三十五話
桂花SIDE
その日も何の変哲もない朝議になるはずだった。少なくとも朝起きて会議場に向かうまではそう思っていた。
遠征軍が帰還して早数日、まだまだ戦後処理に身を追われる状況で昨日の徹夜だったけど華琳さまに立つ時はそういう素振りを見せないようと万全を期していた。
諸将たちがほぼ集まってる所、一つの空間がぽんとまだ残っていた。この場合、空いた場所とは十中八九アイツの立ち所だった。アイツが朝議に参加しないこと自体そんなに珍しいことでもなかったので今日はそういう日かと見過ごしていた。帰還して以来連続で何日も欠席せずに参加していたのが逆に驚くべき所だった。
やがて華琳さまが会議場にいらして、皆はお辞儀をした。
「朝議を始める前に皆に知らせるべき事項があるわ」
そう仰った華琳さまはまるで何かを準備しているかのように少し間を置いた後、大きく息を吸って言葉を続けた。
「今この瞬間から、北郷一刀に西涼遠征での数々の軍律違反の責任を問い謹慎に処する。私が別に命令を告げない限り、北郷一刀の登庁を禁じるわ」
華琳さまの発した言葉を理解するまで相当な時間、華琳さまが置いた間よりも長い時間が必要だった。
長い間沈黙が続いた。もしくは反応のしようがなかったかもしれない。いや、この場合反応という名の異議を唱える者が居なかったと言うべきだろうか。誰も何も言わなかった。
私は静かに華琳さまの顔を伺った。事前にまったく聞いて居ない話だった。昨夜報告を行う時だって何も言われていなかった。昨日の午後にアイツと碁を打つ時だってそんな素振りは見せなかった。ならこれは早くても私は去った深夜以後、朝議が始まる日出以前に起きたことだということだった。どうして華琳さまは私に相談もなしにこんな事をなさったのか。
華琳さまの顔はいつものように君主のお面を被っていらっしゃったが、私はその裏にある驚きを感じ取った。何故誰も何も言わないのか。何故誰も異議を唱えないのか。少なくとも「北郷一刀を謹慎とは一体どういうことですか」と一人ぐらいは尋ねて来るであろうと華琳さまは思われたかもしれない。だけどそんな者は居なかった。少なくとも重鎮の中でアイツのためにそれほどの苦行をする者は居なかったのだ。
もちろん、私も驚いて居ないわけではなかった。少なくとも一人はこの宣言に発狂しても良いはずだった。
そう、凪は。
私は凪の方を見た。凪は無言で華琳さまの方を見つめていた。彼女の口は重く閉じていて、その顔には驚きも怒りも感じなかった。流琉が居たとしてもここじゃあ同じ反応だったかもしれない。
凪は連合軍の時に曹操軍を抜けてまでアイツに付いて行った二人中の一人。もう一人の流琉は既に軍を去ったけど、凪は軍の所属として残った。以前よりアイツとの出会いは少なくなったものの、アイツへの気持ちは薄れたとは思えない。それは流琉も同じなはず。だから凪がこの状況に異議がないわけではないはずだった。ただこの場で異議を唱えないのは、華琳さまに呆れているからだと思う。
あれだけの苦労をして取り戻したアイツだった。本当に凪も流琉も、華琳さままで死ぬ覚悟で動いてやっと取り戻したアイツだった。そんな華琳さまが何の素振りもなく朝議で、それも本人も居ない場でアイツの謹慎を宣言した。その上自分以外に誰もそれに反応する素振りも見せない。これはもう諦めたのだ。凪もこの軍に情が残っていてこの軍に残っているわけではなかった。真桜や沙和たちのこともあったけどーちなみに隣に居る真桜と陳留に後から帰ってきた沙和は凪の雰囲気を感じ取ってアタフタしていたーもしアイツがまた軍を出たら凪も一緒に出る。万が一アイツに直接危害を与える者がいたらそれが華琳さまでも立ち塞がる。凪は骨髄までアイツの犬だった。私や春蘭が華琳さまにそうであるように。
「桂花、朝議を始めてちょうだい」
誰も文句を言わないと、やがて華琳さまも諦めたのか朝議を始めるよう仰った。
私は心の底から込み上がって来る何かを抑えて朝議を始めた。
<pf>
「事前に私と一度くらい相談してくださっても良かったではありませんか」
「しばらくの見せしめなだけよ。長くても一月もあれば連れ戻すわ」
朝議を終えた後、私は華琳さまの政務室に訪ねた。華琳さまも私のことを待っていたようで私も直ぐ様本題に入らせて頂いた。
「重鎮たちの反応をご覧になったはずです。アイツが軍に居ることを望むものは多くありません。華琳さまが連れ戻すとおっしゃっていたら私や春蘭たちは反対はしませんけど、反対の声は確かにあるはずです」
