二十八話
愛理SIDE
「あそこは丞相と北郷一刀が向かった所ではないのか」
「はい、間違いありません」
見る見るうちに大きくなる真っ黒な煙を見ながら私は唇を噛み締めました。
五丈原は森と草原でできています。常夏ではあるもののここ最近西涼には雨が降っていません。木は枯れているはずですし風も強いです。火が広がり始まるとあっという間に五丈原は火の海に変わるでしょう。
「斥候からの報告はまだですか!」
私が興奮して叫ぶと横に居た陛下がびっくりして身を引きました。
そして私らしくない高い声に反応したかのように兵士さんが一人やってきました。その兵士さんは私が放った斥候ではなく、一刀様と華琳さまの護衛に向かった部隊の一人でした。彼の背中には矢が三本も刺さっていました。
「だ、誰かここに衛生兵を連れて来い!急げ!」
陛下が陣地を守っていた兵士たちに叫んでる間、私は私たちの元まで来て膝を折ったその兵士の前に座り込みました。
「あなたは…一刀様と曹操さまはどうしたのですか!」
「ほ、報告します……我々、北郷一刀様より…命を受け森で待機していたものの…突然襲いかかった西涼軍により私以外の皆は全滅」
「あう!じゃあお二方は…」
「……判りません。某はただ、この事を本陣に伝えることに頭がいっぱいで…」
「結構です。教えてくださってありがとうございます。すぐに衛兵が来ますから気を確かに持ってください」
「そ、そして…うっ」
話を続けようとした兵士さんはもう力尽きたのかその場に倒れました。
「衛生兵はまだですか!」
「ば……とう」
倒れた兵士さんの口から搾り出された敵軍の大将の名前に、衛兵を呼んでいた私は倒れた兵士さんに再び耳を傾げました。
「今、なんと言いました?」
「馬騰……敵の中で、馬騰の名前が…敵陣には…馬騰がいます……」
兵士さんはそこまで話すと気を失ってしまいました。兵士さんの最後の言葉を聞いて私はもちろん、陛下も驚愕しました。
「馬騰…あそこに馬騰が居るというのか!」
「あそこに馬騰が居るなら…馬騰が華琳さまを殺そうと森を包囲し火をつけたのでしょう」
「危ないではないか!すぐに救援部隊を…!」
その時衛生兵がやっと到着して倒れた兵士さんに救急措置をすると同時に、私が送った斥候が帰ってきました。内容はさっきの兵士さんが言った通り、馬騰が現れて森に火をつけたという内容でした。
「最初は五丈原出の兵士たちに命じましたが、彼らが命令を聞かないと天水から来た精鋭たちに彼らを殺せと命じて後、天水から来た三百の精鋭たちと共に火を置き、小屋を包囲しています」
「馬騰がここにいたなら最初から丞相たちを誘う罠だったに違いない。元直よ、今でも急いで救援を送るべきだ」
陛下の仰る通り助けに行きたい気持ちは私だって山々でした。でも、
「…天水の精鋭なら馬騰の親衛隊。馬騰の精鋭の中でも精鋭です。そんな戦士たちを揃わせた馬騰と戦うにはそれ相応の武将が率いる必要があります。なのにここにはそんな人がいません」
私の武と言っても、戦場で自分の身を守れば精一杯な程度。せめて霞さまが一緒に来てくれてるなら……。
「…救出は今は諦めます」
「なんだと!?」
「可能性の薄い救出作戦に兵を投入するわけにはいきません。向こうの方は一刀様を信じるしかありません」
陛下は驚愕しましたが、半端な数で助けに行ってもダメです。既にあそこは火と西涼の精鋭たちで囲まれていました。そんな所へ救援のためと兵を送り込んだ所で救出は難しいです。凪さんみたいな武将が居るならともかくこの編成にはそんな勇将は誰もいません。
「火は一刀様たちが向かった場所を中心に始まっています。これが一刀様と華琳さまを殺すための策であるなら、既に西涼の兵が周りを包囲しているはずです。この状況であそこを通ってお二方を救出するには大きな戦力を投入しなければなりません。私たちにそんな余裕はありません」
