『緋色のショール――雪の丘に帰る愛』
『緋色のショール――雪の丘に帰る愛』
十二月の北風が、ランベール山脈の尾根を容赦なく吹き抜けていた。
国境にほど近い高地の領地、羊の丘は、深い雪に閉ざされていた。
夏には緑の斜面を羊たちが埋め尽くし、牧童の歌声が谷間に響いていた。しかし今は、古い石造りの教会も、点在する小作人たちの家も、降り積もる雪の下でひっそりと息を潜めている。
丘の麓に建つ伯爵家の館も、例外ではなかった。
かつては大勢の使用人が行き交い、暖炉には絶えず薪がくべられていた館も、今では使われない部屋が増え、廊下には冷たい風が忍び込んでいた。
その小さな居間で、伯爵夫人マリア・ド・ランベールは、一通の手紙を読み終えたところだった。
『奥方様のお取り計らいにより、今年も村の子供たちは飢えずに冬を越せそうです。亡き先代伯爵夫人も、さぞお喜びになることでしょう』
村の司祭から届いた礼状だった。
マリアはそっと紙を畳み、暖炉の上に置いた。
薪が小さく爆ぜる。
彼女の指には、かつて結婚の日に夫から贈られた、質素な銀の指輪が光っていた。
夫のジュリアン伯爵が家を去ってから、三年目の冬だった。
五年前、羊の丘を襲った大飢饉は、多くの命を奪った。
ジュリアンは若い領主として、昼夜を問わず領民の救済に奔走した。私財を投じ、食糧を買い集め、病人のもとへ自ら足を運んだ。
それでも救えない命があった。
飢饉のさなか、彼が誰よりも慕っていた母が病に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
それを境に、ジュリアンは変わってしまった。
人々の感謝の言葉にも笑わなくなり、礼拝にも姿を見せなくなった。夜ごと酒を飲み、やがて隣領の男爵令嬢オディールが催す華やかな宴に通うようになった。
そして、ある春の日。
『もう、あの館には戻らない』
そう言い残し、彼は家を出た。
以来、三年。
マリアは夫から一通の手紙も受け取っていなかった。
それでも、彼女は毎晩祈り続けた。
けれど、祈ることは、決して容易ではなかった。
ある夜など、夫の名を口にした途端、胸の奥から激しい怒りが込み上げてきたこともある。
なぜ私を置いていったのですか。
なぜ、あの人のもとへ行ったのですか。
私の何が足りなかったのですか。
そう問いかけたくなる夜が、幾度もあった。
あるときは、祈祷書を閉じたまま、朝まで泣き明かした。
それでも翌朝、マリアは再び祈祷書を開いた。
夫の過ちを正しいと思ったからではない。
傷つかなかったからでもない。
ただ、かつて自分を愛してくれた人が、暗闇の中で道を失ったまま生涯を終えることだけは、どうしても望めなかったのだ。
「主よ……」
マリアは暖炉の前で静かに膝をついた。
「どうか、あの方の心に光をお与えください。私のもとへ帰らずとも構いません。ただ、もう一度、ご自分の魂を取り戻してくださいますように」
祈り終えると、彼女は窓辺に立った。
雪の向こうには、夫が最後に越えていった峠がある。
あの日も、空はこんなふうに灰色だった。
マリアは窓硝子にそっと指を触れた。
「……ジュリアン様。どうか、ご無事で」
その声は、冬の静寂に吸い込まれていった。
* * *
同じ頃。
羊の丘を見下ろす隣領の豪奢な別邸では、巨大な暖炉が赤々と燃えていた。
磨き上げられた大理石の床。金糸を織り込んだ絨毯。天井から吊り下げられた硝子の燭台。
そこには、冬の貧しさなど存在しないかのようだった。
しかし、ジュリアンの心は、どこまでも冷え切っていた。
彼は窓辺に立ち、雪に霞む山並みを見つめていた。
三年前より頬は痩せ、目元には深い疲労が刻まれている。
その手には、一通の手紙が握られていた。
