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三十六話

風SIDE


桂花ちゃんが部屋に入っちゃった後、悔しさに悶えている稟ちゃんを連れて近くの東屋へ連れて行ったのです。なんといいますか、こっちから喧嘩売っておいて元も取れなかったですね。


朝議が終わった後、仕事に戻ろうとする風を稟ちゃんが呼び止めたのです。どうもお兄さんの処罰の件で気になった所があるみたいでした。ちなみに風の考えを言わせてもらうと、『とんだ茶番』だと思いましたね。どうせこれは誰が見ても一時的なもので、結局お兄さんが帰ってくることが目に見えているのです。形だけででもお兄さんに否定的な視線を和らげたい気持ちもわからなくもないのですけど、そもそもお兄さん本人が変わらない以上、こんな事を繰り返したことで結局は元通りになるだけなのです。本当にお兄さんと他の官僚たちの間の反目を消すためには、それこそ華琳さまがこのままお兄さんと結婚すると宣言した方が皆も諦めが早いというものです。劇薬ですし多少荒れはするでしょうけど、そうしたら一発で終わりますからね。お兄さんもそしたらもう少し責任を持って軍事に関わると思いますし。


一方風の目の前には自尊心を粉々にされた可哀想な親友がいるわけですけど。


「絶対何か裏があります」


稟ちゃんは今回遠征の総指揮を任されて一頭地を抜く成果をお見せしようと最初は意気揚々だったのですよ。それが自分の予想を遥かに越える状況の数々があって、最終的には華琳さまの前でいい所を見せるどころか秋蘭さまの帰還なども合わさって完全に蚊帳の外になってしまって心が折れてしまったのです。風は別に稟ちゃんがやったことが大したことじゃないと言っているわけではありませんよ。だけど稟ちゃんは自分が立てた計画を遥かに下回る結果だったために、稟焦っているのです。


だけど、今回ばかりは流石に風も親友に失望せざるを得ないですね。


「まあ、正直裏があった所で、風たちに出来ることもありませんけどね」

「だからと言って黙って見ているわけにはいきません。一刀殿は目の近くに居る時も気になりますが、本当に怖いのが目に見えない時なんです。あんな人を謹慎なんかさせたら何を企むか判りません」

「風もその意見には同意しますけど、何故それを稟ちゃんが気にする必要があるのですか」

「…はあ?」

「さっき桂花ちゃんが言った通り、お兄さんや桂花ちゃんは稟ちゃんの敵ではないのですよ。別に稟ちゃんを殺そう謀議をしているわけではないのです。正直風は稟ちゃんが何故そこまで毛を逆立てるのか分かりませんね」


風が今の稟ちゃんが不安なのです。桂花ちゃんが言った通りに稟ちゃんがあの二人のことを競争者ではなく敵だと思っているみたいな所なのです。華琳さまの寵愛を得るために牽制しあってるのは判りますけど、稟ちゃんが今してることはただの疑心暗鬼なのです。稟ちゃんにとってはああの二人がしていることは何でも自分を落とすための行為と取ってしまってるみたいですね。実際は二人は稟ちゃんが余計なことをしない限りは自分たちがやるべき仕事をこなしてるだけです。ぶっちゃけあのお兄さんは今多分稟ちゃんの事には眼中にも居ないと思いますよ。稟ちゃんが聞くと余計に爆発しそうだから言いませんけど。


「あなたには分からないのですか、風。これはただの演技です。華琳さまが周りに一刀殿を更迭したと名目的にだけ見せ付けるための演技。裏では何が起きてるか判りません。次なる戦争のための下準備か、もしくは裏では本当に一刀殿との婚姻を進めるために重臣たちを懐柔している可能性もあります」

「で、仮に稟ちゃんがその裏を知ったとして、稟ちゃんはどうする気なのですか。華琳さまの計画を邪魔するつもりですか」

「そ、そんなことをするはずがないでしょう」

「じゃ、何故知る必要があるんですか」

「だって不安じゃありませんか。私の知らない所であの人が何をするか解らないこの状況が!」

『いや、おめーはいつから全知全能にじゃなきゃ何もできないようになったんだよ。恥ずかしくねーのかよ』

「っ!」


ちょっと荒く言いましたけど、宝譿の言う通りでした。


稟ちゃんは一体何と戦ってるのでしょうかね。稟ちゃんにはお兄さんのことがそこまで怖かったのですか。お兄ちさんが遠征で自分が手足も出ないようにしたと、そう思っているのですか。お兄さんや桂花ちゃんが稟ちゃんの邪魔をしてるから華琳さまに慕われていないとでも思っているのですか。