「余裕がないとはどういうことだ!他に何をすることがあるというのだ」
「消火作業です」
「…なんだと?」
馬騰はお二方を殺すためだけに火を置いたのかもしれませんが、森であんな火を一度起こせば初期に対応しないと五丈原を燃やし尽くすまで止まらないことは間違いありません。しかも五丈原に住む人たちで集めた兵にそれをやらせたとすれば既に外道の域です。
「これは長安での状況と同じです。謂わば青野戦術の一環です。五丈原は西涼防衛の衢地。ここを取られれば西涼は敗北を認めるも同じです。ですが、それでも五丈原が燃やし尽くされたしまったなら、結局のところ、全ての糾弾は華琳さまに向かうはずです。例え戦に勝つとしても、五丈原を燃やされ、そこに住む人たちを焼き殺したとなれば、西涼の民が華琳さまに従うことはなくなるでしょう。この火計の結果で五丈原が全焼したとなれば、それは事実上の曹操軍の敗北を意味します。馬一家を追い出したとしても西涼は私たちに従わないはずですから」
「……なら、どうすると言うのだ?」
「先ず五丈原が全焼することはなんとしても止めます」
私は地図に赤い駒を置き火の位置を表示しました。火は五丈原の北東側から始まって風に乗って他の方位に進むはずです。
「五丈原の地形は、東西で二里半、南北で十二里半の縦に長い構図になっています。そして表側を防衛のために植林した森が輪っかのように囲っていて、その中に砦を中心に村ができている形です。火が森を燃やし始め、風に乗り村にまで飛び火が移り始まるともう止められません。火の発生地は馬騰の精鋭たちが囲んでるので近くで消火することは難しいです。だから火の進行を止めるため、ここを防衛線とします」
私は火の発生源から東側に二里、西へ三里の所に木枝で森を断ち切るように置きました。
「火を止めると言っても、どうするのだ?」
「火は燃やすものがなければそれ以上進行出来ません。この線の中心で燃えるものを全て排除すれば後は飛び火に気をつけるだけで構いません」
「とは言っても、ここは森だ。木を全部切り落とすと言っても、時間が間に合わぬぞ」
「出来ます。こちらには真桜さんの作った投石機があります。これを使って木たちを倒していけば、作業が間に合います」
持ってきてて良かった!真桜さんが数が多すぎると怒られて置いていった投石機!
「西側はどうするのだ。あそこまでは投石機を持っていくことは出来ないぞ」
「西側に表示したここ。ここは天水からの街道がある場所です。それでも念を押して東側に向けて火事を起こします」
「こちらからわざと火を起こすのか?」
「小さな火です。人の力で消せるほどの火事を起こすのです。さっきも言いましたが燃やすものがなければ火は消えます。先に起きた火が木を焼きつくしたなら後から来た火は自然と止まります」
もちろん、消火に合火を使うことはとても危険です。下手すると合火のつもりで起こした火が火事を拡大するかもしれません。
「水の調達は手前の水源があるから難しくないはずです。馬騰の精鋭たちが抜けたおかげで、残った兵士たちは皆五丈原出身のはずです。陛下が前に出て彼らを扇動して頂ければ、彼らも消火作業を共にするはずです」
「…余は燃える洛陽を見た。人々の住処だったあそこを燃やすことは決して愉快なことではなかった。もう二度と余の民草が住処を失うことは見ておけぬ」
「陛下、これは非常に危険な策です。一刀様もおっしゃってましたが、向こうは戦場に立っている以上敵です。しかも大将である馬騰が居るこの場で彼らに味方の英雄を裏切らせるのは至難の業です」
「余はこのような地獄を何度も見てきたぞ。洛陽、そして長安も。全てを失う絶望感を感じているだろう彼らの気持ちをよく理解しているつもりだ。その仕事、余に出来ないなら誰にも出来ない!」
「陛下…」
「御輿を用意するが良い!やる時ははっきりとやるのだぞ!」
陛下の命令に近くに居た御輿を担う兵士たちが雄叫びを挙げました。というか居たんですね。