差出人は、故郷の老司祭だった。
『ジュリアン様。
突然のお便りをお許しください。
今年の冬も、羊の丘は厳しい寒さに見舞われております。
しかし、奥方様は領民を見捨てることなく、ご自身の宝飾品や衣装を売り払い、食糧と薪を買い求めておられます。
先日、村の幼子が奥方様に尋ねました。
「伯爵様は、もう帰ってこないの?」
奥方様はしばらく黙っておられましたが、やがて微笑んで、こうお答えになりました。
「あの方が帰る道を忘れないように、私は毎晩、窓に灯りをともしているのよ」
ジュリアン様。
私はあなたを責めるために、この手紙を書いているのではありません。
ただ、あなたの帰る家には、今も灯りがともっていることを、お伝えしたかったのです』
ジュリアンは、何度もその一節を読み返していた。
帰る家には、今も灯りがともっている。
その言葉が、胸の奥深くに突き刺さっていた。
三年間。
自分は何をしていたのだろう。
母を失った悲しみに耐えきれず、領主としての責任から逃げ、妻の愛からも目を背けた。
オディールのもとで過ごした日々は、最初こそ甘美だった。
酒を飲めば、苦しみを忘れられた。
夜会で笑えば、母の死を思い出さずに済んだ。
しかし、宴が終わるたびに、胸の空洞は大きくなっていった。
何よりも恐ろしかったのは、いつしか自分が、故郷の人々の顔さえ思い出さなくなっていたことだった。
「……マリア」
声に出した途端、目頭が熱くなった。
彼女は今も、あの寒い館で暮らしている。
自分が放り出した責任を背負い、領民を守りながら。
それなのに、自分の帰る道を照らしてくれている。
「……私は、なんということを」
ジュリアンは顔を覆った。
そのとき、背後から衣擦れの音がした。
「ジュリアン?」
オディールだった。
深紅の絹のドレスを纏い、金色の髪を美しく結い上げた彼女は、銀の盆に載せた蒸留酒を手にしていた。
「また、あの陰気な故郷を眺めていらっしゃるの?」
ジュリアンは答えなかった。
オディールは彼の肩に白い腕を回した。
「今夜は楽しい宴にしましょう。都から音楽家を呼んだのよ。あなたの好きな林檎の蒸留酒も用意したわ」
「……オディール」
「なあに?」
「私は、帰ろうと思う」
彼女の指が止まった。
「……どこへ?」
「羊の丘へ。マリアのもとへ」
しばらく、暖炉の薪が爆ぜる音だけが響いた。
やがて、オディールが小さく笑った。
「冗談でしょう?」
「冗談ではない」
「三年もここで暮らしたのよ。今さら、あの女のところへ帰るというの?」
「……ああ」
「私を捨てて?」
その声には、先ほどまでの甘さがなかった。
ジュリアンはゆっくりと振り返った。
「あなたには感謝している。母を失い、何もかもが嫌になっていた私を、あなたは受け入れてくれた」
「だったら!」
「だが、私はその優しさに甘え、自分の責任から逃げ続けた。あなたにも、マリアにも、不誠実だった」
オディールの唇が震えた。
「……私との三年間は、何だったの?」
ジュリアンは言葉を失った。
「あなたが笑ってくれた夜も、私の手を取って踊ってくれた日も、私にとっては本物だったのよ」
「……オディール」
「私は、あなたを愛していたわ」
その声は、今にも崩れそうだった。
ジュリアンは静かに頭を下げた。
「……すまない」
その一言が、彼女の心を深く傷つけた。
オディールは目を伏せた。
そして、ゆっくりと微笑んだ。
「……そう。そこまで決めているのなら、もう止めないわ」
「ありがとう」
「ただし、最後に一杯だけ。三年間を共に過ごした私への、せめてもの礼儀として」
彼女は銀の盆を卓上に置いた。
琥珀色の蒸留酒が、硝子の杯の中で揺れている。
ジュリアンが外套を取りに隣室へ向かった隙に、オディールは小さな薬瓶を取り出した。
