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五十一話

蓮華SIDE


へれなに思春を付けた次の日、朝早く宿を出ていつものように豪族たちの屋敷を廻ったけど、心の片隅ではへれなのことが気になって仕方がなかった。


『もうお願いしません』


その一言が脳に染みて離れなかった。へれなは自分の言うことを聞いてくれなかった私に失望したのだろうか。だとしても公私は区分けをつけるべきだった。へれなだってそれは判ってくれていたはず。やっぱり間接的であれ、自分に関係のある場所という所が響いたのだろうか。朝出かける時も普通に見送ってくれたへれなだったけど、私は怖かった。今回の件でへれなが私のことを嫌ってしまっているのではないかって。


予定を縮めて早く帰りたいのをぐっと我慢して夕暮れの時帰ってきたら、へれなは酔い潰れて寝てしまっていた。


「思春、これはどういうことなの」

「酒が弱かったらしく、果実酒一瓶であんな様子に…」

「へれながお酒を?誰かに勧められたわけでもなくて?」

「はい、自分で求めて一人で飲み干しました」


へれなはここに来て一度も酒を呑みたいと言ったことがなかった。おそらく孤児院の先生という、いつも子供たちに囲まれている環境だから酒を飲むことがあまりなかっただろう。そんなへれなが自ら酒を求めて、しかも昼間から飲み潰れたのだ。私たちには言わないけど、昨日のことがどれだけ大きな負担になったのか本人の口から聞かずとも判った。


「思春、起きたらちゃんと介抱してあげてちょうだい」

「御意」


私はそれ以上詳しく聞かずに自室に戻った。付いてきた明命も、流石に不味いと思ったのか不安そうに私を見つめた。


「蓮華さま、やはり土地の持ち主が誰なのかぐらいだけでも調べた方がいいのではないでしょうか」

「調べてどうするの?いや、調べたってだけでもその相手には私が圧力をかけていることになるわ。私は軍を代表してここに来ている身。私情を挟んでは駄目なのよ」

「ですが、へれな様があんなに取り乱しています。相当ご傷心なさったみたいですけど」

「なんと言ってもこれは駄目。私だって譲れない一線はあるのよ」


へれなの事は好きだけど、こればかりは私が踏み入れて良い領域ではなかった。


「これでへれなが私に失望したとしても仕方がないわ。あそこは今の私たちとは関係のない場所よ。今私たちには、それよりももっと重要な使命があるのだから」


今は孫策軍が再び江東に戻れるか否かを決める大切な場面。城外に建ってる孤児院の揉め事など些細な問題だった。そんなものに目を引かれて大局に関わる大事を無駄にしてはならない。


「孤児院の件は私からは触れないわ。あなたもこの件に関してはもう何も言わないでちょうだい」

「…はい、分かりました」


口ではそう答える明命だったけど、やっぱりへれなのことが気になる様子だった。もちろんそれは私も一緒だった。そもそもへれなと友達になるためにあれだけ苦労したのだ。こんなことでまた仲が悪くなるのは私が望んでいることではなかった。それでも私は軍のことを優先しなければならなかった。


<pf>


へれなが酔い潰れた様子を見てから更に三日ぐらいが経つとある夜、突如魯子敬から直ぐに密かに会いたいと伝言が来た。外はもう薄暗くなっていた。今日は空も曇っていて、夜になると月光もあまりないだろう。隠密に人に会うにはもってこいの夜だった。


「こんな時間に呼ぶということは何か急に計画に狂いができたのかしら」


魯子敬とはあの日会った以来まだ一度も会っていなかった。江東の豪族たちからよりも、もしあるかもしれない冥琳からの間者から、魯子敬が私と特別に緊密な関係だと思われたくなかったからだった。魯子敬もそれは判っているはずだからこんな時間に呼んでいるのだろう。


「とにかく行ってみましょう。至急な問題かもしれないし。明命」

「はい」


外が完全に暗くなるのを待ち、明命と再び出かける準備を済ませた私は門をくぐり抜けた。


「蓮華さま、またお出かけになるのですか」


すると、丁度廊下に思春が立っていた。彼女の手に盥にお湯と、中に濡れた手拭いが入っていた。


「思春、へれなの様子はどう?」


折悪しくへれなは酔い潰れた次の日から熱が出始めて寝床から出られずに居た。私と明命も思春と一緒にへれなの看病を手伝おうと思ったけど、へれなは自分のせいで私の仕事を疎かにしてはいけないと、思春一人だけで十分だと言って、風邪が感染ると大変だと言って私たちを部屋に入れてもくれなかった。