「しかし、元直よ。いくらなんでも丞相と北郷一刀を助けなければ我々の苦労は何の意味も持たぬぞ」
「……馬騰と精鋭たちを抜けて救出に向かうにはそれ相応の精鋭と、その部隊を統率できる将が必要です。私は消火作業の指示をしなければなりません」
「ならその任務、わたしに任せてくれないか」
初めて聞くその声にそっちの方に顔を向けた私は、その声の主人が誰か知り驚愕しました。
<pf>
華琳SIDE
火を見ていた司馬懿は門から一番遠くて暗い部屋の隅へ向かった。そしてそこに座るのかと思いきや木材で出来た床引っこ抜いた。
「こちらへ」
そう言った司馬懿は空けた床の下へ入っていった。
私と一刀は司馬懿の後を追ってが空けたの床の穴の下へ潜った。梯子を使って降りてきて再び地面を踏むとそこは木の代わりに大理石を使った部屋だった。中は没薬の匂いが充満していて頭がくらくらしそうなぐらいで、真ん中には鉛で作った棺が置いてあった。
「……見た目は吸われる方なのに悪趣味だな」
訳の分からないことをつぶやく一刀が先ず向かった所は没薬を炊いている香炉がある所だった。隣には兵法書などを置いた本棚があった。
「普段はここで生活していたようだな」
「最初の一、二年ぐらいは……あの頃はまだ術が不安定だったため、馬騰の近くに居なければ力が抜けてしまい自分では起き上がることも出来ませんでした」
「じゃあ、初めての一、二年はずっと馬騰がここに居たというのか?」
いつも五胡との戦で忙しい西涼で馬騰がそんなずっとこんな所に居られるわけはないのだけれど。
「療養を言い訳に良くここに住み着いていました。でも五胡との戦いがある時はどうしても行かなければいけなかったので、そんな時は部屋に没薬をありったけ炊いて、少女はあの棺の中で何もできずに寝ていました」
「眠れるのか」
「眠れません。食べることもなく、息もせず、ただ意識が残っているだけの屍です」
「今更聞くが、その目は造り物のはずなのに見えるのか?」
「この身体は既に目や声帯、他の内臓もなくなっています。少女が見て聞いて喋れるのは馬騰がかけた術のおかげです…もとい、死者を縛り付ける呪いのようなものですけれど」
彼女がそんな皮肉な言葉を言う度に私の胸は締め付けられた。
「ここに居たら例え小屋の上が全焼しても無事なはずです。…馬鹿な人、自分で作ったこの部屋のことを忘れて無駄な足掻きを…」
「本当に知らずにやったのだろうか。現に俺たちはここに閉じ込められている状態だ。火を起こすと無理やり脱出するかここに閉じこもるかの二択。前者なら包囲した西涼軍に捕まるだろうし、いつまでも出てこなければ向こうもここに居るとわかるだろう」
「少なくともここに居れば火が全てを萌え尽くすまでここに来ることは出来ません。それまでの時間は稼げるでしょう。馬騰の命はあとわずかです」
「その根拠は?」
「先も言ったように、馬騰の魂はもう削られきっています。あの人がまだ生きていられたのは、少女への想いと曹操さまへの復讐心があったからこそ。そこで少女の裏切りを知れば、馬騰の精神はもう病んだ身体を保つことは出来ないはずです」
「自分の怒りに耐えず喀血するのでもここでのんびり待とうというのか。そんな人の命がお前の言い様に…」
「一刀、もう良いわ」
私は司馬懿を責める一刀を止めた。
「私たちで喧嘩しあってる場合ではないわ」
「…他にすることもないだろう。…アイツが間に合って来てくれるのを期待するしかないか」
一刀はそう呟いて司馬懿から離れて私の後ろに行った。
「…この五丈原が、馬騰の死場です。あの人と同じ地に埋まるのは不愉快ですが…」
馬騰の死をあまりにも簡単に吐き捨てる司馬懿の姿に私は腹が立った。
「今あなたが言っている馬騰の死が、つまりあなた自身の死だと知っていてそんな平然と言えるの?」
