85.惨劇
「そこまで!」
護衛が完全に扉を開き切ってから、廊下から叫んだオーレリア王女は、すぐに護衛を前にして講堂に足を踏み入れた。
「これよりこの場は私、第一王女オーレリアが預かる!皆、勝手に動かぬように!」
廊下から入り込む風と共に、王女としての威厳をたっぷり含んだ声は、講堂の隅々まで行き渡った。
いつも通りの声が出たことで、僅かながら自信を取り戻しつつあった王女は、護衛たちの背中の隙間から見えた光景に、すぐに自信を失った。
「良かった……姉上、助けてください」
弱弱しい声もまた、必要もないのに講堂に響き渡る。
次に聴こえたのは、「うぅ……う……」という呻き声だった。
誰よりこの場で戸惑っているのは、オーレリア王女の護衛たちだ。
講堂内の状況が、彼らが事前に聞いていたものとはあまりに掛け離れていたからである。
保護予定の対象者たちと。
場合によっては捕縛する予定にあった対象者たち。
明らかにその対象者たちの立場は逆にしか見えなかったから──。
判断を仰ぐため揃ってオーレリア王女を見た護衛たちが、すっと手を上げ待機を指示したオーレリア王女に安堵している様子は、周りから見ても分かるほどだった。
護衛たちが取り囲むように並び終えると、オーレリア王女は前に出る。
「何が起きているか、説明してくれ。バージル」
「姉上、早く助けて……」
座席と舞台の間のそこそこ広い空間に。
尻餅を付いて今にも泣きそうな顔をしたバージル王子の前に、男が一人立っていて、女がこれに寄り添っていた。
オーレリア王女の入って来た扉側からは、男女は背中しか見えない。
その奥の床では、蹲って顔を押さえ「うぅう…」とまだ呻る男が一人。
座席の一列目には、ベリンダ王女と共に抱き合って震える女たちがいて。
二列目には立った若者たちが並んでいた。
「オーレリア殿下。息子の様子を確認しても?」
ニッセル公爵の声にはっと気付いたオーレリアは「よい」と許可を出すと、続いて護衛たちには「お前たちはその場で待機せよ」と改めて口頭で指示を出した。
「ジェイク、どうした?何があったのだ?」
王子たちの横から周り込み近付いて、ニッセル公爵が身体を屈めて、蹲る男の背中に手を置けば。
「うぅー、父上ぇ」
頼りない声がまた講堂に響き渡った。
それから男は子どものように泣き出してしまった。
「ジェイク?一体どしたのだ……血がっ!オーレリア殿下、急ぎ医者を呼んでください!顔が血まみれで──」
ダンっと大きな音が鳴った。
護衛たちは一斉に剣の柄に手を掛けた。
女たちの「きゃあ」という叫び声と、「ひぃっ」「ひぃぃ」という情けない男二人分の叫び声が重なって。
それから聴こえた低くゆったりとした声を聴いたとき、オーレリア王女は思わず目を閉じていた。
「鼻血が出たくらいで、泣かないで欲しいなぁ。俺が虐めたみたいだよね?」
「ひっ、やめろ、近付くな」
「命じられたから、動いてはいないけれど?あーあ。だ、か、ら、早くしろと言ったんだよ」
「ひぃい。あ、姉上!彼を捕えてください!このままでは私は──ひっ」
ダンっとまた音が響いた。
アシェルもコツを掴んでいて、出る音が最初より良くなっている。
「動いているでは──ひっ!」
大きな音の発生源を、護衛たちも認めたようで、落ち着き始めた。
王族の護衛役は、貴族出身者に限定されているため、実戦経験に乏しい者ばかりなのだろうと、普段王都にいない者たちが察していく。
そんなことには気付けないオーレリア王女は、誰にも分からぬように静かに息を吸い込んでから言った。
「アシェル卿」
ゆっくりと顔だけが振り返り、その美しい笑顔に茫然とする護衛たちは、直後にその顔に似つかわしくない低い声を聴く。
「なんでしょうか?」
たったの一言から。
オーレリア王女は様々な言葉を聴いたような気がした。
他の者たちも同じだったのか、講堂はしんと静まり返る。
しばらくして、いち早く我に返った護衛の一人が言った。
「王女殿下の御前だぞ!頭を下げないか!」
「よい。お前たちは何もするな」
不満そうな顔をしながらも、言った護衛は引き下がった。
「弟からは話が聞けないようでな。アシェル卿に問いたい。君は今、何をしているところだった?」
「妻にしたよう、お返しするところでした」
何の問題もないよう笑顔で告げられて、オーレリア王女はごくりと喉を鳴らした。
普段のオーレリア王女なら、決して人前ではしないことである。
「それではジャスパー卿……ニッセル公爵の子息は、お返しが済んだということだろうか?」
「まさか──」
二人は似ても似つかない顔をしているのに。
アシェルが笑みを深めたとき、オーレリア王女の中で、その笑顔が少し前に見たローワンの笑顔と重なった。
「まだ妻に触れた件だけです」
まだまだこれから──。
言葉なく麗しき笑顔は語る。
やけにゆっくりとオーレリア王女の背に雫が伝った。
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