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がさがさ、杜若の葉の揺れる音がした。反射的に志穂は後ずさり、「誰かいるんですか」と声を上ずらせた。神社の境内は夜の闇に支配され、月と蛍光灯の頼りない光だけが、ちょぼちょぼっと照らしている。眼帯にそっと手を掛け、少しばかりずらした。水を打ったような静けさが流れ、心臓の高鳴りが妙に響く。嫌な気がした。
「こんな所で煙草を吸ってるのは誰だ!」
暫くして、鳥居の影から素頓狂な声がした。急な出来事だったので、息が詰まりそうになるのを覚えた。あっはっは、と愉快な笑いが続けざまに聞こえ、ひょいと顔を出したのは夕美だった。
「びっくりしたでしょ?」
「夕美かよ・・・・・・脅かさないでって」
「へへへ。でも、こんな所で煙草吸ってちゃダメだよ。バチがあたっちゃう」
「あたりません」心の中で、もうとっくにあたってるわ、とこぼした。
夕美が近づいてきたので、志穂は吸っていた煙草を砂利に落とし、靴でもみ消した。紙の巻きが破れ、蛆虫のような葉がぼろぼろと溢れ出す。先端のほのかな火は力なく消え失せ、魂が抜けるみたく一筋の煙を吐き出していた。
「何してたの」
「煙草吸ってたの」
「そうじゃなくって」苦笑して、面白い事言うなぁと挟んだ後、「考え事でもしてるのかなって」と夕美は穏やかに告げた。
「まさか」
口に出してから、志穂はまさかと思った。いやに芝居がかった口調だったからだ。夕美が隣に腰掛け、ぷらぷらと脚を揺らした。制服の上には薄手の赤茶色をしたコートを羽織っていたが、仰々しく見え、彼女の華奢な体を顕著にしていた。子供が赤い鼻を啜りながらちゃんちゃんこを着て炬燵に脚を突っ込む、そんな情景が脳裏に流れ、志穂はふっと笑いそうになるのを手でもみ消した。
「空、綺麗だなぁ」
「うん」
夕美がころころした瞳を輝かせて星空を仰ぎ見ている横顔を、志穂は盗み見していた。真っ黒のキャンバスを背景に、鮮やかに彩られていた夕美の顔が浮かび上がる。もし、種々雑多な絵の具が塗りたくられていたなら、この感動は絶対に味わえないものだ。
「――――そういえば、お姉ちゃんが目を怪我したのって丁度これくらいの時期だったね」
夕美はぴくりとも表情を動かさず、何気なく尋ねた。
「そうだっけ」
「そうだよ」
「ふーん、そっか」
志穂は勢いよく飛び降りた。「ご飯が出来たから呼びに来たんじゃなかったの。寒いし早く家に入ろ」そう背中越しに話しかけ、志穂はじゃりじゃりとけたたましく小石を踏みならした。早くこの場を離れないといけない、そう予感したのだ。
そんな矢先、背後からぐっと腕を捕まれ、志穂はわっと声を上げた。暗闇から手が伸びてきたら、誰だって自然とそうなるだろう。しかし、志穂の「わっ」は尋常じゃないトーンだった。得体の知れない化け物が人を食ってる場面に出くわした時の「わっ」。言わば、そういうのに近かった。
「何で逃げるのお姉ちゃん」
「別に、逃げてなんか」
「こっち向いてよ!」
夕美がぐいと力を入れ、志穂はあっけなく顔を合わせることになった。こんな細い腕なのに、どこにこんな馬鹿力が宿っているのだろうか。志穂は目を背けたまま、恐怖をひた隠した。「痛いって、離して」
「いつからなの」
「え?」
「いつから見えてないの。私以外」
夕美の腕を掴む力が増した気がした。しかし、志穂はそれどころではなく、意識がどこか遠く遠くに登っていて塵となって消えそうであった。頭が真っ白になるというのはこういうことかと痛感した。