「……曹操さま、少女はとうの昔死んでおります。ただ戻るべき所へ戻るだけです」
そう答える司馬懿の声はあまりにも落ち着いていた。
どうしてよ…。
「でも…どうして私を憎まなかったの?」
「…曹操さまに殺されることもまた、少女の望んだことの一つ。憎しみなどあるはずもありません」
「しかし…」
「それに、憎めませんから……慕った方を。今でも慕っている方を…」
司馬懿は私に向けて口角を上げながら微笑んだ。恐らく、彼女にとってそれが数少ない感情の表現の仕方だった。彼女の声は会ってからずっと無感情で、瑠璃細工の目からは何も感じられなかった。
彼女が私を慕っていた…あれだけ私を拒んだ挙句、私は彼女を殺してしまったというのに、彼女にとってはそれさえも私のためだった。それだけで足らず死んだ後でもこうして私のために働いたという。
「司馬懿。私は…」
「悪いが、こいつは売約済みだ」
私が司馬懿に何か言おうとしてる所、突然一刀が後ろから腕で私を抱きしめた。
「ちょ、ちょっと、何してるのよ」
私は彼の異常な行動に驚いて抜けだそうとしたけど、ついさっきまで毒に身体をやられた人とは思えない強さで腕を固めながら彼の目は司馬懿の方を突き刺すように睨んでいた。
「不思議ですね」
その様子を見ていた司馬懿は呟いた。
「初めて会った時もそうでしたけど、あなたのことを見ていると、空っぽのはずの少女少女の体の奥から何か黒いものが出てきて…あなたに酷いことをしたくなります。馬騰へ感じた『憎悪』とは違う他の何かを感じます」
「……」
「あなたの居るその場所が少女の居場所であって欲しいのに…」
司馬懿の骨だけが残った手がゆっくりと私の顔に近づいて、私の顔に届く拳一個分ぐらい間を空けたところで止まった。
「少女にはそんな勇気がありませんでした」
そう言った司馬懿はそのまま手を下ろした。
「今思えば、たとえ側で仕えなくても、生きていて曹操さまと距離をおきながら仕える方法もあったはずなのに…あの頃の少女は何もかもにも臆病すぎました。他の家族みたいに、曹操さまに見つかった時から結局は死が少女の終点だったとばかり思い込んでいました」
「司馬懿…」
「だけどあの時生きているべきでした。生きて曹操さまのお側でなくとも…いえ、例え天下のすべてを滅ぼすとしてもあなたのために居るべきでした」
下ろした手のひらーもっとも、すでに白骨になっている手だったがーを見つめていた司馬懿はゆっくりと拳を握りつつ再び私たちの方を見た。
「あなたが羨ましいです」
「……」
「少女の分まで…とは言いませんが、どうか曹操さまをお守りください。でなければ…再び死んでも呪い殺させて頂きますので」
一刀は結局司馬懿の話には一切答えなかった。
「これを…」
すると司馬懿は本棚に行って、巻物を一つ私に持ってきた。私が一刀の捕縛から抜けだして来て、その巻物を受け取ろうとしたけど、司馬懿が手を離してくれなかった。
「この手紙は、曹操さまが西涼を正しく占領するまで大きな力になるはずです。これがあれば西涼の部族たちも曹操さまを西涼の新たな覇者としても認めることでしょう」
「この手紙がいったいなんだっというの?」
「……」
司馬懿が手を離すと、私は巻物を開いた。内容はこうだった。
<pf>
『曹孟徳へ
儂、馬寿成はこの手紙を曹孟徳に残す。
貴様と縁を切り数年が経つ。あの事件があって以来、儂は貴様を恨んでいた。だがそれは貴様が仲達を殺したからだけではなかった。儂が乱世になるだろう後世の小童たちの中で唯一認めた英雄の卵。儂がこの槍を賭けて命を惜しまず戦える相手だと思った貴様を失ってしまったからだった。
だが貴様の選択は、間違っていなかったようだ。
曹孟徳よ、儂は愚かなことをしてしまった。もう取り返しのつかないほどに愚かなことを。儂は妖術で司馬仲達を蘇らせてしまった。儂の歪んだ想いがそうさせてしまったのだ。だが蘇った司馬仲達は儂が知っている彼女ではなかった。