病床の父のために処方された、強い眠りをもたらす薬だった。
彼女は震える手で、薬を酒に混ぜた。
その指先は、氷のように冷たかった。
(……行かせない)
心の中で、誰かが囁いた。
(あの女のもとへ帰るくらいなら……)
けれど、その先を考えることを、オディールは拒んだ。
ジュリアンが戻ってきた。
「……用意ができた」
「ええ。では、最後の乾杯を」
彼女は杯を差し出した。
ジュリアンは静かに受け取った。
「オディール。あなたにも、いつか心の安らぎが訪れることを祈っている」
「……お優しいのね」
オディールは微笑んだ。
その目には、涙が浮かんでいた。
ジュリアンは杯を飲み干した。
そして、厚い毛皮の外套を羽織り、扉へと向かった。
「……さようなら」
「……さようなら、ジュリアン」
重い扉が閉まった。
その瞬間、オディールの膝から力が抜けた。
彼女は暖炉の前に崩れ落ち、両手で顔を覆った。
「……どうして」
声は、誰にも届かなかった。
「どうして、私では駄目だったの……」
外では、吹雪が激しさを増していた。
* * *
ジュリアンは、雪の峠道を歩いていた。
風が容赦なく頬を打ち、膝まで積もった雪が足を奪う。
しかし、彼の胸には、久しく忘れていた温もりがあった。
帰るのだ。
あの家へ。
マリアのもとへ。
許されるとは思っていなかった。
彼女が自分を拒んだとしても、それは当然のことだった。
それでも、帰らなければならない。
自分が犯した過ちを認め、領民に頭を下げ、失われた歳月を少しずつ償わなければならない。
(……今度こそ、逃げない)
ジュリアンは胸元に手を当てた。
そこには、小さな包みがあった。
都の織物職人に注文していた、緋色の羊毛のショール。
結婚した最初の冬、マリアは古い肩掛けを羽織りながら、笑って言ったことがあった。
『いつか、羊の丘で採れた一番柔らかな毛で、赤いショールを織っていただきたいわ』
『なぜ赤なんだい?』
『雪の日でも、あなたが遠くから私を見つけられるでしょう?』
その言葉を、ジュリアンは長いあいだ忘れていた。
だが、老司祭の手紙を読んだ夜、突然思い出したのだ。
あの頃のマリアの笑顔を。
寒い朝、彼女が淹れてくれた温かな茶を。
疲れて帰った自分を、何も言わずに抱きしめてくれた腕を。
(……マリア)
ジュリアンはショールの包みを抱きしめた。
(今度こそ、君を寒い思いにはさせない)
そのときだった。
足元がふらついた。
「……?」
最初は疲労のせいだと思った。
だが、歩みを進めるほど、視界が奇妙に揺れ始めた。
頭が重い。
まぶたが落ちる。
身体の奥から、抗いがたい眠気が押し寄せてくる。
「……なぜだ……」
ジュリアンは近くの岩に手をついた。
息が荒くなる。
その瞬間、オディールの差し出した酒が脳裏をよぎった。
「……まさか」
理解したときには、もう遅かった。
足がもつれ、膝が雪に沈んだ。
「……くっ……!」
立ち上がろうとしても、身体が言うことを聞かない。
吹雪が彼の肩を叩き、雪が外套の襟から入り込んでくる。
ジュリアンは必死に前へ進もうとした。
一歩。
また一歩。
しかし、とうとう力尽き、雪の中に倒れ込んだ。
(……こんなところで……)
歯を食いしばる。
(まだ、マリアに謝っていない……)
胸が張り裂けそうだった。
自分がしたことを、すべて話したかった。
許されなくてもよかった。
ただ、彼女の前で膝をつき、心から謝りたかった。
そして、できることなら。
もう一度、あの家の暖炉に薪をくべたかった。
(……私は、生きて償いたかったのだ……)
涙が滲んだ。
そのとき、外套の内側に入れていた手紙のことを思い出した。
別邸を出る前、マリアに渡すつもりで書き始めた手紙だった。
まだ封をしていない。