「信望がないことは知っていたけど、これまでとは思わなかったわ」
アイツが居て、以前の陳留の反乱事件を含めてアイツを殺そうと思う数々の陰謀があった。それらを乗り越えてもまだアイツを嫌う者の数は減る傾向を見せない。それだけアイツのやり方は人に嫌われることが好きというか、交わる隙を与えない孤立を強いられるものだった。
「どうしてあなたと凪は黙っていたの」
「既に華琳さまが決められたことです。それとも私や凪が異議を唱えた所で、他の者たちが華琳さまのご決断に文句をつける気かと言ったら華琳さまはご自分の命を取り消すことができたのですか」
「……」
今回の件、正直な話私も癪に障った。一言でもそういうことをするって言ってくれれば理解したかも知れない。一緒にアイツを連れ戻すきっかけを作っていたかも知れない。だけど今回は、いくら華琳さまのご決断と云えど、正しかったとは言えなかった。
「何故ここまでことを早めたのですか」
「……昨夜あなたが行った後、こんな投書が上疏の中に混ざってあるのを見つけたわ」
私は華琳さまが渡した、書いた者の名のない投書を読み上げた。
「……初めてアイツを失った時でも、発端にはすり替えられた手紙がありました。お覚えですか」
「……」
あの時、私は重鎮たちの中でそういうことをする者が居るはずがないと思って、秋蘭を疑うことがなかった。だけど、今回は違った。この投書、単に軍の現状を憂った者の投書と思うにはあまりにも胡散臭かった。これは政争の類だった。
「桂花、相談も無しにこんなことをしたのは謝るわ。だからお願い。彼を軍に連れ戻す方法を一緒に探してちょうだい」
「…分かりました」
確かに今回の華琳さまの独断は気に障るものだった。それでも私は華琳さまに忠誠を誓った身。どこぞの立身だけに気が動転している輩とは違う。例え最後が来るとしても私の華琳さまへの信望と忠誠が揺るぐことはなかった。
「アイツの居場所をご存知ですか。今晩にでも訪ねて話を合わせます」
とはいえ、謹慎を宣言された当日に私があそこに入るとあからさまに演技なのがバレてしまう。伝書鳩でも使うべきなのかしら。
「昨日か一昨日ぐらいに南の郊外に屋敷を一つ買ったそうよ。場所ははっきりとはわからないわ」
長年庁内の執務室を部屋として使っていた奴だった。突然屋敷なんて買った理由と言えば…既にこうなることを読んでいたわけね。本当にこういう時は冷酷なまでに人の考えを読んでくる。その上に文句の一つも言いやしない。個人が危害を与えられても、それが予想の範疇内なら当然のことだと思うのがアイツだった。寧ろ余計に気を使ってやった方が機嫌を損ねる。昨日の今日でいきなり訪ねたら無駄に爆発させるだけね。しばらくは様子を見るべきかしら。
「詳しい居所は後ほど私が調べておきます。連れ戻す口実の件も、そのうちアイツと話合って決めることに致します」
「ありがとう、桂花」
「そしてもう一つあります」
私は巻き戻した投書を軽く揺らしながら言った。
「この投書を書いた者を私が見つけた次第、解雇させます」
「桂花?それは」
「これを書いたのが誰であろうと、以後秋蘭の二の舞いになります。余計なことに発展する未然に阻止いたします」
またこの軍に混乱を招くことがあることは絶対にあってはならない。何があってもあいつがまた軍を離脱する事態だけは止める。
「そこまで言うのなら、心当てがあるみたいね」
「心証はあります。ですが物証が見つかるまでは様子を見るだけです。今第一にすべきことはアイツの帰還です」
「…いいでしょう。その件はあなたに任せるわ。私だってこの件で彼をまた失うつもりはないわ」
昔の、アイツが帰ってきた直後の華琳さまならこんな風には言わなかったはずだった。アイツがご自分が離れる理由がないとはっきりと言い切ったはずだった。だけど西涼遠征と婚姻騒ぎの後、どうやら華琳さまは自信を失くした様子だった。もしかしたらだからこそアイツとの絆を証明したくてアイツを遠ざけるような状況を受け入れたのかもしれない。アイツとの関係がこんな事で絶たれるはずがないと自分に言い聞かせるために。
そんな華琳さまのご様子は、確かに覇王であるよりは一人の女だった。
<pf>
華琳さまに調査の許しを得て自分の執務室に戻った所、執務室の入り口の前に凪が私を待ち受けているのを見つけた。
凪の手には一つの竹簡が握られていた。
……どうも報告書ってわけではなさそうだった。