「稟ちゃん、風の親友としての忠告なのです。今お兄さんや桂花ちゃんが何を企んでようと気にしない方が良いですよ」

「風!」

「稟ちゃんはどうして西涼遠征の時に稟ちゃんが思うような戦果が出せなかったと思いますか」

「それは…一刀殿が邪魔をして」

「お兄さんが邪魔をしたせいで、長安の半分が燃えたのですか。稟ちゃんだけだったら全部助けられたのですか。五丈原に行こうとする華琳さまを止められたのですか。それともお兄さん無しで陽動をして西涼軍にも勝ち、馬騰も倒せたのですか。その全てができなかったのが、稟ちゃんにとってはお兄さんと桂花ちゃんが居たせいなのですか」

「……」


稟ちゃんは風の問いに肯定も否定もしませんでした。


「稟ちゃんが華琳さまの寵愛を受けようと頑張ってるのは判りますけど、今の稟ちゃんはまるで能も無しに自分より偉い人たちを貶めようと企む輩みたいなのです。こんなの風が一緒に旅し続けた親友じゃありません」

「っ…あなたまで私があの人たちに劣ると言いたいのですか!」

「そうではないのでしたらその実力とやらで勝って見せろと言っているのですよ」


稟ちゃんは軍事に置いてならあの二人に負けない実力があると風は確信するのです。それを一人だけ熱くなって、柄にもないことを仕出かしなんてしたら、稟ちゃんも桂花ちゃんたちもタダでは済まないのです。それは結局華琳さまのためにもならないのです。ここは親友の心の危機です。なんとしてでも正さなければならないのです。


「今回『は』ダメだったというだけのことですよ。稟ちゃんと風の出番はこれからもたくさんあるのです。乱世はまだ始まったばかりなのです。たったの一年でこんなに弱くなってしまうぐらいならどうしてあれだけの時間見聞を広げる旅をして来たのですか」

「……そうですね」


時に熱くなって性急になってしまうのは稟ちゃんの悪い癖です。いつかその熱で自分や周りを火傷させてしまわないか風は心配になるのです。


「まあ、とは言え、もうしばらくは戦なんて起きないと思いますし、次の機会があるまで備えているしかありませんね。今は戦後処理だけでも手一杯ですしね」

「風は次はどこになると思いますか」

「そうですね。風はやはり豫州の方だろうと思うのです。孫策がそろそろ動くでしょうし、そしたら事実上豫州を不法占拠してる袁術さんを追い出すという名分として許昌と、あわよく孫策が対策出来る前に動けば合肥までも頂けるかもしれませんね」


以前の反董卓連合軍で、他の諸侯たちは皆正式に各々の治める地域を任される勅書を再び頂きましたが、袁紹さんを除いて唯一、勅書をもらえなかったのが豫州刺史、袁家の残りの長である袁術さんだったのです。別に以前もらった刺史の位がなくなったわけじゃないですから不法というのがちょっと違いますけど、それでも河北袁家も滅んだ今、他の諸侯たちにとって昔のような不可侵な勢力ではもうないのです。勅書をもらえなかった事は孫策さんにとっては袁術さんを攻める良い名分にもなるのです。むしろ何故袁術さんはもっと早く孫策さんを叩かなかったのかと問い詰めたいのですけど、袁術さんが先に孫策さんを叩こうとしていたら、勝敗を問わずにこっちから豫州を攻めていたでしょうし、結果的に袁術さんはもう詰んでますね。


「私は河北との戦いが一番大きな岐点になると思います」


河北は、私たちが西涼を制覇してる間ほぼ劉備さんと公孫瓚さんの手によって鎮静されました。袁家の残党もほぼ掃討出来て、黒山賊の張燕も呂布との一騎打ちで命を落としたとの情報を、陳留に残っていた桂花が入手したそうです。公孫瓚さんは元々劉備さんと仲も良いですし、河北の版図はあのまま落ち着くでしょう。となれば次に争う相手はうちしかないわけですけど…。