「ひとまず熱を下げる薬を呑んでいますが、熱が下がる様子はありません。医員はまだ様子を見るようにと言っていました」

「そんな……」


まさか風土病も類ではないだろうか。自分が住んでいた所とは違う環境や飲食、特に水を飲み間違えれば体には致命的だった。一番効果的な方法は故郷に戻って休むことだがへれなの場合それすらも不可能だった。私との揉め事で精神的に弱っている所に病が差し込んで来たのなら……。


「思春、やはり私たが少し…」

「恐れながら感染る病気である可能性もあります。今は蓮華さまや孫家において大事な時期。蓮華さままで病気になったとなれば大変です」


私はへれなにまた会おうとしたけど、思春はそれを許してくれなかった。私を病から遠ざけようとしているのだったけど、一人で苦しんでいるだろうへれなを考えると心配で魯子敬に会えそうにもなかった。


「ちょっと顔を見るだけでも良いから…お願い」

「これはへれな本人の意思でもあります」

「へれなが…?」

「はい、蓮華さまがまだ軍のために頑張っていらっしゃる時期に、自分の病のせいで邪魔になってはならない、と。ですから、どうか蓮華さまは仕事の方に集中してください。彼女が好転したら、直ぐにお伝え致します」

「……」


私はそれ以上何も言えずにへれなの部屋の門を見つめた。あの向こうで苦しんでいるだろうへれなが居た。もし彼女の身に良くないことが起きれば、それは私の責任だった。


「判ったわ。へれなに早く良くなって欲しいと、私が心配してるって伝えて頂戴」

「御意」

「行きましょう、明命」


へれなを思春に任せて私は明命と一緒に魯子敬の所へ向かった。冬でもそれほど寒くない江南のはずなのに、海風のせいか寒さが身を震わせた。


<pf>


いつもの商会ではなく、魯子敬の屋敷に招かれた私たちが彼女の部屋に付いた時はすでに外は真っ暗で、室内の読書用の油灯だけが部屋を灯していた。


「あ、いらっしゃったんですね、仲謀さま。どうぞお座りください」


夜であるせいか、魯子敬の様子は前に会ったよりも少し沈んでいた。


「その様子だと、あなたが言っていた名符とやらがうまく行っていないのかしら」

「いいえ、その件は予定どおりに進めております。今回お越し頂いたのはそれとは全く別の件についてです」

「別の件?」

「以前初めて私の所に来ていただいた時にお供していらした、チョイ・へれなさんという方についてです」

「彼女がどうかしたの?」

「……一体どこでそんな方に出会われたのですか」


魯子敬は普段とても重い話をしている時だって、まるで当たり前のことを言っているようにどこか軽かった。が、今へれなの事を尋ねる時の魯子敬はまるで恐ろしい何かに出くわしたかのように重くて沈んでいるのだった。


「どういう意味かしら」

「三日前、呂範さんの屋敷に訪れた時のことです。彼に仲謀さまの側につ…失礼、孫家に忠誠を使うようにと勧誘しに行きました。その話はうまく行ったのですが、話が終わる頃、あの方が外で呂範さんを待っていると言うではありませんか。それで私が迎えるように勧めました」


へれなが…自分で豪族を会いに?私はへれなが孤児院の問題に関して豪族たちに声をかけたのかという考えに至った。


「へれながそんなことをしていたなんて知らなかったわ。三日前に昼に酔い潰れた後、熱を上げて療養中だったからここ数日会っていないのだけど…何かあなた達に不都合なことでも言ったのかしら」

「不都合なこと…という言い方にしたらある意味そうかもしれませんね」


そう言った魯子敬は三日前、自分と呂範の前でへれな話した事を全部話してくれた。最後の話を聞いてる時、恥ずかしながら私は衝撃を受けた。そんなことも、私には衝撃的だったのだ。


