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桜木玲と謎のプリンセス

 夏休みが開けて一週間が経った。

 俺は一ヶ月前と同じように、ただだらだらと学校へ行き、毎日を過ごしている。

「……あー、つまんねぇな」

 ギシッと背中を持たせかけた椅子の背もたれが鳴る。誰もいない教室には俺の声だけが空しく響き渡った。

「はー、一人で補修とかやってらんねぇよな、まったく」

 俺は机の上に広がったプリントを眺めてぼやく。無理だろ、こんなの。後何十ページがあると思ってるんだ?

 プリントの束をめくり、後ろから数えていく。……うえ、まだ二十ページ以上もある。

 だめだこりゃ。今日は玲と一緒には帰れねぇな。

 俺はプリントの束を投げ出し、はぁーっとため息を吐いて机に突っ伏する。

「どうしてこんなことになっちまったのかねぇ」

「そりゃあ夏休み明けの小テストの結果が散々だったからだろ? 自業自得だ」

「……なんだよ、、真人。いたのか」

「まあな」

 俺の独り言に返してくる声がして、俺はちらりとそちらを見た。

 するとそこには、当然だが一人の男がいた。

 俺の友人の真人だ。剛昌真人。身長は一八〇センチを超え、スポーツ万能のイケメンくんだ。

 学内でも割合人気が高い方で、よく女子から告白を受けるのだという。後半の情報は別になくてもいいか。

「なんか用かー?」

「なんか用かじゃなくて、なんでおまえ補習なんてやってんだ?」

「なんでおまえ……さっき言ったじゃんか。俺が休み明けのテストで散々だったからって」

「……いやいや、そうじゃなくてだな」

 真人は困ったような顔で首を振る。何が言いてぇんだ、こいつは。

「……何だよ?」

「なんだよってか……桜木、待ってるぞ?」

「そっこーで終わらせるから。後五分待ってって伝えといて」

 俺はバッとプリントの束を元に戻すと、素早くペンを走らせた。

 おおっと、そうだったそうだった。玲を待たせていたんだった。

 桜木玲。成績優秀で容姿端麗。おまけにスポーツをやらせたらどれも平均以上にこなすまさに完璧超人みたいな奴だ。そして性格もすこぶるいい。もう非の打ちどころのないとはあのことだろう。

 ただ一点を除いて。

 それは玲がかなりのゲーム、アニメ好きだということだ。

 おそらく勉強に関してもそうだろうし、スポーツに関してもそうだろうが、ゲームやアニメの影響が強いのだと思う。

 ただしそれは欠点と言うほどの欠点ではなかった。むしろ冷の魅力を語る上で最大級の賛辞となるだろう。

 なぜならそこに、玲の本当の姿があるのだから。俺はそう思っている。

「……つかなんでおまえは補習ねぇんだよ」

「は? いやいや、だから補習になってるおまえの方がおかしいんだよ」

 真人は教室に入って来ると、俺の前の席に背もたれに腕を乗せる形で座る。

 そこはおまえの席じゃないだろう。などと突っ込みを入れている場合ではない。さっさとこのプリントを終わらせなっくては。

 俺は今年に入って一番頭を回転させた。回転させ、どうにかプリントを最後までやり遂げた。

 ……たぶん後日、再提出を喰らうのだろうが。まあそれはいい。今は置いておこう。

「終わったぜ」

「ご苦労さん」

「つーか真人、俺は玲への伝言を頼んだはずだ。なぜいる?」

「安心しろ。桜木には既におまえの伝言は伝えてある」

「……なぜ?」

 真人は呆れたように嘆息して、肩をすくめた。どうやら答える気はないらしい。

 まあいいや。それよりこれを提出して今すぐに玲のもとへ行かなくてはならない。

「待ってろ、秒で提出してくるから!」

「おう。待ってらー」

 真人がひらひらと手を振っている。俺はそれを横目に見つつ、ダッシュで教室を出た。

 廊下を走り、職員室へとたどり着く。そうして担当の教師を見つけるとプリントの束を半ば強引に押しつけるようにして渡し、再び教室へと舞い戻る。

 ぜえぜえ、と息が荒い。バタンと扉を開けると、真人がゆっくりと俺の方を見た。

「……お、終わったぜえ」

「おお、まじで速かったな。お疲れさん」

 肩を激しく上下させ、必死に息を整える俺に対して、真人は涼しい顔だ。

 まあ当然だろう。それより、速く玲のところへいかないと。

「……ほらよ」

「わ、悪い……」

 真人が俺の鞄まで持って来てくれた。ので、俺はそれを受け取りまだ呼吸の荒いことを自覚しつつ、下駄箱まで向かう。

 靴を履き替え、昇降口を出る。校門へと向かう道すがら、きょろきょろとあたりを見回す。

 玲、どこで待っててくれるんだろう。

 補習と聞いた時には落ち込んだ気分も、今は晴れやかだ。やはり恋人が待っていてくれるといのはいい。

「おまえ、だいぶ気持ち悪いよ」

「うるせ、彼女のいねえおまえには俺の今の気持ちはわからねえよ」

「……あっそ」

 真人の気のない返事を聞きつつ、俺は更に玲の姿を探す。と、校門の反対側で見つけた。

 携帯電話をいじっている玲。どこかふてくされたように唇を突き出している姿が超絶かわいい。なんかもう、かわいい。トニカクカワイイ。

 時間を確認しているのだろうか。違うな、メールを打っているようだ。

 ほどなくして、俺の携帯に着信が入る。その音に驚いたように、玲がバッとこちらを振り返った。

「健斗……やっときたぁ」

 玲は携帯をポケットにしまうと、俺の方へと小走りに駆け寄ってくる。

 ぎゅっと、俺の手を握る。拗ねたように下から睨んでくる姿に気絶寸前だった。

「わ、悪い。待たせちまったな」

「本当だよ。待ちくたびれちゃった」

「悪かったよ。お詫びに何かおごるから」

「ほんと! だったら私……」

 おごると言った途端現金な奴だな、と思っていたが、不意に玲の顔色に青味が差す。

 どうしたんだ? と考えて、すぐにその原因が知れた。

 真人が、この場にいるからだ。ずっと一緒に校門まで来て、さっさと二人の世界に入ってしまったものだから真人の存在などすっかり意識外だったのだろう。

 サッと、玲の手が俺から離される。残念だ。

「あ? ああ、気にせず続けてくれ。何だったら俺は退散するけど?」

「わざわざ呼びに来てもらったのに悪いな。そうしてくれると助かる」

「気にするな。愛する者同士の邪魔をするつもりはねえ。それに、そんなことをしたら俺は馬に蹴られて死んじまうからな」

 ヒラヒラと手を振って、俺たちの前から姿を消す真人。何て都合のいい友人なんだ。

 大切にしよう、と真人に対して感謝の意を示す。が、すぐに意識は玲に戻した。

「そろそろ別に真人の前では大丈夫だと思うが?」

「ええと……ごめん、まだちょっと」

「そっか。まあしょうがねえよな。そう簡単にはいかねぇって」

 俺は玲の頭に手を置き、ポンポンと二度ほど撫でた。玲はくすぐったそうにしていたが、嫌がる素振りもないのでそのまま続行する。

 玲は学校の連中には自分のことを秘密にしていた。もちろん、ゲームやアニメの話だ。

 そうすることに意味なんてないし、それは本人もわかっているはずだ。けど、今更自分かrカミングアウトするようなことでもないと思っているのだろう。

 それに、いくら世間がオタクに対して温和になったと言っても、学校という狭い空間の中でそんな自分を晒すのは勇気がいる……んだと思う。俺にはよくわからないが。

 特に玲には優等生というレッテルがついて回っていることも原因の一つだろう。

 それがいいことなのか悪いことなのかについてはさておいて、とりあえず今は帰ろう。

「じゃあ、帰ろうぜ」

「うん」

 夕日の差す坂道を下りながら、俺と玲は連れ立って歩きだした。

 くだらない話をしながら、楽しい時間を過ごすために。

 しかし、この時の俺はまだ何も知らなかった。自分があんなことに巻き込まれるなんて。

 