「じゃあ、やっぱり徐州ですかね」

「その可能性が高いでしょう」


黄河で分けられている両軍の領土。先に渡ろうとする方は大きな危険を負うことになるのです。両軍ともそのような被害を望まなければ、結局戦う場所は第三の地になるでしょう。


「劉備と孫策、どちらの方が先に動いても私たちはいつでも準備出来るようにしなければなりません」

「どっちもとても大掛かりな戦になりそうですけどね。どっちも相手にするということは難しいですよ」

「まあ、まさか両方同時ということはないでしょう」


と、こんな風に言っておけば両方から来るんでしょうかね。


<pf>


桂花SIDE


あれからしばらくの時間が過ぎた。


結論から言うと、華琳さまのアイツへの謹慎宣言は二つの意味で絶大な効果を軍の全体に及ぼした。


一方では秋蘭に続き、華琳さまから絶対的な信頼を受けていたアイツが謹慎を食らったことで、中級管理職の官僚たちの不満をある程度和らげることはできた。聞けば謹慎処分が出たその日の夜陳留の居酒屋がが盛況だったとか。そしてその次の日にとある部署から妙に以前より増した金額の予算の申請が上がってきたので担当者を締めた。


だがもう一方では、凪の休職届に続き、各部署から一斉に休職、または退職を求む申請書が上がってきた。退職に関しては部署長たちに対応させてなんとか落ち着かせたものの、アイツの謹慎にこれだけの数の者たちが不満を出すとは私も予想だにしてなかった。もしかしたらアイツの謹慎自体ではなく、凪の長期休職が導火線になったのかもしれない。凪の勤勉さは軍の中でも有名だったために、他の部署でも彼女を好む者は多かった。そんな彼女がアイツの謹慎を機に休職したのだからその影響である可能性が高かった。休職届を出す者の数は大したものではなかったし、それも各部署につき一人や二人ぐらいに普く分布していたため軍の仕事が麻痺するという惨事は起きなかった。いっそ政務が麻痺するぐらいになってくれたらさっさとアイツを連れ戻す口実にもなったでしょうけど、さすがにアイツにそれだけの人徳を期待するのは無理があった。


アイツがこの軍でやってきたことは、概ねで言うと『あったら効率上がるけどなくても困らない』事ばかりだった。実際凪に警備隊の仕事を全部任せた以来、復帰したアイツがやってきた仕事は部署の監察や私の手助けで、それも風が来た後はしなくなった。そして監察職なんて誰一人も好きになるはずのない嫌われ役だった。賄賂でも食らう相手ならまだしも、アイツみたいな質の人が監察したら毎日のように血を吐く者が出てくる。そして実際もそうだった。


そしてそんな軍の嫌われ者が居なくなったことにより早速変な予算案が次々と上がってきていた。目に見える者は担当者をへし折ったけどさすがに捌ききれなかった。ぶっちゃけこれだけの規模の軍で、ある程度の不正は必要経費とも言えるものだったが、それまでも捌き切れたのがアイツだったのだ。本来この規模の官僚制が出せる効率を70と言ったらアイツはこれを90近くまで引き上げていた。


もう一度言うけど、だからこいつを好む人間が誰も居なかったわけだった。


問題はこんな苦衷を判る者は私ぐらいしか居ないことだった。これじゃあアイツを連れ戻す口実としては足りない。やっぱりアイツを連れ戻すには軍事で難題を起こすのが一番効果的だった。


当面我が軍に迫っている問題とはつまり豫州と徐州だった。


豫州では孫策が動き出す素振りを見せ始めていた。現在袁術領である豫州だったが、連合軍の時に袁術軍は不名誉を背負って州牧に任命されることがなく終わってしまった。だからと言って既存の州刺史としての職を剥奪されたわけではないものの、連合軍に居た諸侯たちにとって、豫州を攻める十分な名分になるのだった。孫策は特に母を策にはめて死なせた袁術を許さないはず。連合軍の後一年も我慢していたことを褒めてあげたいぐらいだった。