「凪、待たせてしまったみたいね」
「構いません。それよりもこれを…」
凪が持っていた竹簡を私に差し出して、私は覚悟を決めて竹簡を開き内容を読んだ。
「……有給休暇申請?」
「はい、結構余っていたはずなので、これを機に使ってしまおうと思いまして」
内心退職届が来るのではないかとすごく焦っていた私は胸を撫で下ろした。ところが、申請書を見ると有給を一ヶ月以上の期間だった。
「一応聞くけど、あなたが居ない間執務を見れる者が居るの?」
「沙和にお願いして置きました。長安での経験がいい薬になったのか嫌な顔もせず快く引き受けてくれました」
仮に彼女が長安に行ってなかったとしても今のあなたの頼みは断れそうにもないけどね。私だってこの有給を引き受けてなかったら凪はこの場で有給という名称を退職と書き換えて提出し直しかねなかった。
「言っておくけど、アイツの事はちゃんと連れ戻すわ。華琳さまだって本気でアイツのことを手放そうとしているわけではないわよ」
「当たり前です。しかし、だからと言って華琳さまを許せるわけではありません」
これを聞いているのが春蘭辺りならきっと逆上してきただろう。だけど私や春蘭にとって華琳さまは忠誠を誓った主であるように、凪にとってはアイツがそうだった。なのにそんなアイツが誰よりも信頼しているのは彼女らではなく華琳さまだった。凪にとって今回の華琳さまの行動は、そんな自分の主の信頼を裏切った行為。『許せない』という表現を使うのも当たり前だった。私が凪の立場だとしても対応はそう違わなかっただろうと思う。
「お二方が本気で互いを理解しあう関係だと、互いを想ってる仲になったと思っていました。でもそれは私の勝手な妄想だったみたいです」
「言いたいことは判るわ。だけど華琳さまにも華琳さまの事情があったのよ。こうするしかなかったの。これも華琳さまがアイツのことを信用しているからこそ…」
「二度も捕まえられた鳥だから、三度目も容易いであろうと、華琳さまはそうでもお思いなのですか」
「そうは言ってないじゃない。華琳さまもあなた達に劣らないぐらいアイツのことを大事に思っているわ」
「今回の件の限りではそうは思えないのですが」
決して華琳さまにとってアイツは軽い存在ではなかった。寧ろ今の華琳さまにとって、アイツは天下よりも重い存在だった。でも今の凪にはああ見えてしまうのも仕方のないことだった。せめて事前に公論されて居た場での判決だったら凪を納得させることもできたかもしれなかった。でも今回の華琳さまの独断は、きっと凪にとって耐え難いものなはずだった。
「今まで一刀様と華琳さまの間に気を使って前に出て声を出す事を謹んで来ました。お二方のの間の婚姻の話を聞いた時は少し驚きましたけど、もし私がその場に居たなら賛同していただろうと思います。一刀様にとって華琳さまはきっと大事な方です。なのにその結果がこんな仕打ちだなんて…こんなの一刀様が本人が耐えるとしても、部下である私が耐えれません」
「あなたの言い分は十分解ったわ。時間を頂戴。私が必ず元通りにしてみせるわ。だからあなたも早まったことはしないで頂戴」
「…解りました。桂花さまのお言葉を信じましょう。では私はこれで失礼いたします」
そして凪は去っていった。
沙和や真桜の様子も一応確認して置かなければならないと思うけど、凪がああしている以上、彼女たちも今回の決定に肯定的なはずはなかった。というより今回の決定に絶対的に同調する者なんて居るのだろうか。会議の場で誰も反対はしなかったが、逆に誰も声を出して賛同もしなかった。誰もが沈黙していた。あの春蘭さえも沈黙していた。春蘭がどう思ったかは分からないけれども、少なくとも彼女を含めた大半の人はこんな考えが頭によぎったのではないだろうか。
投書などまで書いてアイツに喧嘩を売ってきた命知らずは一体誰なのか。
「おや、桂花ちゃん、どこかお出かけですか?」
私を呼ぶ声に振り向くと、そこには稟と風が立っていた。
「華琳さまの所から丁度帰ってきただけよ。何?二人揃って私の所に」
「朝の件について、稟ちゃんが桂花ちゃんに聞きたいことがあるらしいですよ」
「……朝の件って、アイツの更迭の事?」
「はい、桂花ちゃんだって事前に知らなかったみたいですけど、華琳さまはなんと仰っていたのですか?」
風の問いに私は無言で稟の方を見た。
「投書があったそうよ。アイツに西涼遠征の責任を問うべきだって」
「遠征の責任?軍令違反についてではなくてですか」