「正直に申し上げます。あの方が仲謀さまとご一緒にいらした時は、私はあの方が単に仲謀さまが江東の外に居る間お会いになった儒学者なのだろうとばかり思っていました。だけどあの方の口から出る言葉は前に話した時の穏やかな言い草ではありませんでした。まるで人が変わったかのように、民を、子供を守れぬ国なら滅んでしまえと呪いの言葉を仰りました。それだけでなく、私たちに向かって、お前らは何を人の事のように話しているのかと、お前たちも同罪だとお叱りなさいました。あの時の気迫と言ったら、長く商人をしていた私さえも震える程でした。決して学問として、民を育むだの、富国強兵だの学んだ人ではできないものでした。本当に彼らの苦しみを知り、彼らの未来を憂い、その人々に目を背ける私たちのような権力を持つ者共には怒りを示す……天の意志が人に化けたとしたら、あんな風になられるではないだろうかと、そう思いました」


私に説明してくれている魯子敬の本人もとても衝撃を受けた様子だった。民を守ることは国が国として成り立つために必ずすべきこと。かつての著名な思想家たちは方法は違えど誰もがそれを言ってきた。もう耳が痛いほどたくさん聞いた話だった。でも、その話を誰でもなく普段はあれだけ穏やかなへれなが、それも私でもない他の人に言ったことが私には衝撃だった。


あれこれ、誤解で仲があまり良くなかった時間を除いても、へれなと一緒に居て一ヶ月ほどが経った。私はへれなにあっちの世界のことを教えてほしいとお願いした。確かにへれなは今まで私が見てきた人柄とは違っていて、ただ一緒に居てその言動を見るだけでも彼女のこと、引いては彼女のいた世界のことを見ることができた。だけど彼女から積極的にわたしに何かを教えてくれたり、自分の考えを言ってくれたことはほぼなかった。


もちろん、これには私の責任もあった。へれなと一緒にいるとは言え、明命が来る前でも大体の時間を江東の豪族たちを会いに歩き回って、宿に戻ると疲れている私にへれなは他に難しいことは言わず私を癒やすために膝を貸してくれるだけだった。私もそんなへれなの配慮がいつもありがたかった。だけど私にもうちょっと向上心があったなら、もっとへれなに強く教えを乞うべきだった。


へれなは優しいから私の気に障りそうなことは必ずしも必要でない限りしないようにしていた。だけどそういうものこそが私がへれなに言って欲しいとお願いしたものだった。この世界の人々からは聞けない思想、詭弁、突発な行動。そういうものこそが私が望んでいたことだった。北郷一刀、あの男が言っていたようなそんなものを、へれなからも聞きたかった。


だけど北郷一刀とは違って、へれなは優しすぎた。だからあの夜にも私の前ではそれ以上何も言わなかったんだ。私が傷つくから。これ以上苦労するのを見たくないから。へれなは北郷一刀ではなかった。へれなはへれなで、とても優しく、だからと言って自分の考えを曲げるような弱い人でもなかった。


なら弱いのは私だ。私が弱いから、へれなは言ってくれなかったのだ。私が弱いからへれなは私に頼ってくれなかったのだ。頼りないから、へれなは私に頼らず自分でなんとかしようとしたのだ。私は自分が何でも聞き入れる準備ができていると勝手に思い込んでいたけど、彼女が見るには違ったのだ。彼女が見る私は違ったのだ。


私は……。


「複雑な気分です」


魯子敬は自嘲的に笑いながら言った。


「仲謀さまがそんな人を近くに置くということは、その人を大切に思ってるという事でしょう。きっとその人のせいで仲謀さまは色んな危険に迫るはずです。ですから私としてはそういう人を近くに置くのは危ないと申し上げたいのですが、同時にそんな人が仲謀さまの側にいるべきだとも思います。そんな人を近くに置けてこそこの乱世から江東を守れる王になれるのではないかとも思ってしまいました」

