80.偽者かもしれない
──大怪我は何だろうな?ウォーラー侯爵領に移ってから、それほどの怪我はしていないはず。訓練中の怪我のことか?そういえば蜜蜂に刺されて指が腫れたこともあったね。
養蜂の研究を行うときには、ウォーラー侯爵領で発案し改良を重ね製作された蜜蜂用の防護服を身に纏えというのはローワンがアシェルたちに定めた決まりごと……なのだが。
予期せず蜜蜂に遭遇したときには、幼いアシェルとソフィアは、ついついいつもの服装のまま駆け出した。
そしてある日、アシェルが指を刺されたのである。
それから二人は少し大人になって、お互いがお互いを想いやり、蜜蜂を見付けても落ち着いて、まず防護服を着ようねと声を掛け合えるようになった。
──あの日のローワンさまは、特に怖かったな。
アシェルは少しばかり冷静さを取り戻した。
するとまた別のことが思い出される。
──人は強い怒りを継続出来ないとセイブルが言っていたね。
アシェルはまた少し冷静になったが、セイブルへの強い怒りは後でしっかり再燃させようと決意した。
──それで移動に時間が掛かる王都を選んだと。ねぇ、セイブル。継続はしなくても、思い出すことで何度でも強く怒れるはずだったね?
しかしセイブルのことは後だ。
今対処すべきは、目のまえの理解不能な者たちである。
怒りが多少静まったところで、アシェルは王子も、その隣の男も、王女と周りの女たちも、そしてイーガン子爵令息も、一切許す気がなければ、ここまで考えてきたことをやめるつもりもなかった。
そのうえ王子はまだ語ろうというのだから。
ただし……。
「その女は、虫に対しても同じ犯罪を行った!」
──は?虫に犯罪?
王子のあまりに素っ頓狂な主張に、アシェルはまた一時怒りを忘れてしまった。
「アシェルにしたよう、捕まえて閉じ込めるという、虫への誘拐、監禁を行ったのだ。しかもその犯罪を自分の手を汚さずに、洗脳したアシェルに実行させた」
思わずアシェルは周囲を見渡した。特に座席の二列目に立って並ぶ者たちを見てみるが。
──どうして皆、普通の顔をして聞いているんだろう?王都の貴族たちは虫も倒さないのか?
「弱き虫相手では楽しめないようになったその女は、最終的には蜂などという危険な害虫を美の女神の愛し子であるアシェルに捕まえさせるようになった。なんと悍ましい行いだろうか」
──つまり養蜂を犯罪だと言っているのか?それも害虫って……ソフィアが可愛い。うん、これも絶対に許さない。
このときばかりは、ソフィアの方が怒っていた。
ソフィアは蜜蜂が大好きなのだ。
「こうして遊んでばかりいたその女は、ウォーラーの当主となるため、ある日から研究者を気取ることにした」
王族なのにウォーラー家の特殊性も知らない王子に、アシェルはついに思った。
──こいつ、王子の偽者では?
「あろうことかその女は、監禁した害虫を研究対象として、無理だと言うアシェルに論文を書くよう強要した」
──害虫なのに捕まえたら犯罪で?俺は洗脳されている設定なのに、無理だとは言えるんだね?
もはや聞く価値のない演説であることは分かっているのに、アシェルはいつものように脳内で言論の不整合を指摘する。
隣でソフィアも「せめて整合を取って欲しいのよ」と囁いているから、同じように思考していたのだろう。
「出来た論文は、不正にまみれた、偽りの内容だった。アシェルのせいではない。その女がそのように書けとアシェルに命じたからだ」
──これはもうウォーラー家全体への冒涜と捉えていいよね?
ウォーラー一族は、論文の査定も行っている。
それも身内贔屓なくどこよりも厳しく行っているという自負がある。
ずっと空中を見詰めてきた王子はその顎を上げたまま、急に視線だけをソフィアに下ろした。
瞬間、妻を見るな、と強く思ったアシェルは、急激に怒りを取り戻している。
「ふっ。驚いたか?貴族連中は上手く騙せたようだが、次の王たる私は騙せない!」
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