 

 

 翌日の昼過ぎ。昼食を食べていると、不意に真人がこんな話を切り出してきた。

「知ってるか? 夏休み明けに転校生が来たんだ」

「転校生? へぇ……どんな奴なんだ?」

「それがよ、かなりのイケメンなんだと」

「かなりってどれくらいだ?」

「さあ? 詳しい事はわからないが、この一週間で既に四人の女子から告白されたらしいぜ」

「四人……多いな」

「多いだろう」

 これが半年とかいうのなら、まだ分かったんだけど。一週間で四人って。

 ……どんなイケメンだよ、まったく。

「何でも噂では、面構えもよくて高身長でなおかつ優しくて気遣いのできる奴らしい」

「なんだその完璧超人は。……まるで玲かよ」

「間違いないな」

 真人はくすくすと笑っていた。もっと大声で笑えばいいのにと思う。

 俺はというと、別段おかしくもなかった。俺が最初に玲を引き合いに出したのだから、笑うなというのは筋が通らないのはわかっている。

 けど、なんとなく玲が笑われているような気がして面白くはなかった。

「……ふー、なあ健斗」

「なんだ?」

 真人はにやりと笑って俺の名前を呼ぶ。こういう呼び方をする時は、大抵くだらないことだ。

「ちょっと今から転校生を見に行こうぜ」

「……今から?」

「おう」

 予想通り、真人の提案は至極くだらないものだった。

 何言ってんだこいつレベルだ。まったく。何だって俺がそんなことをしなくちゃならないんだって話だ。

「俺はここにいる。行きたければおまえ一人で行ってくれ」

「いいのか、そんなことを言って?」

「……何が言いたいんだ?」

 真人は更ににやけ面をして、俺を見てくる。

 俺は内心でざわざわとしたものを感じていた。次に真人が何を言い出すのか、大体の予想はつく。つくが……それを口にするのは憚られた。

「なんだよ、行きたくねぇのか?」

「……そう言ってんだろ」

 真人が意外そうな顔で訊き返してくる。……なんだってそんな顔をするんだ?

「クラスの女子が話してたぞ?」

「……何をだ?」

「例の転校生と桜木はお似合いだって」

「…………」

 自分でもびっくりするくらい、気分が削がれた。

 真人の話を聞いて、確かに俺も一瞬それを考えた。

 玲とその転校生のツーショット。しかし、それは秒で崩れ去るほどもろい想像だった。

「お、お似合いなんかじゃねぇよ」

「ふーん。ま、おまえがいいならいいけどよ」

 真人はペットボトルのお茶を飲み干して、指先でぷらんぷらんさせている。

「そういえば、今日は九条がいないな」

「九条と玲ならクラスの女子連中に連れられてどっか行った」

 誰が言い出したのか、玲は『深層の令嬢』と呼ばれている。スポーツ万能で成績優秀。それにあの可愛さだ。そう噂したくなる気持ちもわかろう。

 そして九条は自他ともに認める正真正銘のお嬢様だ。親の教育方針でこんな庶民的一般の公立高校に通っているが、本当ならしかるべき学校に通うような身分のお方だ。

 その二人が連れ立ってどこかに行った。きゃーきゃーとうるさいクラスの女子に囲まれて。

 二人とも俺たち以外にはいい顔をしたがるからな。オタバレを嫌っている二人らしい。

 なるべくなら言動を目立たなくして、悪目立ちするような行動はしないようにする。

 そうしてあいつらは学校生活を送って来たはずだ。そしてこれからも。

 俺は別にオタクだろうと何だろうと気にするような奴じゃないと自分では思っている。そして実際に、玲のオタクカミングアウト後の現在に至っても玲との交際は続いている。

 まあ、ちょっとしたいざこざは間にあったけど。

「しっかしどこ行ったんだろうな、二人とも」

「さあな。……案外、件の転校生のところだったりしてな」

「ははははは、それはないってー」

 真人の軽口を一蹴する俺。が、内心ではぎくりとしていた。

 確かに、その可能性はある。玲が自ら転校生を見に行く、というアクションを起こすとは考えずらいが、周りには玲の取り巻きたちがいて、玲を転校生のもとへと連れて行った。

 十分にあり得る気がする。というかそうに違いない。

 俺は弁当を喰うのもそこそこに、すっくと立ち上がった。

「おお? どうしたんだよ、健斗?」

 真人が怪訝な顔で訊いてくる。けど、すぐにわかったというようなしたり顔になった。

「転校生のところへ行くのか?」

「……いいや、ちょっとトイレだ」

「へぇ……だったら俺も便所だ」

 さっさと真人も弁当箱を片付け、荷物を持って俺について来る。

 な、なんで来るんだよ、こいつ。

「おまえが付いて来る必要はないだろ」

「いいじゃんいいいじゃん。連れ立って行こうぜ」

 真人はなぜか上機嫌だった。上機嫌というよりは面白がっているのか?

 鬱陶しいな、こいつ。

 俺は真人を振り払いながら、階段を降りる。

 踊り場を通り過ぎ、一年の教室が隣接する階へと到達した。

「お? いいのか、トイレ通り過ぎたけど?」

「うっせぇよ、おまえ! 何なんだよ!」

 ああもう、まじで付いて来るなよ! 俺は一人で行きたいんだ!

 俺の心の叫びは残念ながら真人には届かなかったらしい。腹立つにやけ面で、俺の後を黙って付いて来る。……ちくしょう。

 まあいい。真人がいようと何だろうと関係ない。俺は別に転校生と玲の様子を見に来たわけではないのだからな。たまたま、そうたまたま転校生の来た教室の前を通り過ぎただけだ。

 その時にちらりと教室の中が見えてしまったとしても、何らおかしなことはないだろう。

 俺は誰に聞かせる予定もない言い訳のような理論武装を重ねる。

 そうして、件の転校生が来たらしい教室の前を通った。

 そうして、俺は不意にビタッと足を止めた。

「……玲」

 とおまけに九条。何してんだ、あいつら。

「おお、なんか人だかりができてるな。何があるんだ?」

 真人が少しだけ背伸びをして、中の様子を覗こうとする。真人は俺より若干背が高いから、ひょっとすると見えるかもしれない。

「どうだ? 見えたか?」

「ちょっと待て……おお、見えた見えた。ん? けどなんだろうな、ありゃあ?」

 真人が顔中に疑問符を浮かべる。一体どうしたというのだろうか?