「結局、私を呼んだ用件はなんだったの?単にあなたが彼女の叱咤を受けたって自慢するために?」

「自慢ですか。今の仲謀さまはそんな風に感じられるのですね。本当に知りたかったのです。その人が一体誰なのかを」

「……」


どの道、へれなの事はどんな形であれ有名になってもらいたいと思っていた。今がいい機会かもしれない。


「あなたの言った通り、本当に天の意志であると言ったらどう?」

「それは、なんとも信じがたい話ですね」

「だけど事実よ。連合軍の話を耳にしたはずでしょう。そしてその場で連合軍の諸侯たちを皆黙らせたたった一人の男の話……」

「……耳にはしていました。とても信じがたい話でしたね。もしそのようなことが可能な男が本当にいるのだとしたら、天下の混乱がどれだけ深まるものか」

「そうかもね。だけど、その男は実在するし、私の目で見たわ。そしてへれなもまた、あの男のように天から降りた使者で間違いないわ。他はなんと言うかしらないけど、私はそう信じている」

「たった一人の人間を天として拝むことはとても危険なことです、仲謀さま」

「もちろん判っているわ。だけどへれなは私を誑かす人間ではないわ。もしそうだとすれば彼女が自らあなた達を説得しに、しかも私の名出さないようにあれだけ頑張ってやっていたはずはないでしょう」


だから今更へれなの意中と知った所で、私が豪族たちを圧迫することはできない。そんなことをすればへれなはこれから天女ではなく、孫家の姫を誑かす魔女として貴族たちに噂されるだろう。


「今日県庁に連絡を入れて、例の孤児院の土地に関して調べました。すると、まだ最終契約書には判を押していなかったそうで…呂範さんが手中にお金が足らず、土地の金額の半分を先に出して、残りはその土地を運用する収益で賄うような契約だったそうです。県でも財政が厳しかったのかそうしてでも売るべきか悩んでいたそうですが…なら私がその倍を出して買い取ろうと申し込んだら即刻その場で売買契約書の公証まで済ませてくださいました」

「魯子敬!」

「安い金額では決してなかったのですが、後生のだめの投資だと思って思い切ってみました。商人とは時には誰も行ったことのない道も通ってみるものですからね。もちろんそれだけじゃあ足りないことが多いので、今後も色々と準備するつもりですが、何分こういう善行とやらには疎い低劣な商人でして…以後もへれなさんの知恵をお借りしようと思っております」

「……駄目よ。そんなこと私が許さないわ」


魯子敬は既に私に色々と贔屓してくれている豪族だった。政治的な手伝いはまだ良しとしても、これだけ大量な財産をぽんと出すとなると、他の豪族たちからも、軍からも何か裏があるのだと思われるのは必然だった。それだとへれなの意図がどれだけ良いものだとしてもその意味が薄れてしまう。


「仲謀さまが思っていらっしゃることはだいたい察しがつきます。ですが仲謀さまは少し勘違いをなさっているのかもしれません」

「どういうこと?」

「私がこの問題について悩んだのは確かにへれなさんの叱咤を聞いてからなのですが、私がお金を出そうと決めた理由は他にあるのです。アレを持って来てください」


魯子敬が合図をすると、外から部屋の門を開いて使用人の一人が何かを押してきた。


それはへれなの車椅子だった。


「んなっ!」


私は思わず立ち上がった。何故アレが今ここにいるの?


「へれなさんも私たちにあんなことを言って悩まれたのでしょう。ご自分が口ばかりの理想家ではない事を示すために、アレを私に送ったのです。そしてこれはあの車椅子と共に来たへれなさんからの手紙です」


そう言った魯子敬は懐から手紙を一通出した。手紙を開くと、思春の書体でこんな内容が書かれていた。


『先日はどうも失礼致しました。他郷での慣れない生活が長引いたせいか無礼な言い方をしてしまいました。ですがわたしは自分が言った言葉には謝るつもりがありません。例え血が登ってしまっていたとは言っても、わたしは自分が間違ったことを言ったとは思っていません。ただその意見に同意し難い方々の前であんな風を言ってしまったことを後悔しています。ですが言葉だけではどうしてもあの子供たちを助けることが出来なかったので、僭越ながら別の形で魯粛さんにお願いがあります。一緒に送られる物、ご存知の通りわたしがいつも載っている車椅子です。お調べになるとお判りになるだろうと思いますが、この大陸では作れない素材で作られていて、実用性、希少性とも申し分がないと思っています。魯粛さんは商人さんですから、こういった品を収集する裕福な方々もご存知かと思いますので、もし良い引取先があればそれを売ってあの孤児院の子供たちに送ってください。しばらくの間でも生きられる足しに使ってくれればと思います。約束を守れなくてごめんなさいともお伝え下さい。この車椅子は今の私にとって全財産です。他にわたしが持っているものは着ている服だけです。これが、私があの場で言ったことがただの口ばかりのお話ではなかったという証明になれたのであれば、魯粛さんからも、少しだけでも良いので、あの子たちにではなくても良いので、この国で頼れる所もなく希望も失った苦しむ人々のために使ってください。


