でる手の感触、両目に映る母の顔。しかし、今はもう思い出せそうになかった。何故だろう。
志穂は右目を瞑ってみた。すると、眼帯をした左目の暗闇の深さに驚かされた。まるで右と左で違う風景が映っているような感覚だ。しかし、右目を開けてみると、左目には相変わらず暗闇のまま。本来何も映っていないのだという事を再認識できた。
左目を覆う雲は、いつまで経っても、手で追い払おうとしても、絶対に消えない。彼がステージに立つことも、未来永劫ないだろう。だけど、と志穂は時より思う。左目は今も童心のフィルターが掛かったままになっていて、右目がどうあがいたって二度と見られない時間を永遠に夢見ているのだ、と。
小学校時代、志穂はどこにでもいる普通の女の子だった。一輪車の虜になって意味もなく夢中で町内を回っていたこともあるし、誰かが買ったティーンズ向けの雑誌を友達みんなで回し読みしたこともある。放課後の校庭で鬼ごっこをしたことも、夏休みに神社の境内で涼んだことも、帰り道を外れて近道と称した小路を進んだことも、人並み程度にあった。
ただ、少し違う所と言えば、いつも志穂の後ろをちょこんと付いてきている夕美の事だ。どこへ行こうにも、何をしようにも、夕美はべったりと姉の後から離れなかった。
志穂が外出しようと玄関へ赴く際、
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
夕美はどこからともなく現れ、捨てられた子犬のように、今にも泣きそうな目を瞬かせて行く手を遮った。そんな顔をされては、姉としては渋々了承するしかない。
志穂は正直鬱陶しくて仕方がなかった。しかし、両親が共働きをしていた現状があり、幼い妹を一人っきりにさせて留守番を任せるほどの強情な精神も、生憎持ち合わせていなかった。
「しょうがないなぁ・・・・・・付いてくる?」
「うん!」
こう志穂が妥協すると、夕美は尻尾をふりふりさせてご機嫌になる。すると、先ほどまで心に膠着していた憎たらしさが消え、おかしいほど愛おしくて穏やかな心持ちになるのだ。夕美の笑顔は、そんな効果があった。
一輪車で颯爽と駆ける志穂に遅れ、上手く乗れない夕美は怒り泣きしながら一輪車を引きずった。畦道を一緒に歩けば、夕美はぬかるんだ地面に足を取られ、擦り傷を作って泣き喚いた。神社の境内で涼めば、退屈なのかぐうぐう駄々をこね始める。
志穂にしてみれば本当に良い迷惑な妹だったのだが、疲れて眠ってしまえば可愛い妹だった。夕陽が差し始めると、夕美は欠伸をし始める。それが合図だった。
「お姉ちゃん、おんぶ」
「えーやだよ。寝ながら歩けよ」
口では強がっていたが、夕美をおぶるのはむしろ好きだった。背負うと、びっくりするくらい軽い。年は二つしか離れてなかったが、綿毛のように浮ついた感触がした。
両脚をしっかり抱えて数分歩けば、背後からはもう寝息が聞こえてくる。すやすや、というより、すりすり。気がつけば、じんとした熱さが背中越しに伝わってきた。
立ち止まり、少しばかり首を捻ってみる。ぷくりと膨れたほっぺた、一を描く瞼、鼻は呼吸する度にひくひくと収縮を繰り返し、唇はもぐもぐ、もぐもぐと租借するみたいに動いた。
天使のようだ。生まれたての赤ちゃん・・・・・・いや、それ以上に可憐。見れば見るほど、ぎゅうと胸が締め付けられていく。痛い、切ない、苦しい。名も知れぬ感情が胸を焦がし、頭を支配する。次第に息が上がってきて、喉の奥が頻りに唾を欲しがる。
ああどうしよう。もう少し見ていたい。もっと近くで触れていたい。この時間は、志穂にとって至福の時だった。この広大な世界の中で夕美を独り占めにしていると思えば、なぜだか心は満たされて気分がよかった。この不思議な感覚。誰かに教えるのは勿体ないと、夕美をおぶる事は二人だけの秘密にしておいた。