稟のその問い返しに私は大体察しがついた。
「さて、どうだったかしらね。あまりちゃんと読んでいなかったからはっきりと覚えていないわ」
「……」
「聞きたいことはそれだけかしら」
「…もう一つ、桂花の意見を聞かせてください。華琳さまは本当に一刀殿との婚姻をお考えだったのでしょうか」
それこそ私に聞かないで欲しかったわ。理由は各々違ったものの、皆猛反対したそうだし、私だってその場にいたら多分発狂、そうでなくても賛成はしなかっただろうと思う。
「それこそアイツと華琳さまが自ら否定したと聞いたけれど?私がその場に居なかったから知らないけど」
「周りが反対するからそんな風にごまかしたのではないのですか。この謹慎も、実はあの件について噂が立たないようにするためと言ったら話の辻褄が合います」
そこまで分かっているなら私に聞く意味なんてないでしょうに。
「だから何?あなたは私に、華琳さまが単に自分の癡情劇を隠すために不当な処罰をアイツに下した、そう言いたいわけ?」
「そういうわけではありません。一刀殿の更迭は妥当だったと思います」
「……」
表情も変えずに言い切ったわね。
ぶっちゃけ、私は投書を書いたのは稟だと思い込んでいた。こいつの功名心は尋常じゃなかった。稟にとってアイツや私は政争の相手だった。単に功を競う相手として思っているのなら構わない。善意の競争だってできた。だけどこいつは私たちのことを『敵』だと思ってるみたいだった。こいつにとって今最優先目標は華琳さまをその智謀でささえることではなく、私たちを突き落とすことにあるみたいだった。
匿名の投書が本当に稟の仕業なら、秋蘭の二の舞いになる前に私はこいつを排除しなければならない。この軍に集まった諸将は皆華琳さまの覇道を第一に考えて働いている。それを蔑ろにして功名を優先する輩に重鎮になる資格はない。
「話は変わるけど、アイツは更迭されて、何故総指揮を執ったはあなたは何の処罰もないのかしらね」
「……どういう意味ですか」
「さっきもとぼけたつもりだったけど、あなた、今回の西涼征伐、まさか成功しているものだと思ってはいないでしょうね」
長安は半壊し、西涼の部族をまとめるための馬一家は逃走し、漢中の五斗米道の手助けがあってやっと西涼の不満を抑えられる現状。それも最後のは秋蘭の手柄だった。結果的に私たちの軍が西涼遠征で得たものは少なく、その過程で失ったものは多かった。
「今回の謹慎も本来なら指揮を執ったあなたが受けるべきだった。アイツは言うことを聞かなかったとか、あなたが居ない所で起きたことだとか、言い訳は幾らでも出来るでしょうけど、本来総指揮を任されたあなたが何の責任も問われずにアイツだけが謹慎だというのは、結局あなたは華琳さまにそれぐらいの器にしか見られて居ないということだから。あなたにはそれぐらいしか期待していなかったと意味なのよ」
「なっ!幾らなんでも言い過ぎではないですか!」
「今回の処罰であなたはすっきりしたみたいだけど、寧ろ嫉妬すべきなのよ。解らないの?今回の遠征で、結局あなたは大事なことは何ひとつ成し遂げてないのよ。それこそ残っていた私の方がまだ華琳さまに役立った方よ」
「…くっ!」
ここまで言われた稟は悔しいのか拳を握りしめていたが、それでも反論はして来なかった。
正直稟と風が遠征でやったことは決して軽い仕事ではなかった。実際軍の総指揮をとっていたのは稟だったし、長安を制圧したのも西涼連盟軍の本体を壊滅させたのも稟たちの功だった。だけど今稟が反論して来ないということは、その件を踏まえた上でも自分がしたことが少なかったと自ら思っているということ。結局自分がしたことはせいぜい用兵に長けた優秀な軍師の姿。でも稟が見せつけたかったのはその程度のものではなかったのだ。
劣等感。
今稟が背負っている感情はまさにそれだった。遅れた時間の差を埋められず、私たちと功の競い合いに勝てないという劣等感が稟には漂っていた。その劣等感はいつか焦りとなって、その焦りが己を、そして華琳さまを刺す。
そうなる前に止めなければならない。
「あなたはあなたが強い方面で活躍すればいいわ。無駄に私やアイツを競争対象にして軍に無駄な損耗をさせるのは辞めて頂戴。言いたいことはそれだけよね?それじゃあ私は政務に戻るから」
そして私は二人を廊下に残して政務室に入った。
私ははっきりと伝えたつもりだった。これでももしダメだったら、稟が投書を書いたという証拠を掴む次第に
稟を曹操軍から追い払う。