体調を崩してしまって、直接お渡しできないことお詫び申し上げます』


もう……なんだろうか。悔しいのも、申し訳ないのも通り越して……。


「流石に、ここまでされるともうお手上げでした」

「……そう」

「車椅子はこのまま仲謀さまにお返ししようと思います。へれなさんのお気持ちは十分伝わりましたから」

「いいえ、そうは行かないわ」

「ひゃわ?」


・・・


・・



<pf>


へれなSIDE


熱が出ると言って部屋に引き籠もって三日目でした。


「いい加減、蓮華さまに正直に言ったらどうだ?」

「……」


お湯と布で室内で体を洗うのを手伝ってくれたコウハさんが布を絞りながらベッドで寝ている私に言いました。


「私も蓮華さまに嘘をつくのが厳しくなって来ている。別に時間を稼いだ所でやった椅子は帰って来ないぞ」

「そんなの判ってますよ……」


酔い潰れた次の日、熱を出して倒れた所までは本当でした。でも寝ている間考えた結果、熱で朦朧としていたせいなのか「そうだ、車椅子を売ろう」という結論に到達して次の日に取り返しのつかないことをやってしまいました。はい。


「あ、そういえばさっき蓮華さまがまた外で出られたな」

「こんな真夜中なのにですか」

「こんな夜中に人に見つからず蓮華さまに会いたい者と言えば……」

「……はっ!まさかレンファの隠した彼し…ぶわっ!」


冗談のつもりで言ったのにコウハさんから濡れた布が飛んできました。


「おそらく魯子敬の所に招かれたのだろう。理由は言わずとも判るな」


あ、そりゃそうですね。あんなことしちゃいましたし、ロシュクさんからレンファに伝えちゃいますよね。


「コウハさん、私、どうしましょう」

「知らん」

「冷たい……」


私の味方をする娘が誰もいない。もう寝る……。


咄嗟にレンファが部屋の門をダンと開けて来たのはその時でした。


「ふぁっ!レンファ?」

「思春、出ていって。明命、あなたもよ」

「蓮華さ…」

「異論は認めないわ!」


レンファの気迫にコウハさんも怯んで、私をちらっと見た後扉の方に向かいました。


レンファの顔を見ると、口は内側から唇を噛んでいて、顔は茶色く焦げた肌の上でも判るぐらい真っ赤になっていました。後ろのミンメイの様子を伺うとあっちも表情がとても固かったです。二人とも目からビームとか出ちゃいそうなぐらい睨んでいました。


コウハさんとミンメイが部屋を出て門を閉じると、レンファは更に戸締まりをした後私のベッドの前に来ました。


「えっと……全部、聞いたんですね」

「……」

「隠しちゃってごめんなさ…」

「黙りなさい」

「ひぃっ!」


レンファの威厳が感じ取れる低い声に私は虎の前の獲物のように固まってしまいました。


そしてレンファは椅子もなく床に膝をついて座って私と目線をあわせた後、手を上げては私の二の腕を叩きました。


「っ!」


ちょっと痛くて声が漏れる私に、いつもなら驚いてやめるはずだったレンファはすかさず反対側の手で同じく私を叩きました。もう一度、もう一度。一回ずつ叩くにつれレンファの怒っていた顔は崩れて、睨んでいた目には涙が溢れそうになって、口は泣く音が漏れそうになるのを目一杯我慢しようともっと強く唇を噛んでいました。そんなレンファを見ると私は痛いと訴えることもできずただされるがままに叩かれてるしかありませんでした。


私の行為がレンファのことを傷つけることを考えたことがないわけではありませんでした。レンファが傷つくかもしれないって判っていながらしたことでしたから…こうなっても仕方がありませんでした。殴ってくれて胸が晴れるのならそれで構いませんでした。