蘇った司馬仲達の貴様への恨みは儂のそれを遙かに上回るものだった。奴は儂の精神を侵し、西涼を貴様への復讐のために利用しようとしている。儂にはもうそれを止めることが出来ない。だからこの手紙がもし無事に貴様に届くのであれば、西涼の盟主としての頼みだ。西涼へ来るが良い。西涼に来て儂を倒し、司馬仲達をもう一度殺せ。西涼の命を貴様に託す。貴様がまだ儂が知っているような英雄であるなら、必ず西涼を守ってくれると信じている。
最後儂が西涼に取り返しのつかないことをやってしまったら、娘と、儂を支えてくれた西涼の戦士たちにすまないと伝えてくれ。
西涼盟主馬寿成より』
<pf>
「これは……何?」
「馬騰が数年前曹操さまに残した…手紙です」
手紙の内容をまとめると、つまり蘇らせた司馬仲達が自分の操り西涼を自分のものにしているからそんな自分のかわりに西涼を治めてくれ、そういう内容。つまり私が西涼を攻める大義名分と馬騰の遺志を継ぐ正当性を与えるものだった。
だけど、
「…本当に、馬騰がこの手紙を書いたというの?」
「……」
「答えなさい。これは本当に馬騰の自筆なの?それともあなたが作った偽物なの?」
私は司馬懿に向かって怒鳴った。司馬懿がこの手紙を私にくれた理由は分かっていた。この手紙があれば、西涼の残存勢力に私が西涼を攻めた理由を正当化できるだけでなく、この戦で起こった全ての蛮行を馬騰と司馬懿のせいにすることができる。謂わばこれは死んだ司馬懿以外の人たちー私を含めたーにとっての免罪符だった。
だけどこれが偽の手紙であるなら、これを使うというのは西涼の人々、残された西涼の戦士たちへの欺瞞であった。
「少女がそれが本物だと申し上げれば、今の曹操さまはをれを信じてくださるのでしょうか」
「……」
「偽物というのなら、それを使わず曹操さまが西涼を治めることができるのでしょうか」
「……司馬懿、あなたには未だに悪いと思っているわ。でも、これだから…あなたがこんな人だから、私はあなたを軍師に出来ないというのよ」
この娘には誇りというのか理解できないのでしょうね。戦場で戦う敵に対して礼儀を保つということの意味がわからないのでしょうね。例え自分を目の敵にする相手に対しても、決して人として越えては行けない線があるということを理解できないのでしょうね。
私は部屋に没薬を炊いている火にその巻物を入れた。
「その巻物がいなければ、曹操さまは西涼の敵とされることでしょう。それだけでなく、天下の人々が曹操さまを糾弾するはずです」
「例え天下の人々に指差されるとしても構わないわ。私は私自身に潔い覇王になるわ。こんな方法で、馬騰の誇りを、そして死んだあなたの名誉を穢すことなんかしない。例えそれで西涼を手に入れられなくなるとしてもよ」
「…その選択のせいで、曹操さまの覇道が終わってしまってもですか」
「あなたと私は行く道が違いすぎるわ、司馬懿」
私は司馬懿をまっすぐ睨みながら言った。
「あなたに、私の覇道を評する資格はないわ」
<pf>
馬騰SIDE
「馬騰殿!火が強すぎます!ここを引き上げてください」
「ならぬ。曹操がここに来るか焼き死ぬまで包囲網を維持しろ」
赤い。目に見える全てが赤く燃えておった。
だが足りぬ。
こんな火では儂の胸の中の怒りの炎に比べればまだまだ小さい。
「このままでは我々も火に巻き込まれてしまいます」
「それがどうした。西涼の戦士であるなら死ぬことを恐れるな。その場で焼き死んでも構わぬ。位置を死守しろ」
「…これではただの無駄死だ!」
「否、違うな!」
儂は剣を抜いて儂に文句を言った兵士を一気に斬った。
「うぐっ…」
「無駄死とはこういうことだ。戦場に立って死を恐れる腑抜けどもが…!」
その場に倒れる兵士を見て回りの連中の視線が儂に集まった。皆して恐怖に怯える腰抜けた顔ばかりだ。腑抜けが…!それでも貴様らが西涼の戦士と言えるのか!