 ちらとさっき玲のいた方へと視線を向ける。と、玲の姿がなかった。

 ま、まさか! あのくそイケメソ野郎の前に出てしまったのでは!

 俺は取り巻きたちに背中を押され、転校生の前に出される玲の姿を想像して戦慄した。

 だ、だめだ! そんなことは俺が許さない……!

 俺は真人を思い切り押し飛ばし、その場に転げ倒した。それから教室の入り口でたむろしている連中を押し退けて中に入る。

 玲を助け出す、王子……今まさに、俺はそんな心境だった。

「ちょぉっと待ったぁ!」

 自分でもびっくりするくらいの大声が出た。あれ? 俺ってこんな大声を出すような奴だったっけ? と自分で自分に驚いている。

 まあ何だっていい。今は玲だ。玲のことを一番に考えるんだ。

 みんなが俺を見ている。別に隠し通そうとは思っていなかったが、玲の頼みで今まで積極的に回りに言うことは避けていた。

 けど、今日は違う。今日から俺と玲は学校中の公認カップルになるんだ。

「そいつは俺のものだぁ! 手ぇ出すんじゃねぇ!」

 言った、言ってやったぞ。

 ぶるぶると全身が震えている。何かを成し遂げたという感覚と達成感が体中を巡った。

 どうだ、どうだどうだ。

 ぎゅっと目を瞑っていた目を開け、おそるおそる周囲を見回す。

「……え?」

 ざわざわざわざわ、とにわか以上にざわついている。しかしそれとは反対に時が止まったように俺の体は動かなかった。

 例えるなら、石か何かに変えられたかのようだった。

 ええと、ええと?

 自分でも自分のことがよくわからなかった。どうなってるんですか、これ?

 俺の目の前には、男が二人いた。

 一人は小柄な男子生徒。愛くるしい顔立ちの、一見すると女子みたいな男子。

 そしてもう一人は、痩身の男子生徒。男にしてはやや長めの髪と、肘の下で組んだ腕。片方爪先立ちをしている姿はあまり男らしくなかった。

 双方ともに俺を見ていた。こいつらだけではなかったが。

 両方とも、驚いていた。そりゃあそうだろう。だって突然現れて何を言い出すんだこいつは状態だろうからな、今。

「ええと……何、この状態」

「何と訊かれてもねぇ。……私だって知りたいわよ」

「……桜木玲は?」

「んー? どなたか存じ上げないけれど、それらしい人は見てないわね」

「それで、えーと……二人は何を?」

 そしてなんだ、この人だかりは? 俺はてっきり玲が他の連中に言われてこんな状態になったのだとばかり思っていたのだが。

「んーと、どうしたものかしら?」

 彼は俺と目の前の男子生徒を交互に見て、困ったように微笑だ。

 あまり困っているようには見えなかった。実際のところはどうなのか知らないけど。

「……まあでも今の状況的には」

 言いながら、彼は軽くステップを踏みながら俺に近付いて来る。

 するりと俺の腕に自分の腕を絡めて、全身を寄せて来た。

 え? え? えええええ?

 困惑が頭の中を支配する。何が起こってるんだ、今? どうして俺はこいつと腕を組んでるんだ、今? つーかなんでこいつは腕絡めて来てんだ、今?

 状況に理解度が追い付かない。一体何がどうなっているのか、全然わからなかった。

「そういうわけだから、ごめんなさい。私には彼がいるの」

 ぱちこん、と彼がウインクする。……は? ええと、どういう意味だ、それは?

 俺が訊ねるより先に、彼は俺の腕を引っ張って教室を出る。謝りながら人込みを分けて進んでいく姿は、凱旋した英雄を思わせた。実際にはこちらが出て行ってるわけだが。

 そうして、彼は階段を登り、屋上の手前までやって来た。

「ふぅ……ありがとう。助かったわ」

「え? いや。……なんてことねぇけど」

 ねぇけど……いや待て、何だったんだあれは?

「いやー、あの男なかなかしつこくってね。私のこと諦めてくれなかったの」

「へ、へー……そうだったんだぁ」

 ……何言ってんの、こいつ?

 俺はきょろきょろとあたりを見回す。

 人気のないところに二人きりで、暗がり。

 一応電気は点いているが、明るさは心もとない。ここで何が行われたとしても近くまでこなければ気が付くことはないだろう。

「ところで、さっきの言葉は本気?」

「……え、ええと……何のことだ?」

「んもぅ、惚けちゃって」

 彼が俺の頬に手を当ててくる。まったく男らしくない、細くて柔らかくてひんやりした手だ。

 どきりと心臓が鳴った。もちろん、恐怖で。

「さっき俺のものって言ったでしょう? あれは本気かって訊いているの」

「あのぉ……いや、あれは」

「いいえ、みなまで言わなくていいわ。私は全部わかってるから」

「何が? 何を理解したというのだろうか!」

 緊張と恐怖で思わず声が裏がえっていた。

 彼の手が滑り、くいっと俺のあごを持ち上げる。

 まるで、王子様がお姫様にそうするように。

 顔が近付いてくる。ぷるんと下唇が見えた。彼が目を閉じた。

 は? はぁ? はぁぁ!

 ようやく今の事態に理解が追い付いてきた。が、時既に遅しだ。

 もう寸前まで顔が来ている。……ああ、これまでか。

 と、諦めかけたその時だった。

「ちょっと待ったぁーッ!」

 怒号ともつかない叫び声が木霊する。反響し、闇の中へと消えていった。

「……何よ、今いいとこなの。邪魔しないでくれる?」

「なっ! 何がいいところなのッ! 変なこと言わないで!」

「あら? 変なことを言った覚えはないわ。ただ事実を言っただけ。ねぇ?」

 俺に同意を求められても。そもそもが会話が成り立っていないのだから、おかしなことだ、今の状況は。

 俺はぶんぶんと首を振った。彼は意外そうにしていたが、存外あっさりと身を引いてくれた。

 た、助かったぁ……。ありがとう玲。

 俺は階下で睨みを利かせている玲へと視線を向ける。玲は俺に駆け寄って来ると彼と野間に割って入った。

「一体何のつもりか知らないけど、彼に変なことをするのはだめ!」

「変なことって……だって私、この人に告白されたんだから」

「ぐっ……それは何かの間違いだよ!」

「間違い……ねぇ。でもあなただって見ていたでしょう? あの場で」

「…………」

 玲が言葉を失っていた。俺は確かにあの場に玲がいたことを知っている。

 なら、玲が俺の行動を見ていたのだとしても、何ら不思議はない。

「そのことなんだが、ちょっとした行き違いというか誤解があるんだ」

「……誤解? 一体どんな?」

 彼の瞳が鋭くなる。何だったらすごく怖かったが、ここで引いてはだめだと直感した。

「俺は……その、おまえがあいつと話しているとは思わなかった」

「ああ、あの男の子ね」

「別の奴と話していると思っていたんだ」

「別の奴? それって一体……」

 言いかけて、彼は勝手に納得したように顔を綻ばせた。

「ああ、そういうこと。わかったわ」

「わ、わかってくれたか?」

「ええ。でもそんなことは些細なことよ」

「……へ?」

 何を言ってるんだ、こいつは。俺は今、だいぶ理解しやすいように説明したはずだ。

 なのに些細なこと、だと? ええと、どうしてそんなことが言えるんだ?