しばらくして、もうレンファの叩きが痛くなくなった頃(実はその後も殴られた所が痣になっててちょっと痛かったんですけど)、やっとレンファは殴るのを辞めて涙を流し始めました。それでも声は出さないと意地で我慢していました。私はゆっくりと反対側の腕を伸ばしてレンファの片方の肩を掴みました。最初は私の手を振り払うレンファでしたが、二度、三度続けると抵抗しなくなりました。私はベッドから起きてレンファの前に脚を置き、そのままへれなを抱き寄せました。


「わたしが悪かったです。許してもらえるでしょうか」

「……私がどうして怒ってるか判ってるの?」

「勝手に豪族さんたちに会ったことでしょうか」

「違うわ。別に会ったこと自体は咎めはしないわ。思春だって許したから会って廻ったわけだし。私に言わなかったことはちょっと嫌だけど、それでここまで怒ったりしない」

「じゃあ、相談もしないで車椅子を売り飛ばしちゃったからですか」

「違うわ。それもあるけど…もっと辛いのは他にあるのよ」

「……レンファに頼ってくれなかったから怒ってるのですか」

「近いけど、ちょっと違う」


どうしましょう。もう思い浮かぶ節がありません。まるでチョイさんと喧嘩した後私が怒る時のチョイさんの気分です。


「魯子敬になんて言ったか覚えてる?」


私が黙るとレンファはため息をついて私に聞きました。


「はい」

「彼女に怒ったのは何故なの?」

「わたしは弱くて乏しい人を助けることは強くて豊かな人たちの義務だと思います。自分たちは否定するかもしれませんけど、彼らが今生きているその社会の仕組みに一助している以上、弱った人たちがそうなることに対して、何らかの原因を与えていると思います。私が生きている世界では、法的に人をその国の国民として認めず追い払おうとして、そのせいで多くの子供たちが親を失うか、他の子供たちなら当然報われる福祉や教育から除外されてしまっています。これはその子供たちが悪いわけではなくて、その国がその問題をそう解決することによって他の所で利益があると言って、その子たちを犠牲にしたのです。だからその子供たちを助ける一次的な責任は国に、次に仕組まれた体系のおかげで得をしている人たちにあります」

「……へれな、私が怒っている理由はね。それを理由で私には怒ってくれなかったからよ」

「へ?」


レンファのその答えを私は想像もしていませんでした。


「何を言っているんですか。どうして私がレンファに怒らなきゃ…」

「私は孫呉軍の姫よ。もう直ぐこの江東を牛耳る国、孫呉の王に最も近い肉親であり、あなたの周りで最も国に近い人間。そう、あなたが言った民を守る責任が一番大きい人は、この場で誰でもなく私よ」

「……」

「そんな私にあなたは何も言ってくれなかった。彼らを助けることを言い訳をつけて拒む私に怒らなかった。今みたいな理由があるから助けるべきだって私に話してもくれなかった。ただ私が嫌だと言うから判ったと言っただけ。まるで部屋の掃除を嫌がる子供に仕方がないと代わりに掃除してあげるお母さんみたいに」

「レンファ……」

「最初会った時に言ったはずでしょう。私はあなたに色んなことを教えて貰いたい。あなたに子供扱いしてもらいたくて、ここまで一緒に連れてきたわけではないわ」


そうでした。私が可愛がるのとは裏腹に、レンファは国の頂点に立つ人間の一人でした。年に関係なく、こういう問題に責任を持つべきでした。それにレンファはそんな責任を放棄するほど無責任でも無能でもありませんでした。なのに私はレンファを子供扱いして、無能で頼りない人として見ていたのです。だからレンファは怒っているのでした。


「ごめんなさい、レンファ」

「…判ったなら良いわ。私にだって悪い所があったのだし」

「レンファは何も悪く…」

「それも辞めて」


レンファは指を私の口に当てて黙らせました。


「私はへれなに甘やかされるだけの子供では居られないわ。咎めることがある時は、最初に会った時みたいに怒っていいし、間違ったことをしてるなら止めて欲しい。子供扱いしながら安心させたり、励ますことは必要ないわ」

「……」


前にも言いましたけど、私は頼ってくれる娘たちが居ないと駄目なんです。そのせいでレンファの気分を悪くしてしまう程子供扱いしていたのかもしれません。こんな風になるだろうと予想しているべきでした。