「今立っているその場を離れる奴がおったら儂の手で斬ってくれる!誇りを捨てて犬死にするか、誇りを持って死ぬかだ!ここで曹孟徳を確実に殺さなければ、貴様らが置いてきた家族たちは曹操軍の手に殺されるだろ!それでも構わぬと言う奴は逃げてみるがいい!」
家族たちのことを言わされた兵士たちは動かなかった。動けないのじゃろ。戦の残酷さを誰よりもよくわかっている西涼の戦士たちじゃ。五胡との戦いでは、逃亡は即ち自分たちが守る家族の死を意味した。だから我々は後に引けない。その場で命を捨てる覚悟を持って戦ってこそ西涼の戦士なのだ。
「最初からこうするべきだった…!」
儂のやり方で、あいつを殺していればここまで来ることもなかっただろうに…。仲達…!貴様まで儂を裏切りおってからに!!
「ぐふっ!」
「馬騰さま!」
腹から何か込上がってくるのを吐いてみると、赤黒い塊が芝生に落ちた。
ああ、構わぬ。ここが儂の死場よ。だがまだだ。曹孟徳、貴様の死に様を見る前には儂はまだ死ねぬ。死んだ貴様の身体を二度と起き上がれないように儂の足で砕く前までは倒れぬ。
「ぐぉっ!」
その時だった。空を切る音と共に突然戦士一人が首を抑えながら倒れていた。その首には矢が刺さっていた。
「敵襲だ!」
「どこから飛んできた!」
主を守りに来おったか。雑魚どもめが。孟徳が危険だと貴様らが怒り狂って飛んでくることぐらい知っておったわ。
「慌てるな!貴様らは西涼の戦士だ!敵を向かい打て!」
儂がそう叫んだ時、もう一人が倒れた。
「どこから打ってるのか見当たりません!」
もう一人。
「どこだ!一体どこから…!」
矢は一本ずつしか飛んでこない。それに飛んでくる方角は…
「そこか!」
儂は残っていた麻痺矢を矢が飛んでくる方角に向けた。しかし、
「?!」
儂が矢を向けた方は木がびっしり立ってきて、狙撃できるような場所は見当たらなかった。いや、そもそも飛んできている矢は短弓に射る短いものだった。遠くからは当たるはずがなかった。
「うぐっ」
そう思ってる時に後ろからもう一人兵が倒れた。後ろを向くと、今度は違う方角から矢を受けていた。一人ではないというのか。いや、それにしてもおかしい。こんな森の中で姿の見えぬ距離から狙撃できるはずがない。しかも、狙撃するのなら真っ先に儂を狙うはず。何故兵士たちばかりを狙っている?