「女がああまで情熱的な言葉をかけられて、陥落しないと思う?」

「女って……おまえはどう見ても男だろ」

「ええ、そうよ。私は男。けれど、女でもあるのよ」

「何を言って……」

 言いかけて、ハッとした。こいつの言っている意味がわかった、ということもあるが。

 第一には玲だ。玲が俺を睨んでいた。超怖い。

「情熱的な言葉って……わけがわからない。第一あなたは何者なの?」

「ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね」

 彼……いや彼女か? は自分の胸に手を当てて、優美に微笑んだ。

「私の名前は亜城渚。前の学校では友達からはナギって呼ばれていたわ」

「渚、さん……」

「ナギでいいわ。あなたのお名前は?」

「わ、私は……桜木、玲……です」

「桜木……ということはあなたが噂の玲ちゃんね」

「噂?」

「ええ」

 彼――ナギはあごに手を添え、しきりに何かを思い出しているようだった。

「そうねぇ。……例えば『深層の令嬢』と呼ばれていることとか」

 ナギはにこっと笑みを浮かべると、その言葉を口にした。

 

 

 

 俺とナギのスキャンダルは玲の介入によってどうにか丸く収まったようだ。

 けど、問題はそれだけじゃない。いや、これからが本当の問題だと言ってもいいだろう。

 俺が教室に戻ると、バッと一斉にこちらを見てくる。

 真人や九条を始めとして、クラスの全員が、だ。

「……お帰り。どこ行ってたんだ?」

「ああ、いや……」

 みんなを代表してだろうか。真人が声をかけてくる。が、俺はそれに対して曖昧な返事しかできなかった。

 だって仕方がないだろう。俺はたった今まで女同士の修羅場のただ中にいたんだから。片方は男だったけど。

 とにかく信じられなかった。現実感がない。

 それからのことは、正直よく覚えていなかった。どうせいつもと同じように退屈な授業を受けていたんだろうけど。

 とにもかくにも、早く玲に会いたかった。会って話をしなくてはと思っていた。

 ので、今日も今日とて校門で待つ玲に声をかけ……ようとしてピタッと立ち止まる。

 ええと……なんだありゃあ?

 俺は困惑の体でその場に立ち尽くした。なぜって? そりゃあ玲と一緒にいたからだ、あいつが。

 そう、亜城渚。通称ナギ。彼女……と言っていいのかはわからないけど、とりあえず今は彼女としておこう。そのナギが玲と一緒にいる。

 例え男好きであってもナギも男だ。玲と一緒にいるのは好ましくない。

 俺は早歩きで玲のところまで行くと、ナギとの間に割って入る。

「け、健斗……? どうしたの?」

「あらあら、石宮くんじゃないの。そんなに怖い顔して、どうしたのよ? ハンサムが台なしよ?」

 白々しい。俺が手に入らないとわかったら今度は玲を毒牙にかけようというのか。

 俺はナギを睨みつつ、玲の無事を確認した。

「大丈夫か?」

「うん、平気。というか、別に何もにないのに」

「おまえ、今度は玲にちょっかいかけようってのか?」

 ぐるるる、と喉を鳴らして威嚇してみる。実際のところ、ケンカして俺が勝てる確率なんてかなり低いが、それはこの際問題じゃない。

 玲が妙な男にかどわかされようとしている。それだけで俺が体を張る理由としては十分だ。

「……ふふ、大丈夫よ。私は彼女に何もしない。ただお話をしていただけだから」

「……本当か、玲?」

「え? うん、本当だけど」

 玲が言うのなら本当なのだろう。

 俺は喉を鳴らすのを止め、警戒を解く。なんか喉が若干痛い。

「……だったら何してたんだ?」

「だから、お話よお・は・な・し」

 おまえには聞いてねぇよ。

 俺は玲に視線で問うた。玲は俺の視線の意味を理解してくれたらしく、うんと頷く。

「ナギの言うことは本当だよ。ただのお話」

「何話してたんだ?」

「健斗のことに決まってるじゃないの」

「……あ?」

 おまえ何軽々しく俺の名前読んでんだこの野郎。男にそんなふうに呼ばれても嬉しかねぇんだよ。

 俺は再び玲へと視線を送る。と、玲もまた頷いてきた。どうやら本当のようだ。

「それで、これから彼女と二人で一緒にどこかへ行く事になって」

「はぁ? ええと、どこかってどこだ?」

「まだ決めてないけど、たぶん喫茶店とか?」

「私、スイーツとか大好きなのよ」

 ナギがきゃぴきゃぴとした感じで飛び跳ねる。……何だろう、それがえらく様になっていた。

 なんとなく、普段からやってるんだろうなって印象がある。

「……それ、俺も一緒に行っていいか?」

「え? 健斗も?」

「あらあら、大歓迎よ。ね、玲ちゃん」

 こんな奴と二人きりとか許せるわけねぇだろ。

 俺は玲を振り返る。玲は困惑した様子で俺とナギを見比べていたが、やがてうんと一つ頷いた。一緒に行っていいって事だろうか。

「じゃあ決まりね。そうと決まれば行きましょう」

 ナギがさっさと行ってしまおうとする。俺たちはその背中を追って行くのだった。

 

 

 

「わお! これはびっくりね!」

 ナギが興奮したように甲高い声を出す。その横で、俺と玲は呆然としていた。

 なぜなら、そこにあったのは見知らぬアイスクリーム店だったからだ。

「ここ、前々から一度来てみたかったのよね」

 ナギがはしゃいだような声を出す。事実はしゃいでいるのだから当然だけど。

 つーかなんで地元の俺たちが知らないような店をおまえが知ってんだよ。

 そう突っ込みを入れたくなったが、我慢する。だって俺たち、特に玲は休日と言えばネトゲかゲームショップ巡りがメインだからだ。俺も男友達と街中を出歩くことはままあるが、こんな店に立ち寄ることはほとんどない。

「さあさあ、入りましょう」

「え? ええと、はい」

「…………」

 ナギが俺と玲を引きつれる形で店の中に入って行く。

 店の中はおしゃれな感じで、なんとなく落ち着かない。もっとこう、照明とか暗かったらよかったんだけど。

 まあ、俺以上に玲の方が落ち着かない感じだけど。こいつの場合はこういうところにもちょくちょく来てそうだけど。オタク友達以外の友達と。

「……どうしたんだよ、玲? おまえは慣れているだろ?」

「慣れてなんかないよ。あんまりこういうところ来ないし」

「ふーん……意外だな」

 俺は玲から視線を外し、再び店内を見回した。

 やはり俺は苦手だなー、ここ。平日だからか客はまばらだが全員女だし。

「ええっとぉ……三名でお願いします」

「お好きなお席へどうぞー」

 店員に笑顔で言われて、頷くナギ。つかナギのこと見て何とも思わないのかな、この人。

 ナギを先頭に、店の奥側へと陣取る俺たち。

 やたら可愛さを意識した椅子に座ると、さっきの店員がメニューを持ってやって来る。

「こちらメニューになります。お冷はセルフサービスでーす」

「ありがとうございますぅ」

「あっ……どうも」

 ナギと玲の反応の差がすごい。

 俺たちはメニューを受け取るとそれを開いた。そして再び固まる。

 えーと……何これ?