「私がこう言っても、へれなは優しいからきっと私に良いことばかり言って、悪いことは隠そうとするだろうと思う。でも大丈夫だから。私だって、あんなお願いしておいたくせにあなたの話なんて聞かずに甘えてもらってばかりだったし、いつも私のことばかりだったわ。今からは治していく。それであなたともっと大人な話をしたいわ。私が考えるようになることも、気分が悪くなることも、ためになるならなんでも聞くから。へれなも私のためだと思って、もっと私に厳しくして欲しい」


自分に悪いことでもちゃんと聞き入れる、と口ばかり言う人はたくさんあります。自分は人の話を良く聞く人だと周りに見せつけたい人たちが良く言う事です。本当はそんなことを言うと直ぐに嫌な顔をして、もう二度と聞かないと耳を閉じてしまうくせに。


でも、レンファは違うだろうと思います。レンファは本当に自分に嫌なことでもちゃんと聞きます。それは今までロシュクさんを含めた豪族たちの話を一緒に聞きながらレンファの成長を見た私が良く知っています。


「レンファはきっと良い王さまになります」

「……」


思わず言ってしまったその言葉が二重の意味で今レンファに言っちゃいけないことだったと気づいた私は可笑しくて笑ってしまいました。それを聞いて顔をしかめたレンファも私が笑うと軽くため息をついて、一緒に微笑んでくれました。


・・・


・・



その後レンファはロシュクさんの所であった話を私に聞かせてくれました。


「ロシュクさんがそんなに…」

「あなたの言うことは確かにこの世界では受け入れがたい話だったでしょう。だけどそれを聞いてくれる人もいるってことよ。彼女が他の豪族たちにももっとこの話を広めてくれるって言ってくれたし、私も帰ったら豪族たちがこんな寄付をもっとできるように薦める政策を考えて姉様に進言するつもりよ」

「…本当にわたしの話で助けてくれようと思ったのですか。単にレンファに媚びるためなのでは…」

「その可能性が全くないとは言えないけど…これだと信じてもらえるかしらね。ちょっと待ってね」


そう言ってレンファは部屋を出ていきました。そして間もなく、レンファは私の車椅子を持って戻ってきました。


「あ!」

「言っておくけどタダで返してもらったわけではないわ。ちゃんと対価を払って、買って来たものだから」

「買ってきたってどういう…」

「へれながこれを売って孤児たちの生活の足しに使って欲しいって言ったでしょう?だから、私がこれを買ってあげたの。だからコレはもう私の物だから。もう二度と人に売ったり失くしたりしちゃ駄目だからね。返済要求するから」


それを聞いた私はもう笑うしかありませんでした。


「ありがとうございます、レンファ」

「別に、必要だから買っただけよ?そもそも、他に誰がこんなもの欲しがるというのよ。こんなの私みたいに脚も不自由なくせにワガママなお友達持っていない限り要らないわよ」


自分でもちょっと恥ずかしいのかそっぽを向きながら言うレンファが可愛らしくてもう抱きしめたくてしょうがありませんでしたけどぐっと抑えました。今甘やかす素振りでもしたらきっと嫌がりますからね。


「明日は一緒にあの孤児院に行きましょう。魯子敬も明朝一緒に行って話をしてくれるって約束したわ…あ、そういえば熱はもう大丈夫なの」

「え…は、はい!もう大丈夫です!」


実は熱があったのはその日だけで、後は車椅子を売り飛ばしたのがバレたくなくて篭っていたのですけど黙っておきましょう。


「早く言ってあの娘に教えてあげたいです」

「あの娘…そう言えば名前って知らなかったかしら」

「はい、今度会う時に教えてあげるって」

「随分と贅沢な娘ね。初めて会った時へれなにも口で負けず追い払ったし。ちゃんと勉強したら良い弁論家になるかしらね」

「良いかもしれませんね」


色々大変な三日間でしたけど、やっと誇らしくあそこに戻ることができるようになりました。外はまだ戦乱の世の中ですが、どうかこれからでもあの子たちと、これからも苦しむことになるだろう子供たちが守れるそんな場所をレンファと一緒に造っていきたいです。


・・・


・・




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