以前も議題になった通り、豫州は本来なら南に向かう足掛かりとして最適である一方、長い間袁術の悪政を受けたせいで荒れていた。本来なら今の豫州は手に取るべき所ではない。曹操軍は既に『未来の黄金』という名の『お荷物な地』を腐るほど持っていた。これ以上飲み込もうとした所で海の真ん中で喉が渇いたと海水を飲むような自殺行為でしかない。


しかし一箇所だけ、許昌は話が別だった。


許昌は洛陽や長安とは訳が違った。物理的に全壊、半壊した両都市と違って、許昌は土台はまあ健在で、大都市ではないものの周りの土地が広く開発の余地が十分にあって、燃えた洛陽の代わりにする都候補でもあった。そして既に誰も住まない洛陽とは違い、許昌にはまだ人が残っていて、生活が苦しくて離脱した人たちの大半が我が領で流れて来ていた。許昌がわが手に落ちればすぐにでもこの人たちを許昌に連れて行って許昌の発展に利用することが出来る。『復旧』ではなく『発展』が出来る地域なのだ。謂わば許昌は今豫州で一番美味しい所だった。豫州で孫策が袁術と戦っている所をうまく突けば、西涼で損耗して間もないこの軍でも簡単に手に入れることが可能だ。


反面徐州は只今風前の灯火のような状況、私たちと劉備軍という二匹の狼に狙われていた。今まで無事にいられたのは両軍とも他に大事なことがあったからだった。劉備軍は内憂を追い払い、こちらもまた西涼を打って後患を除去した。これで心なく両軍とも徐州を狙える。当然徐州を得るために両軍が戦争をした場合、両軍とも大きな被害を受けることは間違いない。更に言うと正直今この軍の戦力だと河北を制した劉備軍と真っ向勝負は分が悪かった。だからと言って河北の劉備軍に徐州まで渡してしまったら本当に取り返しのつかないことになってしまう。河北の人口と徐州の経済力を手に入れれば、残った天下の全てを合わせてもそれに叶うか分からないぐらいに劉備軍の力が拡大されてしまう。


この二つがこの軍の当面に置かれた課題だった。豫州の方は一旦簡単に見えるものの、そっちに力を注げば劉備軍にあっさりと徐州を渡してしまう。劉備軍との条約の満了の時期も、孫策の下克上ももう秒読み。その二つの事件がうまく合わせれば今のこの軍では手に負えなくなる。そしたらまた仕方ないとアイツの手に貸すようにと話を持ち込めば良い。ぶっちゃけ、この件においては私も明確な答えが見つからない。言っておくけど、どっちとも成功しなければ曹操軍は『詰み』だった。南への足掛かり、劉備軍の牽制を同時に行う必要があった。


現在の私たちでは手に負えない状況。この自分の能力の足り無さを悔いるべき場面が逆に助けになっているのだから皮肉なものだわ。


口実はできた。時間もそれなりに経った。これでアイツに会いに行くことが出来る。


そう思った私はその夜、誰にも言わずに密かにアイツの屋敷へ向かったのだった


・・・


・・



謹慎期間中にはされた者にも身動きの制限があるが、その者に会いに行くことも自由にはできない。謹慎とはただ外に出ないことだけにあらず、政務などに口を挟まないことも含まれるのだ。つまり、私みたいな重役と謹慎中のアイツが出会って話をするということは謹慎という懲罰中のアイツに許されない行為だった。普通謹慎中の人の家にはこれを防ぐために衛兵が配置されることになっている。