そう考えている間にもどんどん周りの兵士たちは減っていった。中では互いに背中を合わせながら対応しようとする者たちも居たが無駄だった。逃げようとした連中も、火の中に飛び込もうとした奴まで矢に頭を打たれて倒れた。
やがて、儂一人になった。
「…もう出てきたらどうじゃ」
儂だけを最後まで残したということは、つまり儂はこんな風には殺さないということ。自分の主を殺そうとする奴になら、顔を合わせて殺すということ。
「随分と変わられましたね、馬寿成殿」
そんな落ち着いた声が聞こえたのは、なんと上の方からだった。儂が声がした方向の空を見上げると同時に、上から人影が落ちてきて、安定して地面に着地した。
「…まさか木の上から狙撃していたとは、こんな森の中でよくもこれだけの数の兵を矢一つも無駄にせずに殺せたものだな」
「私も腕を上げましたからね。『一矢一殺』と言うのは半端な腕で名乗れる二つ名ではありません」
「名ばかりを気にするのは若い連中の悪いくせよ」
「どうでしょうか。過去の亡霊に取り憑かれているあなたに言われたくはありません」
「そういう貴様も正道を歩いた奴ではないだろ。まさか助けに来るのが、他でもない主を噛み付こうとした捨てられた犬とはの…」
挑発の言葉が終わるとほぼ同時に飛んでくる矢を、儂は剣で弾き返した。
「ふん、貴様の弓では死に怯えた腑抜けどもは倒せてもそんな腕じゃ儂は倒せぬわ!」
「それはどうでしょうか」
奴は持っていた短弓を捨てて背中の普段使う長弓と矢を持ちながら言った。
「確かに昔の私と…昔のあなたでは話にならなかったかもしれない。だが今の私は、例えそれが全盛期のあなただとしても止められない」
「ほざけ!捨てられた番犬の分際で、儂に勝てると思うか!」
儂は剣を持って奴に突撃した。飛んでくる何本の矢弾きながらやがて間合いを詰めようとした瞬間、心臓が燃え尽きるような痛みが走って、儂は一瞬固まった。そしてその一瞬を見逃さなかった奴は弓を持って儂の後ろに回りこむと同時に弓弦を儂の首筋に掛けた。
ああ…
「仲達…」
何故だったのだ。何故儂ではダメだったのだ…。
<pf>
「死んでも目を閉じないのですか…それだけ我が主が憎かったのですか…」
……
「……さま、敵の掃討、完了しました」
「…直ぐに本隊に伝えろ。ここを中心に消火作業を、一時でも早く華琳さまを助け出さなければならない」
<pf>
華琳SIDE
「左様ですか…」
司馬懿の言葉からは感情を感じられなかった。驚いているのか、傷ついたのかもわからなかったけど、私は心を保った。それは私の覇道だった。誰からの情にも流されてはならないものだった。それが例え司馬懿、あなただとしても…。
「…ならば少女に、曹操さまの道を知ることは出来ません。ですが、あの世でどうか、曹操さまの覇道が成るようにと祈っていましょう」
そう言うと同時に司馬懿の身体から何か白い粉のようなものが落ちていくのが見えた。
「司馬懿?」
「…時間のようですね」
地面に積もっていく白い粉は司馬懿の骨だった。手から少しずつ人の形が崩れ落ちる様を見て、私は驚いて何も言えず司馬懿を見ていた。
「例え報われないとしても、曹操さまのためにこの知謀を使いたいという夢は叶いました。もう、悔いはありません」
「司馬懿…」
その時後ろで黙っていた一刀が私の横に立った。
「これが最後だ。言いたいことがあるなら今言え」
「…いえ、もうないわ。彼女の気持ちが分かったし…それでも私は、彼女の策を使うことは出来なかった」
「君主がいつも軍師の策を使うわけではない。軍師が出した策が使えれなければ、その軍師は即首にするのか」
「一刀?」
「部下を選ぶにおいて一番大切なのはお前の好みでも、そいつの実力でもない。互いにどれだけ信頼感が持てるか、それが一番重要だ」
「……」
「だからこの世界のお前らはアレをやるのではなかったのか」
少しの間一刀を見つめていた私は、やっと彼の言いたいことが何か気づいた。
本当にもう時間がなかった。
「司馬懿!」
私が慌ただしく司馬懿を呼んだ時、もう肩のところまで消えて脚からもどんどん上に上がって来ている司馬懿が私をずっと見つめていた。
「私はあなたの策はのめなかった。それでも、あなたが私のために働いてくれたその気持ちはちゃんと伝わったわ」