「……なぁこれってなんて書いてあるんだ?」

 たぶん英語……だよな、これ。俺は英語だけは苦手なので、なんて書いてあるかよくわからなかった。かろうじてけーくくらいなら読める。

「んー、そうねぇ……じゃあ私はモンブランにしようかな」

「だったら私は無難にイチゴショートで」

「え? ええと……は?」

 何だろう……どうして二人ともこれが読めるんだ?

 メニューは英語な上にかなり崩した筆記体? 出かかれているんだぞ。こんなもん、暗号解読に長けた人間しか読めないだろう。

 もしくはこれは女子の間では読めてあたり前の文字なのか?

 俺は困惑の体で焦る。……ええと、何を頼もうか。

 そうこうしている内に、店員がやって来る。誰だ、読んだのは。

「私はモンブランくださいな」

「私はイチゴショートで」

「かしこまり~。そっちのお兄さんは?」

「え? 俺は……ええと」

 いやいやいやいや、そんなに焦らせないでくれよ。余計にわけがわからなくなってしまうだろうが!

 俺は必死になってメニューを睨む。あーもう、何だっていいや。

「じゃあこれお願いします」

「かしこまりんぐ」

 店員にメニューを見せて注文する。読めないのならこれでいい。

 後は何が出てくるかだな。鬼が出るか蛇が出るか。ああ楽しみだ、まったく。

「あんなに急いで頼まなくてもよかったのに」

「誰だよ、俺のこと急かした奴は」

「急かしたつもりなんてなかったわよ。ゆっくり決めて、改めて店員さんを呼べばよかったじゃない?」

「……まあ」

 ナギの言っていることは正論だ。俺が勝手に焦って勝手にわけのわからないものを注文したのだと、そう言われてしまえば反論はできない。

 かと言って、俺だけが悪いと言われているような今の状況は納得がいかなかった。

 ま、何を言ったとこで時既に遅しだけど。

 ほどなくして、注文した品が三人の前に並ぶ。

 モンブランにイチゴのショートケーキ。そして俺は……生クリームたっぷりのいかにもSNS映えしそうな感じのパンケーキだ。

 ええ……今から俺これ食べるの?

 別に甘いものは嫌いではないが、これはさすがにきつい。かと言って注文した手前残すのも忍びないので、全部食べてしまおうと腹をくくる。

「うぅ……」

 開始三口目で早くもギブアップしてしまいそうだった。上から順繰りに食べているのだが、生クリームの量がめちゃくちゃ多い。またパンケーキの部分には到達していなかった。

「んんー、おいしいわぁ」

「ほんとに。いつも食べるショートケーキとは一味違う」

「ほんと? ちょっとだけ頂いてもいいかしら?」

「いいよ。じゃあナギのも少しもらっていい?」

「もちろんよ。シェアしましょう」

 ナギと玲が食べさせ合っている。何だろう……ちょっと前までそんなに知りもしなかった奴らがまるで長年一緒にいた幼馴染みたいだ。

 ……こういうのも百合って言うんだろうか?