が、私が屋敷に行って見ると、衛兵なんてものはなかった。


「どういうことよ」


誰も立っていない大門を叩くと、しばらくして門が開いて中から愛理ちゃんが頭を出した。


「あう、桂花さま、遅かったですね」

「…その反応だと、アイツも私が来ると判っていたようね」

「というより、もっと早く来るだろうと思ってらっしゃいましたよ?」


そりゃ秋蘭以外に重役が処罰されたことがないから気をつけていたわよ。余計なケチをつけられても困ったから。


いや、他の連中にではなくアイツに。


「というより衛兵は?形だけでも立てて置くようにしたはずだけど」

「始まって数日は昼夜交代で二人ずつ来ていたのですけど、銭を少し渡してどこか呑みにでも行かせていました。どうせ一刀様に会いに来る人なんか誰も居ないと」


自虐的ね。実際誰も来てないから発覚されなかったわけだけど。


「凪と流琉は来てなかったの?そしてチョイも居るじゃない?」

「あ……それは入られたら判ります」


ふと嫌な予感がしたけど、愛理の言うとおりに私は屋敷の中に入った。


既に日は暮れていて、屋敷には部屋の中から見える光以外には暗くてあまり見えるものもなかった。


建物の方を見ると、おかしなことに長く続く建物には五つの部屋があって、五つとも光が灯っていた。

私の知っている通りだとこの屋敷にはアイツと愛理しか居ないはずだけど。


「他に誰が居るの?」

「…さっき桂花さまが仰っていた三人です」


…ああ、なるほど。そういうことね。


「チョイさんは私たちが謹慎になった日の夜に来ました。夜はここで寝て、朝早く張三姉妹の所に行ってます。凪さんと典韋さんは五日ほど後に来ました。一刀様は帰れと仰ったのですがお二人とも無理やり住み着いた感じです。おかげで料理や薪割りに関して心配がなくなりましたけど」


一刀によってこの軍に来た全員がこの屋敷に集まっていた。この状況を今まで誰も知っていなかったのは問題ね。いや、少なくとも三人と関係のある人たち知っていたはずだけどこちらにまでわざと知らせていないということかしら。下手するとアイツの方が謀反の謀議をしていると疑われてもおかしくない状況よ。


「まあ今はそのことは良いわ。アイツはどこにいるの?」

「一番奥の部屋です。先にいらっしゃったと伝えて来ます」

「必要ないわ。どうせアイツも待っているのでしょう?」


私は愛理を後にして先に一番奥の部屋まで向かった。


部屋の扉は半分開いていて、中を見るとアイツが卓の前に座って本を読んでいた。開いた門を軽く叩くとアイツはこちらを向いた。


「来たか。入ってくれ。愛理、戻っていいぞ」

「はい」


後から付いてきた愛理が返事をして去った後、私は部屋に入って扉を閉じた。用意されていた相席に座った時、ふとこいつが愛理の事を真名で呼んだことに気づいた。


「いつから真名で呼んだの?」

「…謹慎が始まった日からだ。五丈原では結構頼りになってくれたからな」


凪と流琉があの苦労をして呼ばれたのを比べたら随分と安いと思ってしまうわ。それともそれだけこいつが丸くなったということかしら。まあ、どっちにしろ私が気にする所ではないのだけど。


「短く済ませましょう。あんた、豫州と徐州を同時に相手することになった場合、何か策は?」

「……場合とは何だ。劉備軍も馬鹿ではないぞ。同時に相手されるに決まっているだろ」


そう、実はそうだった。豫州と徐州に同時に対応するということは可能性ではなく、必然的なものだった。劉備は既に河北の平定を済ませていた。軍師の臥龍と鳳雛も南の方を見る余裕ができている。当然孫策と袁術の関係も把握出来ているはずだった。劉備軍だってこいつが居る限りこの軍を直接叩くにはそれなりの覚悟が必要になる。そうすると当然狙いは徐州になる。条約が満了されると、向こうが徐州を取るに一番適合した時はいつか。言うまでもなくこっちの視線が分散される孫策の攻め時だった。向こうだって私たちが許昌を欲しがるだろうと知っている。ならその時に徐州を得るために仕掛けるはずだった。両面で利を得なければならない私たちは両面作戦を強いられる。それは必然的な手順だった。


問題はそれをどう対応すべきか。


「現在曹操軍の軍事力を10として、許昌を手にするなら『2』の力があれば十分だ。が、残った8の戦力を劉備軍と交わる国境と徐州に設置した所で、劉備軍の戦力は15以上。勝ち目はない」

「普通に戦った場合、今の劉備軍が私たちの倍の力があると?」

「河北は荒れて居ても人は満ち溢れている。長安や涼州とは違ってな。そして河北を基点として働いてきた豪族たちも多い、将の質も既存のもの以上に上がっているはずだ。北方にある異民族の牽制が必要なことと、荒れた土地の復旧に戦力が分散されなければ25以上だって与えられる」