ジュリアンは震える手で、それを取り出した。
すでに書かれていた文字を、雪明かりの中で見つめる。
『マリア。
何から書けばよいのか、分からない。
私はあなたを裏切り、領民を見捨て、自分の弱さから逃げ続けた。
母を失った悲しみを言い訳にして、あなたの悲しみを見ようともしなかった。
あなたが私を許さなくても、私はそれを受け入れる。
それでも、私は帰りたい。
あなたの前で罪を認め、もう一度、誠実に生き直したい。
どうか、私に償う機会を与えてほしい』
ジュリアンは手紙を胸に押し当てた。
(……マリア)
彼は残された力を振り絞り、紙の余白に短い言葉を書き加えた。
『帰り着けず、すまない。
けれど、最後に思い浮かぶのは、あなたの笑顔だけだ。
ありがとう。
どうか、生きて幸せになってほしい。
愛している。』
ペンが指から滑り落ちた。
ジュリアンは手紙を油紙に包み、緋色のショールとともに胸元へしまった。
吹雪の音が遠くなっていく。
身体はもう、ほとんど動かなかった。
それでも、彼は遠い故郷の灯りを思い浮かべていた。
暖炉の前に座るマリア。
静かに祈祷書を開く横顔。
自分を見つけると、少しだけ微笑む、あの優しい瞳。
「……マリア……」
かすれた声が、白い闇に消えた。
「……帰りたかった……」
ジュリアンは目を閉じた。
その頬を、一筋の涙が伝った。
やがて雪は、彼の外套を静かに覆い始めた。
* * *
翌朝。
夜明けとともに吹雪は去り、羊の丘には澄み渡る青空が広がっていた。
雪原は朝陽を浴びて、無数の宝石を撒いたように煌めいていた。
マリアは夜明け前から目を覚ましていた。
昨夜、奇妙な夢を見たのだ。
懐かしい声が、自分の名を呼んでいた。
『……マリア』
振り返っても、誰もいない。
ただ、雪の向こうに、かすかな灯りが見えた。
目覚めたあとも、その声が耳から離れなかった。
胸騒ぎを覚えたマリアは、厚い外套を羽織り、館を出た。
門番には、丘の教会まで行くと告げた。
しかし、教会へ続く道の途中で、彼女は足を止めた。
雪原の向こう。
峠から下る道の脇に、何かが見えた。
白い雪の中に、わずかに覗く黒い布。
そして、雪に半ば埋もれた、人の手。
「……まさか」
マリアは駆け出した。
深い雪に足を取られながらも、必死に走った。
近づくにつれ、見覚えのある外套が見えてきた。
あれは。
三年前、夫が家を出た日に着ていたものだった。
「……ジュリアン様?」
声が震えた。
「……ジュリアン様!」
マリアは雪の上に膝をつき、素手で雪を掻き分けた。
冷たい雪が指先を刺す。
それでも、構わず掘り続けた。
やがて、夫の顔が現れた。
「……ああ……」
マリアは息を呑んだ。
三年ぶりに見る夫の顔だった。
頬は痩せ、目元には深い疲労の跡があった。
けれど、間違いなくジュリアンだった。
「……ジュリアン様……」
彼女は夫の頬に手を当てた。
冷たかった。
あまりにも、冷たかった。
「……起きてください」
マリアは夫の肩を揺すった。
「お願いです……目を開けてください……」
返事はなかった。
「私です……マリアです……」
その声が、次第に嗚咽に変わっていく。
「……お帰りなさいませ……」
ようやく言えた言葉だった。
三年間、何度も胸の中で繰り返してきた言葉。
けれど、それを聞くはずの夫は、もう目を開けなかった。
「……お帰りなさいませ、ジュリアン様……!」
マリアは夫の亡骸を抱きしめ、声を上げて泣いた。
長いあいだ、胸の奥に押し込めていた悲しみが、堰を切ったように溢れ出した。
「……どうして……」
彼女は夫の肩に顔を埋めた。
「どうして、こんなに遅く……」
恨んだ夜もあった。
怒りに震えた夜もあった。
もう帰ってこないのではないかと、絶望したこともあった。