 俺は怒るべきかどうかわからず、困惑する。

 だってナギはああだし、玲は玲で文句一つ言わないのだからこれでいい気もするし。

 果たしてどうするのが正解なんだ? ああだめだ、生クリームのせいで気分悪くなってきた。

「……ええと、それで二人はどうしてこんなところに来たんだ?」

 俺は生クリームの乗ったフォークを皿の端に置き、ちょっとした疑問を口にした。

 玲とナギはそれほど仲よくなかったはずだ。ナギが転校して来てまだ一週間しか経っていないのだから当然だが。

「ふふ、お近づきの印に今日は私がごちそうするわ」

「は? いやいや、そんな悪いって。俺自分の分は自分で……」

「いいのよ、私に任せて」

 ナギがそっと俺の手を握って来る。若干頬が上気しているような気がするのは気のせいだろうか。……気のせいだといいな。

 この手に包含された意味とは一体何なんだろうか。考えたくもないことだったが、ここまでのナギの言動とを合わせて考えると答えは明白だった。

「ねえ、健斗。今度のお休みって予定あるかしら?」

「よ、予定……? いや特には決まってないが」

 それをさっき校門で玲と待ち合わせして決めようと思っていたのだ。このところ、俺と玲はデートらしいデートをしていなかったら。まあ夏休みの間に結構遊んだんだけどな。

「だったら、二人でどこかへお出かけしないかしら?」

「おで……かけ? ええと、一体どこに?」

「どこでもいいわ。私、まだ引っ越してきたばかりでこの町のこと何にも知らないの。案内してくれると嬉しいわ。……できれば二人きりで」

「案内するのはいいけど……二人きりである必要がどこにあるんだ?」

「もう、意地悪なのね」

 ナギがもじもじとしている。意地悪……というか本当によくわからないんだが。何が言いたいんだこいつは。いや、言いたいことはわかるけども。

「え、えーと……玲も来るよな? 九条や真人たちも誘おう。人数は多い方が楽しいだろうし」

「えー……まあ、健斗がそこまで言うのなら」

「わ、悪いな……」

 なぜ俺が謝っているのだろう。不思議に思ったが今はあまり深く考えないことにした。

 それより隣に座る玲の圧がすごい。俺、ぺしゃんこになるんじゃないだろうかというほどだ。

「んん? どうしたのかしら、玲? そんなに怖い顔しちゃって」

「……ねぇナギ。いい加減その手を離したらどう?」

「えー、いいじゃない。別に減るものじゃないんだしぃ」

「だめだよ。公共の場なんだから。TPОって知ってる?」

「はいはい。わかったわよ」

 玲に言われても、やれやれといった様子で俺の手から自分の手を離すナギ。

 玲には言えないけど、ナギの手は男とは思えないほど華奢ですべすべだった。……玲と握り合っている時と同じくらい気持ちよかった。

 とはいえ、男は男だ。ずっと握っていられるものじゃない。

 それはさておきだ。玲とナギ、二人の間に妙な火花が散っていた。

 こ、こええ。うっ……腹が痛くなってきた。

 生クリームを食べ過ぎたのだろうか。ぐるるるる、と腹の底から嫌な音が鳴る。

「……ちょっとトイレ」

 俺は席を立ち、店員にトイレの場所を訊ねる。教えてもらった通りに進んで、トイレの中へと入っていく。

 おそらくこの店のメインターゲットは女性客だろう。けど、男性客がまったくいないわけではなさそうだ。男子トイレがあって助かった。

「……あー、きつかった」

 何がとは言わないが。

 それにしても、仲よかったと思ったのだが。あの二人。

 実は仲が悪いのか? イケメンと美少女なのに。

 あの二人が並んで歩いている様を想像して、嫉妬より先にしっくりこない感じがする。

 何だろう……ただ友達とショッピングに行っている様子しか思い起こせない。

 まあナギはああだしな。俺との恋敵というよりは玲と友達といった雰囲気の方がしっくりくる。

 俺はそろそろ胸の奥がもやもやしてきたので、本格的にパンケーキを突く手を止めた。

 だめだ。俺はこれを感触できそうにない。

 なんでここの店主はこんな派手なだなだけのパンケーキなんて出してるんだろう。

 フォークを投げ捨て、椅子の背もたれに思い切り体重を預ける。

「どうしたのよ、健斗? もうギブアップ?」

「ああ。もうだめだ。一口も喰えねぇ」

「だったら私がもらってもいいかしら? もったいなし」

「ああ、いいぞ。つかおまえ、自分のも喰ってよく入るな」

「ふふ、甘い物は大好きだから」

 ナギは微笑みながら、俺の前にある皿を取ろうとした。

 が、ナギが皿を掴み、手を引っ込めるより先に玲の手が伸びてくる。

 ひったくるようにして、ナギが皿を掴むより先に自分の前に持って行った。

「……あらぁ? 何をするのかしら、玲?」

「それはこっちの台詞だから。ナギこそ一体どういうつもり?」

「どういうってそんなの決まってるわ。健斗はもう食べられないようだし、残したら勿体ないから食べてあげるの」

「それなら、私がやるわ」

「でも大丈夫? 玲のそれ、結構な量あったんじゃない?」

「それはナギだって同じはずだよ。それに私、結構食べる方だから」

「それは私だって同じよぉ。もう超食べるんだから、こう見えて」

 バチバチバチバチ、と二人の間で火花が散る。

 俺は自分の行った軽率な行動を思い起こして、反省した。

 あーあ、やっちまったなぁ。

 二人は存外仲がいい。ナギが一週間前に転校してきて、玲とナギが話すようになって数時間。

 たったそれだけの時間でこれほど仲がよくなったのだから、快挙と言っても差し支えないだろう。

 だけど、それはそれとして二人どういう理屈でか、時折仲の悪い時がある。

 果たしてそれはなぜなのか、俺にはわからなかった。皆目見当もつかない。

「いいから離して。これは私が食べるから」

「いいえ、私が頂くわ。何せ健斗の残りなんだから」

「…………」

「何を言っているの、変なこと言わないで」

 健斗の残りだから……その言葉を聞いて、ぞわっとした。なぜだろう。たぶんナギとしてはそれほど意味のある言葉じゃあなかったんだろうけど、なんかすごく嫌だ。

 それから二、三分ほど二人の様子を見守っていた。

 が、ケンカが収束することはなく、次第に高まっていく。

 二人の攻防はエスカレートし、吐き出す言葉に罵詈雑言が混じるようになっていた。

「バーカバーカ!」

「おチビ、貧乳!」

「なっ……あなただってそうでしょ!」

「私は性別的には男よ」

「ぐっ……どうせ大して恋愛経験もないんでしょ、処女道程が!」

「はぁぁ! ありますぅー、彼氏くらいいたことありますからぁー!」

「嘘ばっかり!」

「嘘じゃないわよ、この――」

「はいストーップ!」

 これ以上好きにさせていたら、何を言い出すかわかったものじゃない。ここは学校でも自分たちのプライベートスペースでもないんだから。

 俺は二人の間に割って入り、二人を軽く小突いた。

「い、いたーい、何するの、健斗」

「そうよ、何よ。大体この女悪いでしょう」

「はぁぁ? 何言っちゃってくれてんの、あんたが……」

「何よ、あなたが……」

「ほら、そこまでだ。他のお客さんが見てるだろ」

 俺は親指でくいっと背後の席を指さす。と、それでようやく我に返ったらしい玲とナギが気恥ずかしそうにしゅんとなる。いや、もうちょっと早く冷静になってくれ。

 俺ははぁとと溜息を吐くと、食べかけのパンケーキを自分の前に持ってきた。

「え? 健斗?」

「何をする気なの?」

 玲とナギが疑問符を顔いっぱいに広げる。そんな二人を尻目に、俺は再びフォークを手にした。意を決して口の中へ掻き込む。

「け、健斗? ちょ、何して……」

「そうよ、無理はしないでちょうだい!」

 玲とナギが慌てたように言ってくる。が、俺は喰うのをやめるつもりない。

 これが原因で二人はケンカになった。だったら、ケンカの原因は取り除くのは当然だ。

 うえっぷ、と吐きそうになりながら、パンケーキを平らげていく。どういうメカニズムなのか、目の端に涙が溜まってきた。

 でも、もう少しだ。

「健斗、だめ。具合悪くなっちゃうよ!」

 玲たちの制止も聞かず、皿の上のものを平らげる。

 くっ……やっと、完食だ。

 俺はフォークを放り出すと、崩れ落ちるようにして椅子の背もたれに寄りかかった。

 

 

 