「それで、それを覆す方法は?」

「ない」


アイツはきっぱりとそう答えた。


「量も質も勝る相手には勝てない。徐州はこっちの領地でもないから地の利なんてないし、時間だってこっちが決められるものではない。神が来たって、戦っては徐州は得られない」

「……結局外交的に解決するしかないというわけね」


結局はそうだった。劉備軍と協商して条約の期間を伸ばすか、徐州を絶対中立地帯として扱うようにする。しかし、武力で得られると判っている状態でいくらこいつが言うとしても劉備軍がそれを飲むか疑問だった。


「外交的に解決と言っても、さっきも言ったように戦った場合有利なのは向こう側だ。向こうは既に徐州は自分たちの縄張りだと思っている可能性すらある」

「だからと言って何もしないで劉備軍に徐州を差し出すわけには行かないわ」

「で、お前には何か手があるのか」


こいつのことだった。こっちに答えがなければ向こうからでも私にタダで答えてはくれない。そんなことは解っていた。


「こちらには陛下がいらっしゃるわ。皇帝陛下に華琳さまを徐州牧に任命するように求めれば、皇室の権力によって今の爵位を与えられた劉備も武力で徐州を奪うことはできない」

「……そうだな。それも悪く無い」


どうせ陛下に拒否権はない。徐州刺史陶謙は連合軍にも参加出来ていなかったし、今も生きる屍みたいなものだった。徐州の豪族と内通して、陶謙から陛下に職を降りるという上疏でも書かせれば後はこっちのものだ。


「が、そうした場合、私たちが帝を悪用していると訴えて劉備軍が再び挙兵する可能性もある。反曹操連合軍なんて笑える話じゃないぞ」

「反董卓連合の時は袁家の二人がまだ健在だったし、西涼や河北の諸侯たちも参加していた。今は誰も残っていないわ。荊州や益州は遠くで参加しても名ばかりもものになるでしょうし」

「孫策がいるだろう。言ってない気がするが孫策と桃香は連合軍の時に同盟を結んである。孫策にとっても華琳を潰せば、こっちの領土までは解らないものの、荊州は益州は自然と手に入れることができて、桃香と天下を二分する形に出来るからこれを逃したりはしないだろ」

「っ」


劉備と孫策の連合だなんて…冗談じゃないわよ。劉備軍一つを相手することも手一杯なはずなのに。


「要は徐州が劉備軍の手に入らないようにすれば良い。こちらの領には別にならなくても良い」

「……まさか徐州も燃やすとか言わないでしょうね」


あんたは一体天下の大都市をいくつ焼き払えばいいのよ?


「人を放火魔みたいに言うのはやめろ」

「何いってんの。アンタは立派な放火魔でしょうよ」

「一回切りだろうが」

「ええ、一回切りね。多分伝説の連鎖放火魔が現れてもあんたのその『一回』放火が及ぼした被害に比べれば粗末なものよ。言っとくけどね。五斗米道からもらった米百万石、あれ全部洛陽復旧に当てても足りないから。皇宮を建てるとなったら土台作りで使いきっちゃうから。…そうよ!そもそもあんた愛理が居るじゃない!あの娘の故郷を燃やすつもり?」

「…俺は燃やすとは一言も言ってないぞ」

「じゃあ、一体あんたはどうすると言うのよ」

「どうするも何も…俺はどうもしない」

「はあ?」


今まで一体何のために話をしていたのよ。


「桂花、そもそも俺は何故今回安々と謹慎なんかされていると思っている?」

「それは………」


…そういえば、どうしてこいつは静かに謹慎なんて受けてるの?いつもなら謹慎された次の日に飛び出して暴れてるはず。いや、謹慎された日に既に劉備の所に飛んで工作していてもおかしくないはずなのに。


「…アンタ、何でここにまだ残っているの?」

「…俺はこの謹慎をただ見せ付ける行事にするつもりはない」

「どういう事?」

「確かに今のこの軍が置かれた状態は危険だ。しかしお前たちでなんとかできないこともない。そんな状況で半端な名分づけで俺を呼び戻した所で誰も納得しない。結局は形だけの謹慎だったと思うだけだ。そうなったら華琳の有能な者を好むという評判に消せない瑕が入る。『こんなの私たちだけじゃできないから俺を呼び戻そう』なんていう適当な理由づけなら俺は復帰しない」

「華琳さまが復帰しなさいと命令しても?」

「そうだ。謹慎したのはあいつだが、帰ってくる時は俺が決める」


で、結局アンタは何がしたいのよ。


この軍の誰もがお手上げになるぐらい絶望的な状況が訪れた時に、やっと現れて全て解決する、そんな英雄的な再登場を狙ってるわけ?