それでも。
それでも、会いたかった。
生きて帰ってきてほしかった。
たとえ何もかも失っていたとしても。
もう一度、同じ食卓について、温かな食事を分け合いたかった。
「……私は……」
マリアの声が、雪の中で震えた。
「……ただ、あなたに生きていてほしかったのです……」
そのとき、夫の外套の胸元から、油紙に包まれたものが覗いているのに気づいた。
マリアは震える手で、それを取り出した。
中には、一通の手紙と、美しい緋色のショールが入っていた。
手紙を開く。
見慣れた夫の筆跡だった。
マリアは一文字ずつ、ゆっくりと読み進めた。
そして、最後の言葉に辿り着いた。
『帰り着けず、すまない。
けれど、最後に思い浮かぶのは、あなたの笑顔だけだ。
ありがとう。
どうか、生きて幸せになってほしい。
愛している。』
「……ああ……」
マリアの目から、また涙が溢れた。
「……ジュリアン様……」
彼女は手紙を胸に押し当てた。
「……許してほしいだなんて……」
唇が震える。
「……そんなことを、心配なさらなくてもよかったのに……」
けれど、そこで言葉が止まった。
マリアは目を閉じた。
夫が犯した過ちは、決して小さなものではなかった。
三年間の孤独も、領民たちが味わった苦しみも、消えてなくなるわけではない。
それでも、彼が自分の過ちを認め、帰ろうとしていたことは、手紙から痛いほど伝わってきた。
彼は、もう一度生き直そうとしていた。
そして、その機会を失ってしまった。
その事実が、何よりも悲しかった。
「……あなたが帰ってきてくださったなら……」
マリアは、冷たい夫の手を握った。
「……私たちは、きっと、何度でも話し合えたでしょうに……」
涙が、夫の指先に落ちた。
「……叱りたかったのです。泣いて、怒って……それでも最後には、一緒にやり直したかった……」
マリアは夫の手を、自分の頬に寄せた。
「……それなのに……」
言葉は続かなかった。
しばらくして、彼女は傍らの緋色のショールに目を落とした。
柔らかな羊毛。
丁寧に織られた、美しい赤。
その色を見た瞬間、遠い記憶が蘇った。
結婚した最初の冬。
暖炉の前で、二人並んで笑っていた夜。
『雪の日でも、あなたが遠くから私を見つけられるでしょう?』
あのときの自分の声が、耳の奥に蘇る。
「……覚えていてくださったのですね……」
マリアはショールを両手で広げた。
三年も離れていたのに。
自分の願いなど、とうに忘れてしまったと思っていたのに。
夫は、覚えていてくれた。
「……ありがとう、ジュリアン様……」
彼女はショールを肩に掛けた。
ふわりと、柔らかな羊毛が首筋を包んだ。
その温かさに、マリアはまた涙をこぼした。
それは、夫の体温ではなかった。
けれど、彼が最後に自分へ届けようとした想いが、確かにそこにあった。
マリアは夫の手を握り、静かに祈った。
「主よ……」
冬の朝陽が、雪原を照らし始めていた。
「どうか、この人の魂をお導きください」
彼女の声は、まだ震えていた。
「この人は多くの過ちを犯しました。けれど、最後にはその罪を認め、償おうとしました」
冷たい風が、緋色のショールの端を揺らした。
「どうか、その悔い改めをお受け取りください。そして、私にも……」
マリアは一度、言葉を詰まらせた。
「……この悲しみを抱えながら、生きていく力をお与えください」
祈り終えたとき、丘の下から人々の声が聞こえてきた。
マリアを探しに来た館の使用人たちだった。
彼女は夫の手をそっと雪の上に戻し、立ち上がった。
涙は、まだ止まらなかった。
これからも幾度となく泣くだろう。
夫を失った悲しみが、簡単に消えるはずはなかった。
それでも、彼女には守るべき人々がいた。
夫が帰ろうとした、この羊の丘があった。