 もうしばらく甘い物は食べたくない。

 翌日の朝。登校中の他の生徒に混じって、俺は真人にそう訴えた。

 真人はにやにやと面白がっている様子だ。まったく、他人事だと思って。

「はー、それは大変だったな」

 ……こいつ、まじで殴り倒してやろうか。

「……大変だったなんてもんじゃねぇよ。何だってんだ、あの二人は」

 仲がいいんだか悪いんだか、よくわらない。

「しっかしその話を聞くだに、亜城渚ってのは面白い奴だな」

「面白くなんてないさ。何考えてんのかよくわからない奴だよ」

「わっかりやすいじゃねぇか。そりゃあコイだ」

「突然関係のない話を持ち出すなよ。なんで淡水魚なんだ」

「そっちの鯉じゃねぇよ。恋だ恋。恋する乙女だってんだよ、亜城は」

「恋する乙女って……ナギは男だぞ?」

 まあそれに関しては今更問題にするようなことじゃあない。

 問題は他にあった。

「それに俺は彼女がいる」

「それ、あいつに伝えたのか?」

「伝えったって……玲のことをか?」

「あったりめぇだろ。じゃなかったらこんな話しねぇよ」

「……ええと、どうだったかな」

 玲と俺の関係をナギに伝えただろうか。

 俺は上空を見上げ、自分の記憶を探る。

 伝えた………………という記憶はない。言う必要もなく、また機会もなかったからな。

「……仮にナギが俺に惚れていると仮定しよう」

「仮定じゃなく、十中八九そうだと俺は思うぜ。おまえの話を聞く限りだけどな」

「それについては今は置いておこう。仮にあいつが俺に惚れているのだとして」

 俺はあごに手を添え、困惑とともに遠くを見やった。

「……どうしてだ? どうしてナギは俺を好きになるんだ?」

 そんなイベントが起こったという事実はない。実際に俺とナギは三日前に初めて会った。

 それ以前に会っていたというのは絶対にない。まして前世で恋人どうしだったという設定も皆無だ。

 そんなナギが俺のことを好き? 冗談にもほどがある。

 俺がこんあ言葉を使うのはちゃんちゃらおかしいが、論理的じゃあない。

「どうして信じられないんだ?」

「だって俺はナギとそれほど長く一緒にはいなかった」

「おまえ、桜木の時もそうだったのか?」

「は?」

「前におまえ、俺に話したことがあったな。桜木との馴れ初め」

「あれはおまえが無理矢理話させたんだろうが。話すまで俺の部屋から出ねぇって言って」

「そうだったか? よく覚えてねぇが、まあ今はどうだっていいだろう」

「この野郎……」

 真人の言い分はだいぶ腹が立った。が、真人の言う通りだ。

 今はどうだっていい。今話題にするべきなのは玲と……ナギだ。

 ナギ……亜城渚。あいつに対しての俺の態度だ。

「ま、そう深刻に考えるな」

「はぁ? そんなわけにいくかよ」

 だって、もし真人の言っていることが本当なら、それは叶わない恋だからだ。

 男だから、というのはもちろんある。が、それが大した問題かと言えば、多少苦悩するだろうが、最終的には否と答えるだろう。

 問題はそこではない。……俺はナギの気持ちには答えてやれない。

 俺は、俺には玲がいる。好きな人がいる。だから……ナギとはどうにもなれない。

「……俺はどうしたらいいんだろうな」

「だから、どうしようもないさ。深刻に考えるな。答えの決まっていることを深刻に考えても無意味だ。無駄な徒労って奴だ」

 真人は両腕を頭の後ろで組んで、珍しく難しい言葉を使った。

 たぶん、俺を励まそうとしてくれているのだろう。

 その気遣いは、率直に言ってありがたかった。

「……ああ、そうだな」

 だから、俺はその場では頷いておいた。真人の言い分は、きっと正しいのだと思う。

 けど、別の角度から見た時、本当に正しいことだと俺は思うだろうか。

 もやもやとした霧のようなものが俺の胸中を満たしている。

 どうしたら、あいつにちゃんと、してやれるだろう……なんてことを考えていた。

 

 

 

 昼休み。俺はぼけーっと呆けていた。

 図書室の角の一席。誰も俺の隣に座ろうとはしない。たぶん、俺がさっきから一人にしてくれオーラを出しているからだろう。

 別に騒いでいるわけではないのだから、図書委員も司書の先生も注意なんてしない。俺はずっと一人で考えに耽ることができていた。

 焦点の合わない視線を天井付近にさまよわせ、あほみたいに大口を開けて考える。

 俺と玲とナギのこと。ナギの気持ちはどこにあるのかを。

 どうしたら、みんなが納得できる結論に至れるのかを。

「あらあらあらあら」

 そんな柄にもないことを思案していると、右側から聞き知った声が聞こえてきた。

「ずいぶんと腑抜け顔の人物がいらっしゃると思ったら、あなたでしたか、石宮さん」

「……九条、どうしてここに?」

「何をおっしゃいますやら。わたくし、ここの常連なんですのよ」

「へー、そいつは知らなかったな」

 こいつがそんなに本好きだったとは。……ああ、うちの学校ラノベも置いてあるだっけ? 普段図書室なんて授業の一環でしか利用しないものだから、忘れていた。

「おまえなら既刊全部買えるだろ。わざわざ買わなくても」

「お父様はそんなことを許しにならないから」

「あっ……」

 そうだった。こいつの親はすごく厳しんだった。話は聞いていたが、今までそんな素振りは少しもなかったから忘れていた。

 家にはオタク関連グッズはなく、こいつ自身周りに自分の素性を隠している。

 俺や玲など、数人を除いては。

「ま、そんなわけでわたくしはこうして図書室に通っているわけですわ」

「……大変だな、おまえも」

「まぁ今に始まった事ではありませんから。気になど致しませんわ」

 九条はなんでもないことのように言う。けど、それはたぶん九条の強がりだ。

 好きなものを好きだと言えない。それがどんなにつらいことか、俺には想像できなかった。

「……なぁ九条、おまえも大変なのはわかっている。けど、ちょっといいか?」

「なんですの?」

「相談に乗ってほしいんだ」

「相談? ……まぁあなたがそうおっしゃるのであれば、微力ながら」

「微力ながらって」

 今日日、そんなこと言う女子高生なんていないだろ。

 俺は口の端に笑みを浮かべ、苦笑した。

「なっ……お笑いになりましたわね! もうご相談とやらはお聞きしませんわよ!」

「わ、悪い悪い……俺が悪かったよ」

 俺たちが騒いでいると、司書の先生がしーっと口元に指を当てていた。

 さすがに騒ぎ過ぎたようである。

 俺と九条はすみませんと小声で謝ると、九条のためにすっと椅子を引く。

 まぁ座れよと目だけで訴えてみる。俺が視線に込めた意味が通じたのか、九条は俺の隣に座り、ぱらぱらと手にしていたラノベを開いた。

「それで、ご相談というのは」

「これは……まぁなんだ、俺の友達の話なんだけど」

「へー、そうですの」

 九条が興味なさそうに呟く。なんだよ、さっきは「そうおっしゃるのであれば」とか言っていたくせに。

 俺は九条の態度の変化にむっとしつつも、先を話した。

「俺の友達はさ、彼女がいるんだ」

「そうですの」

「ああ……でも、他の奴に惚れられちまった」

「それで?」

「でもそいつに彼女がいる。そいつその彼女のことが心の底から好きだ。だから彼女のことを裏切れないと思っている」

「ふーん」

「でも、それをそのまま伝えたら相手のことを傷つける結果になるのは明白だ」

「…………だから、どうしようと?」

「ああ……そいつはどうしたらいいと思う?」

「そうですわね……まぁわたくしにはわかりませんけど」

「……はぁ?」

 相談に、乗ってくれるんじゃなかったのかよ。

「わたくしは恋愛なんてしてことなかったですもの。そして、これからもしませんわ」

「何言って……わかんねぇだろ、そんなこと」

「わかりますわよ。だってわたくしには……」

 九条はそこで言葉を切った。それ以上のことは言えないというように、きゅっと唇を結ぶ。

「……何であれ、わたくしにそんなラノベ主人公的な悩みを解決する妙案なんてありませんわ」

「まっ……そうだよな、普通」

 ラノベ主人公的かどうかは知らないけど。それでも、こんなアブノーマルな悩みを持つ奴、そうそういるもんじゃない。

 答えなんて持ち合わせてないのが普通だろう。

「悪かったな。後図書室は俺には似合わないからやっぱどっか行くわ」

「ええ、あなたにはまったくお似合いではありませんわ」

「悪かったよ。……それより九条」

「なんですの?」

「ありがとな、話聞いてくれて」

「……大したことはありませんわ」

 九条が一瞬驚いたような顔をした。……ような気がするが、すぐに本へと視線を戻してしまったので実際のところはわからない。

 なんであれ、他人に話せたのはよかった。つい友達のこと、なんて嘘言っちまったのは反省だけど。

「九条」

 呼んでみたが、聞こえていないのか九条は頭を上げる気配がない。

 もう小説の世界へ没頭してしまったようだ。邪魔するのも悪い。

 玲や真人たちに昼飯に誘われていたから、九条も誘おうと思ったのだが。まぁそれはまたの機会でいいか。

 俺は図書室を出ると、パンと頬を張った。

「ッしゃあ!」

 何としても、玲とナギのことに決着を付けなくてはならない。そう感じていた。

 だから今日、実行する。絶対に、だ。

 