「……ありがとうございます。それで十分です」
「いいえ、まだ足りないわ」
私は司馬懿の前にもう一歩近づいて言った。
「名前は曹操、字は孟徳。真名は華琳」
「…!」
「私の覇道を支えようとしたあなたに最大の信頼を込めて、この真名をあなたに預けましょう」
「……」
気のせいだろうか。まだ残っている彼女の身体が震えているように見えた。
「…名前は司馬懿、字は仲達……真名は紗江…あなたの家臣として散ることを、最高の光栄の覚えます。ありがとうございました、華琳さま」
その言葉を最後に、彼女の身体は全て灰になって落ちて、彼女が被っていた外套
がその上に落ちた。
「…ありがとう、紗江」
また出会えて嬉しかったわ。
<pf>
残された司馬懿…紗江の遺骨を、それを使えと言わんばかりに用意されてあった壷に入れ、彼女が使っていた外套で包んだ。時間が経って、天井から騒ぎの音が聞こえてきた。
「迎えが来たようだな」
「馬騰の残党の可能性もあるわ」
「馬騰が死んだことは間違いない。ここまでこんな多数が来れたとしたら消火作業を行ったということ。なら『友軍』なのは間違いないだろう」
彼の予測に同意した私は頭を頷いた。
「とりあえず、俺が外に出てみよう」
一刀はそう言ってさっき降りてきた梯子を上って、隠されている床の扉を開けた。
「…よう」
「一刀さまあああ!!」
外から喜び半分、不安半分で泣きながら一刀の名前を叫ぶ愛理の声が聞こえた。
「離れろ。兵たちの前だろうが体面を保て!」
一刀がそう言ったが、愛理の泣き声は止まなかった。
「その中に丞相もいるのか」
陛下までこちらにいらっしゃるの!?
「…お前は何故来た」
「失敬な。余が汝らをどれだけ心配したかわからないのか」
「それはありがたい。次からは絶対来るな」
彼は梯子を登り切ると私は梯子の前に立った。
「丞相、無事か」
「ええ、大丈夫です。それより誰かこれを持って…気をつけて…」
私は登る前に紗江の遺骨が入った壷を上に持たせた後、私も梯子を上って皆と再開した。
「あれは何だ?」
「紗江…司馬懿の遺骨です」
「遺骨…蘇ったという話は偽りだったのか」
「確かに蘇っていました。恐らく、外の馬騰が死んだことで彼女の術の解けたのでしょう」
「なるほど…。あ、丞相、馬騰なのだが…」
「はい?」
私は陛下が指差す方を見た。そこには敵将の首級を入れる四角い箱があった。そしてその箱を持っているのは…。
「華琳さま」
「……秋蘭」
馬騰の首級を持った秋蘭が私に近づいてきた。そして何歩前のところで、その場に跪いた秋蘭は首級を両手で上げながら頭を下げた。
「馬騰の首級をこちらに…」
「…顔をあげなさい、秋蘭」
秋蘭が顔を上げると、私はその顔をじっくりと見つめた。顔や腕に離れた時にはなかった傷跡なんてないだろうかと細密に確認した後、私はやっと安心して跪いた彼女の前に腰を下ろして彼女を抱きしめることが出来た。
「か、華琳さま!」
「良く帰ってきたわ、秋蘭」
馬鹿な娘。
彼女は私の元に帰ってくるための武功のつもりで馬騰を斬りに行く姿が目に見えるようだった。そもそもそんなものは必要なかったのに。あなたがただ私の困った時飛んできてくれたことだけで十分だったのに…。
<pf>
三日後、私たちは五丈原の後処理を終わらせ天水に向かった。稟たちが馬超の部隊を突破して到着したのとほぼ同じ時期だった。
稟の報告によると、馬超が最後に全面戦を挑んできたものの、数の差は明らかだったため、いくら足の早い騎馬でも、乱戦になってしまうと動けず、一部の部隊が天水に向かう陽動を防ぎきれず逃亡。馬超及び馬家の人たちは捕らえることが出来なかったそうだった。
天水を占領したことで、西涼は我々のものになった。が、それは表面的なものでしかない。長らく馬騰と私の間は悪かった。そのせいで西涼の人々も、私に対しての評価は悪いものばかりだった。力で制圧した今こそまだ静かだが、いつまた反旗を起こすか、特に逃げた馬超が帰ってくればもう一度命懸けの勝負を挑んでくるかもしれなかった。一生を戦いぬく西涼の戦士たちの誇りとはそういうものだった。
西涼を如何にして完全に我が手に治めるか、そして半壊された長安をどうやって復旧するかが、以後の宿題となっていた。