マリアは緋色のショールを胸元で合わせ、朝陽に輝く故郷を見渡した。
「……ジュリアン様」
その声には、深い悲しみと、静かな決意があった。
「あなたが帰りたかったこの場所を、私は守ってまいります」
風が吹いた。
雪原の向こうで、教会の鐘が朝の訪れを告げた。
「あなたが果たせなかった償いも、私にできることから、少しずつ……」
マリアは空を見上げた。
「……けれど、どうか忘れないでください。私は、あなたの罪を愛したのではありません」
その瞳から、一筋の涙がこぼれた。
「あなたが、もう一度よい人間になろうとした、その心を愛しているのです」
澄み渡った冬空に、鐘の音が長く響いていく。
* * *
その冬、羊の丘では、伯爵の帰還と死が静かに語り継がれることになった。
ジュリアンは、先祖たちが眠る丘の墓地に葬られた。
マリアはその後も領地を守り、貧しい人々のために働き続けた。
春には羊小屋を修繕し、夏には新しい牧草地を開き、秋には冬に備えて食糧を蓄えた。
彼女は以前よりも、少しだけ厳しい領主夫人になった。
必要なときには怒り、間違ったことには毅然と異を唱えた。
けれど、困っている人を見捨てることはなかった。
そして、冬が訪れるたびに、あの緋色のショールを肩に掛けた。
ある年の雪の日、村の幼い少女が尋ねた。
「奥方様、その赤いショールは、どうしてそんなに大切なの?」
マリアはしばらく考え、やがて優しく微笑んだ。
「……大切な人が、最後に私へ届けてくれたものなのよ」
「その人は、今どこにいるの?」
マリアは雪の降る窓の向こうを見つめた。
「……遠いところへ旅立ってしまったわ」
「もう、会えないの?」
「……ええ。この世では、もう会えないの」
少女は悲しそうに俯いた。
マリアはそっと、その小さな手を握った。
「でもね、あの人が残してくれたものは、今も私のそばにあるのよ」
「このショール?」
「それもあるわ」
マリアは微笑んだ。
「人を愛することの喜びも、傷つくことの悲しみも、過ちを認める勇気も……全部、あの人が私に教えてくれたの」
少女は不思議そうに首を傾げた。
「……じゃあ、その人は、いい人だったの?」
マリアはすぐには答えなかった。
窓の外では、白い雪が静かに舞っていた。
やがて、彼女は穏やかに言った。
「……いい人であろうと、最後まで願った人だったわ」
少女は小さく頷いた。
マリアはその頭を優しく撫でた。
暖炉では、薪が静かに燃えている。
窓の外には、果てしない銀世界。
そして、彼女の肩には、あの日と変わらぬ緋色のショールがあった。
それは、失われた歳月を取り戻すものではなかった。
犯された罪を消し去るものでもなかった。
ただ、帰ろうとした一人の男の願いと、彼を待ち続けた一人の女の愛を、静かに伝えるものだった。
マリアはショールの端をそっと握りしめた。
「……ジュリアン様」
その声は、冬の光の中に優しく溶けていった。
「今年も、羊の丘に雪が降りましたよ」
窓辺には、小さな灯りがともっていた。
かつて夫の帰りを待つために灯し続けた、あの明かりだった。
今はもう、誰かの帰還を待っているわけではない。
雪の夜、道に迷った旅人が、遠くからでも家を見つけられるように。
そして、凍えた人が、いつでも温かな場所へ帰ってこられるように。
マリアは毎晩、その灯りをともし続けていた。
緋色のショールが、暖炉の炎を受けて静かに輝いた。
その赤は、雪に閉ざされた羊の丘に、決して消えることのない温もりを残していた。
◇◇◇
イザヤ1章18節
18エホバはこう言う。
「来なさい。私たちの間で物事を正そう。
あなたたちの罪は緋*のようだが,
雪のように白くされる。
紅の布のように赤いが,
羊毛のようになる。