 

 

 そして放課後。体育館裏は、誰もいない。

 ここなら、ゆっくり話ができそうだ。

「……何かしら? こんなところに呼び出して」

 ナギはくねっとした体勢で腕を組んでいる。俺を見る目が若干きらめいていた。ような気がする。

 俺はどうしたものかと首を捻った。

 ナギを呼び出したはいいものの、果たして一体何と切り出したものか。

 困ったなぁ……と思いつつ、周囲を見回す。眼下ではちょうど、野球部の女子マネージャーとエースが何か話しているところだった。何を話しているのだろう。

「……用がないのなら帰っていいかしら?」

「ま、待ってくれ! 用ならあるんだ」

「……何?」

 ナギは真っ直ぐに俺を見てくる。俺はその視線がいたたまれなくて、目を逸らした。

「何……というほどのことではないが」

 何と言ったらいいんだ? どういう言い回しをすれば、俺はこいつを傷つけずに済む?

 頭の中でそんな問答が繰り返される。それでも答えを出す事はできず、俺はまた押し黙ってしまう。

「はぁ……あなたは一体何がしたいのよ?」

「ははははは……自分でもよくわからなかったりする」

 本当だ。俺は何がしたいんだろうな。どんな言葉をナギにかけてやりたいんだろうな。

 自分でも自分がよくわからなくなる。どうしたらいいのか。

 考えあぐねた結果、俺はふぅーっと息を吐いた。

 どうせ俺にうまい言い方なんてできるはずがない。なら、もう直球でいくしかない。

「……おまえ、俺のことが好きなのか?」

「……どうしてそう思うの?」

「まぁ……なんとなく?」

 本当は真人がそう言っていた、という曖昧な根拠しかない。

 けど、本当だとしたら、俺は……。

 俺は自分の考えを否定してほしいと思った。

 ナギはいい奴だ。だから、これからも友達でいたいと思う。

 男か女かなんてのはこの際些末な問題だ。ナギとの関係を維持するためにも、ここは否と言ってほしかった。

「……ええそうよ。私はあなたが好きよ。それも恋愛感情……女が男に抱くそれと同種のもの」

「……そうか」

 やはりそうか。真人の勘は当たっていたのだ。

 俺は内心で真人すげーと思いつつ、会話を続ける。

「それを聞いてどうしようというの?」

「話を……しておかなくちゃいけないと思って」

「話? 私たちの間で話すようなことなんてないでしょう?」

「それは……」

 そんなことはない。と言えたなら、どんなに楽だっただろう。

 けど、俺には玲がいる。玲のことが好きだから、今更他の奴と付き合うなんて考えられなかった。

 男だろうが、女だろうが、だ。

「……ま、でも私の気持ちがバレてる以上、もうここにはいられないわね」

「転校……するのか?」

「まさか。そんなに簡単にほいほい学校を変われるわけがないでしょう?」

 ナギが苦笑する。本当に困ったように。

「俺は……おまえのことが好きだ。でも、俺の言ってる好きってのは」

「わかってるわ。ありがとう。……あなたには玲がいるものね」

「……わかってたのか?」

「当然よ」

 何でもお見通しだ、という顔でナギが眼下を見る。俺もつられてそちらを見た。

 さっきの女子マネージャーとエースがいた。まだ何かを話している。楽しそうにして。

「私は男よ。心は女だなんて、そんなことをどれだけ言ったとしても、世間はそれを受け入れない。……最初から不利なのは承知していたわ」

「それは……その」

「でも、あなたは違うのね」

 ナギがこちらを見ないまま、独り言のように呟く。

 どういう意味なのだろう。どうしてそんなふうに俺のことを評価できるのだろう。

 俺はよくわからないまま、首を捻った。

「どういう……ことだ」

「前の学校でね、私好きだった人がいたの。でも、その人に告白したら、なんて言われたと思う?」

「……わからない」

「でしょうね」

 ナギの寂しげ横顔に、ちくりと胸が痛んだ。

「……気持ち悪いって言われたわ。当然よ。だって男が男を好きになるなんて、常識的ではないでしょう?」

 そう言って無理に笑おうとするナギ。俺は全身に怒りが込み上げてきた。

 ナギを振ったというその男を、一発ぶん殴ってやりたくなった。

 でも、それはできない。……してはならない。

「あなたはこんな私の気持ちを正面から受け止めようとしてくれた。例え恋人にはなれなくても、私のことを好きだと言ってくれた。それで十分よ」

「……悪い」

「謝らないで。……ほんと、素敵な人。玲が好きになるのもわかるわ」

「おまえは……いつから俺たちのことに気づいていたんだ?」

「最初に二人で会った時からよ。でも、確信を持ったのは昨日。三人でケーキを食べに行った時ね」

「は? あの場面で?」

 ええ、とナギは頷く。女子マネとエースの距離がさっきより近くなった気がする。

「あなたの残したパンケーキを私が食べると言ったら、玲は嫉妬して私が食べると言ったのよ」

「あ、ああ……そう、だったな」

 あれは露骨だっただろうな。別に隠しているわけじゃあないからいいけど。

「それで確信したの。ああ、この二人の間に割って入るのは不可能なんだって」

「え? でもあの時は結局……」

「……もういいでしょう、この話は」

 ナギはつらそうに目を細めた。口元は笑っていたが、それが作り笑顔だとすぐにわかった。

「……ああ、そうだな」

「私、先に帰るわ。……悪いけど」

「いや、俺の方こそ変な話をしたな。悪かった」

「だから、謝らないでよ」

 ひらひらと手を振って、ナギが姿を消す。俺はふぅーっと吐息して、再び眼下を見やった。

 ナギにひどいことをした、という自覚はある。けど、俺はどうやったってあいつの気持ちには答えてやれない。

 それはあいつが男だから……というのもちろんある。

 けど、あいつが男じゃなくったって無理だっただろう。

 俺には玲がいるから。では、もし玲がいなかったら?

「……考えたくもない」

 それに、もしもなんて考えるのはばかばかしいことだ。

 だだっ広いグラウンドの隅っこで、さっきの女子マネとエースがキスをしていた。

 まったく、ここをどこだと思ってるんだって話だ。

 俺は彼らから背を向けて、歩き出す。

 そろそろいいだろうからな。と思っていると、案の定ナギの姿はどこにもなかった。

 ほっとする反面、罪悪感が胸の中で渦巻く。……もっといい言い方があったはずだ。

 それを思いつけなかった俺は、やっぱばか野郎だ。

 そんなことを考えながら、俺はとぼとぼと帰路に就くのだった。


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