「バッカじゃないの?」


冗談だと言ったら最悪の気分だわ。


「遊びじゃないのよ。アンタが意地を張ってる間にも私たちは、華琳さまは戦うわ。そんな時アンタは蚊帳の外で見物だけしているつもりというの?いつからアンタはそんなに偉くなっていたのよ」

「…そうだ。俺はそう偉くない」

「だったら勿体ぶってないでさっさと働きなさいよ!あんたはそれだけが取り柄なんでしょう!誰の話も聞かずに自分がやりたいように動いて結果だけ良ければ全て良し。それがあんたのやり方だったじゃない!」

「その結果、この軍はまたしも崩壊寸前だ」

「……!」


アイツは視線を下に移しながら言った。


「連合軍が終わった頃、俺は自分が全力で華琳のために働けば天下なんて簡単に見せてやれると思っていた。だがその結果西涼で長安は半壊し、華琳は命の危機に陥った。俺の能力が足りなかったせいだ」

「…まさか、責任を感じてるわけ?」


だから今ここに居るの?


「俺は万能ではない。少なくとも手段を選ばなければいけない今まではだ。そんな俺に華琳はあまりにも信頼を与えている。他の将たちが贔屓だと思って無理もない。特に連合軍以来新しく入った連中に取っては」


私の頭には稟の顔が浮かんだ。


「これから華琳はどんどん大きくならなければならない。大国を治めるに置いて、為政者に必要なのは一人の万能人よりも百人の専門家だ。俺を棚に上げることで、華琳はあまりの多くの可能性を失ってしまっている」


こいつが居ることで軍は嫉妬と謀略に要らない力を損耗して来た。前に私はこいつが居るおかげで政治の効率が上がると言ったけど、本当にそうなのか。本当はこいつが居るせいで、この軍はより大きい可能性をなくしてしまっているのではないか。


「だから俺は今回動かない。逃げた振りをする。それでもこの軍はなんとか乗り越えられる。そしたら華琳も気づくだろ。そして俺に失望するだろう。俺なんか最初から居なくても別に良かったと。その時こそが」


こいつを嫌う連中はこいつを落として自分を挙げようと血眼になっているのに、


「華琳が覇王としてもう一度成長できる時だ」


こいつは自分と落としてでも華琳さまのために働こうとしている。


「それが…あなたの出した答えってわけ?」

「……」

「例え華琳さまに捨てられても構わないというの?」

「それが華琳のためになるなら」


ならない。


そうはっきりと言うべきだった。


だけど、私は言えなかった。


判らなかったから。


今までこいつがこの軍に残ることは当たり前だと思った。それが華琳さまの望みだったから。


だけどこいつが特別な存在で居る限り、華琳さまは覇者になれない。誰もを包容する力のない覇者はただの独裁者になる。華琳さまをそうさせてはならない。


こいつがこの軍で特別であればあるほど、この軍はどんどん弱くなってしまう。


「…私は今夜ここには来なかったわ」


私はそう言って席を立った。アイツは下を見たまま見送ることもなくただ黙っていた。


門を開いた時、流琉がお茶を持って立っていたけど、私は何も言わず彼女を通りすぎて正門をくぐり外で出た。


アイツを手に入れれば天下を手に入れる。


誰かがそんな戯れ言を言った。


だけど、アイツは自分がいるせいで華琳さまは覇者になれないのだと、自分が居るから華琳さまは天下を手に入れられないと、そう言ったのだ。そしてもしアイツの言うとおり、アイツが居ないことで華琳さまが覇者のあるべき姿を取り戻すとしても、そんな華琳さまは女にはなれない。アイツか天下か、覇者か女か。


「今、本当はどうなさいたいのですか、華琳さま」


この頃久しぶりに、私は『分からない』という不安感に捕らわれてしまった。



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