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オンラインゲームに勤しんでいると、気がつけばすっかり辺りは暗くなっていた。ヘッドフォンを外し、背伸びをしてみる。怠けきった体が、骨が、関節が、ぎしぎしと悲鳴を上げた。ジャージのポケットを漁り、携帯電話を取り出すと、もうとっくに六時を回っていた。何か食べようかと、志穂は仰々しく立ち上がり、キッチンのある一階へと降りていく。
階段や廊下は夕闇に支配され、足元が覚束ない。しかし、照明を点けようという気は起こらなかった。この、先が見えない暗闇の中を、前に進んでいるのか横に逸れているのか後退しているのか、全く自覚できずにただただ歩いている感覚が好きなのかも知れない、と志穂は思った。それは例えば、軒と軒の間にある道なき道を探検したり、川の上流まで際限なく辿っていく冒険に共通するものがあった。
ただ、その一方で、それは童心が呼び起こさせてくれる本能的なものだから、十八を過ぎた今となっては味わうことのできないものだ、とも思った。その気になっているだけであって、あの頃の純心な眼差しも、毎日が宝石みたく輝くように見える事も、腹から声をあげて笑うことも、再現できないののだと悟った。私は只、電気を点けるのが面倒なだけだ。闇夜に鉄砲を撃ちたがるのは本当に命中してしまうのが怖いんだ――――そう思うと、何故か腑に落ちた。
台所の方から、磨硝子の扉を介して光が漏れている。同時に、包丁の小刻みな音も聞こえてきた。志穂は一度足を止め、それから台所へ入っていった。
中はやけに騒々しい。何かをぐつぐつ煮込んでいるのか、コンロに掛けてあった鍋から蒸気が慌ただしく吹き上げ、隣のやかんは沸騰して怒っている。そして、台所に立つ人間が一人、先ほどから熱心にみじん切りをしているようだった。
制服を着たまま、料理をしている少女。華奢な後ろ姿に、後ろで束ねたセミ・ロングの黒髪が愛おしいほど似合っている。包丁を捌く度、スカートも振動してゆるりとした曲線を描いた。
「お姉ちゃん?」
気配に気付いたのだろうか、少女ははたと手を止め、振り返った。瑞々しい素肌に、丸くつぶらな瞳。背の低さも相まってひどく幼い印象を与える。夕美は既に高校生なのだが、「また中学生に間違えられたの!」と二三日前に嘆いていたのを、志穂はふと思い出した。
「おかえり」
志穂がぶっきらぼうに言うと、夕美はぱっと顔を煌めかせた。
「ただいま。お腹空いた?」
「ちょー空いた」
「もうすぐできるからね。今日はね、ビーフシチューなんだよ」
「あと何分くらい?」
「うーん、十分くらいかな」
「そっか」
堪らないな、と志穂は冷蔵庫を開けた。中から適当に食べられそうなものを探す。チーズ、ハム、白子。この際何でも良いと、片っ端から取りだしていく。
「あっ、ダメだよお姉ちゃん・・・・・・もうすぐできるんだから。夜ご飯食べられないでしょ」
夕美が駆け寄り、志穂の腕を掴んだ。細い腕に、手首まで覆うカーディガンの袖がやけに頼りない。志穂はやや強引に振り解こうとした。
「食べないと死ぬの」
「またお昼食べてないんでしょ。あれほど言ってるのに」
「起きたらもう昼なんだから仕方ない」
「じゃあ、早く起きてよ」
二人が押し合いへし合いしている内に、コンロのやかんが騒ぎ出した。沸騰したついでに泡を吹き始めたのだ。
「あ、やばい!」
ガスを止めるのが先か、布巾で拭くのが先か、慌てふためく妹の姿を見物しながら、志穂はハムを一枚咥えた。
「―――お母さんは」
ようやっと事態を収束し終えた夕美がひょこっと首を出した。「確か、今日はもうすぐ帰ってくると思うけど」
「そう」ハムをもう一枚口へと運ぶ。
「そういえばお母さんが、そろそろ定期検診に行かないといけない、みたいな事言ってたよ」
「あっそ」
もう一枚ハムを食べて租借した後、眼帯を掛け直しながら踵を返した。どこ行くの、と夕美に足を止められたが、ちょっと風にあたってくると背中越しに返事を残し、外へ出た。
「絶対嘘だなーあれは」
一人きりになった台所で、夕美は包丁を捌きながら少し微笑んだ。